ピンザアブ洞人(ピンザアブどうじん)又はピンザアブ人(ピンザアブじん)は、1979年昭和54年)に沖縄県宮古島市(発見当時は宮古郡上野村)のピンザアブと呼ばれる洞穴で発見された約25,800 - 26,800年前(旧石器時代)の化石人骨[1][2]

概要 編集

発見地のピンザアブは沖縄県宮古島市(宮古島)上野豊原にある。宮古方言で「ピンザ」は「ヤギ」、「アブ」は「洞穴」を意味し、「ピンザアブ」は「ヤギの洞穴」という意味である[3][4]

1974年(昭和49年)に愛媛大学による探査が行われ、ピンザアブの洞穴としての規模は判明していた。一方で沖縄県内では農業基盤の整備が進むとともに、各島嶼に分布する石灰岩洞穴の消滅と保存の問題が生じたため、沖縄県教育委員会1977年(昭和52年)から3か年にわたる「沖縄県洞穴実態調査」に乗り出した。その一環として1979年(昭和54年)8月下旬にピンザアブの調査が行われ、大城逸朗(沖縄県立博物館)、新垣義夫(普天満宮)らによって多数の化石動物骨とともにヒト後頭骨片が発見された。

1980年(昭和55年)、横浜国立大学長谷川善和は後頭骨片、尖頂骨、右側頭頂骨、脊椎骨(第5腰椎)、乳歯(下右乳犬歯)片を追加発見した。長谷川が人骨の鑑定を国立科学博物館佐倉朔に依頼したところ、この人骨に港川人と共通する特徴があることがわかった。

この知らせを受け、沖縄県教育委員会は、文化庁の補助・指導と地元の上野村教育委員会の協力を得て、地質学古生物学人類学考古学の専門家チームを組織し、3年間におよぶ「ピンザアブ洞穴発掘調査」を実施した。この調査でさらに人骨が発見され、年代測定も行われた。

ピンザアブ洞人の年代は約25,800 - 26,800年前と判明した。これは年代的に山下洞人(約32,000年前)と港川人(約18,000年前)の中間に位置し、白保竿根田原洞穴遺跡で出土した全身骨格(約27,000年前)とほぼ同年代である。また、形態分析からも港川人に連続するが、やや先行する様相を示していた。骨は壮年の男女と子供を含む数個体を含んでいた。旧石器時代の人骨であるが、その生活の痕跡は発見されなかった。

1981年(昭和56年)、ピンザアブ遺跡は上野村(現・宮古島市)の史跡に指定された[5][6]

2010年時点で、ピンザアブ洞人の骨は動物化石とともに、国立科学博物館新宿分館(東京都新宿区)に保管されていた[2](新宿分館は2012年に筑波地区に集約された)。

脚注 編集

  1. ^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』東洋企画、p. 12
  2. ^ a b 小田静夫「ピンザアブ洞穴と南琉球の旧石器文化」『南島考古』第29号、沖縄考古学会、2010年6月、1-20頁。 
  3. ^ ピンザアブ人”. 最新版 沖縄コンパクト事典. 琉球新報社 (2003年3月). 2020年3月7日閲覧。
  4. ^ ピンザアブ洞人 ピンザアブ洞窟 宮古島に2万6千年前に住んでいた人々の話”. 宮古島キッズネット. 2020年3月7日閲覧。
  5. ^ 【市指定:史跡】ピンザアブ遺跡~ぴんざあぶいせき~”. 綾道. 宮古島市教育委員会. 2020年3月7日閲覧。
  6. ^ 史跡26~50”. 宮古島市. 2020年3月7日閲覧。