ピムリコの謎(ぴむりこのなぞ、Pimlico Mystery)あるいはピムリコ毒殺事件の謎(ぴむりこどくさつじけんのなぞ、Pimlico Poisoning Mystery)は、1886年ロンドンピムリコ地区(Pimlico district)で発生した変死事件の通称。トマス・エドウィン・バートレット(Thomas Edwin Bartlett)が死亡し、妻アデレード・ブランシュ・バートレット(Adelaide Blanche Bartlett)に夫殺害の嫌疑がかけられた。

アデレード・バートレット 1868年ころ 同時代の写真

トマス・バートレットの胃からは致死量のクロロホルムが発見されたが、彼の咽喉や食道には損傷がないにも関わらず、それをどのようにして摂取させたのかが不明であった。

アデレード・バートレットは、夫の殺害の嫌疑で裁判に付されたが、最終的に無罪となった。法廷における陪審の発言によれば、アデレードの無罪判決は、検察側がどのように犯罪が実行されたか証明できなかったことによるものとされている[1]

背景編集

この事件の特徴は、富裕な食料品商人トマス・エドウィン・バートレット(Mr. Thomas Edwin Bartlett)(1845年 - 1886年)と、年下のフランス生まれの妻アデレード・ブランシュ・ド・ラ・トルモイユ(Adelaide Blanche de la Tremoille)(1855年生まれ)、そしてアデレードの後見人(tutor)であり、夫婦のスピリチュアル・カウンセラーも務める友人のジョージ・ダイソン師(the Reverend George Dyson)のあいだの奇妙な関係である。メソジスト派の聖職者ダイソンは、(アデレードとダイソンが語った話が事実であるならば)不愉快な病気(朽ち歯(rotting teeth)やサナダムシ)に悩まされていたエドウィンから、アデレードを公然と口説くことを許されていたという。

エドウィンは流行に流されやすい面があったようで、動物磁気を健康の鍵と信じていた。しかし、他方では、彼の風変わりとされる面の一部は、アデレードとダイソンから聞知されたことに基づいており、両者によって脚色されている可能性もある。

アデレードの父は、裕福な、そしてことによると称号を有するヴィクトリア女王の随員の一員でさえあると噂されたが、これは本当に1855年にフランスを訪れていたが[1]ことによるとアドルフ・コロー・ド・ラ・トルモイユ、トゥアール・デスキューリー伯爵(Adolphe Collot de la Tremouille, Comte de Thouars d'Escury)。[2]、アデレードは時々、1855年にオルレアンで非嫡出子として生まれたと記録されている。英語版[要出典]

クララ・チェンバレン(Clara Chamberlain)とアドルフ・コロー・ド・トマ〔ママ〕・デスキューリー(Adolphe Collot de Thomas (sic) d'Escury)の婚姻は、1853年3月期の出生婚姻死亡索引(BMD index March quarter 1853)に、記録されていて、アデレードが非嫡出ではないという仮定に重要性を添えている。戸籍によると、アドルフは1860年の6月にロンドンのパンクラス地区(Pancras district)にてド・エスキュリー(De Escury)という名字で死亡したと記録されている。

1861年の国勢調査において、未亡人となったクララは未婚の姉妹エレン・チェンバレン(Ellen Chamberlain)(17歳)、子ヘンリー(Henry)(7歳)、アデレード(Adelaide)(5歳)、フレデリック(Frederick)(3歳)、クララ(Clara)(1歳)と同居し、 RG9/163 Folio 97 Page 10 Havelock Road, South Hackney には上の3子はフランス生まれと記録されている。 戸籍によれば、クララは1866年12月期にパンクラス地区において、33歳で死亡している。

孤児となったアデレードと弟のフレデリック(名字はde Thoursとして列挙されている)は、菓子職人のウィリアム H (William H)とアン・ウェルビラヴド(Ann Wellbeloved)の養子となった。(ミドルセックス、ハンプトン・ウィック(Hampton Wick)、ハイ・ストリート(High Street) RG10/866 Folio 7 Page 5)。1871年の国勢調査によると、当時のアデレードは菓子製造人の助手であり、オルレアンではなく、パリのサン・クルー(St Cloud)地区の生まれとして記載されている(弟フレディーも同様)。英語版[要出典]

