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フランク・ウィリアムズSir Frank WilliamsKBE1942年4月16日 - )は、イングランド出身の実業家。モータースポーツ企業「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」の創設者。

Sir
Frank Williams
フランク・ウィリアムズ
Frank Williams Formula One.jpg
ウィリアムズ本社にて(2011年)
生誕 Francis Owen Garbett Williams
(1942-04-16) 1942年4月16日(77歳)
イングランドの旗 イングランド
タイン・アンド・ウィアサウス・シールズ
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 実業家
団体 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ(1966年 - 1977年)
ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(1977年 - 現在)
著名な実績 F1選手権 115勝
F1コンストラクターズタイトル 9回
活動拠点 イングランドの旗 オックスフォードシャー州
肩書き ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング代表
任期 1977年 - 現在
配偶者 ヴァージニア・ウィリアムズ
子供 ジョナサン・ウィリアムズ
クレア・ウィリアムズ
栄誉 大英帝国勲章 KBE
レジオンドヌール勲章
公式サイト williamsf1.com

1969年にプライベートチームを率いてF1に参戦し、1977年ウィリアムズF1チームを設立。事故による肉体的ハンデがありながらも一線で指揮を執り、同チームを名門に育て上げた。ニックネームは「車椅子の闘将」。

略歴編集

フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代(1966年 - 1977年)編集

フランク・ウィリアムズは、イングランドタイン・アンド・ウィア州にてイギリス空軍の爆撃機パイロットであった父と、特殊学級教諭の母のもとで生まれた。彼は幼少期の大部分をスコットランドの寄宿学校で過ごした。1950年代の終わりごろ、ある友人が彼にジャガーXK150Sに乗車する機会を与え、ウィリアムズはたちまちそのとりこになった。

ドライバーおよびメカニックとして短いキャリアを経た後(教会前でストリーキングをしたのはこの頃)、食品雑貨の行商によって蓄えた資金によって、1966年に「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」を設立した。F2およびF3において数年間にわたり、ピアス・カレッジ、リチャード・バートン、生沢徹、トニー・トリマーを出走させた。また、ウィリアムズは中古のブラバムF1シャシーを購入してF1に数戦回出走し、カレッジが2位に2回入賞した。

1970年、ウィリアムズはアレクサンダー・デ・トマソとの間に短期間のパートナーシップを結んだが、オランダグランプリでカレッジが死亡すると、その年の終わりにはデ・トマソとの関係は終わりを告げた。1971年には、マーチから購入したシャシーでアンリ・ペスカロロを出走させた。1972年にはウィリアムズチームとして初めてのF1シャシーであるポリトイ・FX3がレン・ベイリーの手により設計されたが、 ブランズ・ハッチで行われたイギリスGPでペスカロロはクラッシュ、リタイアしてしまう。そしてこれ以降は再びマーチのシャシーを使うことになる。

 
ドライバー カルロス・ロイテマンらと会話中のフランク(右)(1981年オランダGP)

資金が不足したことにより、ウィリアムズはマールボロおよびイソ(イタリアの自動車会社)に対してスポンサー契約を求めた。彼らは申し出を承諾したものの、契約金が予定通りに支払われなかったため、1976年にウィリアムズは石油王ウォルター・ウルフを共同出資者に受け入れた。チームは活動を続けたものの、それはもはやウィリアムズのものではなく、1977年に長年の従業員の1人であったパトリック・ヘッドとともにチームを去った。

ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング時代(1977年 - 現在)編集

離脱後、英国オックスフォードシャー州ディドコットにあった空の絨毯倉庫を買い取り、パトリック・ヘッドと共同で「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を設立。新たにF1参戦を再開し、1979年に初勝利。翌1980年には初のコンストラクターズ・タイトルを獲得し、翌年も連覇を果たした。

1986年3月、ウィリアムズはフランスのポール・リカール・サーキットからレンタカーでニース空港へと走行中、コントロールを失って車は横転、ウィリアムズは天井にぶつかって脊椎骨折の重傷を負い、下半身麻痺となり車椅子での生活を余儀なくされた(その時同乗していたピーター・ウインザーは軽傷を負うにとどまった)。

1987年イギリス女王エリザベス2世はウィリアムズにCBE(大英帝国勲章の第3階位)を叙勲し、さらに1999年にはKBE(同第2階位)に序した。彼はまた、フランス人以外としては数少ないレジオンドヌール勲章の受勲者でもある(階位はシュバリエ)が、これはルノーとの協力に対する功績を認められたものである。

1994年5月、ウィリアムズ・チームから出走していたアイルトン・セナイモラで事故死したことを受けて、ウィリアムズはイタリアの法律によって殺人罪で起訴された。しかし数年後に、事故によってこのような起訴が行われるならば、イタリア国内ではレースを行わないとの発言を他の参加チームが行なったこともあり無罪となった。

2012年4月1日、ウィリアムズチームの取締役から退く。ただし引き続きチーム代表は務める[1]。翌2013年3月に娘のクレアを副代表へ昇格させた[2]

2016年9月、イタリアGPが行われたモンツァで肺炎にかかり入院、クレアが付き添いで看病に当たった[3]。ゆっくりとした回復だったが、同年10月31日に退院している[4]

家族編集

妻、ヴァージニア(通称ジニー)は2年間に及ぶ癌との闘病生活で、2013年3月7日に死去している。66歳没[5]

息子ジョナサンは、GP2iスポーツ・インターナショナルで活動。娘クレアは、ウィリアムズF1にてマーケティング及びコミュニュケーション・ディレクターを務め、2013年より同チームの副代表に就任した。

脚注編集

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  1. ^ ウィリアムズ卿、取締役退任へ(ESPN F1 F1ニュース、速報 2012年3月2日)
  2. ^ クレア・ウィリアムズ、ウィリアムズの副チーム代表に就任(F1-Gate.com 2013年3月27日)
  3. ^ フランク・ウィリアムズ、肺炎で長期入院(F1-Gate.com 2016年10月29日)
  4. ^ フランク・ウィリアムズが退院(F1-Gate.com 2016年11月3日)
  5. ^ Lady Virginia Williams Passes Away(ウィリアムズF1公式サイト(英文) 2013年3月8日)

外部リンク編集