ブロード・ストリートのコレラの大発生

ブロード・ストリートのコレラの大発生(ブロード・ストリートのコレラのだいはっせい、Broad Street cholera outbreak)(あるいはゴールデン・スクウェアのコレラの大発生、Golden Square outbreak)は、1854年に、イギリスロンドンの中心部、シティ・オブ・ウェストミンスターソーホー地区のブロード・ストリート(Broad Street)(現ブロードウィック・ストリート(Broadwick Street))近くで発生した、コレラの大発生である。616人の死者を出した。

ジョン・スノウの記念物とパブ ロンドン、ブロードウィック・ストリート。メモリアル・ポンプは2016年3月に新築のために取り除かれた。パブに添付された標識には次のようにある:「赤色花崗岩の縁石の標識が、1854年のドクター・ジョン・スノウのコレラは水で運ばれるという発見に関連する歴史的ブロード・ストリート・ポンプの現場である」[1])

当時、この大流行は、「瘴気」("miasmata")と呼ばれる空気中の粒子が原因とされていたが、ジョン・スノウは、細菌に汚染された水が原因であるとした[2][3]。スノウの発見は、公衆衛生と19世紀半ばから始まった衛生施設の建設に影響を与えた。また、「感染病巣」("focus of infection")という用語が、感染症の伝染に好条件の地点を表すために使用されるようになった。また、スノウはこの調査の際、それと知らぬままに二重盲検実験を行った。

背景編集

 
『コレラ王の法廷』(A Court for King Cholera) 『パンチ』(1852年)のイラストレーション

19世紀半ばのソーホー地区には、近代的なロンドンの下水道システムが達しておらず、住民の大量の流入と適切な衛生サービスの欠如により、汚物に関する深刻な問題を抱えていた。牛舎、屠殺場、および油脂を煮沸する穴(grease-boiling dens)が、通り沿いに並び、動物の糞、腐敗した液体、およびその他の汚染物質が、原始的なソーホーの下水道システムに流れ込んでいた[4]。 また、多くの地下室には床板の下に汚水溜めがあったが[4]、この汚水溜めがあふれていたため、ロンドン政府は汚水をテムズ川に投棄することに決め、飲料水を汚染することとなった[5]。 この頃のロンドンでは、すでにコレラの流行に苦しんでおり[6]、 1832年と1849年の大発生では、合わせて14,137名の死者が出た[6]

コレラの競合する学説編集

1854年のブロード・ストリートのコレラ大発生に先立って、医師や科学者らは、人体におけるコレラの原因に関して、「瘴気説」と「細菌説」という競合する2つの学説を唱えていた[7]。 また、ロンドン医学界では、市内での持続的なコレラの大発生の原因をめぐって論争が行われていた。コレラを引き起こす細菌であるコレラ菌 Vibrio cholerae は、1854年に分離されていたものの、その発見は有名にならず、数十年後まで受け入れられなかった[8]

瘴気説編集

瘴気論者は、コレラは空気中の粒子、または「瘴気」("miasmata")によって引き起こされ、これらは腐敗物やその他の汚れた有機源から生じる、と考えていた。「瘴気粒子」("Miasma")は、空気中を移動し、個人に感染することにより、コレラを引き起こすと考えられた[7]1851年のロンドン国勢調査のコミッショナーでゼネラル・レジスターズ・オフィス(General Register's Office)のメンバーであるウィリアム・ファーは、瘴気はテムズ川周辺の土壌から発生し、瘴気粒子を含む腐敗しつつある有機物質を含んでいると考えた。瘴気論者らは、「微生物学の純粋な科学的アプローチよりも、清掃(cleansing and scouring)」[9]を信じていた[7]。なお、ファーはのちに、スノウの出版後にスノウの細菌説に同意した[10]

細菌説編集

細菌説では、コレラの主な原因はまだ同定されていない細菌である、と考えた。スノウは、この未知の細菌は水を摂取している個人によって人から人に伝播する、という理論を立てた。病理学者でロンドンの主医療官吏(lead medical officer for London)であるジョン・サイモン(John Simon)は、スノウの細菌理論に「変わっている」("peculiar"[注釈 1])とレッテルを貼った[7]

