フォークソング
フォークソング(英: Folk Song , Contemporary Folk music)は、音楽のジャンルの一つ。
フォークソング | |
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様式的起源 |
民俗音楽 民族音楽 |
文化的起源 |
国により異なる 世界各国 |
使用楽器 |
アコースティック・ギター ウッドベース バンジョー フィドル ベース ドラム ピアノ 民俗楽器など |
融合ジャンル | |
フォークロック フォーク・メタル ネオフォーク サイケデリック・フォーク アメリカーナ | |
関連項目 | |
本文参照 |
概要編集
元来は民謡や民俗音楽を指すが[1]、民謡から派生したポピュラー音楽をも含める。ポピュラー音楽には、反戦歌などのプロテストソングも範疇に含まれる[1]。本来のフォークソングの演奏は、アコースティックギターやバンジョーなどを使用し[1]、フォーク・ロックやロックのように電気楽器は使わないのが伝統的な音楽表現である[1]。
歴史編集
フォークソングの中でもモダン・フォークは、20世紀半ば以降に出現した伝統的なフォークミュージックを主に指している。この音楽的動きはアメリカの「フォーク・ミュージック・リバイバル」と呼ばれ、1950年末期から[2]、1960年代に頂点に達した。これは民衆の歌であるフォークをもう一度自分たちの手に取り戻そうとする運動であると同時に、これらのルーツであるブルースやブルーグラス、オールドタイミーなどを再発見する動きでもあった[2]。最も一般的な名称は「フォークミュージック」であるが、英語圏では「民謡」の意味のFolk Musicと区別するために「コンテンポラリー・フォークミュージック」または「フォークリバイバル・ミュージック」と呼称された[3]。1960年代前半にはフォーク・シーンはオリジナル曲が中心になっていった。フォーク・リヴァイヴァル勃興期の演奏形態としては、バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースという楽器編成が多かった。しかし、次第にバンジョーは使われなくなり、アコースティックギターが中心的な楽器となっていった。初期のフォーク・シーンをリードした代表格がウディ・ガスリーとピート・シーガーで[2]、彼らは伝承歌を再構成して歌うことが多かったが[2]、そこには主義主張が盛り込まれていた[2]。ウディのギター・ケースには「この楽器はファシストを殺す(This Machine kills fascists)」と書かれていた[2]。
1960年代に入ると、フォークは商業的な色合いを身にまとい[2]、海外のヒットソングとして日本に上陸してきた[2]。キングストン・トリオ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ、ブラザーズ・フォア、ピーター・ポール&マリーらで[2]、これがカレッジ・フォークブームの火付け役となっていく[2]。キングストン・トリオは1961年1月初来日[4]。1962年4月にはブラザーズ・フォアが[4]、1963年10月にはピート・シーガーが初来日している[4]。
1960年代半ばから発展したフォークロックも、この現象の中で進化していった。最初のフォークリバイバルは大衆音楽に大きな影響を与えた。また20世紀後半の「セカンドフォークリバイバル」は、コンサート、レコーディング、放送を通じてアーティストに新しいジャンルのポピュラーミュージックをもたらした。このリバイバルで最も初期の人物の1人はウディ・ガスリーで、彼は1930年代と1940年代に伝統的な歌を歌い、彼自身も作曲をする。ウディ・ガスリーの音楽はアメリカ議会図書館にも保管されている[5]。
戦前から戦後のかけてウディ・ガスリーやウィーヴァーズ[注 1]、ピート・シーガーらが活動したが、ジョセフ・マッカーシーの赤狩りの影響などによりフォークの勢いは弱まった。その一方で1958年にデビューしたキングストン・トリオは、ポップチャートで民謡「トム・ドゥーリー」をヒットさせた[6]。これを機にこの動きは北米に広がり、ハイウェイメン、ボブ・ディラン[7]、ピーター・ポール&マリー[8]、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ、ブラザーズ・フォア、CSN&Y、フィル・オクス[9]など多くのアーティストが登場した。英国では、民俗復興により、1960年代後半に有名になったドノヴァンなどのシンガーソングライターの世代が台頭してきた。さらにニール・ヤング、バフィ・セント・メリー、ゴードン・ライトフット 、 レナード・コーエン、 ジョニ・ミッチェルらのカナダ出身のアーティストが登場した。
