ビルホロド=ドニストロフスキー

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。
  • ビルホロド=ドニステロウシキー[1]
  • ビルホロド=ドニストロフシキー[2][3]
  • ビルホロド=ドニストロフスキー[4][5]
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ビルホロド=ドニストロフスキーウクライナ語: Білгород-Дністровськийビルホロド=ドニストロウシクィイ)、通称ビルホロドは、ウクライナ南西部オデッサ州ブジャク地方にある都市。ビルホロド=ドニストロフスキー地区ウクライナ語版ラヨン)を構成する。都市は紀元前4世紀に成立し、15世紀に完成したアッケルマン要塞ウクライナ語版(現存)を擁する要衝であった。都市の支配者は幾度も交代し、彼らは自身の言語で「白い街」などを意味するそれぞれの名で呼んだ(例えばアッケルマンチェタテア・アルバ)。2021年の人口は約48000人。

ビルホロド=ドニストロフスキー

Білгород-Дністровський
ビルホロド=ドニストロフスキー市内
ビルホロド=ドニストロフスキー市内
ビルホロド=ドニストロフスキーの旗
ビルホロド=ドニストロフスキーの紋章
紋章
ビルホロド=ドニストロフスキーの位置(ウクライナ内)
ビルホロド=ドニストロフスキー
ビルホロド=ドニストロフスキー
ウクライナにおけるビルホロド=ドニストロフスキーの位置
ビルホロド=ドニストロフスキーの中心部
ビルホロド=ドニストロフスキーの中心部
 ウクライナ
オデッサ州の旗 オデッサ州
ラヨンウクライナ語版 ビルホロド=ドニストロフスキー地区ウクライナ語版
建設 紀元前4世紀
行政
 • 市長 Граждан Віталій Вікторович
面積
 • 合計 31km2
標高
28m
人口
(2021年1月1日時点)
 • 合計 48,197人
等時帯 UTC+2 (EET)
 • 夏時間 UTC+3 (EEST)
郵便番号
67700 - 67719
市外局番 (+380) 4849
シティデーロシア語版 6月最終日曜日
ウェブサイト ビルホロド=ドニストロフスキー市議会

ビルホロド=ドニストロフスキーは黒海からドニエストル・リマンウクライナ語版ドニエストル川の河口にある三角江)を18 km入った所に位置する。州都オデッサとは、高速道路H33号線ウクライナ語版を経由して81 km離れている。

名称編集

現在のビルホロド=ドニストロフスキーに相当する都市の名は、変更が繰り返されている。

その他、多くの言語により「白い街」(ウクライナ語: Білий Город≒ビルホロド)または「白い城」の意味で訳されている。その中にはブルガリア語: Белгород Днестровскиガガウズ語: Akermanポーランド語: Białogród nad Dniestremトランシルヴァニア・ザクセン方言ドイツ語版[注 2]: Walachisch Weißenburg、ハンガリー語: Dnyeszterfehérvárヘブライ語: עיר לבן‎を含む。なお「ドネストロフスキー」(Днестровский)は、スロボダ・ウクライナにある語源の同じ都市(ベルゴロド)と区別するために加えられた。

歴史編集

古代編集

 
黒海北部沿岸に建設された古代ギリシアの植民都市(紀元前8 - 3世紀)

紀元前4世紀、ドニエストル川に挟まれた島に、ミレトス人がОфіуссаを建設した。ほどなく、スキタイ人の農耕民族によりテュラスが発展した。やがて両都市の違いはなくなり、人口は混ざり、スキタイ系ギリシア人(あるいは同化したギリシア人)による新しいコミュニティを形成した。また、この頃の海面上昇により、Офіуссаは水没し、都市はテュラスに移った。

紀元107年、ローマ帝国がダキア(現在のルーマニア周辺)を征服してドナウ川に達し、ドナウが国境となった。テュラスはローマの前哨基地となり、アルバ・ユリアに改名された。

238年、アルバ・ユリアはゴート族に奪われた。ゴート族は257年、この都市で海賊行為のための船を建造し、ローマの領土を攻撃し始めた。

371年、大勢のフン族が、ゴート族やスキタイ系ギリシア人と同盟してアルバ・ユリアの城壁に集結した。戦いのさなか、フン族は城壁の門を突破した。376年にはローマ皇帝が、20万人を超えるフン族のモエシア及びトラキアへの定住を認め、これによりローマはゴート族による崩壊を免れた。フン族の征服者はこの思わぬ厚遇に感謝し、都市の歴史的な名前を概ね残した(トゥリス)。

