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ファブリツィオ・ミッコリ

ファブリツィオ・ミッコリFabrizio Miccoli, 1979年6月27日 - )は、イタリアプッリャ州レッチェ県ナルド出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード

ファブリツィオ・ミッコリ Football pictogram.svg
FabrizioMiccoli.jpg
名前
愛称 サレントロマーリオ
ラテン文字 Fabrizio Miccoli
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1979-06-27) 1979年6月27日(40歳)
出身地 ナルド
身長 168cm
体重 64kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
ユース
1987-1992 イタリアの旗 サン・ドナート
1992-1994 イタリアの旗 ミラン
1994-1996 イタリアの旗 カラザーノイタリア語版
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-1998 イタリアの旗 カラザーノ 57 (19)
1998-2002 イタリアの旗 テルナーナ 120 (32)
2002-2004 イタリアの旗 ユヴェントス 25 (8)
2002-2003 イタリアの旗 ペルージャ (loan) 34 (10)
2004-2005 イタリアの旗 フィオレンティーナ 35 (11)
2005-2007 イタリアの旗 ユヴェントス 0 (0)
2005-2007 ポルトガルの旗 ベンフィカ (loan) 39 (14)
2007-2013 イタリアの旗 パレルモ 165 (74)
2013-2015 イタリアの旗 レッチェ 44 (17)
2015 マルタの旗 ビルキルカラ 11 (6)
通算 530 (191)
代表歴2
1996-1997 イタリアの旗 イタリア U-18 10 (5)
1998-2000  イタリア U-23 7 (2)
2003-2004 イタリアの旗 イタリア 10 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。2016年1月26日現在。
2. 2016年1月26日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

切れ味鋭いドリブル、小柄な体格からは想像できないシュート力が魅力。突破力を買われてウイングやサイドハーフでの起用もある[要出典]

経歴編集

クラブ編集

12歳の時にACミランの下部組織に入団したが、ホームシックにかかり2年後にセリエC1に所属する故郷のクラブ、ASDヴィルトゥス・カザラーノに移籍した。16歳にしてファーストチームデビューを飾ると、すぐさま主力として活躍し、1998年に2部のテルナーナ・カルチョへステップアップした。テルナーナでも主力に定着し、4シーズン目には15ゴールを記録した。この活躍がユヴェントスFCの目に留まり、移籍が実現。2002/03シーズンはユヴェントスと良好な関係を築いていたルチアーノ・ガウチ会長のクラブ、ACペルージャに貸し出され、セリエAデビューを果たした。ペルージャでは34試合9得点の結果を残したが、復帰したユヴェントスでは常時試合に出場することは叶わず、2004年夏、シーズン開幕後にACFフィオレンティーナへ共同保有の形で移籍。フィオレンティーナではともに自己最多の35試合出場12得点という好成績を挙げた。2005/06シーズンからはポルトガルSLベンフィカにレンタルされ、UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06ではマンチェスター・ユナイテッドFCリヴァプールFCを破るアップセットに貢献した。

2007年にUSチッタ・ディ・パレルモに移籍金470万ユーロの3年契約で完全移籍。パレルモでの初シーズンは怪我に悩まされたが、2008-09シーズンには自己最多の14得点を記録。翌シーズンにはさらにそれを上回るリーグ3位タイの19得点を挙げ、パレルモのリーグ5位に貢献した。2011-12シーズンには2月1日のセリエA・インテルナツィオナーレ・ミラノ戦で3得点を記録し、それまでカルロ・ラーディチェイタリア語版が持っていたクラブ最多得点記録を73年ぶりに塗り替えた。翌2012-13シーズンは11月24日にセリエ通算100ゴールを達成したが、8ゴールに終わりクラブも降格となった。チームでも随一の高給取りであることもあり去就に注目が集まっていたが、6月23日に恐喝未遂と不正アクセスの疑いで検察に取り調べを受けた。この中で、Kalsaというパレルモ近郊のマフィアのボスの息子との密接な繋がりが発覚したばかりか、反マフィア活動に身を捧げた島の英雄ジョヴァンニ・ファルコーネを侮辱する会話をしていたことが明らかになった[1]。間もなくミッコリはFIGCからの調査を受け、30日には涙ながらの謝罪会見を開いたが、コルレオーネ市名誉市民権を撤回される[2]などシチリアに居られる状況ではなくなり、最終的に故郷のレッチェへ移籍した[3]

2015年6月24日マルタ・プレミアリーグビルキルカラFCに1年契約で移籍したが[4]、同年12月16日、契約解消および現役引退が発表された[5]

代表編集

イタリア代表としては2003年2月12日のホームでの親善試合・ポルトガル戦で初出場。およそ1年後の2004年3月31日のアウェーでの親善試合・ポルトガル戦で代表初得点を記録した。同年11月17日の親善試合・フィンランド戦では決勝点を挙げたが、それ以降代表での出場はない。2009/10シーズンの大活躍から2010 FIFAワールドカップメンバー入りを期待されたが、シーズン終盤の右膝の負傷などで招集されることはなかった。

引退後編集

2017年10月、恐喝の容疑で裁判所から3年6カ月の禁固刑を言い渡された。マフィアのメンバーである友人にディスコ運営資金の回収を指示したが、その友人が暴力的な手法で資金を回収したためだという。この判決に対し、本人は涙ながらに無罪を主張した。[6]

人物編集

ディエゴ・マラドーナとプロレス団体のWWEの大ファンである。

個人成績編集

クラブ シーズン リーグ カップ 国際大会 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
カサラーノ 1996-97 27 8 - - 27 8
1997-98 30 11 - - 30 11
通算 57 18 - - 57 18
テルナーナ 1998–99 30 1 2 0 - 32 1
1999-00 33 9 7 0 - 40 9
2000–01 23 7 2 0 - 25 7
2001–02 34 15 4 3 - 38 18
通算 120 32 15 3 0 0 135 35
ペルージャ (loan) 2002–03 34 9 6 5 2 2 42 16
ユヴェントス 2003–04 25 8 6 1 6 1 37 10
2004–05 0 0 1 0 0 0 1 0
通算 25 8 7 1 6 1 38 10
フィオレンティーナ 2004–05 35 12 4 0 - 38 12
ベンフィカ (loan) 2005–06 17 4 0 0 6 2 23 6
2006–07 22 10 0 0 11 3 33 13
通算 39 14 0 0 17 5 56 19
パレルモ
2007–08 22 8 0 0 0 0 22 8
2008–09 30 14 1 0 31 14
2009–10 35 19 3 3 38 22
2010–11 21 9 4 1 3 0 28 10
2011–12 28 16 0 0 2 1 30 17
2012–13 29 8 1 2 0 0 30 10
通算 165 74 9 6 5 1 179 81
レッチェ 2013-14 27 14 3 0 30 14
2014-15 17 3 1 2 18 5
通算 44 17 4 2 48 19
ビルキルカラ 2015 11 6
総通算 530 191

タイトル編集

クラブ編集

ユヴェントス

個人編集

関連人物編集

脚注編集

外部リンク編集