バール・スノー

アメリカ合衆国の野球選手 (1945-2011)

バール・スノー(Val Snow)ことローレンス・バレット・スノー(Laurence Vallette "Val" Snow、1945年2月9日 - 2011年5月8日[1])は、アメリカ合衆国ユタ州出身のプロ野球選手投手)。

バール・スノー
Val Snow
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ユタ州
生年月日 (1945-02-09) 1945年2月9日[1]
没年月日 (2011-05-08) 2011年5月8日(66歳没)[1]
身長
体重
183 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1966年 アマチュアFA
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

1974年に日本へ渡り、日本ハムファイターズへ入団したが、初登板試合に姿を見せずに無断で帰国、無期限失格選手に指名された。

名前については、バール・スノーのほか「バール」「スノー」「バレット」など、さまざまな表記がある[注 1]。日本プロ野球での登録名は「バール」であったものの、英字表記は「LAWRENCE SNOW」となっており、こちらも表記揺れがあった[10]

経歴 編集

アメリカ時代 編集

ユタ州立大学卒業[9][11]1966年ニューヨーク・メッツ傘下、1967年クリーブランド・インディアンス傘下のマイナーリーグ加盟球団でプレー。マイナー所属前の1964年にはシンシナティ・レッズから声がかかったものの、契約直前の新婚旅行中に自動車事故で負傷、機会を逸したという[12][注 2]1973年には大学で投手コーチをしていた。

ただし、経歴の細部は不明の点が多い[注 3]。マイナー所属は大学卒業後とする文献がある一方[4]、1967年で野球をやめ大学に進学して英文学を学んだとする文献もある[13]。コーチをしていた大学についても「ユタ大」[14]「ユタ州立大」[15]「ユタ工大」[8][16]「テクニクス大学(ユタ州)」[17][12]と文献によりまちまちとなっている。生年月日や最終学歴については「不明」とする文献もある[8][注 4]

日本プロ野球時代 編集

日本ハム入団 編集

1974年、貿易会社の社員として日本へ渡ったついでに日本ハムファイターズの入団テストを受け、3月26日付で入団[7]。日本ハムファイターズ(前身球団[注 5]除く)として初のカタカナ登録名による外国人選手であった。入団にあたっては、大学時代にスノーと同級だった日本の貿易会社社長が仲介にあたった[18]。この年に新監督に就任した中西太以下首脳陣の期待は大きく、エースナンバーの背番号「18」を与えられた[19]

失踪 編集

モルモン教徒で酒やたばこ、コーラは口にせず[20]、真面目な暮らしぶりであったが、初月給支給と翌日の二軍イースタン・リーグ加盟)での登板を告げられた4月25日に突如失踪した[4]。球団の捜索でも見つからず、4月30日に球団首脳部は契約解除を申請[11]。一方入団を仲介した貿易会社の社長も球団の依頼でスノーを探しており、スノーが既に帰国していることを把握していた。本人によれば、滞在先のホテルに脅迫電話がかかったり、暴漢に襲われたりしたため、恐怖を感じて帰国したが、日本に戻る意思はあることを示唆する。社長は4月30日に球団に事態を連絡、復帰に向けて球団やパシフィック・リーグと交渉を始めた[18]。スノーの帰国は5月2日に球団社長の三原脩が原因をホームシックとして説明し公となったが[21]、復帰についてはたとえ日本に戻ってきても再契約するつもりはないと冷淡な態度を示した。

契約解除・無期限失格選手指名 編集

結局契約解除はパシフィック・リーグ(一軍加盟リーグ)の事務局に受理され、5月4日に公示された。同国のプロ野球を統括する日本野球機構コミッショナー事務局は、スノーを5月9日付でパシフィック・リーグ初、国内では1971年高山忠克以来2例目の無期限失格選手に指名した[注 6]

日本プロ野球での無期限失格後 編集

その後の人生については定かではない。しかし、アメリカの家族歴を記録するサイト「Bob Moon & Patricia Anderson's Family History」によれば、2011年5月9日にカリフォルニア州コントラコスタ郡マーティネズで死亡したとある[1]。ここに寄せられた経歴によれば、帰国後は長距離トラック運転手をしていたが、2009年ごろ咽頭癌に侵されたことから業務引退を余儀なくされ、最期はマーディネスのホスピスで息を引き取った。66歳没[1]。二度にわたって恋人と死別するなど、波乱万丈の人生であったとされている。

