フィリップスブルク包囲戦 (1688年)
フィリップスブルク包囲戦(フィリップスブルクほういせん、英語: Siege of Philippsburg)は大同盟戦争中の1688年9月27日から10月29日にかけて行われた、フィリップスブルクの包囲戦。
フィリップスブルク包囲戦 | |
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包囲戦の地図 | |
戦争:大同盟戦争 | |
年月日:1688年9月27日 - 10月29日 | |
場所:シュパイヤー司教領、フィリップスブルク | |
結果:フランスの勝利 | |
交戦勢力 | |
フランス王国 | 神聖ローマ帝国 |
指導者・指揮官 | |
ジャック・アンリ・ド・デュルフォール・ド・デュラス ニコラ・カティナ セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン |
マクシミリアン・ロレンツ・フォン・シュターレンベルク[1] |
戦力 | |
30,000-40,000 | 約2,000 |
損害 | |
戦死587 負傷1,013 |
約600 |
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歴史
編集1688年にケルン選帝侯マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルンが死去すると、その後継者に2人が名乗り上げた。1人はフランス王ルイ14世が、もう1人は神聖ローマ皇帝レオポルト1世が支持した。決定は教皇インノケンティウス11世に委ねられたが、彼はレオポルト1世の推す候補を選んだ[2]。この出来事はアウクスブルク同盟戦争の始まりとなり、フィリップスブルク包囲戦がその最初の軍事行動となった。
経過
編集ルイ14世は息子のグラン・ドーファンにドイツ侵攻を命じ、プファルツ選帝侯領の大半はすぐに降伏したが、フィリップスブルクのみが陥落しなかった。その後、セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの攻城術もありフィリップスブルクは1か月間の包囲を経て降伏した[3]。
脚注
編集- ^ Pujo, Bernard (1991). Albin Michel. ed (フランス語). Vauban. Paris. p. 148. ISBN 222605250X
- ^ Lavisse, Ernest (1908). Robert Laffont. ed (フランス語). Louis XIV : histoire d'un grand règne, 1643-1715. Paris. p. 746. ISBN 2221055020
- ^ Jaques, Tony (2007) (英語). Dictionary of Battles and Sieges: P-Z. USA: Greenwood Publishing Groupisbn=978-0-313-33536-5. p. 794