バート・キャンパネリス

キューバ系アメリカ人の野球選手 (1942 - )

デゴバート・キャンパネリス・ブランコDagoberto "Bert" Campaneris Blanco, 1942年3月9日 - )は、キューバマタンサス州プエブロ・ヌエボ出身の元プロ野球選手遊撃手)、コーチ

バート・キャンパネリス
Bert Campaneris
2012年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[1]
出身地  キューバ
マタンサス州プエブロ・ヌエボ
生年月日 (1942-03-09) 1942年3月9日(82歳)
身長
体重
5' 10" =約177.8 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1961年 アマチュアFA
初出場 1964年7月23日
最終出場 1983年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

愛称"Campy"キャピー)。

従兄弟のホセ・カーデナルも元MLB選手。

経歴 編集

1961年4月25日にカンザスシティ・アスレチックス捕手として契約を結び[2]、器用な選手であったため、内野手コンバートされた[2]マイナー時代の1962年8月フロリダステートリーグ投手として登板した時には左右投げを披露したスイッチピッチャーであるが、スイッチヒッターでは無い[2]1964年7月23日のツインズ戦でMLB初出場を果たし、ジム・カートから初打席初本塁打を放ち、第4打席でもカートから本塁打を放った。このMLBデビュー戦2本塁打チャーリー・ライリー1889年)、ボブ・ニーマン1951年)、マーク・クイン1999年)、ウィルソン・ラモス2010年)が他に達成している[3]。MLBでは主に遊撃手として出場したが、1965年9月8日のエンゼルス戦で史上初の1試合全ポジション守備を記録し、「1番・遊撃手」で先発して回ごとに二塁手三塁手左翼手中堅手右翼手一塁手→投手→捕手とポジションを変え、珍記録を達成した。8回にはMLB昇格後で自身初の投手を務め、2与四球、1被安打で1失点という内容であった。9回に走者のエド・カークパトリックと衝突して負傷退場したが[2]、試合は延長戦に入って13回に5-3でエンゼルスが勝利した。なお、この時のアスレチックスは首位から30ゲーム離されていたため、キャンパネリスの全ポジション出場はプロモーションであった[2]。この記録はのちにシーザー・トーバー1968年)、スコット・シェルドン2000年)、シェーン・ホルター(2000年)が達成している。1974年9月29日に日本ハム高橋博士南海戦(後楽園)で同じ記録を達成した際、MLBでキャンパネリスが記録していることが日本でも報道された[4]。1965年は51盗塁で盗塁王のタイトルを獲得したが、前年まではルイス・アパリシオが1年目から9年連続で盗塁王を獲得していた。1966年は52盗塁、1967年は55盗塁、1968年はリーグ最多の177安打に加えて自己最多の62盗塁を記録し、1965年から4年連続となる50盗塁以上で盗塁王を獲得。1969年は盗塁王こそ逃したが、MLB記録となる12試合連続盗塁を達成[5]1970年は22本塁打を放ち、唯一の2桁本塁打を記録したシーズンとなった。42盗塁で5度目の盗塁王も獲得し、1972年は52盗塁で6度目の盗塁王を獲得。延長戦に突入した9月13日の試合では6度の併殺プレーを演じ、アメリカンリーグ記録を樹立。タイガースとのリーグチャンピオンシリーズ第2戦では、レリン・ラグローから3安打・2盗塁を記録したが、7回に足に当たる死球を受け、バットをラグローへ向けて投げたことからラグローとともに退場処分となった。チャンピオンシリーズの残りの試合と次のシーズンの最初の7試合に出場することは禁止されたが、ワールドシリーズの出場は許可された。レッズとのワールドシリーズでキャンパネリスは打率.179と不振を極めたものの、チームは4勝3敗でレッズを破り、初のワールドチャンピオンを経験した。1973年オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦の延長11回裏に最初の打者としてサヨナラ本塁打を放ち、チームはワールドシリーズへの進出を決めた。メッツとのワールドシリーズでは第7戦の3回に2点本塁打を放ち、レジー・ジャクソンも2点本塁打で後に続き、チームはワールドシリーズ連覇を果たした。1974年ワールドシリーズでもドジャースを4勝1敗で破り、チームは3年連続でワールドチャンピオンに輝いている。ワールドシリーズ3連覇時はレジー・ジャクソンとともに打線の中心として活躍した。アスレチックス球団記録の通算1795試合出場7180打数1882安打を保持し、1976年11月1日にテキサス・レンジャーズ1979年5月4日にカリフォルニア・エンゼルスへ移籍。1982年メキシカンリーグベラクルス・レッドイーグルスポサリカ・オイラーズでプレーし、1983年1月24日にニューヨーク・ヤンキースでMLBに復帰したが、41歳となった同年限りで現役を引退。