しかし、征服した都市にはフン族に交じってスラヴ人が住んだ。3世紀後、それらの都市はアスパルフ(ブルガール人のハーン)の根拠地となった。アスパルフはスラヴ人の七つの部族を征服し、680年にはオングロスの戦いでビザンツ帝国軍を破っている。翌年、ビザンツに認められることにより第一次ブルガリア帝国が成立した。その後、この地に東スラブ系のチヴェルツィ族が都市を形成した。彼らは廃墟から都市を再興し、主な建造物が石灰岩で造られていたので「白の街」(ビルホロド)と呼んだ。

中世編集

 
アッケルマン要塞

9世紀は遊牧民であるウゴルが黒海北部沿岸ロシア語版に到達したことが特徴的である。彼らは後にペチェネグに置き換わった。遠く離れたキエフではこれが初め静観された。907年にはキエフ大公オレグによりルーシ・ビザンツ条約が締結され、チヴェルツィも同様にビザンツと通商を得た。コンスタンティノープルはこれに対して、915年にビルホロドでペチェネグを扇動してじわじわ対抗した。城壁と住居は無事だったにもかかわらず、住民はビザンツに捕らえられて人口は半数未満となった。

1241年、ビルホロドはタタール人に奪われた。彼らはクマン人と同じくテュルク系民族だったので、テュルクの言語Ак-ЛібаAk-Lìba)と呼んだ。しかし、タタール人はこの地に長く留まらなかった。というのも、1288年にはジョチ・ウルスの王族ノガイが他のチンギス・カンの勢力と戦うための資金を得るため、街をジェノヴァ商人に気前よく引き渡したからである。この頃、地名は何度か変更されている(Asprokastro=白の城塞、Malivokastro=緑の城塞、Moncastro=山の城塞)。1362年、反抗的な住民が若者や貸金業者を追放してから、街はMavrokastro(黒の城塞)と呼ばれた。

1395年、ティムールトクタミシュの戦争中、街はオスマンのアミールの指揮下にあったティムールの前衛部隊に占領された。

ビルホロドは地域の経済で重要な地位を占めた。町では工業が発展し、造幣や有用な交易が行われた。14世紀末、ビルホロド(あるいは新たな呼称であるCetatea Albă=チェタテア・アルバ、およびFehérvár=フェヘールヴァール)はモルダヴィア公の手に渡った。この都市の宗主権はハンガリー王国が持っており、モルダヴィア公はその名代であった。公は城壁を復活させ、また増強させることに力を注いだ。城壁の石には1399や1432(いずれも年)と刻まれている。城壁はФедоркоFedorko)という建築家の手により1482年に完成を見た。

城壁は長さ2 kmで、26の塔(当初は34)が並んでいた。うち12が攻撃用、14が防御用で幕壁(カーテンウォール)同士を繋いだ。要塞の東・西・南側は堀であり、当初は幅14 m、深さ21 mであった。堀の底は河口の水面より3 m低かった。堀は河口に達し、そこには水門が設けられていた。危険に際しては水門を開き、堀は水で満たされた。要塞には外部との連絡のため、二つの出入口が設けられた。メインのКілійські(Chilia)ゲートは2階建ての塔の横にあり、二つの門と二つの鉄格子と一つの跳ね橋を備えた。もう一つのОвідіопольські(Ovidiopol)ゲートは河口に続き、要塞の各部を繋ぐように別の四つの門が設けられていた。

キリア要塞ルーマニア語版[注 3]とともに、この要塞は、勢力を拡大するオスマン帝国のスルタンに立ちはだかる重要な要塞となっていった。例えば1420年、オスマンの艦隊はこの都市の攻略に挑むが、かなりの損失を受けて退けられた。1475年、モルダヴィア公シュテファン3世の率いる3万の精強な軍がチェタテア・アルバに進駐した。スルタン・バヤズィト2世は、この都市をモルダヴィアだけでなくポーランド・リトアニア共和国への玄関口として重視し、1484年にオスマン人30万、クリミア・タタール人5万(クリミア・ハン国メングリ1世ギレイ)、ワラキア人別動隊からなる異例の大軍を集めた。陸と河口から包囲されながら、救援もなしに都市は8月1日から16日まで持ちこたえた。モルダヴィア軍2万のうち生存者はわずか200人であり、4000人は奴隷として売られた。

近世編集

 
グレゴリオ暦1792年のヤッシーの講和によりロシア帝国がオスマン帝国から獲得した領土(縞部分)
 