フォーク・シーンで活躍したボブ・ディラン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、バーズなどのミュージシャンは、1964年のビートルズのアメリカ上陸に影響を受け、エレクトリックギター、エレクトリックベース、ドラムスというロックの楽器編成(但し、アコースティックギターを併用する場合も多い)で演奏するようになった。これをフォークロックと呼ぶ。また英国でもリチャード・トンプソン率いるフェアポート・コンヴェンションやディック・ゴーハン、ユワン・マッコール、ペンタングル、スティールアイ・スパンなど、フォークソングを演奏するミュージシャンが活躍した。1960年代半ば、アイルランドのホースリップス、イギリスのフェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパンが 、ロックの伝統的な楽器要素: エレキギター、ベース、ドラムを使用した。1970年代、他のグループはこのロック的アプローチを採用した。イギリスのルネッサンスのようなグループは、プログレッシブ・ロックのグループながら、フォーク・ソング的な曲も発表している。
1970年代以降、アメリカのフォークミュージックはスティーヴ・グッドマン、ジョン・プライン、エミルー・ハリス、ハリー・チェイピンなどの新しいシンガーソングライターによって支えられた。イギリスのルネッサンスはプログレとフォークを融合したロックを演奏した。1980年代初頭のザ・ポーグスと1990年代のアイルランドのザ・コアーズにより、 アルバムチャートに伝統的な曲が取り入れられた。コアーズは1990年から2006年まで活動し、ケルト音楽とポップスを演奏し、2つのジャンルをブレンドした曲を発表した。ブランディ・カーライルとパティ・グリフィンは2019年時点で著名なフォークアーティストである。 1980年代、ワシントンスクエアでフォークミュージック演奏が行われた。スザンヌ・ベガはフォークとプロテスト・フォーク指向の音楽を披露[10]。ミランダ・ストーンやスティーブ・アールなどのアーティストは、オルタナ・カントリーとフォークの精神を受け入れた。1990年代後半、フォークミュージックはイライザ・カーシー、ケイト・ラズビー、ビル・ジョーンズ(女性)などのアーティストを通じて、批評家から注目された。カナダにおいて1990年代から2000年代にかけて最も売れたフォークグループは、ニューファンドランド出身のケルト人でロックテイストなグレートビッグシーで、カナダで4枚のアルバムをプラチナヒットさせている。
なお、ネオフォーク (Neofolk) というジャンル名は、欧米のスワンズやコイルらのバンドの音楽を指している。2007年に結成されたマムフォード・アンド・サンズなどのフォーク・ロックおよびインディー・フォーク・バンドは、2010年にブレイクし、シェナンドーランは2011年に1960年代の現代アメリカのフォークミュージックを現代のリスナーに届けるために結成されたバンドである[11]。
フィルク音楽もスタイルと文化の面でフォーク音楽と見なすことができる。SFのコミュニティはサイエンスフィクションのファンダムであるが、これは珍しく完全に現代的なもので[12] 1980年代に始まったネオフォークはヨーロッパの伝統的な民俗音楽と歴史、哲学的歌詞、伝統的な歌を融合した。主にヨーロッパであるが、他の地域にも影響を与えた。民俗音楽はドイツ、イギリス、スカンジナビア諸国、スラブ諸国でがメジャーで、デヴィッド・スミス(アカ・ダム・ザ・バード)やダンハイム、アルコナなどのバンドがあり、こうしたほとんどのバンドは、他の音楽ジャンルとフォークジャンルを結び付けている [13]。1980年代にフォークパンクは、フォークミュージックとパンクロックを融合し、ロンドンを拠点とするアイルランドのバンドであるザ・ポーグスによって開拓された。民俗音楽やプロテスト音楽はトピックに関する話題を対象とした。その他のサブジャンルにはサイケデリック・フォーク、アメリカーナなどのジャンルがある。
フランスではライオネル・ロシュマン(Lionel Rocheman)が組織したアメリカンセンターでの最初の音楽祭、フーテナニーによって1964年ごろからパリでフォーク運動が始まった。パリに到着した若いイギリスのミュージシャン、ジョン・ライトやキャサリン・ペリエらは、最初のアメリカン・センターでフォーキーと呼ばれる最初の会合を組織化し、のちにル・ブルドンのフォーククラブになった。その後オールド・グラスやリヨンのシャンテレルなど、他のクラブも登場した。60年代末にはフォーク運動は、パリ五月革命と同様の政治的、社会的運動となる。参加と表現の民主化、または文化的イベントの自己管理の中からこの動きが発生した。
