バレエ・リュス

セルゲイ・ディアギレフが主宰したバレエ団

バレエ・リュス: Ballets russes)は、ロシア出身の芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフ1872年 - 1929年)が主宰したバレエ団である。

レオン・バクスト:バレエ『火の鳥』(1910)のコスチューム
レオン・バクスト:バレエ『火の鳥』(1910) のコスチューム2

ロシア・バレエ団」とも呼ばれ、1909年パリシャトレ座で旗揚げをしてから、ディアギレフ死去後の1929年に解散するまでの間、パリを中心として活動し、今日のモダンバレエにおける基礎を築き[1][2]、「総合芸術としてのバレエ」という、これまでになかった芸術スタイルを確立させた[3]。集まった芸術家たちの気持ちは、ディアギレフを含め、必ずしも一枚岩ではなかったとしても、バレエ・リュスは多くの芸術を遺した。20世紀前半の舞踊・音楽・美術が、バレエ・リュスに結実した、と言うこともできよう。

歴史 編集

セルゲイ・ディアギレフは1906年にパリのサロン・ドートンヌでロシア芸術展を開催して成功した[4]。翌年からは毎年パリでロシア音楽を紹介するコンサートを開催し、1908年には『ボリス・ゴドゥノフ』をガルニエ宮で上演した[5]。1909年のシーズンでもオペラを中心としたイベントを開く予定だったが、主要なパトロンであったウラジーミル大公の死によって計画が狂ったディアギレフは、リムスキー=コルサコフのオペラ『プスコフの娘』(『イヴァン雷帝』の題で上演)のみを完全な形で上演、残りのオペラは抜粋上演し、そのかわりにバレエを中心とした「セゾン・リュス」のプログラムを組んだ[6]。これが実質的なバレエ・リュスの旗揚げとなる。翌1910年のシーズンに主要なオペラ歌手であるフョードル・シャリアピンが参加できないことがわかったこともあり、ディアギレフはオペラをやめてバレエの公演を行うことにした[7]

ディアギレフは一流のダンサーと振付師、および劇を専門としない画家・音楽家を起用することによって、バレエを時代の最先端をいく芸術ジャンルとした[8]。音楽家としてはクロード・ドビュッシーモーリス・ラヴェルレイナルド・アーンエリック・サティフランシス・プーランクダリウス・ミヨーアンリ・ソーゲらを採用したが、中でもイーゴリ・ストラヴィンスキーはバレエ・リュスのために書いた作品によって世界的名声を得た[9]

第一次世界大戦が勃発するとヨーロッパでの大規模な公演は困難になった。バレエ・リュスは一時的に解散し、またトップ・ダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーはハンガリーに抑留された。1915年にバレエ・リュスは活動を再開し、ジュネーヴとパリで赤十字のための慈善演奏会を開いて成功、翌年には渡米してメトロポリタン歌劇場で公演を行い、ヨーロッパに戻ると5月に中立国であるスペインテアトロ・レアルで公演を行った。同年秋には2回めの渡米を果たした。1917年には南米公演を行ったが、ニジンスキーが大きく調子をくずし、帰国後はほぼ引退状態になった。ヨーロッパに戻った後にスペインとポルトガルでツアーを行ったが、ロシア革命とそれに続くブレスト=リトフスク条約でロシアが単独講和を結んだため、ロシア人は連合国から好ましからざる人物と見られ、その結果バレエ・リュスはスペインの外に出られなくなった。1918年9月にようやくスペインを離れてロンドンのコロシアム劇場 (London Coliseumで公演を行うことができた。

バレエ・リュスは時代の最先端を行っていたために、しばしばスキャンダルを起こした。『牧神の午後』(1912)につけられたニジンスキーの性的な振り付けは物議をかもし、『春の祭典』の初演(1913)は有名な大騒ぎを引き起こした。『パラード』の初演(1917)は別の意味で大騒ぎになった。