エドウィンとアデレードは1875年に結婚した。アデレードによれば恋愛結婚だったという。

しかし1881年に彼女はエドウィンの子を死産してしまう。この際にエドウィンは、難産であるため男性の医師を呼ぶようにという、女性の子守の忠告を断ったが、これは彼が別の男が彼女に干渉するのを嫌ったからであるとされている。[1]

1885年前半に、二人は地元のメソジスト派の聖職者ジョージ・ダイソンと知り合い、ダイソンはしばしばバートレット家を訪問するようになった。

この頃、エドウィンはダイソンを遺言執行者とし、アデレードが再婚しないという条件付で(これは当時は一般的な条項だった[3])全財産を彼女に遺すという遺言を作成している。なお、この遺言は死亡する4ヶ月前にエドウィン自身によって修正され、再婚禁止の条項が除去された[2]

1885年12月31日、歯科医からピムリコのフラットへ帰ってきたエドウィンは、アデレードの隣で就寝した。翌朝の午前4時少し前、アデレードが普段彼女を起こしにくるメイド(この日は起こされる前に起床していた)に対して、エドウィンが死んでいるかもしれないのでアルフレッド・リーチ(Dr. Alfred Leach)医師を連れてくるように求めた。

検死の結果エドウィンの死亡が確認された。彼の胃に満たされていた液体クロロホルムが死因とされたが、当初は自殺として処理される可能性が高かった。しかし、アデレードがエドウィンの弟と情事を持ったことなどにより、かねてより彼女を嫌悪していたエドウィンの父親が息子の死に疑念を抱き、当局を説得して調査させたことから、一転して本件は殺人事件として扱われることとなる。

捜査の結果、事件に先立った1885年末頃、ダイソンがアデレードから依頼され、彼の主治医リーチ医師にクロロホルムを処方させていることが判明した。この件についてリーチは、患者にしつこく言われたためにいやいや処方したと証言した。

ダイソンはその処方箋をもとにクロロホルムを購入したが、大瓶1本分で済む分量を小瓶4本に分けて別々の店で購入し、店員には油汚れを取り除くのに使用すると説明していた[4]。当時の法律では、大量の医療用毒物を購入する際は薬局で帳簿に署名する必要があったが、購入量が少量なら不要であった。ダイソンは、エドウィンの死後になって思えば、自らの一連の行動は疑われても仕方がないものであったと述べている。

その後、死因審問が本件犯行はジョージ・ダイソンを共犯者とする、アデレード・バートレットによる謀殺であるという評決を下し、二人は逮捕された[5][3]

公判編集

公判は1886年4月12日に始まり、[6]英国内外で大きく報道された。公判の冒頭で、ジョージ・ダイソンとアデレードの訴因が読み上げられたが、しかし検察は直ちに、ダイソンの訴因を落とすように求め、そして彼は正式に無罪放免になった。このことで検察は、彼を検察側の証人として呼ぶことが可能になったが、[3]しかし弁護側が、彼の宣誓証言を利用することも可能になった[7]

アデレード・バートレットは、法廷弁護士の選択において極めて幸運であった。サー・エドワード・クラーク(Sir Edward Clarke)は、ことによると後期ヴィクトリア朝イングランドで最も優秀な法廷弁護士であったかもしれない。彼が事件を引き受けたことは、アデレードの謎めいた父の干渉によると噂された[1]。彼は、自殺説をかろうじて可能にするのに十分な、故人に対する曖昧な点を示すことができた。彼の、ドクター・リーチ、大バートレット(the elder Bartlett)(彼が、息子の地所に対する金銭目当ての、隠された動機を有していることが明らかにされた)及びダイソン師との戦術は、依頼人のために無罪放免を得るのに十分であった。この古典的な毒殺事件における検察は、現法務長官(Attorney General)、クラークの大きな好敵手サー・チャールズ・ラッセル(Sir Charles Russell)の掌中にあること(1957年までイングランドおよびウェールズにおいて伝統的であったことであるが[8])、しかし後者は英国自由党の政策とパーネルのアイルランド地方自治運動に関係する政策に関係していることが指摘されるべきである。したがって、クラークは、その好敵手の最高の法律ゲームの、好敵手がいなかった。生涯最後の晩に、エドウィン・バートレットは、メードに翌日のためにぜいたくな正餐を準備するように命じた - 自殺を計画している男の行動ではほとんどない - という証拠にもかかわらず、「自殺」説は、前進した。

