バッド・シュールバーグ

バッド・シュールバーグBudd Schulberg, 出生名: Seymour Wilson Schulberg, 1914年3月27日 - 2009年8月5日)は、アメリカ合衆国の脚本家テレビプロデューサー小説家スポーツライターである。小説『何がサミイを走らせるのか?英語版』(1941年)と『巨人は激しく倒れる』(1947年)、脚本を書いたアカデミー脚本賞を受賞した映画『波止場』(1954年)などで知られている。

バッド・シュールバーグ
Budd Schulberg
2007年のトライベッカ映画祭にて。
誕生 Seymour Wilson Schulberg
(1914-03-27) 1914年3月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
死没 (2009-08-05) 2009年8月5日(95歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州クイオーグ英語版
職業 映画脚本家、スポーツライター、小説家
活動期間 1937年 - 1982年
主な受賞歴 アカデミー賞脚本賞
1954年波止場
配偶者
アグネス・ヴィクトリア・アンダーソン
(m. 1943; div. 1964)


ベツィ・アン・ラングマン
(m. 1978)
子供 5
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生い立ちと学歴 編集

ユダヤ系の家庭で育つ[1]。父はハリウッドの映画プロデューサーのB・P・シュールバーグ英語版、母はタレントエージェンシー設立者のアデリーヌ・シュールバーグ英語版である[2]。シュールバーグ17歳の1931年に父が女優のシルヴィア・シドニーと暮らすために別居し[3]、1933年に両親は離婚した[2]

ディアフィールド・アカデミー英語版に通った後にダートマス大学に入学し、ユーモア雑誌『ダートマス・ジャック・オー・ランタン英語版』に関与したり友愛会のパイ・ラムダ・ファイ英語版に加わった[4]。1939年、彼はダートマスを舞台としたコメディ『冬のカーニバル英語版』の脚本をF・スコット・フィッツジェラルドらと共に執筆した[5]

第二次世界大戦 編集

第二次世界大戦中は海軍に所属し、OSSに配属されてジョン・フォードのドキュメンタリー班で活動し、VEデイの後にはアメリカ軍による初めてのナチスの強制収容所の解放に立ちあった[6]。彼はニュルンベルク裁判のために戦争犯罪者の証拠集めをしていた。これにはオーストラリアのキッツビュールにあるシャレーでドキュメンタリー映画作家のレニ・リーフェンシュタールを逮捕する任務も含まれていた。表向きは連合軍によって捕らえられた戦争犯罪者の顔をドイツ映画の映像で彼女に識別させるためであった[7]

キャリア 編集

成功したハリウッドのプロデューサーの息子であったために彼はその舞台裏の視点を与えられ、彼の作品にはそれが反映された。

彼の著作『何がサミイを走らせるのか?英語版』はサミー・グリックのシンデレラストーリーでハリウッドスターダムの過酷さを一般大衆に知らしめた。この小説は自主的な反ユダヤ主義であると批判された[8]

1950年にシュールバーグはキャリアの絶頂にある著名な小説家と協力する若い脚本家を描いた小説『夢やぶられて』を発表した。F・スコット・フィッツジェラルドをモデルにしたとされる小説家は若い脚本家に幻滅される悲劇的で欠陥のある人物として描かれた。小説は1950年に米国で10番目に売れた作品であり、1958年にはブロードウェイ劇として脚色された。

1951年にシュールバーグは下院非米活動委員会(HUAC)に呼ばれた脚本家のリチャード・コリンズにより元共産党員であることを漏らされて政治的論争に巻き込まれた[9]。シュールバーグは友好的証人として『何がサミイを走らせるのか?』の内容に党が介入してきたことを証言し、他のハリウッドの共産主義者の名前を明かした[10]。シュールバーグは同じくHUACで証言したエリア・カザンが監督する『波止場』(1954年)の脚本を執筆し、アカデミー脚本賞を獲得した。

シュールバーグはスポーツライターとしても活動し、『スポーツ・イラストレイテッド』でボクシングの主任特派員を務めていた。彼は『Sparring with Hemingway』を含むボクシングの評論本をいくつか書いていた[11][12]

私生活と死 編集

生涯で4度結婚している。1936年に女優のヴァージニア・"ジジー"・リー・レイ英語版と結婚し[13]、娘のヴィクトリアをもうけたが1942年に離婚する[14]。1943年にヴィクトリア・"ヴィッキー"・アンダーソンと結婚したが、1964年に離婚する[15]。ヴィッキーとのあいだには息子のスティーヴンとデヴィッドが生まれた[16]。1964年に女優のジェラルディン・ブルックス英語版と結婚し、1977年に彼女が亡くなるまで連れ添った[3]。ブルックスとのあいだには子供は生まれなかった[17]。1977年に投資銀行家のモーリス・ワートハイム英語版の孫で外交官のヘンリー・モーゲンソウ・Srのひ孫であるベツィ・アン・ラングマンと結婚し、息子のベンと娘のジェシカをもうけた[3][18][19]

