ブルフケーベル

ドイツの町
ブルーフケーベルから転送)
紋章 地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州: ヘッセン州
行政管区: ダルムシュタット行政管区
郡: マイン=キンツィヒ郡
緯度経度: 北緯50度10分42秒 東経08度55分21秒 / 北緯50.17833度 東経8.92250度 / 50.17833; 8.92250座標: 北緯50度10分42秒 東経08度55分21秒 / 北緯50.17833度 東経8.92250度 / 50.17833; 8.92250
標高: 海抜 113 m
面積: 29.69 km2
人口:

20,602人(2021年12月31日現在) [1]

人口密度: 694 人/km2
郵便番号: 63486
ナンバープレート: MKK, GN, HU, SLÜ
自治体コード:

06 4 35 006

行政庁舎の住所: Hauptstraße 32
63486 Bruchköbel
ウェブサイト: www.bruchkoebel.de
首長: ジルヴィア・ブラウン (Sylvia Braun)
郡内の位置
地図
地図

ブルフケーベル (ドイツ語: Bruchköbel) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州南東部のマイン=キンツィヒ郡の市である。

ブルフケーベルの旧市庁舎とヤーコブス教会

地理 編集

位置 編集

ブルフケーベルはマイン=キンツィヒ郡西部、ハーナウから北に約 7 km の海抜 114 m の場所に位置する。オーバーイシクハイム、ニーダーイシクハイム、ブルフケーベル地区をクレプスバッハ川が流れている。ブルフケーベルの周辺は主に農地であり、南東はブルフケーベルの森に連なる。南西にはヘッセンの州有地であるキンツヒィヒハイマー・ホーフがある。中心街の南西にランゲンディーバッハ空軍基地があるが、その一部はブルフケーベル市に属す。

隣接する市町村 編集

ブルフケーベルは、北はニッデラウ、北東はハンマースバッハ、東はノイベルク、南東はエルレンゼー、南はハーナウ、西はハーナウのミッテルブーヒェン市区、北西はシェーネックと境を接している。

市の構成 編集

  • ブルフケーベル
  • ロスドルフ
  • ニーダーイシクハイム
  • オーバーイシクハイム
  • ブッターシュタット、旧「ヴェルシェ・ヘーフェ」

歴史 編集

先史時代 編集

住宅地「イム・ペラー」の開発前調査により、エルレンゼーに近い街の東端で、紀元前5000年頃の新石器時代線帯文土器文化)の定住地跡が2003年に発見された。紀元前800年頃にはケルト人が、紀元後100年頃にはローマ人がブルフケーベル地域に定住した。「イム・ペラー」付近からは、この頃のローマ式の泉やヴィラ・ルスティカ(ローマ時代の農場付き別荘)の跡が発見されている。リーメスの崩壊後は、アラマンニ人がここに住んだ。

中世 編集

ブルフケーベルについて記述した最も古い文献は1062年のもので、"Kebilo" という名前で記録されている。この村は元々ゼーリゲンシュタット修道院に属していた。リュッキンゲン家がこの修道院の所領の代官職をレーエンとして与えられていた。1567年にゼーリゲンシュタット修道院はそれまで保持していたこの地の3つの農場をハーナウ伯に売却した。

ブルフケーベルは遅くとも14世紀からハーナウ家(後のハーナウ伯)に属し、アムト・ビューヒャータールに含まれていた(アムトは中世の地方行政区分)。1368年2月6日に、皇帝カール4世の許可に基づき、ブルフケーベルはウルリヒ3世フォン・ハーナウから、防衛施設の建設と市場開催の権利を含む都市権を授けられた。現在も遺る街の象徴的建造物である見張り塔が完成した後、1410年に議会、裁判審議、社会的催事を行う市庁舎としてノイエス・シュピールハウスが建設された。この建物は現在、旅館として旅行者に利用されている。

市の西部、クレプスバッハ川から引いた水路に水車ウンターミューレ(バウマン水車とも呼ばれる)がある。この水車は1962年に運転を停止した。

歴史的な地名の変遷 編集

  • Kebilo (1062年)
  • minor Chevela (1128年)
  • Kebele inferior (1247年)
  • Bruchkebele (1247年)
  • Bruchgebil (1368年)
 
トロンペーターシュタイン

近代 編集

1520年に市庁舎が完成し、これによりシュピールハウスの多目的使用は終了した。市庁舎の地下倉庫には、地元の農場で造られた販売用ワインの余剰分が保管されていた。

16世紀から17世紀にブルフケーベルに刑事裁判権とツェント裁判権を有していた。1539年1540年1593年1605年に処刑が行われた。1689年にも17歳の女性が処刑台広場(現在の工業地区)で魔女として火刑にされた。

1634年あるいは1635年にブーフケーベルは見張り塔やシュヴァイツァーガッセの家屋まで焼失した。地元のよく知られている伝説は、あるラッパ手が住民に危機を知らせたが、そのうちに亡くなったと伝えている。街の住民達は、このラッパ手に感謝を献げ「トロンペーターシュタイン」(ラッパ手の岩)を寄贈した。この岩は現在も街の中で見ることができる[2]