1960年代、70年代のフランスのフォーク音楽家としては、グレアム・オールライト[14]やトライ・ヤン・Tri Yannやアラン・スティベルらがあげられる。彼らの登場は民俗復活と呼ばれ、他のヨーロッパ諸国でも同様に伝統的な歌のリバイバルや、伝統的な楽器( バイオリン、バグパイプ、ハーディガーディなど)を使用する伝統的なスタイルの音楽再興の象徴となった。また2000年代にはコクーンが登場し、15万枚のヒットを記録した[15]。
1980年代には、ブルトン音楽の強力な発展があった。フォークミュージックという用語は、 マリー・クルセル(Marie Courcelle)やシスコ・ヘルツハフト(Cisco Herzhaft)のアルバムなど、伝統的なインスピレーションの音楽を指すようになる。民俗舞踏会およびフェスト=ノズなどがフランスおよびその他の場所で定期的に開催され、彼らは夕方または午後から祝祭のような暖かい雰囲気の中で夜の終わりまで踊りに招待される。音楽的な交配反応は1950年代と1960年代のパリでのラテン音楽とアンデス音楽にたいして並外れた実力をもつユーグ・オーフレイHugues Aufrayらの活躍で、1960年代にフランスにもたらされた(ラテンクォーターやL'Escaleキャバレー、ロス・インカ Los Incas、Los Guaranis、Los Chacos、Together Achalay、ロス・カルチャキス Los Calchakis 、ロスマチュカンボス Los Machucambosなどのグループ)。
オーフレイは、北米のアメリカ人以外のフォークロアに向けた解釈を示し、彼のレパートリーの多くにラテン、アンデス、南アメリカの伝統音楽の影響が見られる(ボリビアのパロマヒルパステイをテーマにした「最後のライラックの水仙」など)。また、ロス・ガルセロスの「ングリッシュ・ナイチンゲール」は、ベネズエラのホローポでありスペイン語で歌われた有名な詩に由来する。鷹は「エル・ガビラン」とベネズエラのパサホを直接訳したものである。
ほかに、ギルス・ドリュー(Gilles Dreu)が1968年に発表した「ウエラ・パンペーナ」(時に「ア・ラ・ウエラ」と題される。パンパの伝統的なアルゼンチンのジャンル)は、アルゼンチンのアリエル・ラミレスによる作曲である。彼はミサ・ラ・ナビダ・ヌエストラ(messe La Navidad Nuestra)や、ミサ・クリオージャ(Misa Criolla)の有名な作曲家であり、現代音楽と伝統音楽の交配によって、後のミュージシャンなどの聴衆に強い影響を与えている。音楽ジャンルとさまざまな楽器(電化されたものを含む)の混合、あらゆる起源の国際的なアーティストとのコラボレーションなどの根底には、1960年代の初めから父親のジョルジュ(ヨルグ)コシュヴェロウ(Georges Cochevelou)によって始められた、ケルトのハープ音楽の復元に関する資料探索がある。
1980年代初期から、 インダストリアルシーンで少数のアーティストが新しいヨーロッパのフォークミュージックを作成しようとした。ネオフォークと呼ばれるこの流れは、アングロサクソン民族運動の影響を強く受けているが、異教、ロマン主義、オカルトなどのテーマは、ヨーロッパ文化と歴史への興味を示している。1990年代、メタルバンドは楽器、メロディ、伝統的なテキストを使用して音楽をミックスしはじめる。この流れはフォークメタルまたはメタルフォークと呼ばれる。
21世紀に入ると、フォーク音楽という用語は、レパートリーが伝統舞踊に向けられた伝統音楽または伝統的なインスピレーションを指している。
主なフォークソング編集
特に著名なアーティスト編集
- ボブ・ディラン[7]
- ニール・ヤング
- ウディ・ガスリー
- ピート・シーガー
- ビクトルハラ
- ジョニ・ミッチェル
- ディック・ゴーハン
- ユアン・マッコール
- ニック・ジョーンズ
- ゴードン・ライトフット
- レッドベリー
- リッチー・ヘヴンス
- ランブリン・ジャック・エリオット
- キングストン・トリオ
- ブラザーズ・フォア
- マーティン・カーシー
- リチャード・トンプソン
- ジョーン・バエズ
- フィル・オクス[9]
- ニュー・クリスティ・ミンストレルズ
- フェアポート・コンヴェンション
- メラニー
- モダン・フォーク・カルテット
- ジュディ・コリンズ
- アーロ・ガスリー
- ウィーヴァーズ
- バック・オウエンス
- ペンタングル
