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ヒメヒコ制とは、古代に日本各地で成立したとされる、ヒメヒコによる共立的統治形態をさす仮説[1]

目次

概説編集

高群逸枝が自著『母系制の研究』(1938年)において提唱した仮説によれば、ヤマト王権が成立する前後の古代日本では、祭祀的・農耕従事的・女性集団の長のヒメ(あるいはミコトベを称号とした)と軍事的・戦闘従事的・男性集団の長のヒコ(あるいはタケル、ワケあるいはを称号とした)が共立的あるいは分業的に一定地域を統治していたとされている。 また、高群によれば、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』などの文献には宇佐地方豊国)にウサツヒコとウサツヒメ[2]阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ[3]加佐地方丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ[4]、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたとしている。 ならびに『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したとしている[5]。 そのようなヒメ・ヒコの首長はその地の神社の由来となっている例もあり、ヒメやヒコを神社名や祭神名にしている地域は、かつてヒメヒコ制の統治があったことの傍証とも言えるとしている。

しかし、ペアによる統治制度を誇大解釈して「ヒメヒコ制」と捉えるのは危険であり、後述の兄弟統治や夫婦統治と明確に区別しなければならない。

地方のヒメ・ヒコ編集

ヤマト王権が成立する以前、地方に見られるエ・オト(兄・弟)制がヒメヒコ制の先駆的制度であったとする研究者もいる。 神武天皇紀には奈良県宇陀地方にエウカシ(兄猾、兄宇迦斯)とオトウカシ(弟猾、弟宇迦斯)、奈良県磯城地方にエシキ(兄磯城)・オトシキ(弟磯城)およびエクラジ(兄倉下)・オトクラジ(弟倉下)というようにエオト(兄弟)による統治制が伝えられており、ヒメヒコ制を支持する者たちは、オトウカシならびにオトシキは祭祀的女性首長を意味し、それぞれ菟田県主と磯城県主になり、エウカシならびにエシキは軍事的男性首長を意味するという解釈を試み、美濃国ではエトオコ(兄遠子)とオトトオコ(弟遠子)、九州ではエヒナモリ(兄夷守)とオトヒナモリ(弟夷守)、エクマ(兄熊)とオトクマ(弟熊)の伝承もヒメヒコ制と同一視出来ると主張している。 しかし、男兄弟によるエオト制を異性ペアのヒメヒコ制の先駆的制度であると断言するのは強引であるという意見が多い。 傍証として、景行天皇紀においては行幸先の美濃国のオトトオコ(妹遠子・弟姫)を妃にしようと泳宮に滞在しており、拒まれたため姉のエトオコ(姉遠子・八坂入媛命)を妃としたとあり、エオトは姉妹にも適用され、エオト制=ヒメヒコ制とはできないという指摘がある。
 兄・弟という語頭名称の他に、「ネ・ベ」「オ・メ」「キ・ミ」という語尾が男女の共通名に付く場合は「ヒメヒコ制」のパターンと解釈することができる。 代表的な例としてはイザナギイザナミの夫婦神である。 他にも、尾張地方の「 オツナネ」(尾綱根)と「オツナマワカトベ」(尾綱真若刀俾)、シリツキトベ(志里都岐刀邊、志理都紀斗賣)[6]とシリツキネ(志里都岐根、尻調根)[7]そしてイナダネ(伊那陀禰、稻種)とイナダヒメ(伊那陀、稲田姫)の場合、トベが女性名詞であるため「ヒメヒコ制」の1パターンと捉えることが出来る。 また、物部氏族の祖先として登場する、ウツシメ(鬱色謎)・ウツシオ(鬱色雄)とイカガシコメ(伊香色謎)・イカガシコオ(伊香色雄)はヤマト政権以前の大和国山辺郡にも「ヒメヒコ制」に類似した1パターンが存在していたと言える[8]。 くわえて、開化天皇の后であるイカガシコメは大臣であるイカガシコオと共に石上神宮に仕えたと伝えられている[9]