バレエ・リュスの成功に影響され、各地にライバルとなる団体が創設された。アンナ・パヴロワはバレエ・リュスを去って1911年に自分のバレエ・カンパニーを創設した。1920年にはロルフ・デ・マレがバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)をパリで創設した[10]。1928年にはイダ・ルビンシュタインがバレエ・リュスの主要なメンバーを引き抜いて舞踊団を発足した。

1929年のディアギレフの死とともにバレエ・リュスは解散したが、何度か復活が試みられた。1931年には後継団体となるバレエ・リュス・ド・モンテカルロが設立された。セルジュ・リファールパリ・オペラ座に移り、ルーセルの『バッカスとアリアーヌ』などの振り付けを行った[11]ジョージ・バランシンおよびイーゴリ・ストラヴィンスキーは後にアメリカ合衆国に移って協力しあった[12]

活躍し、協力した芸術家たち 編集

バレエ・リュスで活躍し、或いは協力した芸術家たちを列記する。 氏名の右の、たとえば(1872露 - 1971仏)は、1872年にロシアに生まれ、1971年にフランスで没した、という意味である。

舞踊家兼振付家 編集

 
レオン・バクスト:『牧神の午後』(1912)のニジンスキー

舞踊家 編集

作曲家(編曲含む) 編集

指揮者 編集

画家・装飾家 編集

文人 編集

公演会場 編集

 
バレエ・リュスの記念切手(ロシア、2000年)

初演に関係する劇場を国別にまとめる。

フランス

イギリス

モナコ

イタリア

スペイン

ドイツ

オーストリア

スイス

アメリカ合衆国

活動と初演の記録 編集

ここでいう『初演』とは、バレエ・リュスにとっての初演である。たとえば、『白鳥の湖』はロシアで、19世紀に世界初演されている。『火の鳥』はバレエ・リュスが繰り返し再演したが、再演は以下で記さない。

バレエ・リュスの公演の舞台監督は、ほとんどセルゲイ・グリゴリーエフが務めた。

バレエ・リュスはバレエ以外にオペラなども手掛けたが、表中、バレエ以外の作品については網掛けを施した。

1909年 編集

1909年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
5月19日
パリシャトレ座
『アルミードの館』[13] フォーキン チェレプニン チェレプニン ブノワ パヴロワフォーキンニジンスキー、ブルガコフ
5月19日
パリシャトレ座
韃靼人の踊り
(オペラ『イーゴリ公』より)
フォーキン ボロディン チェレプニン レーリッヒ ボルム、フェドロヴァ、フォーキン、スミルノヴァ、アスタフィエヴァ
5月19日
パリシャトレ座
『饗宴』 フォーキン ロシアバレエのメドレー[14] クーパー コロヴィン
ブノワバクストほか
カルサヴィナニジンスキー
6月2日
パリシャトレ座
レ・シルフィード フォーキン ショパン
(編曲者複数[15]
チェレプニン ブノワ[16] パヴロワ、バルティナ、カルサヴィナフォーキンニジンスキー、アスタフィエヴァ
6月2日
パリシャトレ座
『クレオパトラ』[17] フォーキン ロシア音楽のメドレー[18] チェレプニン バクスト パヴロワルビンシュタインカルサヴィナフォーキンニジンスキー、ブルガコフ

1910年 編集

1910年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
5月20日
ベルリン、ヴェステン劇場
謝肉祭[19]
(ル・カルナヴァル)
フォーキン シューマン
(編曲者複数[20]
チェレプニン バクスト ロポコワ、マリア・ピルツ、レオンティエ、ボルムカルサヴィナニジンスキー、アスタフィエヴァ、フォーキン、ショラール
6月4日
パリオペラ座
シェエラザード フォーキン
バクスト
リムスキー=コルサコフ チェレプニン バクスト
台本ブノワ
ルビンシュタインニジンスキー、ブルガコフ、フォーキン
6月18日
パリオペラ座
ジゼル[21] コラリ
ペロー
アダン ヴィダル ブノワ カルサヴィナニジンスキー
6月25日
パリオペラ座
火の鳥 フォーキン ストラヴィンスキー ピエルネ ゴロヴィン
バクスト[22]
カルサヴィナ、フィキーナ、フォーキン、ブルガコフ
6月25日
パリオペラ座
『オリエンタル』 プティパ
フォーキン改訂
ロシア・北欧音楽のメドレー[23] チェレプニン ゴロヴィン ゲルツァーカルサヴィナ、フォキーナ、ニジンスキー、ヴォリニン、オルロフ
  • 10月、ニジンスキーが『牧神の午後』の振付を開始。

