フアナ・ラ・ベルトラネーハ

フアナ・ラ・ベルトラネーハJuana "La Beltraneja", 1462年2月21日 - 1530年4月12日)は、カスティーリャエンリケ4世と2番目の王妃フアナポルトガルドゥアルテの娘)の一人娘。

ジョアナ・デ・トラスタマラ
Joana de Trastâmara
ポルトガル王妃
Joana, a Excelente Senhora - The Portuguese Genealogy (Genealogia dos Reis de Portugal).png
在位 1475年5月30日 - 1481年8月28日
別称号 アストゥリアス女公
カスティーリャ女王(王位請求者)

別称 フアナ・ラ・ベルトラネーハ
Juana La Beltraneja
出生 1462年2月21日
Estandarte del Reino de Castilla.svg カスティーリャ王国マドリード
死去 (1530-04-12) 1530年4月12日(68歳没)
Flag Portugal (1521).svg ポルトガル王国リスボン
埋葬 Flag Portugal (1521).svg ポルトガル王国リスボン、サンタ・クララ修道院
結婚 1475年5月30日 プラセンシア
配偶者 ポルトガル王アフォンソ5世
家名 トラスタマラ家
父親 カスティーリャ王エンリケ4世
母親 フアナ・デ・ポルトゥガル
宗教 ローマ・カトリック
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正式にはフアナ・デ・カスティーリャJuana de Castilla)あるいはフアナ・デ・トラスタマラJuana de Trastámara)であるが、フアナ・ラ・ベルトラネーハと呼ばれることの方が圧倒的に多い。ポルトガル名は、ジョアナ・デ・トラスタマラ(Joana de Trastâmara)。

生涯編集

生い立ち編集

マドリードでの出世時から醜聞がフアナについてまわった。エンリケ4世は最初の妃ブランカとは子供をもうけることなく離縁し、2人目の妃フアナにもなかなか子供が産まれず、性的不能者ではないかと囁かれていた。そのため、「王妃フアナはカスティーリャ貴族ベルトラン・ラ・クエバを連れ込んで妊娠したのであり、王女はエンリケ4世の子ではない」と思われていた。揺りかごの中にいた頃から、フアナは「ベルトランの子」という意味で「ラ・ベルトラネーハ」と呼ばれていた。

のち、王妃フアナは司教フォンセカの甥の元へ走り、彼の子供を2人生んだ。このため、エンリケ4世は彼女も離縁したが、正嫡かどうかは不問のままフアナ・ラ・ベルトラネーハを自身の一人娘として後継者に指名し、カスティーリャ貴族に女王として仕えるよう命じた。この決定に異を唱える貴族は多く、エンリケ4世の異母弟でフアナの叔父にあたるアルフォンソ王子、次いでその姉イサベル王女(のちのイサベル1世)が推された。

父の崩御と内戦編集

エンリケ4世が1474年に崩御すると、イサベルを支持する勢力が拡大し(フアナの実父とされるベルトランもイサベル支持者であった)、後ろ盾のないフアナは母方の叔父であるポルトガル王アフォンソ5世の元へ救援を求めた。

アフォンソ5世は1475年にフアナと結婚し、翌1476年にカスティーリャへ侵攻した。

しかし、トーロの戦いでイサベルと夫フェルナンド5世(のちのアラゴンフェルナンド2世)の軍に敗退した。

アフォンソ5世はフランスルイ11世と同盟の交渉をしたが、失敗に終わった。1479年、アフォンソ5世は、イサベルとフェルナンドの王位の正統性を認める和議に調印した。

ほどなくアフォンソ5世とフアナの結婚は、ローマ教皇シクストゥス4世により、近親婚を理由に無効とされた。正統性を否定されたフアナは修道院に送られ、リスボンで逝去した。死ぬまで手紙には La Reina(女王)と署名していたという。

先代:
エンリケ4世
アストゥリアス女公
1462年 - 1464年
次代:
アルフォンソ