七年戦争1756年 - 1763年)では、ブルフケーベルはフランスに占領された。最後のハーナウ伯ヨハン・ラインハルト3世の死後、1736年ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ1世がその遺領を相続し、これによりブルフケーベルを含むアムト・ビューヒャータールもその支配下に入った。これは1643年に両家が結んでいた相続契約に基づくものであった。1803年にヘッセン=カッセル方伯はヘッセン選帝侯に昇格した。ナポレオン時代には、1806年からフランス軍政下でアムト・ビューヒャータールは存続した。1807年から1810年まではハーナウ侯領、1810年から1813年まではフランクフルト大公領ハーナウ県に属した。その後はヘッセン選帝侯領に再び戻された。1821年のヘッセン選帝侯領の行政改革後、4つの県と22の郡に分割されるとアムト・ビューヒャータールは新たに創設されたハーナウ郡に編入された。

教会の歴史 編集

1192年に、この村のある司祭が記録されている。もしかしたらブルフケーベルはケッセルシュタットとオーバーイシクハイムの教会の母教会であったのかもしれない。教会の守護聖人は、遅くとも1392年以降は聖ヤコブである。教会組織上はマインツ聖マリア・アド・グラドゥス教会の首席司祭付き助祭長区ラントカピテル・ロスドルフに属した。1364年から1561年まで、この教区の保護権はリンブルク・アン・デア・ハールト修道院修道院長が有していたが、その後ハーナウ伯に売却された。

ハーナウ伯領では、16世紀半ばに宗教改革が徐々に進行した。ブルフケーベルでは、1549年から1567年の間に、初めはルター派の信仰が広まった。ヤーコブス教会はプロテスタント化された。ハーナウ=ミュンツェンベルク伯が信仰を改めたことで「第二次宗教改革」が起こった。フィリップ・ルートヴィヒ2世伯は、1597年から別の改革主義の教義を受け容れた。彼は、領主がその統治地域の信仰を選択する権利「Jus reformandi」を行使し、その信仰を臣下に強制した。

その後、1642年からルター派を信仰するハーナウ伯フリードリヒ・カジミールがこの地を統治することになり、1705年にブルフケーベルにルター派の教会組織が再興し、1717年に教会が建設された(現在の市立図書館)。1818年のハーナウ統合により、両宗派は1つの教会に統合された。

2つのローマ=カトリック教会は、1954年から1968年までの間に建設された。

19世紀 編集

1858年、ブルフケーベルに現存する最も古いサークルである合唱団が結成された。ブルフケーベルに駅を有する鉄道フリートベルク - ハーナウ線は、1881年に開通した。

19世紀には、現在の連邦道B45号線沿いの2つのレンガ工場、フェーヒェンミューレ、ブルフケーベルの森の炭焼き工場、石切場(現在のジルバー湖)、ダイアモンド研磨工場、家具工場、ボタン工場、枠縁工場、製材所が開業した。

20世紀 編集

1937年にスイミングプールが建設され、バイパス道路建設の伴ってベーレン湖ができた。ブルフケーベル飛行場建設のために、1934年に 80 ha の森が切り拓かれた。

第二次世界大戦では、1940年8月10日にイギリス空軍による空爆を受けた。1945年3月28日にアメリカ軍がこの街に侵攻してきた。1952年2月に住宅組合が結成された。

ヘッセン州の地域再編に伴い、オーバーイシクハイム、ニーダーイシクハイム、ブッタースシュタットが1972年1月1日に合併した。1974年7月1日にロスドルフが最後の市区としてこれに加わった。

新しい市庁舎は、かつての修道士の農場に1973年に建設された。1975年5月7日にブルフケーベルは都市権を授けられた。その2年後に街の中心部の近代化が始まった。同じ1977年に歴史協会が設立された。1978年には旧市庁舎と郷土博物館で850年祭が祝われた。1970年代末に連邦アウトバーン A66号線とバイパス道路の建設が完了した。

1982年2月9日、当時ブルフケーベルにあった化粧品会社ライネルトの生産工場が爆発し、死者3名、重傷者17名と多大な物的被害が生じた。1987年には、歴史協会の創設10周年を機に歴史協会文書館が開館した。1988年7月にブルフケーベル自衛消防団結成100年が祝われた。

2002年末に都市開発計画が策定された。当時の市長ミヒャエル・ロートの指導の下、無給の都市マーケティング作業チームが組織され、人口統計学的発展を考慮した都市構想「ブルフケーベル 2025」を作成したのである。2003年に市の行政委員会は、この構想とスローガン「Bruchköbel. Da will ich leben!(ブルフケーベル。それが私の住む街!)」、それに新しい市のロゴを採択決議した。

人口推移 編集

  • 1587年: 63人の歩兵、42人の槍持ち住民
  • 1632年: 81家族[3]
 