1911年 編集

1911年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
4月19日
モンテカルロ歌劇場
薔薇の精
(『舞踏への勧誘』による)
フォーキン ウェーバー チェレプニン バクスト カルサヴィナニジンスキー[24]
4月26日
モンテカルロ歌劇場
『ナルシス』 フォーキン チェレプニン チェレプニン バクスト カルサヴィナフォーキンニジンスキーニジンスカ
6月6日
パリシャトレ座
サトコ
(「海底王国」の場面)
フォーキン リムスキー=コルサコフ チェレプニン ボリス・アニスフェルト(Boris Annisfeld) フォーキン
6月13日
パリシャトレ座
ペトルーシュカ フォーキン ストラヴィンスキー モントゥー ブノワ カルサヴィナニジンスキーフォーキン、オルロフ、チェケッティ、ショラール
11月30日
ロンドン
ロイヤル・オペラ・ハウス
白鳥の湖[25] プティパ
フォーキン
チャイコフスキー モントゥー K.コロヴィン
A.ゴロヴィン
クシェシンスカヤニジンスキー

1912年 編集

1912年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
5月13日
パリシャトレ座
青色の神 フォーキン アーン アンゲルブレシュト バクスト
台本コクトー
カルサヴィナ、ネリドヴァ、ニジンスキー、フローマン、フォーキン
5月20日
パリシャトレ座
タマーラ フォーキン バラキレフ モントゥー バクスト カルサヴィナボルム
5月29日
パリシャトレ座
牧神の午後 ニジンスキー ドビュッシー モントゥー バクスト[27] ネリドヴァ、ニジンスキー[28]
6月8日
パリシャトレ座
ダフニスとクロエ フォーキン ラヴェル モントゥー バクスト カルサヴィナボルムニジンスキーフォーキン
  • 6月、フォーキンがバレエ団を去る。

1913年 編集

1913年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
1月
ウィーン国立歌劇場
『金の鳥』
(『眠れる森の美女』による)
プティパ チャイコフスキー モントゥー アンドリエフ/フセヴロンジンスキ カルサヴィナニジンスキー
5月15日
パリシャンゼリゼ劇場
遊戯 ニジンスキー ドビュッシー モントゥー バクスト カルサヴィナ、ショラール、ニジンスキー
5月29日
パリシャンゼリゼ劇場
春の祭典 ニジンスキー[29] ストラヴィンスキー モントゥー レーリッヒ ピルツ[30]
6月5日
パリシャンゼリゼ劇場
オペラ
ホヴァーンシチナ
ムソルグスキー
ストラヴィンスキーラヴェル編曲)
フェドローフスキー
6月12日
パリシャンゼリゼ劇場
サロメの悲劇 ロマノフ フローラン・シュミット モントゥー スデイキン カルサヴィナ
  • 南米ツアーの途中、ニジンスキーがロモラ・デ・プルスキと電撃結婚し、ディアギレフから解雇される。
  • 12月、一時的にフォーキンが復帰。