アデレードは自分自身に有利な証言をすることはできなかった(1898年の犯罪証拠法(Criminal Evidence Act 1898)まで弁護側にとって可能ではない)し [9][10]、そして弁護側は証人を呼ばなかったし[7]、ただし最終弁論には実に6時間をかけた。[2]

ミセス・バートレットへの主な法医学上の援助は、液体クロロホルムは燃えるということであった。これが胃にまで下れば必ず咽喉と喉頭の側面を火傷させる。エドウィンの遺体には、そういう火傷はなかった。このことは、彼が(どうにかして)クロロホルムを素早くごくりと飲み下すことができたことを示唆している。これは、自殺説を少し支持したが、というのも、そういう素早い飲みは、飲み手が有毒な飲料を大急ぎで下すことを示唆した。陪審が評決を考慮したのち法廷にもどってきたとき、陪審長は言った。 「我々は、重大な嫌疑が被告人にかけられていると考えているけれども、クロロホルムがどのように、また誰によって、投与されたかを示すのに十分な証拠があるとは考えていない。」

陪審長はそれから、評決は無罪であると確認したが、これは「狂喜の拍手喝采」で迎えられ、世論は公判中にアデレードに有利に変わった[2]

毒物がどのようにして咽喉を火傷させずにエドウィンの胃の中に入ったかという係争点は、有名な外科医サー・ジェームズ・パジット(Sir James Paget)に、有名な辛辣な言葉を言う気にさせた

「彼女が殺人について無罪放免になり、そして再び公判に付されるはずがない以上、彼女は科学のために、彼女がそれをどのようにしたか我々に語るべきである!」("Now that she has been acquitted for murder and cannot be tried again, she should tell us in the interest of science how she did it!")

追伸編集

公判後、アデレード・バートレットとジョージ・ダイソンの両者が、公衆の目からは姿を消した。『The Life of Sir Edward Clarke』(1939年)の著者らは、自分らはアデレード・バートレットは後にジョージ・ダイソンと結婚したという「印象」を抱いていること、しかし自分らは2人は決して再会しなかったという説もまた聞いていることを報告した。

長編小説家ジュリアン・シモンズ(Julian Symons)は、事件を長編小説にした『Sweet Adelaide』において、ミセス・バートレットはアメリカ合衆国に移住し、コネチカット州に落ち着き、そして1933年以後のいつか死亡したことを示唆したが、ただしある人々は、彼女の公判後の人生は謎めいているとみなしている。

ダイソンはといえば、リチャード・ウィッティントン=イーガン(Richard Whittington-Egan)の、ウィリアム・ラフヘッド(William Roughead)の生涯の研究の報告によれば、 1939年にメリーランドのある女性は、ダイソンがニューヨークに来て、名を変え、そして財産目当てに結婚し、そして1916年に財産を求めて若い花嫁、彼女の姉妹を殺害したと主張したという[11]。あるいは二者択一的になるが、ケート・クラークの報告によれば、メソジスト教会の諸記録は、ダイソンがオーストラリアに移住したということを述べている、という[12]

バートレット事件は、1952年にBBCラジオ・シリーズ『The Black Museum』の「"Four Small Bottles."」というタイトルで、そして1980年に4部のTVシリーズ『A Question of Guilt』で、ドラマ化された。[13]

メディア編集

  • ジョディー・フォスター出演の『ヴィクトリア』は、「...夫のクロロフォルムでの殺害のかどで1886年に裁判を受けたアデレード・バートレットのそれにゆるく基づいていた。」("... loosely based on that of Adelaide Bartlett, who, in 1886, went on trial for the chloroform poisoning of her husband”)[14]
  • 有名な書籍『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(Hitchcock/Truffaut)において、アルフレッド・ヒッチコックは、フランスのヌーヴェルヴァーグの映画制作者フランソワ・トリュフォーに、自分はかつてこの事件の映画を作る意図であったが、しかし後にそれを断念したが、それはトリュフォーの映画『突然炎のごとく』もまた - 彼のヴィジョンによれば - 3人の家庭(ménage à trois)を取り扱うからであると告げた。彼によれば、映画のシーンの1つでは、アデレードとダイソンがはげしく愛を交わしているのにたいしてエドウィン・バートレットはロッキング・チェアに座りながら口から煙を吐き出しパイプを見つめていることになるという。
  • CBSラジオ番組『Crime Classics』は、「青果商人トマス・エドウィン・バートレットのぞっとするくらい平和な情熱」("The Shockingly Peaceful Passing of Thomas Edwin Bartlett, Greengrocer")を制作し、1953年6月22日に放映したが、これはこの事件を聴取者のために事実をいくらか変更してドラマ化したものである。