邪馬台国におけるヒメヒコ制編集

魏志倭人伝における邪馬台国では女性のヒミコ(卑弥呼)が王に共立されて呪術的(祭祀的)支配を行い、男弟が卑弥呼を補佐して政治を執行していた[10]。 また、邪馬台国に属する対馬国壱岐国では大官にヒコ(卑狗)、副官にヒナモリ(卑奴母離)という主副のペア制による統治の記録がある。 これらをひとまとめにして「ヒメヒコ制」だとする研究者もいるが、卑弥呼の名を「ヒメ・ミコ」と解釈したとしても、男弟の名を魏志倭人伝が書き留めていない(重要視していない)ため、「ヒコ」とは断定できない。 また、近年では姉弟であるから「エオト制」であるとの指摘もされている。 ヒコ・ヒナモリは前述の兄夷守と弟夷守の例があるように「エオト制」である可能性が高い。 また呪術(祭祀)的首長を意味する「ミミ(彌彌)」は投馬国の「タマ(多模)」は不弥国それぞれの大官であり、副官はそれぞれヒナモリとミミナリ(彌彌那利)であり、これをヒメヒコ制だと唱えることも不可能ではないが、やはり性別不明である以上は一般的なペア制と捉えるべきである。 しかしながら、こういった邪馬台国にペア統治体制が数多く見られることから、ヒメヒコ制の起源を卑弥呼と男弟のペア統治に求めようとする研究者は少なくはない。

記紀伝承のヒメ・ヒコ編集

ヒメ・ヒコの一対的命名は、ヤマト王権の確立当初の崇神天皇期前後の諸文献の上に最も著しく見える。孝元天皇期のハニヤスヒメ・ヒコ、開化天皇期のオケツヒメ・ヒコ、崇神天皇期のトヨキイリヒメ・ヒコ、ヤサカイリヒメ・ヒコ、垂仁天皇期のサホヒメ・ヒコ、景行天皇期のイオキヒリヒメ・ヒコなどが挙げられる。これらの伝承はこの頃がヒメヒコ制の最盛期ではなく、すでにその実質を失い、命名上の遺習としてのみ残され、守られているものと考えられる[11]。ただし多数の兄弟姉妹の中から、特に一対の人物を選んで命名するという習慣は、かつて臨時的あるいは世襲的にヒメヒコを選びだし統治者と仰いだことの反映であるという説もある[12]

ヤマトヒメ・ヒコ編集

 記紀伝承にはヤマトヒメとヤマトヒコすなわち日本の女性統治者と男性統治者を意味する名前も崇神天皇期前後に見つけることができる。ヤマトヒメでは、ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)を始め、その母、ヤマトカグアレヒメ(意富夜麻登久邇阿礼比売)や叔母のヤマトトトワカヤヒメ(倭飛羽矢若屋比売)、崇神天皇の子でチチツクヤマトヒメ(千千衝倭姫命)、垂仁天皇の子でヤマトヒメ(倭姫命)などの例がある。ヤマトヒコでは、崇神天皇の子にヤマトヒコ(倭日子)、景行天皇の子にヤマトネコ(倭根子)やヤマトタケル[13](倭武)といった例がある。このヤマトヒメ・ヤマトヒコの伝承はこの時期の日本で男女の共立的統治の志向があったことを示唆すると言える。しかし、記紀伝承は男子の天皇の単立的統治を正当として、女王やヒメヒコの共立的統治を記していない。垂仁天皇が皇女のヤマトヒメを伊勢神宮斎宮として送ったとの伝承は、日本におけるヒメヒコ制の終わりを意味している。

 ただし男女の共同統治の伝統はその後も消えず、直系の天皇後継者が絶えた継体天皇期には再びヤマトヒメ(倭比売)やヤマトヒコオウ(倭彦王)をその傍証だとする説もある。推古天皇期においても推古天皇がヒメ(兄)を聖徳太子がヒコ(弟)を担い共同統治をしたと見ることが可能である[14]

ヒメヒコ神社編集

9世紀に完成した『延喜式神名帳』にはヒメヒコ制の名残と考えられる、ヒメヒコワケ)が対になって祭られている神社が35地域に知られている(表参照)。[15]