- バフィー・セント・メリー
- イービー・サンズ
- サンディ・デニー
- イライザ・カーシー
日本のフォーク編集
日本のフォークは、添田唖蝉坊らの明治時代から存在した演歌(=演説歌の略:現在の演歌と呼ばれるものとは別物)が、戦後のアメリカンフォークの影響(ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーらの影響下にあるケースが多い)を受け、‘‘日本のフォーク’’として独自に発展していることもあり、弾き語りスタイルからバンドスタイルまで幅広く、指し示す範囲は広い。日本におけるフォークの呼称には様々なものがある(フォークシンガー参照)。
日本の流行歌史を辿っていくと、いつの時代にも洋楽を新たな形で取り組むことで、新しい表現が生まれてきたという面があり[18]、フォークソングも同様である[18]。「英語で"フォークソング"はもともと民謡の意」と説明されることが多い[19][20]。日本で「フォーク」といえば、1970年代前半にブームとなった生ギターを中心としたアコースティックな音楽を指す[19]。当時"フォーク歌手"と呼ばれ、自作の歌で一世を風靡した吉田拓郎や井上陽水は、その後の音楽界に大きな影響を与えた[19]。1960年代前半には知る人ぞ知るある種のサブカルチャー的な存在だったフォークソングが[20]、1970年代にはレコードの売上げを始めとして日本のポピュラー音楽史上で避けて通ることの出来ないほど、メインカルチャーにまで登りつめたことは特筆すべきトピックといえる[20]。日本のフォークソングの起点をどこに定めるかは難しい[21]。日本のフォークソングの源流は、1950年代に起こった日本のうたごえ運動に、1959年以降に商業的な色合いと様式を身にまとい[22]、海外のヒットソングとして日本に上陸してきたキングストン・トリオ[23]、ブラザーズ・フォア、ピーター・ポール&マリーらを合体したものが「日本版フォークソングの誕生」という見方が多い[24]。ただフォークソングという言葉がいつ日本に入ってきたかは、他の音楽用語と同様によく分かっていない[25]。小室等は「1950年代の終わり中学のとき、キングストン・トリオの『トム・ドゥリー』を聞いた。それはフォークソングとして耳にしたのではなく、デル・シャノンやコニー・フランシスらのアメリカのポップスのチャートに上がってきたヒット曲の1つとして聞いた」と証言している[26]。1959年以降に当時のラジオから日本に入ってきたそれらのカントリー&ウエスタンを学生たちがコピーしていたら、「アコースティックギターの音は似てるんだけど何か違う、これはいったい何だ?」と気付いた者がいて[27]、当時の先端をいっていた学生たちが、アメリカの音楽雑誌を取り寄せて「どうやらこれは"フォークソング"というらしい」と気付いたというのが、日本で「フォークソング」という言葉が入ってきた始まりという説もある[27]。それでフォークソングはかっこいいとなり、日本で多くのフォークソンググループが出来たといわれる[27]。1963年9月27日付の『読売新聞』夕刊に「最近のアメリカ軽音楽界 完全に民謡ブーム 大学生たちが熱烈な推進」という見出しで「民謡」と「フォークソング」を等号で結び、ジョーン・バエズら著名な歌手を紹介している[20]。この記事では日本の民謡歌手の代表として三橋美智也にコメントを求めるなど、フォークソングの概念を伝統的なフォークソング(民謡)と混同しており[20]、少なくとも日本でこの時点ではアメリカのフォークリバイバル後の所謂モダンフォークについては広まっていなかったと考えられる[20]。翌1964年になると民謡ではなく、フォークソングという表記が一般化し、1965年には完全に定着している[20]。ボブ・ディランのレコードデビューは1962年3月で[4]、ボブ・ディランのシングル盤が日本で発売されたのは、1965年の「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」(邦題「ホームシック・ブルース」)が最初で[25]、発売元の日本コロムビアはボブ・ディランに「ウエスタン調ロックにつづる哀愁」とキャッチコピーを付けた[25]。ウエスタンという言葉が使われているのは、この前に日本でカントリー&ウエスタン(C&W)のブームがあったからだった[25]。『朝日新聞』1966年4月24日付に「フォークソング大はやり 若者の生活に密着」という見出しの記事が載り[28]、「最近、フォークソングが、若者を中心とする歌好きの人々の間ですごくはやっている。ひところのエレキブームのようなハデな騒がしさはないが、若い人たちによってその魅力はなかなか大きいようだ。