フランソワーズ・ド・フォワ

フランソワーズ・ド・フォワ(Françoise de Foix, 1495年 - 1537年10月16日)は、フランスフランソワ1世の愛妾。シャトーブリアン伯爵夫人(Comtesse de Châteaubriant)として知られる。

フランソワーズ・ド・フォワ
Françoise de Foix
Madame chateaubriant foix g.jpg

称号 シャトーブリアン伯爵夫人
出生 1495年
死去 1537年10月16日
配偶者 シャトーブリアン伯ジャン・ド・ラヴァル
家名 フォワ家
父親 ロートレック子爵ジャン・ド・フォワ
母親 ジャンヌ・デディー
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生涯Edit

ロートレック子爵ジャン・ド・フォワと妻ジャンヌ・デディーの娘として生まれた。祖父ピエール・ド・フォワの兄はフォワ伯ガストン4世ナバラ女王レオノールの夫)である。フランソワーズはシャルル8世及びルイ12世の王妃アンヌ・ド・ブルターニュ(ガストン4世とレオノール女王の娘マルグリットを母とする)の又従妹に当たり、アンヌの宮廷で育てられた。1505年にシャトーブリアン伯ジャン・ド・ラヴァルと婚約し、1509年に結婚した。長身で黒髪の美女で、ラテン語イタリア語を話し、詩を書く才女であったという。

1518年頃、夫が軍の指揮官として不在の間にフランソワ1世の愛妾となった。それをきっかけに、夫と暮らした家から宮廷に住まいを移した。王の寵愛ぶりは、フランソワーズの兄弟縁者を昇進させるだけでなく、王太子フランソワの洗礼式にはシャトーブリアン伯夫妻を王家の姫たちの次の高位に列したほどであった。彼女は政治的な場にほとんど姿を現さなかったが、公妾として地位を高めるフランソワーズの厚遇ぶりが、フォワ家を嫌う王母ルイーズを非常に失望させた。フランソワーズは、王妃クロード(ルイ12世と王妃アンヌの娘)の女官となった。

10年近く王の愛妾であったフランソワーズの絶頂期は、1525年にフランソワ1世がパヴィアの戦いで敗北し囚われの身となり、スペインのマドリードに送致・拘束されたことで終わる。その後フランスへ帰国した王は、若くブロンドの髪をしたアンヌ・ド・ピスルー・デイリーに夢中になった。2人の愛妾は王をめぐって2年もの間寵愛を争ったが、劣勢を悟ったフランソワーズは1528年に身を引いてシャトーブリアンへ戻った。

シャトーブリアンへ戻ったフランソワーズは、ブルターニュ知事である夫ジャンと暮らした。彼女は王と手紙のやりとりを続け、王が夫妻の元を訪ねたことが何度もあった。最後に王が夫妻を訪問したのは1532年で、同年5月にジャンが建てた新しい城に宿泊したという。

フランソワーズは、1537年10月に死んだ。夫ジャンに殺されたという噂があったが、死因は病死だった。ジャンは1543年2月に死んだが、後任の知事はジャン4世・ド・ブロス(アンヌ・ド・ピスルー・デイリーの夫)だった。