ヒュパティア古代ギリシャ語: Ὑπατία, ラテン文字転写: Hypatia, 350年から370年頃 - 415年3月)は、東ローマ時代のエジプトで活動したギリシャ系の数学者天文学者新プラトン主義哲学者ハイパティアともヒパティアとも呼ばれる。

ヒュパティア
Ὑπατία
1908年の想像画
1908年の想像画(ジュール・モーリス・ガスパール画)
生誕 350年から370年
アレクサンドリア
死没 415年3月
アレクサンドリア
研究分野 新プラトン主義哲学
数学
天文学
研究機関 アレクサンドリア図書館ムセイオン
プロジェクト:人物伝
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人物編集

アレクサンドリアのテオンの娘として生まれ、新プラトン主義の創始者プロティノスと新プラトン主義のシリアでの分派の創設者イアンブリコスの2人から数学と哲学の教えを受けた。400年頃、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学の学校長に就任し、プラトンアリストテレスの思想について講義を行ったという。当時のヒュパティアの書簡、例えば、シュネシオス英語版[注 1]との間で交わされた書簡のいくつかは現存している。

ヒュパティアは様々な書物に対して註解を著した。後世の『スーダ辞典』によれば、ディオファントスが著した『算術』にも、ペルガのアポロニウス著の『円錐曲線論』にも、そして、天文のカノン[注 2]に対しても註解を著したという。父テオンが著した『アルマゲスト解説』第3巻にもヒュパティアが加筆したと伝えられる。これらの註解は散逸してしまったが、『算術』の註解はアラビア語訳されたものの一部が断片的に現存している。

アストロラーベ(天体観測儀)とハイドロスコープ英語版[注 3]の発明については、ヒュパティアに意見を求めたシュネシオスの手紙の中で知られていることから、彼女が特に天文学と数学に専念していたことを示している。また、哲学に関する著作物は存在が全く知られていない。

キリスト教との反目編集

ヒュパティアの哲学は他の新プラトン主義の学校の教義より学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。

ヒュパティアのものであると伝えられている「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」といった言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。

その時既にヒュパティアは、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされた。

当時の社会編集

380年キリスト教徒テオドシウス1世[注 4]は、異端アリウス派と異教に対してローマ帝国全域での迫害の方針を定めた。

391年、テオドシウス1世はアレクサンドリアの司教テオフィロスの求めに答えて、アエギュプトゥスの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えた。暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には暴力、特に略奪とユダヤ人シナゴーグの破壊を法律で抑えようとの試みがなされた。

だが、412年、アレクサンドリアの総司教であったアンティオキアのヨハネス1世英語版が後ろ盾となっていた強硬派のキュリロス[注 5]による異教徒迫害および破壊活動が起きた。

そして414年、キリスト教徒の集団により、アレクサンドリアからの違法で強制的なユダヤ人の追放がなされ、緊張がその頂点に達した。

最期編集

 
虐殺されるヒュパティア

こうした状況の中で415年、暴徒(キリスト教徒かどうかは不明[1])によって殺害された。エドワード・ギボンは「四旬節のある日、総司教キュリロスらが馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、彼女を裸にして、カキ貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」と著書の『ローマ帝国衰亡史』に記している[注 6]

この事件によりエフェソス公会議が開かれ、総司教もネストリウス派も一致して、「キュリロスは教会を破壊するために生まれ育ってきた怪物である」と非難した。現在も教会暦による聖人カレンダーにはキュリロスの名は掲載されていない[要出典]

その後のアレクサンドリアでは、キリスト教徒・ユダヤ教徒がプトレマイオス朝以来の知的成果(プラトン主義を含む)を引き継ぎ、アラブ人に征服されるまで聖書文献学の中心として発展した[3]

博識で美しき女性哲学者とされたヒュパティアの伝承は、劇的な虐殺の記述と共に、後世に多数の作家による文学作品となった。

ヒュパティアと類似して、酷たらしい拷問の末に殉教したという聡明な女性・アレクサンドリアの聖カタリナは、秘かにヒュパティアを慕いその死を悔やむキリスト教徒が、ヒュパティアの投影として物語った伝説かも知れないという説がある[4][5]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 410年頃にキレナイカ地方のプトレマイス英語版司教となる。
  2. ^ おそらくはプトレマイオスの『アルマゲスト』。
  3. ^ 液体比重計としてピエール・ド・フェルマーによって17世紀に確認された。
  4. ^ 379年 - 392年:ローマ帝国東部の皇帝→392年 - 395年:全ローマ帝国の皇帝。
  5. ^ グラゴル文字を考案したキュリロス (スラヴの(亜)使徒)とは別人である。
  6. ^ 生きたまま肉を削ぎ落とされたという記録は、『ローマ帝国衰亡史』の叙述から一般に流布したもので、ギボンの想像力から印象が独り歩きした可能性がある。ギリシャ語で「カキの貝殻(ostrakois;oystershells)」という言葉が使われているが、これはギリシャでは家屋の屋根などに、カキの貝殻をタイルとして使用していたことに由来する。英語では、「タイル(tiles)で殺され、体を切断された後、焼却された」と訳されている[2]

出典編集

  1. ^ 世界哲学史2 2020, p. 189
  2. ^ Socrates Scholasticus: The Murder of Hypatia”. 2014年4月24日閲覧。
  3. ^ 世界哲学史2 2020, pp. 112-113、190
  4. ^ Was Saint Katherine Really Hypatia of Alexandria?”. ORTHODOX CHRISTIANITY THEN AND NOW. 2021年8月13日閲覧。
  5. ^ Is St Catherine of Alexandria a Fictional Person Based on Hypatia of Alexandria?”. Ancient Origins. 2021年8月13日閲覧。

参考文献編集

  • Ph. Schaff; H. Wace (1890). Socrates, Sozomenus: Church Histories. A Select Library of Nicene and Post-Nicene fathers of Christian Church: second series. 2. London: Oxford. pp. 159-160 
  • Maria Dzielska Tr. F. Lyra (1995). Hypatia of Alexandoria. Harvard University Press 
  • チャールズ・キングスレー『ハイペシア』村山勇三訳、春秋社、1924年。
  • マーガレット・アーリク『男装の科学者たち ヒュパティアからマリー・キュリーへ』上平初穂・上平恒・荒川泓訳、北海道大学図書刊行会、1999年。
  • 『世界哲学史2』〈ちくま新書〉、2020年。

関連項目編集

外部リンク編集