フォークソングが日本に入って来たのは3、4年前。アメリカでジャズとは別に、歌手と聴衆が一緒になって歌う"新民謡"が生まれ、これがフォークソングと呼ばれた。最近は反戦歌など社会性を持ったものが人気を呼んでいる」と書かれている[28]。また『毎日新聞』1966年9月8日付の「寒流」というコラムに「ギター、フォークソングの孤独なブーム」という見出しの記事が載り[29]、「クラシックギターが売れている。業界の話によると、全国で50のメーカーが月産10万台を作っているそうだ(中略)こんなに売れ、演奏者も多いのなら、エレキ騒動やピアノ教室のように社会的な話題になってもよさそうだが、いっこうにそれらしいことを聞かない。ブームが潜行してる。同じようなブームにフォークソングがある。モダン・フォークと呼ばれるもので、素朴なメロディーに乗せて反戦や社会批判を歌ったものだ。アメリカの大学生の間から流行して、日本でも大学生を中心に百組ほどのグループがある。一説によるとフォーク人口は百万人。それなのにこのブームは表面化しない」などと書かれており[29]、1966年9月時点ではフォークソングムーブメントはそこまで大きくなっていないことが分かる。
日本のフォークソングにはアメリカの伝統的な音楽の継承を目的とするRoots revival的意味はあまり含まれない[2]。あまりというのは日本のフォークソングを先導した労音には、アメリカのフォークソングの思想を受け容れたものだったが[27]、日本の若者にとってはファッションだったからである[27]。1960年代初頭にアメリカのフォークソングブームに飛びついたのが、日本の富裕層の若者、特に大学生だった[30][31][32][33]。それは同じくアメリカからの輸入品であるアイビールックと連鎖していた[25]。芝生の植えられたキャンパスで、アイビーファッションに身を包み、ギターを片手にアメリカのモダンフォーク[注 2]のコピーを歌う[35][31][36]。ギター1本あればみんなと一緒に歌うことが出来るのもフォークソングの魅力だった[21]。それまでに日本に入って来た洋楽は、演じる側と聴く側に境界線があったが[37]、フォークソングはその境界線を取り払った音楽だった[37]。それまでの既成の音楽と著しく違っていたのは、歌い手自ら作詞家・作曲家になれたことで[37]、なぎら健壱は「シンガーソングライターも実質的にここを始まりとしている」と論じている[37]。これが60年代の最新トレンドであり、これらはキャンパス・フォーク、カレッジ・フォークなどと呼ばれるようになった[38]。また、なぎらは「フォーク・シーンを支える絶対数の多さから、フォークがファッション、精神的なものも含めて若者文化をリードした」と論じている[37]。特に盛んだったのが東京で[39]、日本で最初のフォークソンググループとも言われる立教大学の大沢保が作った「セント・ポール・フォーク・シンガーズ」が[23][40]、1963年12月24日に[41]、日本で初めてのフーテナニー[注 3]「フーテナニー'63」を他2組と銀座ガスホールで開催した[42]。この催しが一つのきっかけとなって、それまでバラバラだったフォークソング運動に横の連帯が生まれた[42]。1964年暮れと1965年6月に「ジュニア・ジャンボリー」が成功し、カレッジフォークのパターンが決まった[41]。ここから各所で「〇〇フーテナニー」「〇〇ジャンボリー」「〇〇フェスティバル」など呼ばれるコンサートが開かれた[43]。1965年10月にはキングストン・トリオらアメリカカレッジのキャンパスシンガーたちが、日劇で開かれた「第1回フォークソング・フェスティバル」に総出で出演した[44]。マイク真木の在籍した「モダン・フォーク・カルテット」や石川鷹彦が在籍していた「フォーク・ウィンズ」、「ハミング・バーズ」など、各大学にカレッジ・フォークのグループがあり[31][32][45]、森山良子や細野晴臣もカレッジ・フォーク出身者で[36][46]、細野も「オックス・ドライヴァーズ」というグループを率いてキングストン・トリオなどを歌っていた[25]。国産初の本格的なフォーク・ギターが発売されたのは1966年(ヤマハFG180、18,000円)[47]。同年にはカレッジ・フォーク出身のマイク眞木「バラが咲いた」や、ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」が同名ドラマの主題歌として大ヒットし、日本でフォークブームが起きた[31][48]。これらは職業作家の作品で自作自演ではなかったが[49]、1968年頃からカレッジ・フォークの中で日本語オリジナルのフォークをやる者が出てきた[50]。フォー・セインツやザ・リガニーズ、モダン・フォーク・フェローズ、キャッスル&ゲイツなどだが、ただ大ヒットシングルを出すまでには至らなかった[25]。こうした関東のカレッジフォークはアメリカの社会派という輸入物は抜きにしたもので[44]、民衆を鼓舞し前進させるものではなかった[44]。