1812年のブカレスト条約によりロシア帝国がオスマン帝国から獲得した領土(縞部分のうちBudzak=ブジャク)

1574年、オスマン領となった都市はウクライナ・コサックオタマーンであるФока Покоти'лоFóka Pokotílo)率いる艦隊(25隻と600人のクルー)に攻撃された。それまでこのオタマーンは、オスマンとの戦争においてはモルダヴィアのヨアン・ヴォダ勇敢公ルーマニア語版を支援していた。この予期せぬ攻撃によってコサックは重要な港を手早く占領したが、要塞を確保することはできなかった。1614年春、アッケルマン近郊で反抗的なヌーレディンロシア語版シャヒン・ギレイロシア語版Бек-агиベグ)が戦った。ベグが勝ち、シャヒンはまずキリアに、次いでイランへ逃れた。

ブジャク・オルダロシア語版を形成したタタール人は、占領地域を統治するためにアッケルマンに移住した。この地は皮肉っぽく、しかし明確にケルマーン(岩)、あるいはアクジャ(白)と呼ばれた。有力なイスラム神学者のАль-Аккірмані(1760年没)はアッケルマンで生まれた。

オスマン領となったこの地で1637年3月9日、ヘトマンパヴロ・パヴリウクロシア語版率いるコサックの分離を支援していたイナイェト・ギレイロシア語版は、クリミア・オルダ(カルガロシア語版のフサム・ギレイとヌーレディンのサーデト・ギレイ)を派遣し、ブジャク・オルダを破った。4月から5月にかけて、クリミア・タタール人はハーンの支持者に対し、裁判官と息子たちを連れてオスマンへ逃げたミルザロシア語版ハーン・テミールロシア語版(ブラッディ・ソード=血塗られた剣、の愛称で知られた)の引き渡しを求めてキリアとフェオドシヤを包囲した。ブジャク・オルダの生き残りはクリミアへの移住を命じられたが、ノガイがАчі-КалеAcì-Kale、現在のオチャキフ)付近で反乱を起こしてカルガとヌーレディンを殺害し、地元アッケルマンへ戻った。

1787年からの露土戦争の最中である1789年にアッケルマンが占領されていた時、ロシア帝国の中尉ヴィクトル・アマデウスウクライナ語版が名を馳せた。

1812年のブカレスト条約により、ドニエストル川とドナウ川に挟まれた領域がロシアの手に渡った。ブジャクとノガイのタタール人は当時のロシア領タヴリダ県に追放され、彼らは疫病により荒廃していた土地に散らばっていった。入れ替わりにブルガリア人、ガガウズ人、ドイツ人の開拓者が再び住むようになった。

その後、アッケルマン要塞は軍事上の重要性を失った。1832年には戦略的対象としての登録を外れ、1859年には市当局に移管された。さらに、ベッサラビアとノヴォロシースクの州知事アレクサンドル・グリゴリエヴィチ・ストロガノフグラーフ)はロシア蒸気船航行貿易会社ロシア語版に、埠頭の建設のために城壁の石灰石を使用する許可を与えた。ただ、採石場から石灰石を運搬するほうが城壁を解体するよりずっと簡単という事実が判明し、要塞は完全な破壊を免れた。

近現代編集

 
ナチス・ドイツに対する勝利の記念碑
 
都市建設2500年の記念切手、1998年

ウクライナ人民共和国の分裂により、都市はオデッサ地方ロシア語版の一部となった。

ウクライナ独立戦争ウクライナ語版の後、アッケルマンを含むベッサラビアはルーマニア王国領となった。1925年、チェタテア・アルバと呼ばれることとなった都市は王国の主要都市となった。しかし、第二次世界大戦の期間中、この都市は再びロシアに代わって成立したソビエト連邦領となり、1944年8月9日の最高会議幹部会の命令により、都市はベルゴロド(区別のためドネストロフスキーを付す)に改名させられた。ベルゴロド=ドネストロフスキーはリマンスキー地区ウクライナ語版の中心都市であった。

1975年1月20日、Вершину村(Veršinu)、Переможне村(Peremozne、1945年までПапушой村=Papušoj)、Бритівка村(Britìvka)議会の国営農場「6月28日」が保有する住宅団地(敷地と合わせて計560 ha)がベルゴロドに編入された[9][10][11]。同年1月23日、オデッサ州議会の執行委員会はПереможне村の一部をВипасного村(Vipasnogo)に編入した[12]