ジョン・サイモンの抜粋:

「この理論は、以下のようなものである。すなわち、コレラは「病的物質」('morbid matter')によって繁殖し、病的物質は或る患者からその排泄物に移り、食品あるいは水の汚染物として偶発的に別の人に呑み込まれる。この病気の呑み込まれた細菌の増加が胃と腸の内部で起こり、最初は局部の異常として、コレラの本質的な作用を引き起こす。そして、「それ自身の種を再生するという性質を持つコレラの病的物質は必然的に、ある種の構造、おそらくは細胞のそれを持っていなければならない、というものである」[7]

サイモンは、スノウの理論を理解していたが、コレラの原因との関係を疑った。

ジョン・スノウによる調査編集

 
ジョン・スノウによる元の地図。1854年にロンドンの大流行のコレラの症例(積み上げられた長方形で示す)のクラスター(cluster)を示す。汚染されたポンプは、ブロード・ストリートとケンブリッジ・ストリート(Cambridge Street)(現レキシントン・ストリート(Lexington Street))との交差点にあり、リトル・ウィンドミル・ストリート(Little Windmill Street)に流している。

ブロード・ストリートでのコレラの大発生は、大流行の原因というよりも、むしろ結果であった。スノウは、人口に基づいて結論を出すことを躊躇していると述べたように、彼の結論は、主にブロード・ストリートの大発生に基づいていなかった、それは主に近所から逃げて、拡大していた。彼は、研究の結果をさっさと書き上げることを恐れた [11]

巷に流布されている瘴気説では、コレラや黒死病のような病気は、汚染または有害な空気によって引き起こされているという説であったが、スノウは、この瘴気説に懐疑的であった。しかし、細菌説はこの時点では、確立されていなかった(ルイ・パスツールは1861年までそれを提案しなかった)。スノウは、病気が伝染するメカニズムは理解していなかったが、それでもコレラは汚れた空気により発生しているのではない、と証拠によって信じるようになった。スノウは、住民間の病気のパターンに基づいて、コレラは汚染された水の中の作用因子(agent)によって拡散されている、と仮定した[12]。 1849年に初めて、彼は「"On the Mode of Communication of Cholera"」という題の論文で理論を発表した。1855年には第2版を発行したが、そこには1854年のソーホー地区でのコレラ大発生における給水の影響に関して、より詳細な調査結果を含んでいた[13]

1849年から1854年のコレラの大流行では、当時ロンドンの複数の水道会社によって供給されていた水も要因となっていた。このコレラの大流行の大きな原因となったのが、サウスワーク・アンド・ヴォクソール社(Southwark and Vauxhall Company)と、ランベス・ウォーター社(Lambeth Water Company)が供給した水であった。両社は共に、テムズ川から引き込んだ水を顧客に供給していた。当時のテムズ川は、目に見えるゴミや目に見えないバクテリアなどで高度に汚染されていた。ハッサール博士(Dr Hassall)が、濾過水を検査したところ、ゴミの他、動物の毛までもが含まれていることが判明した。彼は次のように述べている:

ロンドンのサリーサイド(Surrey Side)の水道企業、すなわちサウスワーク、ヴォクソール、ランベスの水は、テムズ川から供給を受ける物の中で飛びぬけて悪いことが観察される[14]

ニュー・リヴァー社(New River Company)やチェルシー社(Chelsea Company)のような他の会社は、より良い濾過水を供給していることが観察された。そして、彼らが供給した地域では、ほとんどコレラによる死者は出なかったのである。スノウは、これら複数の会社は大流行の拡大の責めを負わない、と結論した。これらの2社は、テムズ川よりも綺麗な水源から水を得ただけではなく、明らかな汚染物質が無くなるまで水を濾過していた。