同時期の1960年代後半、ロックバンド風のサウンドやスタイルがグループ・サウンズ (GS) として発展し、フォークソングブームは一時GSブームの後ろに隠れた[51]。GSブームはフォークソングブームとは別の流れで[52][53]、1957年から1959年頃のロカビリーブーム~1960年以降のベンチャーズ~ビートルズ来日に刺激されたエレキ・ブームの流れにあるものである[54][53]。但しこの時期に音楽を志す若者が、最初の取っ掛かりとして、フォークギターか、エレキギターのどちらかを持ったという点では、日本のポップスの歴史の中では重要な季節であったといえる[55]。また当時のフォークファンに大きな影響を与えたボブ・ディランが、1965年にフォークギターからエレキギターに持ち替え、フォークファンから非難された事件もショックな出来事で[56]、フォークがロック化するのは世界的な傾向でもあった[57]。1969年になると下降線をたどるGSブームと入れ替わるように世の中がフォーク一色になった[55]。東京と同様にフォークソングが盛んだったのは関西だった[25][31]。前述のように日本のフォークの源流にうたごえ運動があり[58]、高石事務所~音楽舎~URCを立ち上げ[2]、関西フォークを主導した秦政明も、かつては積極的にうたごえ運動に関わった人で[2]、全日本フォークジャンボリーを企画運営したのもうたごえ運動と関係する労音スタッフによるもので[59][60]、初期の日本のフォークが、政治とも微妙な関係を持っていたのには、このような背景があった[2]。東京育ちのお坊ちゃまが歌うカレッジ・フォークへの反撥心から関西フォークは生まれた[2]。直接の切っ掛けとしては1967年1月にジョーン・バエズが来日し[44]、大阪の府学連(大阪府学生自治会連合)の平和集会でベトナム反戦への熱い思いを訴えたことともいわれる[44]。コピーの多かった関東に比べて関西では1967年からフォークソングの特徴でもある集会スタイルのコンサート「フォークキャンプ」をいち早く開催した[25]。これに参加した京都の学生のグループ・ザ・フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」を自主製作し[61][62]、これがラジオ関西の深夜放送で取り上げられると大きな反響を呼び[61][62][63]、これに目を付けたパシフィック音楽出版が原盤権を獲得し[62]、ニッポン放送を経て[62]、東芝音楽工業から1967年暮れにシングルリリースされ[32][61][62]、楽曲のユニークさから社会現象となり、280万枚を売り上げるメガヒットになった[61][62][64][65]。これはフォークソングの自作自演曲としては初めての大ヒット曲といえるものだが[25][62]、加工が施された内容からカテゴリーが難しく[62][66][67]、早回し録音がウケたコミックソングに入れられることも多いが[25]、実験的な手法は後期ビートルズの影響を指摘されることもあり[62]、この曲を日本語ロックの先駆と評価されることもある[25]。また70年代に吉田拓郎や井上陽水、かぐや姫らが花開けたのもフォークルの活躍があったからこそという評価もある[62]。
「帰って来たヨッパライ」の大ヒットにより注目されたのが関西フォークだった[68]。関西フォークは東京のカレッジフォークが飛び火したもので[69]、当初は関西にもカレッジフォークのグループはいた[70]。しかし今日では東京のカレッジフォークとは大きく異なり、オリジナルの反戦フォーク、プロテスト・フォーク、アングラ・フォークを主体としたものとして語られる[71]。きれいごとのカレッジフォークを打破するが如く、そのカウンターカルチャーとして出現した[72]。プロテストソングという言葉は、日本語では抗議の歌と訳されることがあるが[73]、思想的、政治的な信条を歌に託して訴えるもので[73]、勿論これもアメリカからの輸入で、60年代のアメリカでの公民権運動の際に「勝利を我等に」がそのアンセムとなり、ジョーン・バエズやピート・シーガー、ボブ・ディランらによって広く歌われた[73]。なぜ関西フォークがプロテスト・フォークだったかと言えば、そういう時代だったからである[65][74]。当時は中学生も政治運動をやる時代[75]。