1914年 編集

1914年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
4月16日
モンテカルロ歌劇場
蝶々 フォーキン シューマン
チェレプニン編曲)
モントゥー ドブジンスキー/バクスト カルサヴィナ、ショラール、フォーキン
5月17日
パリオペラ座
『ヨセフの伝説』 フォーキン R.シュトラウス R.シュトラウス セールバクスト マシーン、ブルガコフ、フォーキン
5月24日
パリオペラ座
オペラ・バレエ
金鶏[31]
フォーキン リムスキー=コルサコフ モントゥー ゴンチャロワ カルサヴィナ、イェジェルスカ、ブルガコフ、チェケッティ、コヴァルスキー、フォーキン、ほかに歌手たち
5月26日
パリオペラ座
オペラ
夜鳴き鶯
ロマノフ
ブノワ
サニーン
ストラヴィンスキー モントゥー ブノワ -
6月2日
パリオペラ座
『変身物語』 フォーキン シテインベルク モントゥー ドブジンスキー カルサヴィナボルム、フローマン、フォーキン
  • 7月に第一次世界大戦勃発、ロシアと往復しにくくなり、座員がばらばらになる。ニジンスキーはハンガリーで軟禁される。

1915年 編集

1915年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
12月20日
ジュネーヴ大劇場
『夜の太陽』
(歌劇『雪娘』による)
マシーン リムスキー=コルサコフ アンセルメ ラリオーノフ マシーン、スヴェレフ

1916年 編集

1916年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
8月21日
サン・セバスティアン
エウフェニア・ヴィクトリア劇場
『ラス・メニナス』 マシーン フォーレ[32] アンセルメ ソクラテセール ソコロヴァ、ココロヴァ、マシーンヴォイジコフスキー
8月25日
サン・セバスティアン
エウフェニア・ヴィクトリア劇場
キキモーラ マシーン リャードフ ラリオノフ サベルスカ、イジコフスキー
10月23日
ニューヨーク
マンハッタン歌劇場
ティル・オイレンシュピーゲル[33] ニジンスキー R.シュトラウス ゲッツ ジョーンズ レヴァルレ、ニジンスキー

1917年 編集

1917年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
4月12日
ローマコンスタンツィ劇場
『上機嫌な婦人たち』 マシーン スカルラッティ
トマシーニ編曲)
アンセルメ バクスト ロポコヴァ、チェルニチェヴァ、マシーンチェケッティ夫妻、イジコフスキー、ヴォイジコフスキー
4月12日
ローマコンスタンツィ劇場
花火 構成:ディアギレフ
バッラ
ストラヴィンスキー バッラ ダンサーなしのパフォーマンス
5月11日
パリシャトレ座
『ロシア物語』
(『キキモーラ』から拡大)
マシーン リャードフ アンセルメ ラリオーノフ チェルニチェヴァ、ソコロヴァ、ヴォイジコフスキー、ヤヴィンスキー、イジコフスキー、マシーン
5月18日
パリシャトレ座
パラード マシーン サティ アンセルメ ピカソ
台本:コクトー
ロポコヴァ、チャベルスカ、マシーン、ツヴェレフ

1918年 編集

1919年 編集

1919年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
6月5日
ロンドン、アルハンブラ劇場
風変わりな店 マシーン ロッシーニ
レスピーギ編曲)
デフォッス ドラン ロポコヴァ、マシーン、ネムチノヴァ、チェルニチェヴァ、ニジンスカ、ヴィルザーク、ヴォイジコフスキー、ツヴェレフ
7月22日
ロンドン、アルハンブラ劇場
三角帽子 マシーン ファリャ アンセルメ ピカソ カルサヴィナマシーン、ヴォイジコフスキー

1920年 編集

1920年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
2月2日
パリオペラ座
ナイチンゲールの歌
(『夜鳴き鶯』を改変)
マシーン[34] ストラヴィンスキー アンセルメ マティス カルサヴィナ、ソコロヴァ、グリゴリエフ
5月15日
パリオペラ座
プルチネルラ マシーン ストラヴィンスキー アンセルメ ピカソ カルサヴィナ、チルニチェヴァ、ネムシノヴァ、マシーン、ソコロヴァ、イジコフスキー、ヴォイジコフスキー

