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ブラッドリー・リチャード・トーマスBradley Richard Thomas, 1977年10月22日 - )は、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州シドニー出身のプロ野球選手投手)。

ブラッド・トーマス
Brad Thomas
Brad Thomas by boomer-44 (2).jpg
兄弟エレファンツ時代
(2013年9月5日)
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 ニューサウスウェールズ州シドニー
生年月日 (1977-10-22) 1977年10月22日(41歳)
身長
体重
193 cm
97 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 アマチュアFAでロサンゼルス・ドジャースと契約
初出場 MLB / 2001年5月26日
NPB / 2005年3月27日
KBO / 2008年3月30日
CPBL / 2012年5月10日
最終出場 MLB / 2011年5月10日
NPB / 2006年10月25日
KBO / 2009年9月25日
CPBL / 2014年8月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
派遣歴
コーチ歴
  • 兄弟エレファンツ (2013)
国際大会
代表チーム オーストラリアの旗 オーストラリア
WBC 2009年2013年

MLBNPBKBOCPBLABLプロ野球リーグでプレーした。

経歴編集

ツインズ時代編集

子どもの頃はサッカーをしていたが、9歳の時に友人に誘われ野球を始めた。シドニーのミッチェル・ハイスクールで活躍し、1995年ロサンゼルス・ドジャースと契約。

1997年、ドジャースがマイナーで規定人数以上の外国人選手を保有していたことが発覚し、ビザの問題で退団して3日後にミネソタ・ツインズと契約。

2001年5月26日のオークランド・アスレチックス戦に先発しメジャーデビューしたが、2回途中4失点でKO。同年は5試合先発で登板したが、0勝2敗、防御率9.37と結果を残せなかった。

2004年まで主にツインズ傘下3Aでプレーし、マイナーリーグのオールスターゲームに4度出場。2004年4月にボストン・レッドソックスに移籍したが、左肘の手術を受けほとんど登板できず、ワールドシリーズの40人ロースターに含まれチャンピオンリングを手にしたものの、シーズン終了後にロースターから外れて自由契約となった。

日本ハム時代編集

最速155km/hの豪速球を謳い文句に、ツインズ時代の同僚であったマイケル中村の紹介で2005年開幕前に北海道日本ハムファイターズのテストを受けて合格し入団。背番号は当時空き番となっていた70に決まった。速球派の左腕として期待された。

開幕時は先発を任されていたが、2004年に左肘を手術した影響もあって、コントロールが悪く球の出所が見えやすいという致命的な欠陥を露呈。直球を狙い撃ちにされたり、四球連発で自滅したりするなどして早い回でのKO劇を繰り返し、二軍に落とされた。その後、左肘の回復が進み、球の威力が回復したことから、一軍に再昇格。短いイニングの敗戦処理から、シーズン終盤には勝ちゲームのセットアッパーに昇格し、立石尚行武田久建山義紀とともに4人の頭文字を取った「4Ts(フォーティーズ)」を形成して試合終盤を任されるようになる。8月27日の対ソフトバンク戦で、田中幸雄のサヨナラ打で来日初勝利を挙げ、同月30日の対楽天戦で来日初セーブを挙げた。9月のある試合では、実際に155 km/hを計測している。シーズンを通しての数字を見れば残留は微妙だったが、先発で最大20点を超えた防御率をリリーフだけで4点台まで向上させるなど、終盤以降はセットアッパーとして活躍した事を受け、フェルナンド・セギノールと共に翌年の契約を締結した。

2006年は背番号を17に変更。開幕からセットアッパーやロングリリーフを任され、40試合に登板して4勝1敗1セーブの成績だった。7月に夫人の出産に立ち会うために一時帰国している。好不調の波が激しく安定したとは言いがたいものの、リーグ優勝、44年ぶりの日本一に貢献した。日本シリーズでは、第4戦に登板して被安打1、与四球1でイニング途中で降板となった(自責点は0)。同年オフ、先発で投げてほしいフロントと中継ぎで投げたいトーマス自身との意見が衝突し、契約交渉がもつれた。リリーフ陣が充実していることから翌年の構想外となり、11月29日に正式に退団が発表され、自由契約公示された。ニュージーランドでの優勝旅行には参加している。

