ブラントーム
ブラントーム (Brantôme) [1]はフランスの競走馬・種牡馬。
ブラントーム | |
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原語表記 | Brantome[1] |
品種 | サラブレッド[1] |
性別 | 牡[1] |
毛色 | 鹿毛[1] |
生誕 | 1931年[1] |
死没 | 1952年 |
父 | Blandford[1] |
母 | Vitamine[1] |
母の父 | Clarissimus[1] |
生国 |
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生産者 | Haras de Meautry |
馬主 | エドゥアール・ド・ロチルド |
調教師 | Lucien Robert |
競走成績 | |
生涯成績 | 14戦12勝(12-0-0-2) |
獲得賞金 | $1,979,631 |
2歳時にはフランスの2歳主要レースを無敗のまま制覇し、2歳三冠馬といわれることもある。3歳時も無敗のままプール・デッセ・デ・プーラン、リュパン賞、ロワイヤルオーク賞、凱旋門賞などに勝ったが、ジョッケクルブ賞はインフルエンザのため回避しており仏4冠馬は逸した。5歳時も現役を続け、イギリスのアスコットゴールドカップ制覇を目指したが、シャンティイでの放馬アクシデントの影響により敗れた。競走馬引退後は、ナチス・ドイツの侵攻によりドイツに送られる経験をしながらも、Vieux Manoirらの産駒を残し、ブラントーム系を発展させた。
生涯編集
ブラントームは1931年にフランス・カルヴァドス県にあるロチルド家(英語読みでロスチャイルド家)所有のモートリ牧場で生まれた。アイルランド供用の父 Blandfordは、受胎率の低さというハンデを抱えながらも、ダービーステークス馬を4頭を輩出し、イギリス及びフランスでリーディングサイアーになる人気種牡馬である。ブラントームは父に似て体高15.2ハンド(約154cm)と小柄な馬であったが、端正で美しい馬であったとされている。母Vitamineは27号族に属する馬で、半妹は牝馬ながらパリ大賞に勝つCruditeである。ブラントームはフランス南西部の街Brantômeから名付けられ、エドゥアール・ド・ロチルド所有馬として、リュシアン・ロベール調教師のもとで競走馬としての調教を受けた。
競走馬時代編集
ブラントームは2歳になった1933年6月にロンシャンのマルタンヴァス賞(1000m)でデビューし、ピッチ走法で相手を寄せ付けず、C.ブイヨン騎手が追う暇もないほど楽勝する。続く7月にはメゾンラフィットのロベールパパン賞(1200m)を2馬身差で1.15.2のレコード勝ち、8月にはドーヴィルのモルニ賞(1200m)を1馬身半差、10月にはロンシャンのグランクリテリウム(1600m)も1馬身半差といずれも着差は広げないものの、ほぼ馬なりのまま制覇して、史上初の仏2歳三冠馬となった。この年のフリーハンデでは2位に3.5kg差の63kgという高い評価が与えられた。
翌1934年はロンシャンのセヴレ賞(1600m)を3頭立てながら6馬身差で勝つと、プール・デッセ・デ・プーラン(1600m)でも後のパリ大賞優勝馬Admiral Drakeに3馬身差をつけて優勝、距離が伸びたリュパン賞(2100m)も2馬身半差で優勝する。しかしながら、次はジョッケクルブ賞ではなくイギリス遠征をしてダービーステークスで9戦無敗のColomboや同じBlandford産駒の上がり馬Windsor Ladと勝負するかなど話題が盛り上がるなか、ブラントームはインフルエンザのためジョッケクルブ賞にもダービーステークスにも出走できないまま秋を迎えることになってしまった。復帰戦は9月のロンシャンのロワイヤルオーク賞(3000m)で、行きっぷりが悪く後方追走する姿に場内からざわめきが起こるも、直線で一気に加速して、ゴール前ではAstronomerを首差交わして優勝した。10月の凱旋門賞では1.1倍に支持され、先行するアガ・カーン3世所有でこの年のアスコットゴールドカップ優勝馬Felicitation を交わすと、サンクルー大賞優勝馬Assuerusの追撃も2馬身振り切って、2年間無敗の9連勝を達成した。この年のフリーハンデでは、Admiral DrakeやEastonを5kg近く凌ぐ、68kgという高い評価が与えられた。