1921年 編集

  • ジュネーヴリヨンパリローマを巡演。
  • 2月、マシーンが解雇される。
  • 2月末、コフノがディアギレフの秘書となる。
  • 12月、『眠りの森の美女』が興行として大失敗し財政危機となる。これに懲りたディアギレフは古い作品には手を触れないことになる。
1921年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
5月17日
パリ、ゲテ・リリック劇場
道化師 スラヴィンスキー
ラリオーノフ
プロコフィエフ プロコフィエフ ラリオーノフ デヴィリール、スラヴィンスキー、ジズヴィンスキー
5月17日
パリ、ゲテ・リリック劇場
『クァドロ・フラメンコ』 アンダルシアの民族舞踏 民族音楽
ファリャ編曲)
ピカソ マリア・ダルバイシンなど、本場のフラメンコダンサー
11月2日
ロンドン、アルハンブラ劇場
眠れる森の美女 プティパ
セルゲイエフ
ニジンスカ
チャイコフスキー フィテルベルク バクスト スペシヴツェヴァ、ロポコヴァ、ブリアンツァ、チェルニチェヴァ、ニジンスカ、ウラディミロフ

1922年 編集

1922年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
5月18日
パリオペラ座
ニジンスカ[35] ストラヴィンスキー アンセルメ ゴンチャロワ ニジンスカ、イジコフスキー、ヤヴィンスキー、フェドロフ
6月3日
パリオペラ座
オペラ『マヴラ ニジンスカ ストラヴィンスキー フィテルベルク レオポルド・シュルヴァージュ

1923年 編集

1923年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
7月13日
パリ、ゲテ・リリック劇場
結婚 ニジンスカ ストラヴィンスキー アンセルメ ゴンチャロワ チェルニチェヴァ、ドブロヴスカ、セメノフ、ヴォイジコフスキー、ほかに歌手たち

1924年 編集

1924年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
1月1日
モンテカルロ歌劇場
オペラ
『鳩』
グノー
プーランク編曲)
グリス
1月3日
モンテカルロ歌劇場
『女羊飼いの誘惑』 ニジンスカ モンテクレール
カサドシュ編曲)
フラマン グリス ネムシノヴァ、ニジンスカ、チェルニチェヴァ
1月5日
モンテカルロ歌劇場
オペラ
『いやいやながら医者にされ』
グノー
サティ編曲)
ブノワ
1月6日
モンテカルロ歌劇場
牝鹿 ニジンスカ プーランク フラマン ローランサン ネムチノヴァ、ニジンスカ、ヴィルザーク
1月8日
モンテカルロ歌劇場
『チマロジアーナ』 マシーン チマローザ フラマン セール ネムチノヴァ、チェルニチェヴァ、ソコロヴァ、イジコフスキー、ヴォイジコフスキー
1月10日
モンテカルロ歌劇場
オペラ
『フィレモンとボーシス』
グノー
オーリック編曲)
1月17日
モンテカルロ歌劇場
オペラ
『教育不足』
シャブリエ
ミヨー編曲)
グリス
1月19日
モンテカルロ歌劇場
『うるさがた』 ニジンスカ[36] オーリック フラマン ブラック チェルニチェヴァ、ヴィルサク、ドーリン
4月13日
モンテカルロ歌劇場
禿山の一夜 ニジンスカ ムソルグスキー フラマン ゴンチャロワ ソコロヴァ、フェドロフ
5月27日
パリオペラ座
『女の悪企み』 マシーン チマローザ
レスピーギ編曲)
アンセルメ セール カルサヴィナ、チルニチェヴァ、イジコフスキー、ほかに歌手たち
6月20日
パリシャンゼリゼ劇場
青列車 ニジンスカ ミヨー メサジェ ローランスシャネル、幕:ピカソ ドーリンニジンスカ、ソコロヴァ、リファール、ヴォイジコフスキー
  • 8月、バランシンが入団する。