延喜式神名帳にみられるヒメヒコ神社・祭神
ヒメ神社・祭神 ヒコ神社・祭神 読み 地域
龍田比女神社 龍田比古神社 タツタ 大和国平群郡
伊古麻都比賣 往馬坐伊古麻都比古神社 イキ(コ)マツ 大和国平群郡
伯太姫神社 伯太彦神社 ハカタ 河内国安宿郡
金山孫女神社 金山孫神社 カネ(ナ)ヤマ 河内国大県郡
鐸比賣神社 鐸比古神社 ヌデ 河内国大県郡
若倭姫命神社 若倭彦神社 ワカヤマト 河内国大県郡
恩智大御食津姫 恩智大御食津彦 ミケツ 河内国高安郡恩智神社
為那都比売 為那都比古神社 イナ(ツ) 摂津国豊嶋郡
久具都比賣神社 久具都比古 クグツ 伊勢国度会郡
阿米都加多比咩神社 阿米都(和)気命神社 アメツ(カタ) 伊豆国賀茂郡
金村五百村比咩命神社 金村五百君和気命神社 カネイオ(ムラ) 伊豆国田方郡
寒川比女 寒川比古 サムカワ 相摸国高座郡寒川神社
前玉姫命 前玉彦命 サキタマ 武蔵国埼玉郡前玉神社
志波姫神社 志波彦神社 シワ 陸奥国栗原郡
若狭姫 若狭比古神社 ワカサ 若狭国遠敷郡
石桉比売神社 石桉比古神社 イワクラ 若狭国遠敷郡
苅田比売神社 苅田比古神社 カリタ 若狭国遠敷郡
天国津日咩神社 天国津彦神社 アメノクニ(ツ) 越前国敦賀郡
越比賣 越比古 コシ 越前国今立郡国中神社
能登比咩神社 能登生国玉比古神社 ノト 能登国能登郡
伊夜比咩神社 伊夜比古神社 イヤ 能登国および越後国
美麻奈比咩神社 美麻奈比古神社 ミマナ 能登国鳳至郡
美伊毘賣 美伊毘彦 ミイ 但馬国美含郡美伊神社
丹生津姫 丹生津彦 ニウツ 但馬国美含郡丹生神社
大穴持海代日女神社 大穴持海代日古神社 オオナムチウミシロ 出雲国出雲郡
鹽冶比賣 鹽冶比古神社 エンヤ 出雲国神門郡
豐玉比女 豐玉比古 トヨタマ 出雲国神門郡阿須利神社
石龍比売 石龍比古 イワタツ 播磨国揖保郡祝田神社
伊和都比賣神社 伊波都比古[16] イワ(ハ)ツ 播磨国赤穂郡
知波夜比売神社 知波夜比古神社 チハヤ 備後国三谿郡三次郡
高積比売神社 高積比古神社 タカツミ 紀伊国名草郡
宇志比賣 宇志比古神社 ウシ 阿波国板野郡
伊豫豆比売 伊予豆比子命神社 イヨ(ヤ) 伊予国伊予郡
火賣神社 火男神社 豊後国速見郡
建男霜凝比咩[17] 健男霜凝日子神社 シモコリ 豊後国直入郡

その他、地域名を負ったヒコあるいはヒメが単独祭られている神社は片方のヒメあるいはヒコが何かの理由で欠落した可能性が考えられる。

延喜式神名帳には記載されない神社でも風土記や文書に残されているものに多賀八幡社の祭神となっている伊勢都比古と伊勢都比賣、英賀神社の祭神となっている阿賀比古と阿賀比売などのヒメヒコ神社が点在している。

このようにヒメとヒコを対として祭る神社は北陸、近畿、出雲、播磨、そして伊豆から武蔵地方を中心に点在している。この内、国名をもつ伊予ヒメ・ヒコと越ヒメ・ヒコに関しては、魏志倭人伝における女王国に属する伊邪(イヤ)国および躬臣(コシ)国の統治者の可能性があるとする説もある。