東大安田講堂事件や、パリ五月危機、アメリカはベトナム戦争の渦中で、日本を含めた全世界で戦争反対のデモや集会が行われた[76][77]。みんなで力を合わせれば国が動くんじゃないかとみんなが考えた[74]。日本でこれらは60年代後半の70年安保、新宿フォークゲリラ、ヒッピー文化などと結びついて[44]、アジテーションの手段として重要な役割を果たした[31][33][78][79][80][81]。「アジ」の代わりにギターを持ってがなる、これが当時のフォークソングだった[82]。『読売新聞』は1969年11月4日付のコラム「あんぐる」で「昨今の日本の日本のフォーク・ブームは音楽的な実りは何一つない。高石友也らのフォーク・ゲリラの自称フォークは、なるほど、体制に反抗しようとする若者らしい怒りがその歌詞には見られても、メロディーは流行歌と大同小異。森山良子らのいわゆるフォークに至っては、歌謡曲と何らかわるところがない。若者たちの既存体制に対する不満の爆発がザ・ビートルズを頂点とするグループ・サウンズを生んだ。しかしいったんそれが日本に輸入されると『月の沙漠』的発想にうずもれて『ブルー・シャトウ』になってしまったように爆発的エネルギーは去勢されてしまった。フォークも同様で音楽的にも歌詞の内容も中学二、三年程度のものしか感じられない」などと批判した[53]。プロテストソングを最初に日本でやったのは東京出身の高田渡であったが[73]、1967年に高石友也と秦政明が設立した『高石音楽事務所』に高田や岡林信康、五つの赤い風船、中川五郎、遠藤賢司、ジャックスが所属し、大きなムーブメントになった[31][63][83][84][85]。高石友也や高田渡、遠藤賢司らは関西人ではないが[86]、今日では一括して関西フォークと括られることが多い[86]。1969年に設立された会員制の通信販売のレコード会社・音楽舎→アングラ・レコード・クラブ(URC)は関西フォークの普及に大きく貢献した[31][87]。楽曲では岡林信康の「友よ」「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」などが有名である[73][65]。また1960年代後半から1970年代初頭にかけてはもとまろ、赤い鳥、ピンク・ピクルス、ウィッシュ、五つの赤い風船らも話題曲を発表した。1966年8月1日、ニッポン放送「バイタリス・フォーク・ビレッジ」放送開始[4]。
GSが衰退した後、1970年代初頭の吉田拓郎の登場により[63][31][88][89][90]、それまで反体制色の濃かったフォーク・ソングはポップス化し[31][63][91][77]、表舞台に引き上げられた[31][65][88][92][93]。広島フォーク村出身の吉田拓郎は[94]、関西フォークとは距離を置き[79][95][96]、政治と結びついていた連帯の歌を排除し[31][97]、徹底的な個人主義をフォークソングに持ち込んだ[31][98][99]。諸説あるにせよ1971年の第3回全日本フォークジャンボリーに於ける伝説のステージは[33][79][96][100][101]、吉田拓郎をそれまでの「関西フォーク」中心の流れに対峙する存在として認知させたのは歴史的事実である[60][79][102][96]。吉田拓郎の成功を見て、各レコード会社は、フォークに力を入れた[89][103]。60年代とうってかわって70年代は脱政治・個人の時代となり[104]、吉田拓郎や井上陽水、中島みゆきらは政治性の薄いフォークソングを発売し[31][83][105]、これがニュー・ミュージックという新ジャンルへと変質した[83][106]。
小川真一は「時代の動きに機敏に反応するのもフォークソングであるが、たぶん最初はそれほど大きなものではなかった。時代の代弁者ではあっても、大きく人を動かすものではなかったように思う。それが変わり始めたのが、1971年の第3回全日本フォークジャンボリーであり、1975年の吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋になるだろう。今では大規模な野外コンサートや、ドーム球場での連続ライブなどもまるで珍しくないが、全く基盤のないところからハンドメイドで作り上げていった、それが70年代であったように思う。またレコード売り上げという意味に於いては、吉田拓郎やかぐや姫のシングルが異例の大ヒットを記録し、井上陽水のアルバム『氷の世界』が、日本レコード史上初めてアルバム100万枚を超えるセールスを打ち立て、フォークが売れる時代が始まった。ヤマハが主催したポプコンや、全国各地で開催されたフォークのコンテストによって、フォークソングの裾野はさらに広がり、それは新しい若者の音楽=ニューミュージックへと進化を遂げた。ニューミュージック、J-POP、フォーキー・ミュージックと、指し示す言葉は色々と変化し続けているが、フォークソングのスピリットは今も生き続ける」などと論じている[80][107]。