1925年 編集

  • バルセロナパリで公演。
  • マシーンが振付師としてバレエ・リュスに復帰。
  • 7月、ドーリンが退団する。
1925年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
4月28日
モンテカルロ歌劇場
『ゼフィールとフロール』 マシーン デュケルスキー スコット ブラック
台本コフノ
ニキチーナ、ドーリンリファール
6月17日
パリ、ゲテ・リリック劇場
『水夫』 マシーン オーリック スコット プルーナ ネムチノヴァ、ソコロヴァ、リファール、ヴォイジコフスキー、スラヴィンスキー
12月11日
ロンドン、コロシアム劇場
『バラボー』 バランシン リエーティ ユトリロ デゾルミエール ヴォイジコフスキー、リファール、シャメエ

1926年 編集

1926年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
5月4日
モンテカルロ歌劇場
『ロミオとジュリエット』 ニジンスカ
バランシン[37]
ランバート スコット エルンスト
ミロ
カルサヴィナリファール、スラヴィンスキー
5月29日
パリ、サラ・ベルナール劇場
『パストラール』 ニジンスカ オーリック デゾルミエール ブルーナ ドブロヴスカ、ダニロワリファール、ヴォイジコフスキー
7月3日
パリ、サラ・ベルナール劇場
『びっくり箱』 バランシン サティ
ミヨー編曲)
デゾルミエール ドラン ダニロワ、チェルニチェヴァ、ドブロヴスカ、イジコフスキー
12月3日
ロンドン、リセウム劇場
『海神ネプチューンの勝利』 バランシン バーナーズ デゾルミエール シュルヴァシス〈19世紀版画)/プルーナ ダニロワ、チェルニチェヴァ、ソコロヴァ、リファールバランシン

1927年 編集

1927年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
4月30日
モンテカルロ歌劇場
『牝猫』 バランシン ソーゲ スコット ガボ
ペヴスネ
スペシヴツェヴァ、リファール
5月30日
パリ、サラ・ベルナール劇場
オペラ=オラトリオ
エディプス王
ストラヴィンスキー ストラヴィンスキー
6月2日
パリ、サラ・ベルナール劇場
『メルキュール』[38] マシーン サティ デゾルミエール ピカソ ペトロヴァ、マシーン、リサネヴィチ
6月7日
パリ、サラ・ベルナール劇場
鋼鉄の歩み マシーン プロコフィエフ デゾルミエール ヤクロフ チェルニチェヴァ、ダニロワマシーン、ペトロヴァ、リファール、ヴォイジコフスキー

1928年 編集

1928年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
6月6日
パリ、サラ・ベルナール劇場
『オード』 マシーン ナボコフ デゾルミエール チェリチェフ
台本コフノ
ベリアミナ、ドブロヴスカ、ニキチナ、マシーンリファール、エフィモフ
6月12日
パリ、サラ・ベルナール劇場
ミューズを導くアポロ バランシン ストラヴィンスキー ストラヴィンスキー アンドレ・ボーシャン[39] ダニロワ、チェルニチェヴァ、ドブロヴスカ、リファール
7月16日
ロンドン
ヒズ・マジェスティ劇場
『物乞う神々』 バランシン ヘンデル
ビーチャム編曲)
ビーチャム バクスト[40]グリス[41] ダニロワ、ヴォイジコフスキー、チェルニチェヴァ、ドブロヴスカ

1929年 編集

1929年の初演作品
日付・会場 タイトル 振付家 作曲者 指揮者 装置/衣裳 主なダンサー
5月9日
モンテカルロ歌劇場
『舞踏会』 バランシン リエッティ スコット キリコ ダニロワ、ドブロヴスカ、リファール、ヴォイジコフスキー、バランシン、リブコフスカ
5月21日
パリ、サラ・ベルナール劇場
放蕩息子 バランシン プロコフィエフ プロコフィエフ ルオー
台本コフノ
ドブロヴスカ、リファール、ヴォイジコフスキー、ドーリン
  • シーズンオフ中の8月19日ディアギレフ没。バレエ・リュスはそのまま解散となる。
  • バレエ・リュスの復活に向けた動きがいくつかあったが、同年10月24日に始まる世界恐慌によりいずれも実現せず。