1999年、ビルホロドは建設2500周年を迎えた。ユネスコはビルホロドを世界で最も古い都市の一つと認定した[13]。2002年、ビルホロド市歌ウクライナ語版が承認された。

2003年7月9日、ビルホロド市の面積にはБритівка村の管理する53.4 ha、ビルホロド地区Салгани村(Salgani)の195.51 ha、地区議会の直轄地26.52 haが含まれていた。市の土地4.11 haがСалгани村へ移管され、市の面積は1910.32 haであることが承認された[14]

地名変更編集

ウクライナの2015年4月9日の法律「共産主義者・国家社会主義者による全体主義体制への非難及びこれらのシンボルの宣伝の禁止について」に従い、2016年2月16日からビルホロド市の有名な人物及び事物の永続化に関する地名命名委員会が開かれた。その議定書に基づいて同年2月19日、Алла Гінак市長(Alla Ginak)は命令「市の通り、路地及び交差点の改名について」に署名した。例えば、レーニン通りはミハイリフスカ通りに、ソビエト通りは聖ゲオルギオス通りにそれぞれ改名された[15]

ユダヤ人の歴史編集

ユダヤ人の資料によると、この都市はヴァイセンブルク(ドイツ語: Weißenburg)あるいはイール・ラヴァン(ヘブライ語: עיר לבן‎)と呼ばれている(いずれも「白の街」の意味)。カライ派のユダヤ人は16世紀から住んでおり、10世紀にはハザールのユダヤ人が住んでいたという説もある。1897年のユダヤ人口は、ビルホロド総人口の19.9%に当たる5613人であった。このユダヤ人コミュニティは、主に近隣のオデッサのユダヤ人コミュニティから影響を受けてきた。1905年のポグロムでは、この都市に住む8人のユダヤ人が殺害された。第二次大戦中は、ユダヤ人のほとんどはオデッサに逃げた(後に虐殺された)。このとき市内に残った700人のユダヤ人は、近くのレマン川で銃殺された[16]( 要購読契約)。およそ500人が戦争を生き延び、その約半数がビルホロドに戻った。

気候編集

ビルホロドの地域は温暖な大陸性気候である。ケッペンの気候区分湿潤大陸性気候のDfbで、Dfaに近接する。晴れの日がかなり多く、年間290日以上ある。最暖月は7月で、夏の平均気温は20 - 22°C、最高気温記録は40°Cである。最寒月は1月で、冬の平均気温は-1°Cくらいである。

ビルホロド=ドニストロフスキーの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 1.5
(34.7)
2.1
(35.8)
5.9
(42.6)
12.9
(55.2)
19.1
(66.4)
23.5
(74.3)
25.9
(78.6)
25.5
(77.9)
21.2
(70.2)
15.1
(59.2)
8.9
(48)
4.4
(39.9)
13.83
(56.9)
日平均気温 °C°F −1.1
(30)
−0.4
(31.3)
3.1
(37.6)
9.6
(49.3)
15.6
(60.1)
19.7
(67.5)
21.9
(71.4)
21.5
(70.7)
17.3
(63.1)
11.6
(52.9)
6.1
(43)
1.8
(35.2)
10.6
(51.1)
平均最低気温 °C°F −3.7
(25.3)
−2.9
(26.8)
0.4
(32.7)
6.4
(43.5)
12.1
(53.8)
16.0
(60.8)
17.9
(64.2)
17.5
(63.5)
13.5
(56.3)
8.2
(46.8)
3.4
(38.1)
−0.7
(30.7)
7.34
(45.21)
降水量 mm (inch) 35
(1.38)
36
(1.42)
27
(1.06)
31
(1.22)
39
(1.54)
48
(1.89)
49
(1.93)
36
(1.42)
38
(1.5)
25
(0.98)
38
(1.5)
42
(1.65)
444
(17.49)
出典:Climate-Data.org[17]

人口編集

1808年のデータでは、アッケルマン(当時)の人口の3分の1以上がアルメニア人であった。

1808年の人口構成[18]
民族 人口比率(%)
アルメニア人 38.2%
ギリシャ人 18.9%
ウクライナ人・ロシア人 14%
ブルガリア人 約10%
モルドバ人 9.4%
ユダヤ人・ロマ・ポーランド人・トルコ人 9.5%