18世紀以降の人口推移

2021年12月31日現在の人口は、20,602人である[1]

行政 編集

 
ブルフケーベルの市庁舎

首長 編集

ジルヴィア・ブラウン (FDP) は、2019年の市長選挙決選投票で対立候補のダニエル・ヴェーバー (CDU) を破って町長に選出された[4]

議会 編集

ヘッセン州では1993年から直接選挙で首長が選出されている。

ブルフケーベルの市議会は、37議席からなる[5]

姉妹都市 編集

文化と見所 編集

 
文書館が入っているノイエス・シュールハウス

博物館 編集

旧市庁舎の郷土博物館とノイエス・シュピールハウスの文書館

建築 編集

ブルフケーベルは数多くの見応えのある木組み建築を有している。これらは市が策定した都市計画に基づいて建設されたものである。市域の北端を、フランクフルト・アム・マインからライプツィヒに至る通商路(ホーエ・シュトラーセ)が通っていた。

自然文化財 編集

  • グリル広場にある「ディッケ・アイヒェ」(オークの木)

経済と社会資本 編集

交通 編集

道路交通 編集

ブルフケーベルは、連邦アウトバーン A66号線のハーナウ北インターチェンジで結ばれている。この他に、アウトバーン風に拡張された連邦道 B45号線が市域の西を通っている。

公共交通機関 編集

ブルフケーベルはライン=マイン交通連盟のサービスエリア内にあり、バス路線 33、34、563、562系統によってハーナウやその周辺地域と結ばれている。

ブルフケーベルには、ヘッセン・ランデスバーン (HLB) が運行する鉄道フリートベルク - ハーナウ線の駅がある。この鉄道は、近隣に学校が多いため主に通学する上で重要な路線である。

教育 編集

ブルフケーベルには基礎課程学校が3校(ハインガルテンシューレ、ブリュッケンシューレ、福音派基礎課程学校オーバーイシクハイム)、総合学校が1校(ハインリヒ=ベル=シューレ)、ギムナジウム上級学年(リヒテンベルク=オーバーシュトゥーフェンギムナジウム LOG)や実践教育のフリーダ=カーロ=シューレがある。また、ブルフケーベルには市立幼稚園が8園、教会が運営する幼稚園が2園ある。

参考文献 編集

  • Ingrid Dallmeyer: Chronik der Stadt Bruchköbel und seiner Stadtteile Roßdorf, Niederissigheim, Oberissigheim und Butterstadt. Bruchköbel 1989.
  • Peter Gbiorczyk/Herbert Herold: Eine kleine Bruchköbeler Kirchengeschichte. Bruchköbel 1981. veränderte 2. Fassung 2012
  • Peter Gbiorczyk: Evangelische Schulen in Bruchköbel (1540 bis 1823). 2012.
  • Peter Gbiorczyk: Evangelische Schulen in Oberissigheim (1550 bis 1743). 2004.
  • Peter Gbiorczyk: Die Entwicklung des Landschulwesens in der Grafschaft Hanau von der Reformation bis 1736. Die Ämter Büchertal und Windecken, Teil 1: Textband, Teil 2: Quellenband, auf CD-ROM, Shaker-Verlag, Aachen 2011, ISBN 978-3-8440-0331-4.
  • Willi Klein: Zur Geschichte des Mühlenwesens im Main-Kinzig-Kreis = Hanauer Geschichtsverein|Hanauer Geschichtsblätter 40. Hanau 2003, pp. 364–367.
  • Gerhard Kleinfeldt, Hans Weirich: Die mittelalterliche Kirchenorganisation im oberhessisch-nassauischen Raum = Schriften des Instituts für geschichtliche Landeskunde von Hessen und Nassau 16 (1937). ND 1984, pp. 36, 39 - .
  • Heinrich Reimer: Historisches Ortslexikon für Kurhessen. Marburg 1926, p. 283.

これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。

引用 編集

  1. ^ a b Hessisches Statistisches Landesamt: Bevölkerung in Hessen am 31.12.2021 nach Gemeinden
  2. ^ ブルフケーベルのトロンペーターシュタイン(2012年11月24日 閲覧)
  3. ^ In den Jahren 1632, 1707 und 1754 wurde in der Grafschaft Hanau die Zahl der Einwohner ermittelt. Die Zahlen sind hier wiedergegeben nach Erhard Bus: Die Folgen des großen Krieges – der Westen der Grafschaft Hanau-Münzenberg nach dem Westfälischen Frieden. In: Hanauer Geschichtsverein: Der Dreißigjährige Krieg in Hanau und Umgebung. 2011, OCLC 729350388, pp. 277–320 (289 - .) (= Hanauer Geschichtsblätter 45)
  4. ^ Bürgermeisterwahl in Bruchköbel, Stadt (Stichwahl) - am 10.11.2019”. 2021年9月18日閲覧。
  5. ^ 2011年3月27日の市議会議員選挙結果、ヘッセン州統計局(2012年11月24日 閲覧)

外部リンク 編集