フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハラハ

フリードリヒ・アウグスト・ゲルファジウス・プロタジウス・フォン・ハラハ・ツー・ローラウ・ウント・タンハウゼン(Friedrich August Gervasius Protasius Graf von Harrach zu Rohrau und Thannhausen, 1696年6月18日 - 1749年6月4日)は、オーストリアの貴族、廷臣。伯爵。オーストリア領ネーデルラント総督(1741年 - 1744年)。

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハラハ
Friedrich August von Harrach

出生 (1696-06-18) 1696年6月18日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
死去 (1749-06-04) 1749年6月4日(52歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
配偶者 マリー・エレオノーレ・フォン・リヒテンシュタイン
子女 フェルディナント・ヨーゼフ
マリア・ヨーゼファ 他
家名 ハラハ家
父親 アロイス・フォン・ハラハ
母親 アンナ・ツェツィーリア・フォン・タンハウゼン
役職 オーストリア領ネーデルラント総督(1741年 - 1744年)
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生涯 編集

ナポリシチリア副王を務めたアロイス・フォン・ハラハ伯爵とその2番目の妻アンナ・ツェツィーリア・フォン・タンハウゼン(Anna Cäcilia von Thannhausen)の間の息子として生まれた。レーゲンスブルクの常設帝国議会(Immerwährender Reichstag)のボヘミア代表議員であり、金羊毛騎士団の騎士でもあった。1732年から1741年までオーストリア領ネーデルラント総督府の宮内長官(事実上の宰相)を務め、1741年より1744年まで正式なネーデルラント総督を務めた。リーゼンゲビルゲ山地Riesengebirge)にかつて存在した小村フリードリヒスタール(現在のシュピンドレルーフ・ムリーンの一部)は、ハラハの名を冠していた。1719年2月5日にリヒテンシュタインアントン・フローリアンの娘マリー・エレオノーレ(1703年 - 1757年)と結婚し、間に16人の子女をもうけた。四女のマリア・ヨーゼファ(1727年 - 1788年)はリヒテンシュタイン侯ヨーハン・ネポムク・カールに嫁いだ。

参考文献 編集

先代
マリア・エリーザベト大公女
オーストリア領ネーデルラント総督
1741年 - 1744年
次代
ロートリンゲン公子カール・アレクサンダー
マリア・アンナ公女