脚注編集

  1. ^ ヒメヒコ制の概念は高群逸枝によって1938年に初めて唱えられた。高群は次のように言う「古代の祭治形式にあつては、神宣を体する姫の職と、それを受けて執行する彦の職が絶対に必要であるところから、姫彦二職を主長とする制度が生じたのである」。「姫彦統治制度にあつては、姫神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一体となって即ちここに祭政一体の統治が行われる」。高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、69, 362ページ、参照 倉塚曄子『巫女の文化』(平凡社1979)
  2. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前記甲寅年条
  3. ^ 「日本書紀」景行天皇の条に阿蘇都媛と阿蘇都彦が見られる。「阿蘇十二社祭神」には新比咩と新彦、若比咩と若彦、比咩御子と彦御子と3対のヒメヒコが見られる。この地方にヒメヒコ制が何代か続いた事を推測させる。
  4. ^ 「伊賀国風土記逸文」には伊賀国の名前は伊賀津姫に由来する事が述べられている。崇神天皇の皇女イガヒメは、イガツヒメとの関係が指摘されている。『先代旧事記』「天孫本紀」には、大伊賀津姫(吾娥津媛)は大伊賀津彦命の娘であることが伝えられている。『先代旧事記』「国造本紀」には伊賀国造に任ぜられた垂仁天皇の皇子竟知別命の曾孫イガツワケ(武伊賀津別命)が伝えられている。
  5. ^ 『播磨国風土記』には地方のヒメヒコ神として、餝磨郡伊勢野にイセツヒメとイセツヒコ、アマタラシヒコとアマタラシヒメ、餝磨郡英賀里にアガヒメとアガヒコ(英賀神社祭神)、印南郡含芸里にキビヒメとキビヒコ、讃容郡雲濃里にタマアシヒメとタマアシヒコ、揖保郡出水里にイワタツヒとトイワタツヒメ(祝田神社祭神)が見られる。
  6. ^ 志理都紀斗賣 建伊那陀宿禰の娘(記)建稻種命は、邇波縣君(にわ)祖、十三世孫、尻綱根、妹の尻綱眞若刀婢(旧事)
  7. ^ 尻調根(姓氏)を神社由緒等はシヅキネと読ませているが、シリツキネ(伝)が自然また海部氏系図ではシリツキトベ(志里都岐刀邊)がシリツキネ(志里都岐根)と親族関係で書かれている。
  8. ^ 高群逸枝『母系制の研究』286ページ
  9. ^ 『先代旧事本紀 天孫本紀』「物部連祖伊香色雄 此の命(中略)磯城瑞カキ宮御宇天皇(祟神)の御代、大臣に詔 して、 神物を班と為して、天社国社を定め、物部八十手が作れる祭神之物を以て、 八十万の 群神を祭りし時、建布都大神社を大倭国山辺郡石上邑に遷し、則ち天祖が 饒速日尊に授けたまいて、天より受け来たる天璽瑞宝と、同じく共に蔵め斎り、号 して石上大神と曰し、以て国家の為、また氏上と為て祀りて鎮と為せり。則ち、皇后、 大臣、神宮に斎き奉れり。」
  10. ^ 「卑彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿有男弟佐治國」
  11. ^ なぜ最盛期でなく終焉期の伝承が多く見られるか。高群は「その時代に至って記録法が漸く整備を見たため、期せずして其の種の文献も多分に残されることとなった」と述べている(高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、366ページ)
  12. ^ (高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、367ページ)
  13. ^ ネコやタケルはヒコと同じく元々は軍事カリスマのある人物に付けられる名称である。ただし姓氏制度が始まってからは個人の軍事カリスマとは無関係に世襲されたり、名づけられるようになった。
  14. ^ 「倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」
  15. ^ 他に複数の地域に祭られている同一のヒメヒコにシナツヒメ・ヒコ(志那都比賣・比古、級長津姫・彦)がいる。龍田坐天御柱国御柱神社(大和国)、息神社(遠江国)、川匂神社(相模国)、鹿島御子神社(陸奥国)、小物忌神社(出羽国)および科長神社(河内国)などである。この神は神話に登場する神なので古代のヒメヒコ制とは無関係に、神話の影響で祭神となった可能性がある。
  16. ^ 播磨国風土記』には、日岡には大御津歯命の子の伊波都比古命という神がいるとある。『延喜式』神名帳は「日岡坐天伊佐佐比古神社」と記しているが、伊佐佐比古は伊波都比古の誤記の可能性が高い。
  17. ^ 続日本紀:承和10・9・19