フランシスコ・アルバレス=カスコス

スペインの政治家

フランシスコ・アルバレス=カスコス・フェルナンデススペイン語: Francisco Álvarez–Cascos Fernández, 1947年10月1日 - )は、スペインマドリード出身の政治家。2009年まで全国政党である国民党(PP)に所属し、2011年からアストゥリアス州の地域政党であるフォロ・アストゥリアス(FAC)に所属している。

フランシスコ・アルバレス=カスコス
スペイン語: Francisco Álvarez-Cascos
生年月日 (1947-10-01) 1947年10月1日(76歳)
出生地 スペインの旗 スペインマドリード
出身校 マドリード・コンプルテンセ大学
所属政党 国民党(1976-2009)
フォロ・アストゥリアス(2011-)

スペインの旗 第一副首相
在任期間 1996年5月6日 - 2000年4月27日

スペインの旗 首相府大臣
在任期間 1996年5月6日 - 2000年4月27日

スペインの旗 公共事業大臣
在任期間 2000年4月27日 - 2004年4月28日

在任期間 2011年7月15日 - 2012年5月26日
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1989年から1999年まで国民党の事務総長を務めた。1996年から2000年まで国民党のホセ・マリア・アスナール政権で第一副首相と首相府大臣を務め、2000年から2004年まで公共事業大臣を務めた。2011年から2012年までアストゥリアス州首相を務めた。

経歴 編集

国民党時代(-2009) 編集

1947年にマドリードに生まれたが、両親はアストゥリアス地方出身であり、1954年には一家でアストゥリアス地方のヒホンに転居した。マドリード・コンプルテンセ大学で土木工学を学び、卒業後には何年か建築事務所や建築家協会に勤務した後、政治の世界に入った。1976年には右派のレフォルマ・デモクラティカ英語版の党員となったが、この政党は同じく右派の国民同盟(AP)と合併している。1979年から1986年にはヒホンの評議会のスポークスパーソンだった。

1982年には国民同盟が中道右派の国民党(PP)となると、1982年にはスペイン上院議員に選出された。1986年にはスペイン下院議員に転身し、1989年、1993年、1996年、2000年に下院議員に再選された[1]。1989年の第9回国民党全国大会では事務総長に選出され、1990年、1993年、1996年にも再選されて1999年まで事務総長を務めた。

1996年の1996年スペイン議会総選挙で国民党がスペイン社会労働党(PSOE)から政権を奪うと、1996年から2000年までホセ・マリア・アスナール政権(第1期)で第一副首相と首相府大臣を務めた。2000年の2000年スペイン議会総選挙では国民党が政権を維持し、2000年から2004年までアスナール政権(第2期)で公共事業大臣を務めた。2004年には下院議員の座を辞任し、また2004年スペイン議会総選挙でも社会労働党に政権を奪われた。

2009年、ガビーノ・デ・ロレンソ英語版が代表を務める国民党のアストゥリアス州支部は、アルバレス=カスコスをアストゥリアス州首相候補とすることを拒否した。国民党の事務総長であるマリアーノ・ラホイ・ブレイはアルバレス=カスコスに対する支援を断ったため、アルバレス=カスコスは国民党を離党した。

フォロ・アストゥリアス時代(2011-) 編集

2011年1月19日、アルバレス=カスコスはアストゥリアス州の地域政党であるフォロ・アストゥリアスを結党し、自身が党首に就任した。2011年5月のアストゥリアス州議会議員選挙において、フォロ・アストゥリアスは45議席中16議席を獲得して第1党となった。州首相指名投票では10議席を得た国民党の支持も得て、アルバレス=カスコスがアストゥリアス州首相に就任した。しかし州議会では少数与党政権となり、フォロ・アストゥリアスが提出した2012年の予算案は国民党と社会労働党の反対によって否決された。この状況を踏まえて、アルバレス=カスコスは2012年1月30日に州首相を辞任して議会を解散させ、2012年3月25日には改めてアストゥリアス州議会議員選挙が行われたが、フォロ・アストゥリアスは45議席中12議席にとどまって第2党に転落した[2]

2013年には国民党のヤミ献金事件であるバルセナス事件英語版が発覚し、アルバレス=カスコスは1990年から2004年までの間に国民党から42万1693ユーロを受け取っていたことが明らかとなった。2015年2月にはフォロ・アストゥリアスの党首の座をクリスティーナ・コトスペイン語版に譲り、事務総長に就任した。

脚注 編集

外部リンク 編集