前述のように、スノウは、公衆衛生への影響で知られているが、公衆衛生はコレラの大流行に関する彼の諸研究の後に生まれた。各地域で誰が汚染された水を受け取っているのかを把握しようとした際に、今日では二重盲検法として知られている手法を、図らずも手に入れた。彼は論文の中で状況の諸条件を説明している:

多くの場合は、一軒の家には左右で異なる水が供給されている。各会社は、大きな家と小さな家、金持ちと貧乏人の双方に供給している。異なる会社の水を受け取る人の状態や職業に違いはない……、……2つの水道会社の供給を受けている家々や人々、あるいはそれらが囲まれている物理的条件のいずれにも何の違いも無いから、これ以上にコレラの感染蔓延に対する給水の影響をいっそう徹底的に検証する実験を考案できなかったはずであることは明らかで、どの状況で観察者の前で準備ができている。

この実験も、最も壮大な規模であった。性別、年齢、職業、地位、身分、紳士から貧困層まで、30万人以上が無差別に無自覚に、2つのグループに分けられた。一方のグループは、ロンドンの下水を含む水を、しかもコレラ患者のものが含まれている可能性がある水が供給されており、他方のグループは、そのような不純物を全く含まない水が供給されていた[14]

スノウはさらに、各サンプルに対して行われた検査を通して、各家庭の水を研究した。このようにして、その家庭がどの水道会社から水の供給を受けているかを推測することができた。彼は、コレラの拡散が急速に進むのを可能にしたのは、実は、それら大会社を代表する不浄な水であった、と結論した。彼はさらに、ロンドンの複数の刑務所の観察を通して自分の理論を立証し、より綺麗な水源に切り替えた後、わずか数日で、これらの場所でコレラの新規発症者が発生しなくなったことが判った[14]

ブロード・ストリートの大発生編集

1854年8月31日、市内の他の場所でコレラが発生した後、ソーホーでコレラの大発生が起こった。その後3日間で、ブロード・ストリート周辺で127名が死亡し、翌週までに、住民の4分の3がその地域から避難した。9月10日までに、500名が死亡し、市内の一部地域では死亡率が12.8パーセントとなった。大発生の終わりまでに、616名が死亡した。医師スノウはのちに「この王国で起こった最も恐ろしいコレラの大発生」[15])と呼んだ。

コレラ患者の多くは、ミドルセックス病院(Middlesex Hospital)に運ばれた。そこでは彼らの看護はフローレンス・ナイチンゲールによって監督された。彼女は9月上旬に短期間ながら、コレラの大発生に伴って運び込まれた患者の看護の手助けをするために、この病院に加わったのである。エリザベス・ギャスケルからの手紙によると、

「ナイチンゲールは、金曜日の午後(9月1日)から日曜日の午後まで、昼も夜も、常に運び込まれる貧しい人々(特に娼婦たち(fallen women) に被害が多かった)の看護を引き受け、彼ら彼女らの服を脱がし、テレビン油の温湿布を当てるなど、できる限り多くの患者に対して処置を行なった」 [16]

スノウは、ヘンリー・ホワイトヘッド司祭(Reverend Henry Whitehead)の助けを借りて、地元住民らへの聞き込み調査によって、コレラの発生源が、ケンブリッジ・ストリートのブロード・ストリートの公共の水ポンプであると特定した[17]。このブロード・ストリートのポンプから採取された水の試料に対する、スノウの化学的検査および顕微鏡検査では、その危険性を決定的には証明しなかったものの、彼がソーホー地区の住民の病気と死のパターンについて申し立てた事実は、ウェストミンスター・セント・ジェームズ教区当局を説得することには成功し、当局はハンドルを取り外すことで井戸ポンプを使用不能にした。

この措置は大発生を終わらせたものとして一般に報告されているが、実際には大流行はポンプの停止以前からすでに急速に減少していた可能性があり、このことはスノウによって説明されている:

私が前に言ったように、大発生のすぐ後に始まった住民の逃亡によって死亡率が大幅に減少したことは疑いない。しかし、水の使用が止まる前に発病がそれまでのところ減少していたので、井戸が活動状態のコレラ毒をまだ含んでいるかどうか、あるいは何らかの理由で水にそれが無いかどうかを判断することは不可能である[18]

スノウはのちに、点分布地図(dot map)を使用して、コレラの症例がこのポンプの周囲でどのように発生したかを説明した[19]。 コレラの発生率と地理的要因を結び付けるスノウの努力は、後にボロノイ図として知られるものを作成していた。彼は、個々のポンプの位置をマッピングし、各ポンプに最も近いマップ上の全ての点を表すセルを生成した。スノウの地図のうち、最も近い水源がブロード・ストリートのポンプがあった地域を表すセクションでは、コレラの発生率が最も高かった。彼はまた統計を使用して、ロンドンの様々な給水者の顧客の死者数を比較し、水源の質とコレラの症例数との関係を説明した[20]

ブロード・ストリートのポンプに関するコレラ患者発生数の減少に関して、スノウは次のように述べた:

死者数は、ブロード・ストリートのポンプより、他のポンプに送る方が明らかに近い地点で、大幅に減少するか、あるいは完全に無くなることが観察される。また、死者が最も多いのは、水が容易に得られるポンプの近くであることも、また気づかれるであろう[14]

ところで、コレラ患者の発生場所には、1箇所の重大な意味を持つ特異点があった。それは、ブロード・ストリートの近くの醸造所で働く労働者は、誰もコレラにかからなかったことである。調べてみると、この労働者達は、毎日の報酬としてビールを与えられたため、近くの井戸から水を飲用していなかったのであった[21]。ビールの醸造工程では、アルコール醗酵を行う前の麦汁は、煮沸されて、そこに適量のホップが追加される。この煮沸が行われた結果、彼らがビールを醸造するのに使用していた水の中にいたコレラ菌は死滅したために、飲んでも安全になっていた。スノウは、ウォーターマークス会社(Waterworks Company)が、テムズ川の下水で汚染された区域から水を採り、それを家庭に届けたことで、顧客の間でコレラの発生の増加が起きたという結論を出した。

スノウの研究は、公衆衛生および健康地理学(health geography)の歴史の一部である。スノウは、疫学の学問分野が確立する前の出来事と見なされている。スノウ自身の言葉を借りれば:

現場に行ってみると、ほとんどの死者がブロード・ストリートのポンプから近距離内で発生していたことが判った。他のポンプのほうが近い所にある住宅における死者は、わずか10名であった。これらの事例のうち5例では、 死者の家族によると、近くのポンプよりも水が好きだったので、いつもブロード・ストリートのポンプに送った、と私に話してくれた。他の3つの事例では、死者は、ブロード・ストリートのポンプの近くの学校に行った子供らであった……

ポンプに属する地域で発生した死者に関して、私は、死者がブロード・ストリートからポンプ水を、絶えずまたは時々のどちらかで、飲む習慣であったことを、知らされていた61件があった……

調査の結果は、上記のポンプの水を飲む習慣がある人々を除いて、ロンドンのこの地域では、これといったコレラの大発生または流行はない、というものであった。

私は、9月7日木曜日の晩に、セント・ジェームズ教区の保護者会と面談し、上記の状況を説明した。その結果、翌日、ポンプのハンドルが取り外された[22]

この公共井戸は、糞便性細菌を漏らし始めていた古い汚水溜めの近く掘られていた3フィート (0.9 m)ことが、のちに判明した。他の供給源によってコレラに罹患していた赤ちゃんが使用したおむつの洗濯排水が、この汚水溜めに流れ込んだ。その開口部は、火災と通路の拡幅の後に、さらに遠くに再建された近くの家の下にあった。当時はほとんどの家の下に汚水溜めがあった。ほとんどの家庭は、汚水が土壌に分解し得るよりも早くに汚水溜めを満たすのを防ぐために、未処理の汚水を集め、テムズ川に投棄しようと努めていた。