姪のサンドラ・シュールバーグは映画プロデューサーであり、アカデミー賞候補となった『クイルズ』では製作総指揮を務めた。弟のスチュワート・シュールバーグもまたテレビ及び映画のプロデューサー、妹のソーニャ・シュールバーグは小説家であった。

2009年8月5日にニューヨーク州クイオーグ英語版の自宅で亡くなった。95歳だった。

主なフィルモグラフィ 編集

参考文献 編集

  1. ^ Hollywood Reporter: "Hollywood's Hottest $150 Million Project Is an 83-Year-Old Synagogue - Studio heads, agency chieftains and top producers have come together, "Avengers"-style, to save their iconic but decaying Wilshire Boulevard Temple -- an A-list house of worship far from the Westside" by Gary Baum May 30, 2012
  2. ^ a b Jewish Women's Archives: "Adeline Schulberg 1895 – 1977" retrieved September 24, 2015
  3. ^ a b c People: "Budd Schulberg -Exiled Long Ago for the Secrets He Did Not Keep, the Author of What Makes Sammy Run? Looks Back on Hollywood Past and Present" by Ken Gross December 18, 1989
  4. ^ Membership Directory, 2010, Pi Lambda Phi Inc
  5. ^ Tanz, Jason (2003年2月7日). “Lost Weekend: F. Scott and Budd Go to Dartmouth”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2003/02/07/travel/journeys-lost-weekend-f-scott-and-budd-go-to-dartmouth.html 
  6. ^ Cullum, Paul (2006年7月6日). “A Face in the In Crowd”. LA Weekly. オリジナルの2017年12月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171203061856/http://www.laweekly.com/news/a-face-in-the-in-crowd-2144187 
  7. ^ Kennicott, Philip (2005年11月29日). “Art of Justice: The Filmmakers At Nuremberg”. Washington Post. https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/28/AR2005112802026.html 
  8. ^ "Budd Schulberg: The Screen Playwright as the Author," in The Cineaste Interviews, ed. Dan Georgakas and Lenny Rubenstein (Chicago: Lake View Press, 1983)
  9. ^ Joyce, Gare (2004年6月). “Unrepentant”. The Walrus. オリジナルの2010年1月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100114124902/http://walrusmagazine.com/articles/2009.07-film-unrepentant/ 
  10. ^ Trussell, C. P. (1951年5月24日). “Schulberg Tells of Red Dictation: Move To Control His Writing Cause Him to Leave Party” (PDF). The New York Times [リンク切れ]. http://graphics8.nytimes.com/packages/pdf/topics/Schulberg/1951-05-24-Schulberg-Tells.pdf 
  11. ^ “Budd Schulberg: A Knockout Collection”. Chicago Tribune. (1995年8月13日). http://articles.chicagotribune.com/1995-08-13/entertainment/9508130046_1_budd-schulberg-papa-hemingway-screenplay 2016年9月8日閲覧。 
  12. ^ “IN SHORT:NONFICTION”. New York Times. (1995年7月9日). https://www.nytimes.com/1995/07/09/books/in-short-nonfiction-350995.html 2016年9月8日閲覧。 
  13. ^ Beck, Nicholas (October 2001). Budd Schulberg: A Bio-bibliography. Scarecrow Press. ISBN 9780810840355. https://books.google.com/books?id=7ARVN1XfbisC&pg=PA149&q=virginia. ""All of the Jewish communists were attracted to her, because she was a gorgeous gentile princess accessible to Jewish communists because she was a communist"" 
  14. ^ Weineraug, Tim (2009年8月5日). “Budd Schulberg, ‘On the Waterfront’ Writer, Dies at 95”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2009/08/06/movies/06schulberg.html 2018年1月28日閲覧。 
  15. ^ Beck p.64
  16. ^ Beck p.37
  17. ^ Beck p.62
  18. ^ Anne R. Wertheim Becomes A Bride; Daughter of Banker Married in Cos Cob Home to. Dr. Louis Langman of New York”. The New York Times (1937年2月1日). 2020年2月3日閲覧。
  19. ^ Mrs. Wertheim to Marry Paul L. Weiner Today”. Jewish Telegraph Agency (1934年1月24日). 2020年2月3日閲覧。

関連文献 編集

  • Beck, Nicholas. Budd Schulberg: A Bio-Bibliography Lanham, Md.: Scarecrow Press, 2001.

外部リンク 編集