マリナーズ傘下時代編集

2007年も日本でのプレーを希望したが、制球難がネックとなり獲得に乗り出す球団はなく、シアトル・マリナーズ傘下3Aタコマ・レイニアーズでプレー。34試合に登板し8勝6敗2セーブ、防御率4.87、WHIP1.55の成績でメジャー昇格はなかった。オフの11月には「日豪親善 野球日本代表最終強化試合」のオーストラリア代表に選出された[1]

ハンファ時代編集

2008年1月2日に、韓国プロ野球ハンファ・イーグルスと契約。

同年は自己最多の59試合に登板し、故障と不振で振るわなかった具臺晟に代わって抑えの役割を担い、当時韓国プロ野球の外国人投手としては史上最多となる31セーブを記録した(2012年、スコット・プロクターがこの記録を更新)。同年オフ、中日ドラゴンズが左のセットアッパーとして獲得を検討したが、ドミニカ・ウィンターリーグで活躍したネルソン・パヤノに切り替えたため、日本球界復帰は実現しなかった。

2009年開幕前の3月に開催された第2回WBCオーストラリア代表に選出された[2]。同大会では、キューバ戦で1イニング登板し2奪三振を挙げた。オーストラリア代表では、かつて阪神タイガースに在籍したクリス・オクスプリングとチームメイトとなった。

シーズンでは、開幕前の調整が順調で、トーマス自身は抑えとして活躍したが、ハンファが最下位を独走したため登板機会は減り、セーブ数も13にとどまった。

オフには選手保留名簿に載せられてハンファは再契約の意思を見せたが、デトロイト・タイガースとメジャー契約を結んだ。

デトロイト・タイガース時代編集

2010年、6年ぶりとなるメジャーリーグ復帰を果たした。中継ぎとして48試合に登板し、メジャー初勝利を含む6勝2敗、防御率3.89、WHIP1.53を記録した。

2011年は左ひじの故障もあり、12試合に登板して防御率9.00、WHIP2.09を喫し、7月14日に40人枠から外れた。

兄弟エレファンツ時代編集

2012年5月3日、素行不良により解雇されたライアン・カレンの代役として、台湾の兄弟エレファンツに加入(登録名:湯瑪仕)。守護神として活躍し、最終戦までにリーグトップに並ぶ22セーブを記録していた。その時点でリーグ最多は統一セブンイレブン・ライオンズ林岳平が23セーブを記録しており、最終戦でトーマスがセーブを記録すると、セーブ数では並ぶものの防御率で林を上回るため、最優秀救援投手(救援王)のタイトルが期待されていた。しかし最終戦、8回終了時点でチームは4-0で勝っており、このままトーマスが登板してもセーブがつかないため、葉詠捷故意四球を連発した。最終的に二死一塁、二塁となったところで登板し、最後の打者を内野ゴロに抑え23セーブ目を挙げた。しかしタイトルのための露骨なプレーにファンなどから不満が続出。これを受け中華職業棒球大連盟はタイトルの受賞者を「該当者なし」とした。このような事態は1990年に台湾のプロ野球が始まって以来初めての出来事だった[3]

2013年開幕前の3月に開催された第3回WBCのオーストラリア代表に選出され[4]、2大会連続2度目の選出となった。

シーズンでは積極的に同僚投手へアドバイスを送る姿勢を球団側に評価されコーチを兼任することになった。しかし開幕から不安定な投球内容が続き、コーチ兼任による負担増が原因と球団側に判断され選手専任に戻った。最終的に前年を上回る26セーブをあげ、最優秀救援投手(救援王)を獲得するも、オフに退団となった。