2001年の国勢調査によると、ビルホロドの人口構成は以下のとおり。

2001年国勢調査[19]
民族 人口比率(%) 言語 人口比率(%)
ウクライナ人 62.9% ウクライナ語 42.08%
ロシア人 28.2% ロシア語 54.52%
ブルガリア人 03.7% ブルガリア語 01.66%
モルドバ人 01.9% モルドバ語 00.67%
その他[注 4] 01.9% -

2020年時点のビルホロドの人口は約48,700人であった。

人口の推移
調査年 1897 1959 1970 1979 1989 2001 2016
人口 28,258 21,832 32,928 46,795 55,631 51,890 50,131

行政区画編集

 
ザトカ

基礎自治体(ウクライナ語: громада)としてのビルホロド=ドニストロフスキーを構成する行政区画は、以下のとおり。

経済編集

工業編集

ビルホロドはオデッサ州の工業都市のひとつであり、年間生産高は平均2億フリヴニャ(記号:₴)である[20]。市内には24の工業会社がある。市営の印刷所を除くすべての企業が民営化されている。

主要産業は、医療機器(輸血機器および使い捨て注射器)、食品(パン類)、機械(電子機器)、プラスチック製品(玩具および消費財)、コンクリート建材である。市内で最大の企業はГемопластGemoplast)で、市内の生産高の60%を占める。1994年まで、高分子素材を原料とした医療機器の分野ではウクライナ唯一の企業であった。

交通・通信編集

 
ビルホロド=ドニストロフスキー駅

ビルホロドの交通の施設としては、鉄道駅、海上貿易港、自動車交通がある。

郊外列車がビルホロド=ドニストロフスキー駅ウクライナ語版オデッサ中央駅の間を1日3便運行されている。その列車はビルホロドの住宅街にあるティラ駅ウクライナ語版(名は植民都市テュラスにちなむ)にも停車する。市民の一部はオデッサに通勤・通学し、1か月の定期券を購入している。

2017年12月まで、ビルホロドも経由するオデッサ - イズマイール/ベレジネウクライナ語版間の旅客列車があった。2016年9月23日からは、首都キエフ - イズマイール/ベレジネ間を結ぶ夜間高速列車「ドナウウクライナ語版」の運行が開始された。ドナウ号はヴィーンヌィツャジュメールィンカポディリシクウクライナ語版(2016年5月コトフスクから改名)を経由する。ビルホロド - チェルニウツィー間の列車もある。

ビルホロド=ドニストロフスキー港ウクライナ語版はこの都市のもうひとつの玄関口である。港はドニエストル・リマンの中、黒海から14 kmの距離にあり、ほぼ通年営業している。港を利用する船はДністровсько-Цареградське海峡Dnìstrovs'ko-Caregradc'ke)を通過する。この港は積載量5000トンまでの船を受け入れ、同時に5,6隻、年間300万トンの荷物を捌ける。港の設備により、化学薬品や危険物を除いたすべての貨物を扱える[21]

市内の道路輸送は8社の輸送業者により担われ、うち5社は旅客輸送に特化している。国際輸送も提供されている。市内の旅客輸送には58台、郊外および都市間輸送には176台のバスが運用されている。

ビルホロドの通信サービスは、ウクルテレコムウクライナ語版の第1通信センターによって提供され、市内の通話サービスの加入者は20,400人である。モバイル通信は市の全域をカバーする。

歴史的建造物編集

 
聖母被昇天アルメニア教会

2019年9月17日、ユネスコはアッケルマン要塞を含む遺産群「チーラ〜ビルホロド(アッケルマン) 黒海からバルト海への道[注 5]」を世界遺産の暫定リストに加える決定をした。ユネスコのウクライナ代表部は「ユニークな遺産の集合体で、普遍的な価値があり、正式な世界遺産リストへの登録を目指す」と述べた。アッケルマン要塞は同年8月の大雨で複数個所が破損し、オデッサ州の当局は修理費用が2150万フリヴニャになると伝えた[1]

その他の建造物は以下のとおり。

ゆかりの著名人編集

 
ウクライナ名誉スポーツマスター、ワシル・ロマチェンコ

出生編集

死去編集

姉妹都市編集

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 改名時期は不明であるが、硬貨に「テュラス」の名が最初に刻まれたとされるのは紀元前4世紀後半である[6]。一方で、Офіуссаとテュラスを別の都市とする説がある。古くは古代ギリシアのクラウディオス・プトレマイオスや古代ローマのガイウス・ウァレリウス・フラックスが言及した[6]。ウクライナの歴史家Агбунов Михайло Васильовичによると、Офіуссаはドニエストル川の三角州にあった都市で、現在は河口に沈んでいるという[7]
  2. ^ ドイツ語のトランシルヴァニア・ザクセン人の方言。
  3. ^ キリアウクライナ語版はオデッサ州イズマイール地区ウクライナ語版にある都市で、ドナウ川に面する。
  4. ^ ベラルーシ人・ルーマニア人・ガガウズ人など。
  5. ^ チーラとは、古代ギリシアの植民都市テュラスのこと。英語名は「Tyras - Bilhorod (Akkerman), on the way from the Black Sea to the Baltic Sea」である[22]
  6. ^ ウクライナ語: Тугай-Бей、カナ表記はトゥハイ=ベイ。