ブラントームは、長距離レースを制して最強馬を名乗るため、4歳になった1935年も現役を続け、初戦の5月のエドガールジロワ賞(3800m)を2馬身半差で制すると、カドラン賞(4000m)は15馬身差で4.23.04のレコード勝ちを記録する。そして、大目標であったイギリスのアスコットゴールドカップ(20f)遠征を決行する。ここにはブラントームが出走することができなかったダービーステークスに加えてセントレジャーステークスにも優勝した英二冠馬Windsor Ladも出走を予定していたが、回避したため英仏最強馬対決は実現しなかった。しかしながら、またもブラントームに不運が起こり、レースの11日前に放馬してしまいシャンティイの街中を疾走し、3本の脚で落鉄、精神的にもコンディションを崩し、出走を強行するもTiberiusの5着に敗れ、連勝も止まってしまった。その後、9月に復帰してロンシャンのプランスドランジュ賞を勝って、凱旋門賞連覇に挑むもSamosの4着と敗れた。
競走成績編集
- 1933年(4戦4勝)
- グランクリテリウム(1600m)、モルニ賞(1200m)、ロベールパパン賞(1200m)、マルタンヴァス賞(1000m)
- 1934年(5戦5勝)
- プール・デッセ・デ・プーラン(1600m)、リュパン賞(2100m)、ロワイヤルオーク賞(3000m)、凱旋門賞(2400m)、セヴレ賞(1600m)
- 1935年(5戦3勝)
- カドラン賞(4000m)、プランスドランジュ賞(2400m)、エドガールジロワ賞(3800m)
種牡馬時代編集
モートリ牧場で種牡馬生活を開始したが、ナチス・ドイツの侵攻によりドイツの国立グラディツ牧場へ送られ、終戦をドイツ国内のアルテフェルト牧場で迎えることになった。戦後、片目の視力を失ってロチルドのもとに帰ったブラントームは1952年にロチルドの死を追うように亡くなった。ロチルドの跡を継いだギイ・ド・ロトシルト男爵の手には、その産駒Vieux ManoirやDragon Blancが遺され、リーディングサイアーとなったVieux Manoirからも多くの種牡馬が生まれブラントーム系を形成した。
主な産駒編集
- Pensbury(FR,1940) - 1943年 パリ大賞
- Vieux Manoir(FR,1947) - 1950年 パリ大賞
- Dragon Blanc(FR,1950) - 1952年 グランクリテリウム
血統表編集
ブラントームの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ブランドフォード系 |
[§ 2] | ||
父 Blandford 1919 黒鹿毛 |
父の父 Swynford1907 黒鹿毛 |
John o'Gaunt | Isinglass | |
La Fleche | ||||
Canterbury Pilgrim | Tristan | |||
Pilgrimage | ||||
父の母 Blanche1912 鹿毛 |
White Eagle | Gallinule | ||
Merry Gal | ||||
Black Cherry | Bendigo | |||
Black Duchess | ||||
母 Vitamine 1924 鹿毛 |
Clarissimus 1913 栗毛 |
Radium | Bend Or | |
Taia | ||||
Quintessence | St. Frusquin | |||
Margarine | ||||
母の母 Viridiflora1912 黒鹿毛 |
Sans Souci | Le Roi Soleil | ||
Sanctimony | ||||
Rose Nini | Le Sancy | |||
Rosewood | ||||
母系(F-No.) | (FN:27-a) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Isonomy 5 × 5 = 6.25%、St. Simon 5 × 5 = 6.25% | [§ 4] | ||
出典 |