参照編集

  • Bridges, Yseult, Poison and Adelaide Bartlett, ISBN 0-333-11335-7
  • Lustgarten, Ernest, Defender's Triumph (New York: Charles Scribner's Sons, 1951), Victorian Trumpets: Edward Clarke defends Adelaide Bartlett, p. 8-80; the same essay appears in Lustgarten's The Murder and the Trial (New York, Charles Scribner's Son, 1958), p. 191-249.
  • Sir John Hall (ed), Notable British Trials Series, The Trial of Adelaide Bartlett (Edinburgh, 1927)
  • Beal, Edward and Clarke, Edward, The Trial of Adelaide Bartlett for Murder, Held at the Central Criminal Court (1886), ISBN 978-1-4373-4233-8
  • Roughead, William, The Rebel Earl and Other Studies, (Edinburgh: W. Green & So, Limited, 1926), The Luck of Adelaide Bartlett: A Fireside Tale, p. 215-252.
  • Stratmann, Linda, Chloroform: The Quest for Oblivion, ISBN 0-7509-3098-5
  • Kate Clarke, The Pimlico Murder: Strange Case of Adelaide Bartlett (Classic crime series), ISBN 0-285-62975-1 (1990), revised 2011, ISBN 978-0-9553205-1-4
  1. ^ a b c d Colin Wilson, in Unsolved Murders and Mysteries (ed John Canning), ISBN 1-85152-530-0
  2. ^ a b c d Michael Farrell, Adelaide Bartlett and the Pimlico mystery, British Medical Journal Volume 309 24–31 December 1994.
  3. ^ a b c Brian Lane (1991). The Murder Guide. Robinson Publishing. pp. 35–38. ISBN 1-85487-083-1 
  4. ^ Michael Farrell, Adelaide Bartlett and the Pimlico mystery, British Medical Journal Volume 309 24–31 December 1994.
  5. ^ C. J. S. Thompson (2003). Poison Mysteries in History, Romance and Crime (reprint ed.). Kessinger Publishing. p. 306. ISBN 0-7661-3047-9 
  6. ^ Stephanie J. Snow (2008). Blessed days of anaesthesia: how anaesthetics changed the world. Oxford University Press. p. 131. ISBN 0-19-280586-X 
  7. ^ a b Derek Walker-Smith; Edward Clarke (1939). The life of Sir Edward Clarke. Taylor & Francis. p. 178 
  8. ^ Jones, Elwyn (1969). “The Office of Attorney-General”. The Cambridge Law Journal (Cambridge University Press) 27 (1). ISSN 0008-1973. 
  9. ^ Christopher Allen (2008). Practical Guide to Evidence. Taylor & Francis. p. 89. ISBN 0-415-45719-X 
  10. ^ R. J. C. Munday (1985). “Reflections on the Criminal Evidence Act 1898”. The Cambridge Law Journal 44 (1): 62–86. http://www.jstor.org/stable/4506701. 
  11. ^ Richard Whittington-Egan, William Roughead's Chronicles of Murder, Moffat, Scotland: Lochar Publishing,1991, ISBN 0-948403-55-1,page 205. Re: George Dyson, Wesleyan Minister b 1858
  12. ^ Kate Clarke, The Pimlico Murder: Strange Case of Adelaide Bartlett (Classic crime series), ISBN 0-285-62975-1 (1990), revised 2011, ISBN 978-0-9553205-1-4, page 264
  13. ^ A Question of Guilt 1980 TV series
  14. ^ Cf. My Letter to George - IMDb(英語)

外部リンク編集