出典編集

  1. ^ a b オデーサ州の要塞跡、ユネスコ世界遺産暫定リストに登録”. ウクルインフォルム (2019年9月18日). 2021年6月13日閲覧。
  2. ^ オデッサ行きクルーズ|北ヨーロッパクルーズ”. ノルウェージャンクルーズライン. 2021年6月14日閲覧。
  3. ^ 在日ウクライナ大使館の投稿 - Facebook
  4. ^ ビルホロドドニストロフスキー”. コトバンク. 2021年6月13日閲覧。
  5. ^ 「ハイテク」ロマチェンコの進撃 年間最優秀選手に輝いた2階級制覇王者”. スポーツナビ (2018年1月19日). 2021年6月14日閲覧。
  6. ^ a b Кошеленко, Геннадий; Кругликова, Ирина (1984) (ロシア語). Античные государства Северного Причерноморья. Археология СССР. モスクワ: Наука. pp. 26–31. http://www.sno.pro1.ru/lib/agsp/3.htm#a1 
  7. ^ Агбунов, М. В. (1992) (ロシア語). Античная география Северного Причерноморья. Страницы истории нашей Родины. モスクワ: Наука. pp. 139-154. ISBN 5-02-005860-2. http://www.sno.pro1.ru/lib/agbunov_antichnaya_geografiya_severnogo_prichernomorja/5.htm 
  8. ^ a b Browning, Robert (1991). "Asprokastron". In Kazhdan, Alexander (ed.). en:The Oxford Dictionary of Byzantium. Oxford and New York: Oxford University Press. p. 212. ISBN 978-0-19-504652-6
  9. ^ Указ Президії Верховної Ради УРСР від 14 листопада 1945 р. «Указ Президії Верховної Ради УРСР від 14.11.1945 «Про збереження історичних найменувань та уточнення … назв … Ізмаїльської області»|Про збереження історичних найменувань та уточнення і впорядкування існуючих назв сільрад і населених пунктів Ізмаїльської області»
  10. ^ Карта РККА L-36 (А), 1941(ロシア語)
  11. ^ Відомості Верховної Ради Української PCP. — 1975 — № 5 — с. 82.
  12. ^ Відомості Верховної Ради Української PCP. — 1975 — № 6 — с. 94.
  13. ^ Інна Завгородня: Мить старої фортеці // Український тиждень № 52 (113) від 25 грудня 2009
  14. ^ Офіційний портал Верховної Ради України”. w1.c1.rada.gov.ua. 2021年6月7日閲覧。
  15. ^ Розпорядження Білгород-Дністровського міського голови «Про перейменування назв вулиць, провулків, скверів міста»
  16. ^ Gale - Product Login”. go.galegroup.com. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  17. ^ Climate: Bilhorod-Dnistrovskyi”. Climate-Data.org. 2014年5月4日閲覧。
  18. ^ История народного хозяйства Молдавской ССР (С древнейших времен до 1812 г.) / Отв. ред. П. В. Советов. Кишинев: Штиинца, 1976. страница 410
  19. ^ 2001年国勢調査
  20. ^ Промисловість міста Білгорода-Дністровського”. bilgorod-d.gov.ua. 2020年5月10日閲覧。
  21. ^ Транспорт та зв”. bilgorod-d.gov.ua. 2020年5月11日閲覧。
  22. ^ Tyras - Bilhorod (Akkerman), on the way from the Black Sea to the Baltic Sea”. UNESCO. 2021年6月13日閲覧。
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  24. ^ Місто Білгород-Дністровський та місто Фетхіє стали містами-побратимами”. bilgorod-d.gov.ua. 2020年5月25日閲覧。
  25. ^ Белгород-Днестровский обрел армянского побратима” (ロシア語). Новости Одессы - odessa.online (2018年3月22日). 2020年5月25日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集

参考文献編集