日本の主なアーティスト編集
世界と日本のフォーク年表編集
- 1960年代 ‐ ボブ・ディランの「風に吹かれて」がヒット。
- 1963年 ‐ ピート・シーガーが来日。
- 1964年 ‐ 「原宿フーテナニー」開催。/ 「銀座フーテナニー」開催。
- 1965年 ‐ 日劇フォークソングフェスティバル開催。
- 1966年 ‐ ビートルズが初来日。/ マイク眞木の「バラが咲いた」がヒット。/ 五つの赤い風船が活動開始。/ フジテレビ『フォークソング合戦』が放送開始。/ 日劇フォークソングフェスティバルにて高石友也がプロデビュー。
- 1967年 ‐ 高石友也が大阪で初リサイタル。東京日比谷野外音楽堂で、遠藤賢司・小室等・フォーク・クルセダーズその他により「ニューポート・フェスティバル・イン・ジャパン」開催。/ フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」がヒット。/ 森山良子が「この広い野原いっぱい」でデビュー。
- 1968年 ‐ フォーク・クルセダーズが「イムジン河」発売自粛。/ 岡林信康が「くそくらえ節」「がいこつの唄」で登場、「山谷ブルース」発売禁止。/ 高田渡が「自衛隊に入ろう」発表。/ フォーク・クルセダーズが解散。
- 1969年 ‐ はしだのりひことシューベルツの「風」、ビリーバンバンの「白いブランコ」がヒット。/ 東京新宿駅西口に現れたフォークゲリラに機動隊が動員され、ガス弾で弾圧される。/ アンドレ・カンドレ(井上陽水)がデビュー。/ 高石友也がさよならコンサート。
- 1970年 ‐ 「インターナショナルフォークコンサート」開催。前夜祭に遠藤賢司、あがた森魚その他出演。/ 吉田拓郎がデビュー。/ 第2回全日本フォークジャンボリー開催。
- 1971年 ‐ はしだのりひことクライマックスの「花嫁」がヒット。/ 第3回全日本フォークジャンボリー開催。/ 東京世界歌謡祭で上条恒彦が「出発の歌」グランプリ受賞。/ 北山修・加藤和彦による「あの素晴しい愛をもう一度」がヒット。/ 赤い鳥が「竹田の子守唄」「翼をください」を発表。「竹田の子守唄」は放送禁止歌」になった。
- 1972年 ‐ ニール・ヤングの「孤独の旅路」が大ヒット。
- 1972年 ‐ 吉田拓郎の「結婚しようよ」[108]、8月、「旅の宿」がヒット[109]。井上陽水の「傘がない」、古井戸の「さなえちゃん」、もとまろの「サルビアの花」、五輪真弓の「少女」、ウィッシュの「ご案内」、ピンクピクルスの「一人の道」、猫の「雪」「地下鉄に乗って」などが発表され話題になった。ビリーバンバンの「さよならをするために」がヒット。
- 1973年 ‐ ガロ(GARO)の「学生街の喫茶店」がヒット[110]。/かぐや姫の「神田川」がヒット。/グレープがデビュー。/なぎらけんいち(後のなぎら健壱)の「悲惨な戦い」が自主規制。
- 1974年 ‐ 山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」がヒット。/ 吉田拓郎とかまやつひろしが連名で「シンシア」を発表。/
- 1975年 ‐ マイ・ペースの東京がヒット。小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげる、フォーライフ・レコード設立。/ かぐや姫とよしだたくろうが中心となって「つま恋コンサート」開催。約5万人の観客を動員。/1973年12月に発売された井上陽水のアルバム『氷の世界』が8月に日本レコード史上初めてアルバム100万枚を売り上げる。/風 が「22才の別れ」でデビュー。バンバンの「『いちご白書』をもう一度」、シグナルの「20歳のめぐり逢い」がヒット。
- 1977年 ‐ 日暮しの「いにしえ」がヒットした。
- 1983年 ‐ 村下孝蔵の「初恋」がヒット。
- 1990年 ‐ たまの「さよなら人類」がヒットした。
- 2001年 ‐ 夏川りみが森山良子とBEGINによる「涙そうそう」をカバー。
- 2002年 ‐ 「涙そうそう」がヒットし、第44回日本レコード大賞では夏川りみが金賞、森山良子が作詞賞を受賞。
- 2007年 ‐ 日本の歌百選に「今日の日はさようなら」「翼をください」「涙そうそう」が選ばれる。
脚注編集
注釈編集
出典編集
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