2014年は、当初母国のオーストラリアでプレーしていたが、不振により解雇されたロマン・コロンの代役として、6月28日に中信兄弟となったチームと契約した。しかし、自らも不振のためシーズン途中の8月31日に解雇された。

人物編集

真面目な性格で、課題のコントロールの修正にはひたむきに取り組んでいる。日本ハム在籍時の監督だったトレイ・ヒルマンを尊敬しているという。日本ハム時代はファンにサインをしている姿もよく見受けられた。

家族旅行が好きらしく、日本ハム在籍時、試合のない日は各地を観光していた。

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
2001 MIN 5 5 0 0 0 0 2 0 0 .000 82 16.1 20 6 14 0 1 6 2 0 17 17 9.37 2.08
2003 3 0 0 0 0 0 1 0 0 .000 22 4.2 6 1 3 1 0 2 0 0 4 4 7.71 1.93
2004 3 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 16 2.2 7 0 1 0 0 0 1 0 5 5 16.88 3.00
2005 日本ハム 38 4 0 0 0 1 5 1 6 .167 236 48.1 54 1 39 3 5 51 0 2 30 25 4.66 1.92
2006 40 0 0 0 0 4 1 1 4 .800 208 45.2 50 2 23 0 4 43 3 1 21 19 3.74 1.60
2008 ハンファ 59 0 0 0 0 3 6 31 0 .333 257 63.1 52 3 23 4 4 63 5 0 21 20 2.84 1.18
2009 45 0 0 0 0 2 5 13 0 .286 203 50.0 43 2 20 2 1 56 3 0 20 16 2.88 1.26
2010 DET 49 2 0 0 0 6 2 0 3 .750 307 69.1 77 4 29 3 4 30 4 0 31 30 3.89 1.53
2011 12 0 0 0 0 0 1 0 0 .000 56 11.0 17 1 6 0 1 7 0 0 12 11 9.00 2.09
2012 兄弟 41 0 0 0 0 3 0 23 1 1.000 178 48.0 29 0 10 0 1 66 6 0 4 4 0.75 0.81
2013 45 0 0 0 0 1 4 26 3 .200 196 46.0 48 0 9 2 2 42 2 0 10 8 1.57 1.24
MLB:5年 72 7 0 0 0 6 6 0 3 .500 483 104.0 127 12 53 4 6 45 7 0 69 67 5.80 1.73
NPB:2年 78 4 0 0 0 5 6 2 10 .455 444 94.0 104 3 62 3 9 94 3 3 51 44 4.21 1.77
KBO:2年 104 0 0 0 0 5 11 44 0 .313 460 113.1 95 5 43 6 5 119 8 0 41 36 2.86 1.22
CPBL:2年 86 0 0 0 0 4 4 49 4 .500 374 95.0 77 0 19 2 3 108 8 0 14 12 1.15 1.01
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル編集

CPBL
  • 最優秀救援投手(2013年)

記録編集

NPB

背番号編集

  • 56 (2001年 - 2004年)
  • 70 (2005年)
  • 17 (2006年、2014年)
  • 26 (2008年 - 2009年)
  • 36 (2010年 - 2013年)

代表歴編集

脚注編集

  1. ^ 日豪親善 野球日本代表最終強化試合 オーストラリア代表チーム[リンク切れ] 日本野球機構オフィシャルサイト 2015年6月7日閲覧
  2. ^ 2009 Tournament Roster[リンク切れ] WBC公式サイト (英語) 2015年3月22日閲覧
  3. ^ “最多セーブ投手、該当者なしに 醜いタイトル争いで”. フォーカス台湾 (中央通訊社). (2013年12月2日). http://japan.cna.com.tw/news/aart/201210020009.aspx 2014年1月8日閲覧。 
  4. ^ 2013 Tournament Roster[リンク切れ] WBC公式サイト (英語) 2015年3月22日閲覧

関連項目編集

外部リンク編集