同じ頃、コレラ感染の調査がデトフォード(Deptford)で行われていた。その町は水が綺麗であることが知られており、以前はコレラが大発生はなかったが、数日間で約90名が死亡した。スノウは、最近になって水が不純になったことを知らされた。住民たちは、水を使用する際、綺麗な水が出るまで不純な水を流すために、しばらく水を流しておくことを余儀なくされていた。スノウは、住民が使用している水が通常のポンプから水と変わらないことを発見し、コレラの大発生は、周囲の汚水とその汚染物質が、パイプの漏れにより給水に混入したことにより引き起こされたにちがいない、と断定した。このシナリオは、ブロード・ストリートの大発生のシナリオと似ていた。流入水は、適切で安全な配管の欠如と相まって、上昇しつつある下水面によって汚染されつつあった[13]

コレラの流行が収まった後、政府高官がブロード・ストリートのポンプハンドルを交換した。彼らは、住民に起こったコレラの大発生という、緊急事態にだけは対応していた。しかし、その後はスノウの理論を拒絶した。彼の理論を受け入れることは、間接的にではあっても病気の感染源である他人の糞便を、自分の口から飲み下していたことを知ることであり、そのことは大部分の大衆にとって、考えるのもおぞましいことであったからである。

コレラ大発生後に行われたスノウによるコレラの分析編集

コレラとコレラの発生に関するスノウの分析は、ブロード・ストリートのポンプの閉鎖を超えて広がった。彼は、コレラは人体内の消化管を通って伝染し、それに影響を及ぼした、と結論した。コレラは循環器系にも神経系にも影響を及ぼさず、「血中の毒...連続した熱の中で...血液が循環中に入ることから毒になる」ということはないだろう。また、スノウによると、この「尿素」("urea")が、腎不全によって血に入るのだろうとのことであった[23]。なお、急性腎不全はコレラの合併症の1つであることが現在では知られている。

したがって、発熱は腎不全によって引き起こされたのであって、被験者の血流中にすでに存在している中毒によって引き起されたのではなかった。瀉血のような行為は、このような場合、効果的ではあるはずがない。

スノウはまた、コレラは瘴気の所産ではない、と主張した。「コレラの拡大を説明するものは空気中に何もない。("There was nothing in the air to account for the spread of cholera")[24]」スノウによると、コレラは大気によって感染拡大するのではなく、物質を経口摂取することによって拡散されるのだという。スノウは、2人の船員、1人はコレラあり、もう1人はコレラなしの事例を引証した。結局は、2人目の患者も、1人目の患者の体液を偶発的に摂取したために病気になった。

ヘンリー・ホワイトヘッドの関わり合い編集

 
ヘンリー・ホワイトヘッド師

ヘンリー・ホワイトヘッド師は、1854年のコレラ大発生の間にソーホー地区の聖ルカ教会(St. Luke's church)のアシスタントキュレートであった。

ホワイトヘッドは瘴気説を信じていたが、コレラがヒトの廃棄物で汚染された水の消費によって広がるというスノウの考えに影響された。スノウの作業、特にソーホー地区のコレラ犠牲者の地図は、ホワイトヘッドに、ブロード・ストリートのポンプが地域伝染の源である、と確信させた。ホワイトヘッドは、汚染を、欠陥のある汚水溜めと大発生の指針症例(index case)(コレラの赤子(the baby with cholera))まで追うことで、スノウに合流した [25]

スノウとのホワイトヘッドの作業は、人口統計の研究を科学的観察と組み合わせるという、疫学の研究における重要な先例を作った[26]

保健委員会編集

ロンドンの大気環境を研究するために、ロンドンの保健委員会に科学調査委員会[27]が置かれた。委員会はロンドンの幾つかの水道会社からの水の試料を調べ、最も汚染された給水がサウス・ロンドンの複数の水会社、サウスウォーク(Southwark)とヴォクソール(Vauxhall)から来ることを突き止めた[3]