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集

  • 一軍公式戦出場なし

背番号 編集

  • 18 (1974年)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 参考:カタカナ表記について…
  2. ^ 1967年の所属球団はシンシナティ・レッズ傘下であり、昇格の機会があったのはこのときのこととする資料もある[4]
  3. ^ 2010年にスポーツニッポンのウェブサイトで配信された記事では、日本ハム入団当時本人が、大学を出た後、1966年にメッツ傘下の1A、翌年はレッズ傘下に所属。計19試合で2勝5敗だったという旨の説明をしたとする記述が見られる[4]。なお、『Baseball-Reference』で配信された「Lawrence Snow」のデータでは、マイナーの通算成績を35試合で2勝10敗(初年についてはメッツ傘下のルーキーリーグ加盟球団にも所属しており、6試合で1敗。残りは1A通算:29試合・2勝9敗)としている。
  4. ^
    • 生年月日が不明とする資料については、次も参照[3]
    • 最終学歴が不明とする資料については、次も参照[6]
  5. ^ セネタース→東急(急映)フライヤーズ→東映フライヤーズ→日拓ホームフライヤーズ
  6. ^ 5月9日付で、コミッショナー事務局が無期限失格選手に指名したことは、次の資料を参照[5]

出典 編集

  1. ^ a b c d e Laurence Vallette Snow, Ii b. 9 Feb 1945 San Diego, CA d. 8 May 2011 Martinez, Contra Costa Co., California, USA - Bob Moon & Patricia Anderson's Family History
  2. ^ 『日本プロ野球外国人選手列伝』91ページ
  3. ^ a b 2011年ベースボール・マガジン社(BBM)から発行された雑誌『ベースボールマガジン』9月号「懐かしき外国人助っ人たち」より、日本プロ野球における歴代外国人登録選手のひとりとして掲載された名鑑
  4. ^ a b c d e 【4月25日】1974年(昭49) あの男を見たのはこの日が最後だった バール・スノー失踪(野球) - 『スポニチアネックス』2010年4月1日6時付配信
  5. ^ a b パシフィック・リーグ略史 - 日本野球機構公式サイトより
  6. ^ a b 『日本プロ野球80年史』の付録DVD-ROM「記録編」より、セネタース→東急フライヤーズ→急映フライヤーズ→東急フライヤーズ→東映フライヤーズ→日拓ホームフライヤーズ→日本ハムファイターズ→北海道日本ハムファイターズの年度別メンバー表を参照。選手名は「バール」、年齢は29歳と明記。
  7. ^ a b 「日ハム1Aのスノー投手が入団」『読売新聞』昭和49年3月27日付東京本社朝刊15面。
  8. ^ a b c 森岡浩『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、300-301ページ。ISBN 4-8169-1771-3
  9. ^ a b 「元1A投手 バレット、日本ハムに入団」『スポーツニッポン』昭和49年3月27日付2面。
  10. ^ プロ野球在籍者名簿 は NPB.jp
  11. ^ a b 「日本ハム バールを契約解除 給料引き出し姿消す」『読売新聞』昭和49年5月1日付東京本社朝刊15面。
  12. ^ a b 「日本ハム バール投手を発表 29歳 米国生まれ、10勝目標 投手ひでりにお助け人」『報知新聞』昭和49年3月27日付2面。
  13. ^ プロ、日本で脱サラ? 日本ハムスノー投手 バッキ―ばりの速球」『報知新聞』昭和49年3月24日付3面。
  14. ^ 「助っ人事件史[日本ハム編] いったいどんな顔だったのか… 雪のように消えたスノー」『日本プロ野球外国人選手列伝』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK 1027〉、2014年、41ページ。ISBN 978-4-583-62089-3
  15. ^ 「スノー投手の採用決定 日本ハム」『日刊スポーツ』昭和49年3月27日付2面。
  16. ^ 「12球団週間報告 パ・リーグ/ファイターズ 〝バッキー二世〟テスト合格 目標は15勝とスノー投手の自信に首脳陣も期待」『週刊ベースボール』第29巻第14号、1974年4月15日、76ページ。
  17. ^ 「日本ハムに外人選手」『朝日新聞』昭和49年(1974年)3月27日付東京本社朝刊14面。
  18. ^ a b 「バール(日本ハム)はサンフランシスコにいた 蒸発ミステリー」『報知新聞』昭和49年5月3日付2面。
  19. ^ 「神のお告げ」グリーンウェル、「浅草観光」ミセリ…プロ野球界の記憶に残る“トホホ助っ人”列伝 (2/4ページ) 文春オンライン2021/06/20 (2021年7月11日閲覧)
  20. ^ 「日本ハム、バールを〝クビ〟 黒い霧(45年)以来の失格選手へ 給料もらい姿消す ペピトーン以上の〝怪人〟 イースタンで先発予定が… 第二のバッキーも夢 外人に恵まれぬ三原さん」『スポーツニッポン』昭和49年5月1日付3面。
  21. ^ 「バールは米国にいた」『スポーツニッポン』昭和49年5月3日付2面。

関連項目 編集

外部リンク 編集