引退後はMLBでコーチになることを希望するも叶わず[6]、マイナーリーグの指導者を経て[6]西武ライオンズの一軍守備・走塁コーチ(1987年)→二軍守備・走塁コーチ(1988年)を務めた。来日した際には偉大な元選手が身近にいることを当時の日本人は気付かず、ほとんど騒がれることはなかった[7]。就任当初は三塁コーチを務めたが、うまく機能しなかったため、4月末から伊原春樹に交代[8]石毛宏典田辺徳雄らは当時の教え子であり[4]、3年連続リーグ優勝と2年連続日本一に貢献。1988年4月28日に金沢へ遠征し、イースタン・リーグ巨人戦を終えた後、大金とクレジットカード、ワールドシリーズの指輪2個[9]を入れた財布がないことに気づく。その後、グラウンドコートのポケットに入れてダグアウトにかけておいたことを思い出したが、そこにはなく、チームメイトに盗難されたと主張。球団側はキャンパネリスの主張を鵜呑みにするわけにもいかず、警察に正式な捜査を依頼しなかった。見捨てられたと感じたキャンパネリスは、頭に血が昇ったまま、シーズン途中の6月1日に日本を去った[7]。後にキャンパネリスは「あいつらが俺の指輪を盗んだ。選手かコーチか、どちらかだ。○○と××に違いない。考えてみろ、自分のチームメイトに盗まれたんだぞ。ビッグリーグでは絶対にありえない。日本は幼稚だ、プロじゃない」と振り返っている[7]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1964 KCA
OAK
67 290 269 27 69 14 3 4 101 22 10 2 2 0 15 0 4 41 3 .257 .306 .375 .681
1965 144 634 578 67 156 23 12 6 221 42 51 19 3 3 41 0 9 71 5 .270 .326 .382 .709
1966 142 606 573 82 153 29 10 5 217 42 52 10 1 2 25 1 5 72 6 .267 .302 .379 .681
1967 147 649 601 85 149 29 6 3 199 32 55 16 3 2 36 2 7 82 3 .248 .297 .331 .628
1968 159 707 642 87 177 25 9 4 232 38 62 22 8 3 50 2 4 69 5 .276 .330 .361 .692
1969 135 592 547 71 142 15 2 2 167 25 62 8 10 1 30 2 4 62 5 .260 .302 .305 .608
1970 147 650 603 97 168 28 4 22 270 64 42 10 3 4 36 1 4 73 5 .279 .321 .448 .769
1971 134 609 569 80 143 18 4 5 184 47 34 7 3 6 29 1 2 64 7 .251 .287 .323 .611
1972 149 681 625 85 150 25 2 8 203 32 52 14 20 2 32 0 2 88 9 .240 .278 .325 .603
1973 151 671 601 89 150 17 6 4 191 46 34 10 9 7 50 1 4 79 10 .250 .308 .318 .626
1974 134 587 527 77 153 18 8 2 193 41 34 15 11 2 47 2 0 81 6 .290 .347 .366 .713
1975 137 588 509 69 135 15 3 4 168 46 24 12 19 3 50 2 7 71 9 .265 .337 .330 .667
1976 149 631 536 67 137 14 1 1 156 52 54 12 18 11 63 0 3 80 4 .256 .331 .291 .622
1977 TEX 150 648 552 77 140 19 7 5 188 46 27 20 40 5 47 1 4 86 7 .254 .314 .341 .655
1978 98 319 269 30 50 5 3 1 64 17 22 4 25 3 20 0 2 36 6 .186 .245 .238 .483
1979 8 10 9 2 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 1 0 0 3 0 .111 .200 .111 .311
CAL 85 273 239 27 56 4 4 0 68 15 12 4 11 2 19 0 2 32 8 .234 .294 .285 .578
'79計 93 283 248 29 57 4 4 0 69 15 13 4 11 2 20 0 2 35 8 .230 .290 .278 .569
1980 77 234 210 32 53 8 1 2 69 18 10 5 7 2 14 0 1 33 4 .252 .300 .329 .628
1981 55 91 82 11 21 2 1 1 28 10 5 2 3 1 5 0 0 10 0 .256 .295 .341 .637
1983 NYY 60 155 143 19 46 5 0 0 51 11 6 7 3 1 8 0 0 9 4 .322 .355 .357 .712
MLB:19年 2328 9625 8684 1181 2249 313 86 79 2971 646 649 199 199 60 618 15 64 1142 106 .259 .311 .342 .653
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • KCA(カンザスシティ・アスレチックス)は、1968年にOAK(オークランド・アスレチックス)に球団名を変更

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1965 KCA 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 1 0 2 0 0 1 0 0 1 1 9.00 3.00
MLB:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 1 0 2 0 0 1 0 0 1 1 9.00 3.00

年度別守備成績 編集

投手守備


投手(P)












1965 KCA 1 0 0 0 0 ----
MLB 1 0 0 0 0 ----
捕手守備


捕手(C)






















内野守備


遊撃(SS) 三塁(3B) 一塁(1B) 二塁(2B)
















































外野守備


左翼(LF) 中堅(CF) 右翼(RF)




































タイトル 編集

  • 盗塁王:6回(1965年 - 1968年、1970年、1972年)

表彰  編集

記録 編集

背番号 編集

  • 19 (1964年 - 1981年)
  • 56 (1983年)
  • 83 (1987年 - 1988年)

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集