ブルガイモンゴル語: Bulγai、? - 1264年)は、モンゴル帝国に仕えたビチクチ(書記官僚)の一人。

元史』などの漢文史料では孛魯合(bólŭhé)、『世界征服者史』などのペルシア語史料ではبلغای اقا(bulghāī āqā)と記される。

概要編集

チンギス・カンに仕えたビチクチ長、シラ・オグルの息子として生まれた。幼い頃からチンギス・カンの末子のトルイに仕え、そのケシク(親衛隊)に所属していたという。

トルイの長男のモンケが第4代皇帝(カアン)に即位すると、ジャライル部出身でジャルグチを務めるモンケセルとともにモンケの最側近として国政を取り仕切った。モンケの即位の際、『元史』では「中書右丞相」、『世界征服者史』では「ワジールの長」に任ぜられたと記されているが、これはブルガイが「ウルグ・ビチクチ(大ビチクチ)」の地位にあったことを各征服地域の文脈で意訳したものである。なお、『元史』によるとこの時トルイ家の投下領である真定束鹿に食邑を与えられたという[1][2][3]

1256年、モンケが南宋親征に出発すると、ブルガイはアラムダールとともにカラコルムの統治を委ねられたモンケの末弟のアリクブケの補佐に任ぜられた。1259年、モンケが遠征先で急死するとブルガイはアラムダールとともにカラコルムでアリクブケを推戴し、開平府でカアンを自称したクビライ勢力との間で内戦を起こすこととなった。最終的にアリクブケ派は敗れ、ブルガイはアリクブケ派の首魁として1264年に処刑された[4]

ケレイト部シラ・オグル家編集

脚注編集

  1. ^ 『元史』巻134列伝21也先不花伝,「也先不花、蒙古怯烈氏……昔剌斡忽勒早世、其子孛魯合幼事睿宗、入宿衛。憲宗即位、与蒙哥撒児密賛謀議、拝中書右丞相、遂専国政。賜真定之束鹿為其食邑」
  2. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「元年辛亥……遂改更庶政……以孛魯合掌宣発号令、朝覲・貢堅及内外聞奏諸事」
  3. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「[元年]十月……以只児斡帯掌伝駅所需、孛魯合掌必闍赤写発宣詔及諸色目官職」
  4. ^ 『元史』巻134列伝21也先不花伝,「至元元年、以党附阿里不哥論罪伏誅。子四人、長曰也先不花。次曰木八剌、初立御史台、為中丞。次曰答失蛮、累官至銀青栄禄大夫。次曰不花帖木児、拝栄禄大夫、四川省平章政事」

参考文献編集

  • 坂本勉「モンゴル帝国における必闍赤=bitikci:憲宗メングの時代までを中心として」『史学』42巻、1970年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年