脚注 編集

  1. ^ 今谷和徳、井上さつき『フランス音楽史』春秋社、2010年、391ページ
  2. ^ 『オックスフォード バレエダンス辞典』
  3. ^ バックル、前掲書、上巻209ページ
  4. ^ Taruskin (1996), p. 522.
  5. ^ Taruskin (1996), pp. 528–535.
  6. ^ Taruskin (1996), pp. 548–549.
  7. ^ Taruskin (1996), p. 552.
  8. ^ パオラッチ (2017), p. 242.
  9. ^ パオラッチ (2017), p. 243.
  10. ^ パオラッチ (2017), pp. 246–247.
  11. ^ パオラッチ (2017), pp. 247–248.
  12. ^ パオラッチ (2017), pp. 248–250.
  13. ^ 1907年マリインスキー劇場で初演された作品。
  14. ^ グリンカグラズノフリムスキー=コルサコフムソルグスキーチャイコフスキー
  15. ^ ストラヴィンスキーグラズノフタネーエフリャードフソコロフ
  16. ^ 1917年の再演ではカルロ・ソクラテ
  17. ^ 1908年マリインスキー劇場で『エジプトの夜』のタイトルで初演された。
  18. ^ アレンスキータネーエフムソルグスキーチェレプニングリンカグラズノフリムスキー=コルサコフ
  19. ^ 1910年にペテルブルクのパヴロフ・ホールで初演された作品
  20. ^ リャードフグラズノフリムスキー=コルサコフチェレプニン
  21. ^ 1814年パリ王立アカデミーで初演。
  22. ^ 火の鳥とツェレビーナの衣裳のみ
  23. ^ グラズノフボロディンアレンスキーグリーグシンディングストラヴィンスキー編曲)
  24. ^ 後にフォーキンも「薔薇の精」役を踊った。
  25. ^ 1877年に初演された作品
  26. ^ リチャード・バックル、鈴木晶訳『ディアギレフ ロシア・バエレ団とその時代』リブロポート、1984年、上巻248ページ
  27. ^ 1922年の再演ではパブロ・ピカソ
  28. ^ 1922年の再演では、ニジンスカ
  29. ^ 1920年マシーンによる新振付で再演
  30. ^ マシーン振付による1920年の再演ではリディア・ソコロワ
  31. ^ オペラは1909年にモスクワで初演された
  32. ^ 『パヴァーヌ』に基づく。
  33. ^ アメリカでのみ上演。ディアギレフが一度も見なかった唯一の作品となった。
  34. ^ 1925年バランシンの新振付で再演された。
  35. ^ 1929年リファールの新振付で再演。
  36. ^ 1926年マシーンの新振付で再演。
  37. ^ 幕間の振付のみ
  38. ^ 1924年に「ソワレ・ド・パリ」(ボーモン伯爵主宰)で初演された作品
  39. ^ 1929年ココ・シャネルが新しい衣裳デザインを担当
  40. ^ 『ダフニスとクロエ』から転用
  41. ^ 『羊飼いの誘惑』から転用

参考文献 編集

  • 小倉重夫:『ディアギレフ - ロシア・バレエ団の足跡』。音楽之友社(1978) ISBN 9784276250321
  • 藤野幸雄:『春の祭典 - ロシア・バレー団の人々』、晶文社(1982) ISBN 9784794956507
  • Taruskin, Richard (1996), Stravinsky and the Russian Traditions, University of California Press, ISBN 0520070992 
  • クレール・パオラッチ 著、西久美子 訳『ダンスと音楽―躍動のヨーロッパ音楽文化誌』アルテスパブリッシング、2017年4月26日。ISBN 4865591613 

関連項目 編集

外部リンク 編集