科学調査委員会に所属していた、リチャード・ダンダス・トムソン(Richard Dundas Thomson)とアーサー・ヒル・ハッサール(Arthur Hill Hassall)は、トムソンが「ヴィブリオン」("vibriones")と呼んでいるものを調べた。トムソンは、さまざまなコレラ病棟の空気の標本中のヴィブリオンの発生を調べたし、ハッサールは水の標本中のヴィブリオンを観察した。どちらもコレラの原因としてヴィブリオンを特定しなかった[3]

コレラ大流行の調査の一部として、保健委員会は、ゴールデン・スクウェア(Golden Square)周辺とその住民の状態を詳細に調べるために、内科医達を送った。ただ、保健委員会は最終的には、1854年の大流行を瘴気に帰した[3]

ドクター・ランカスターによる評価編集

エドウィン・ランカスター博士は、1854年のブロード・ストリートのコレラ流行を研究した地元の研究コングロマリットの医師であった。1866年、ランカスターはコレラ発生の原因はポンプ自体にあるというスノウの結論について書いている。ランカスターは当時、スノウに同意していたが、彼の意見はスノウ同様、公には支持されていなかった。ランカスターはその後、スノウの理論と感染パターンに関するデータをもとにポンプを閉鎖し、感染率は大幅に低下した。ランカスターは最終的に、ポンプがあったロンドンのセントジェームズ地区の初代衛生官に任命された[24]

21世紀のブロードウィック・ストリート・ポンプ編集

1992年、レプリカのポンプが1854年の現場に設置された。毎年、ジョン・スノウ協会(John Snow Society)が、公衆衛生をテーマにした「ポンプハンドル講義」("Pumphandle Lectures")を開催している。再開発のためにポンプが取り外された2015年8月までは、ここで式典を開き、そこでスノウの歴史的発見に敬意を払うためにポンプのハンドルを取り外し、再び取り付けた。歴史的なポンプの元の場所には、赤色花崗岩の舗装材料によって目印がつけられている。さらに、角にあるジョン・スノウのパブ(John Snow pub)の標識には、この現場でのスノウの調査結果の重要性が説明されている[28]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ peculiarは「変な、一風変わった」という意味の英語だが、さらに「気の狂った」という意味で用いられることもある。つまり、遠回しに、mad、つまり「気が狂っている、正気ではない」と言っているのである。

出典編集

  1. ^ The Red Granite kerbstone mark is the site of the historic Broad Street pump associated with Dr John Snow's discovery in 1854 that cholera is conveyed by water.'
  2. ^ Eyeler, William (July 2001). “The changing assessments of John Snow's and William Farr's Cholera Studies”. Sozial- und Präventivmedizin 46 (4): 225–32. doi:10.1007/BF01593177. PMID 11582849. 
  3. ^ a b c d Paneth, N; Vinten-Johansen, P; Brody, H; Rip, M (1998-10-01). “A rivalry of foulness: official and unofficial investigations of the London cholera epidemic of 1854.”. American Journal of Public Health 88 (10): 1545–1553. doi:10.2105/ajph.88.10.1545. ISSN 0090-0036. PMC: 1508470. PMID 9772861. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1508470/. 
  4. ^ a b Frerichs, Ralph R.. “Broad Street Pump Outbreak”. www.ph.ucla.edu. 2017年2月24日閲覧。
  5. ^ Paneth, Nigel; Vinten-Johansen, Peter (October 1998). “A Rivalry of Foulness: Official and Unofficial Investigations of the London Cholera Epidemic of 1854”. American Journal of Public Health 88 (10): 1545–1553. doi:10.2105/ajph.88.10.1545. PMC: 1508470. PMID 9772861. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1508470/. 
  6. ^ a b Broad Street Cholera Pump” (英語). Atlas Obscura. 2017年2月24日閲覧。
  7. ^ a b c d e Frerichs, Ralph R.. “Competing Theories of Cholera”. www.ph.ucla.edu. 2017年3月5日閲覧。
  8. ^ “John Snow | British physician”. Encyclopedia Britannica. https://www.britannica.com/biography/John-Snow-British-physician 2017年7月28日閲覧。 
  9. ^ "cleansing and scouring, rather than through the purer scientific approach of microbiology"
  10. ^ “John Snow | British physician” (英語). Encyclopedia Britannica. https://www.britannica.com/biography/John-Snow-British-physician 2017年7月28日閲覧。 
  11. ^ Snow, John (1855). On the Mode of Communication of Cholera. London: John Churchill. http://www.ph.ucla.edu/epi/snow/snowbook.html 
  12. ^ “John Snow | British physician” (英語). Encyclopedia Britannica. https://www.britannica.com/biography/John-Snow-British-physician#ref1085324 2017年2月24日閲覧。 
  13. ^ a b Snow 1855.
  14. ^ a b c d Snow 1855, pp. [1].
  15. ^ "the most terrible outbreak of cholera which ever occurred in this kingdom"
  16. ^ "She herself (Nightingale) was up night and day from Friday afternoon (Sept. 1) to Sunday afternoon, receiving the poor creatures (chiefly fallen women of that neighbourhood - they had it the worst) who were being constantly brought in - - undressing them - putting on turpentine stupes, etc, doing it herself to as many as she could manage")O'Malley, Ida (1931). Florence Nightingae, 1820-1856, A Study of Her Life Down to the End of the Crimean War. London: Thornton Butterworth. p. 208 
  17. ^ 北緯51度30分48秒 西経0度8分12秒 / 北緯51.51333度 西経0.13667度 / 51.51333; -0.13667座標: 北緯51度30分48秒 西経0度8分12秒 / 北緯51.51333度 西経0.13667度 / 51.51333; -0.13667
  18. ^ Snow 1855, p. 38.
  19. ^ Snow 1855, p. 45.
  20. ^ Johnson, Steven (2006). The Ghost Map: The Story of London's Most Terrifying Epidemic – and How it Changed Science, Cities and the Modern World. Riverhead Books. pp. 195–196. ISBN 978-1-59448-925-9 
  21. ^ Snow 1855, p. 42.
  22. ^ Snow 1855, pp. 39-40.
  23. ^ Knobel, B.; Rudman, M.; Smetana, S. (1995-12-15). “[Acute renal failure as a complication of cholera]”. Harefuah 129 (12): 552–555, 615. ISSN 0017-7768. PMID 8682355. 
  24. ^ a b Frerichs, Ralph R.. “John Snow and the removal of the Broad Street pump handle”. www.ph.ucla.edu. 2017年3月5日閲覧。 “ドクター・エドウィン・ランカスターは次のように書いた:「貧民救助法施行委員会(Board of Guardians)は、何をすべきかについて協議するために集まった。その会合に、スノウ博士は聴衆を要求した。彼は認められ、そしてブロード・ストリートのポンプが、しかもそのポンプだけが、全ての疫病の原因であるということを自分の意見として述べた。彼は信じてもらえなかった--同業者は1人も、教区で1人もスノウが正しいと信じなかった。しかしポンプはそれにもかかわらず閉鎖され、疫病は食い止められた。」('The Board of Guardians met to consult as to what ought to be done. Of that meeting, the late Dr. Snow demanded an audience.He was admitted and gave it as his opinion that the pump in Broad Street, and that pump alone, was the cause of all the pestilence.He was not believed -- not a member of his own profession, not an individual in the parish believed that Snow was right.But the pump was closed nevertheless and the plague was stayed.')”
  25. ^ Johnson, Steven (2006). The Ghost Map: The Story of London's Most Terrifying Epidemic – and How it Changed Science, Cities and the Modern World. Riverhead Books. p. 206. ISBN 978-1-59448-925-9 
  26. ^ Frerichs, Ralph R (2006年10月11日). “Reverend Henry Whitehead”. 2007年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年12月10日閲覧。
  27. ^ Committee for Scientific Inquiries,Board of Health in London
  28. ^ Broad Street Cholera Pump” (英語). Atlas Obscura. 2017年3月5日閲覧。

参考文献編集

外部リンク編集