プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムス

プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムスラテン語: Publius Sulpicius Galba Maximus, 紀元前3世紀頃 - 紀元前2世紀頃)は、共和政ローマ政務官。主にギリシャ方面を担当した。


プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムス
P. Sulpicius Ser. f. P. n. Galba Maximus[1]
出生 不明
死没 不明
出身階級 パトリキ
一族 ガルバ
氏族 スルピキウス氏族
官職 執政官(紀元前211年)
プロコンスル(紀元前210-206年)
レガトゥス(紀元前205-204年)
独裁官(紀元前203年)
執政官 II(紀元前200年)
プロコンスル(紀元前199年)
レガトゥス(紀元前197-195年、193-192年)
指揮した戦争 第二次ポエニ戦争
第一次マケドニア戦争
第二次マケドニア戦争
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経歴 編集

第二次ポエニ戦争中の紀元前211年、ガルバは執政官に就任した。この年、カルタゴハンニバルが、軍を率いて首都ローマまで迫った。ガルバの手元には2個軍団があったが、彼は正面対決を避け、ハンニバルが後退するのを待った。

紀元前210年から紀元前206年にはプロコンスルとして艦隊を預かり、第一次マケドニア戦争を戦った。ガルバはローマの艦隊を率いてエーゲ海に入り、紀元前210年にアイギナ島を占拠した。翌年にはアッタロス1世と組んでピリッポス5世と戦う[2]。更にアイトーリアを引き込んでリムノス島スコペロス島エヴィア島ロクリスを攻撃している[3]。しかし、この方面の作戦はローマ本国ではあまり注意が払われなかった[4]

紀元前203年、ガルバは独裁官に就任した。カピトリヌスのファスティには選挙管理の為とあるが、ティトゥス・リウィウスによれば、この年の執政官グナエウス・カエピオアフリカ出征を阻止し、イタリアの戦争被害調査を行っている[5]

紀元前200年には再び執政官に選出され、第二次マケドニア戦争に当たった。ガルバは秋にイピロスに入り、アポロニアで冬を越した[6]

紀元前197年紀元前196年、ガルバはティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスの下でギリシャ問題にあたった。また、外交官としてセレウコス朝アンティオコス3世の下へ派遣された。

出典 編集

  1. ^ MRR1, p. 272.
  2. ^ MRR1, p. 287.
  3. ^ MRR1, p. 292.
  4. ^ MRR1, p. 300.
  5. ^ MRR1, p. 311.
  6. ^ MRR1, p. 323.

参考文献 編集

  • T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 
公職
先代
アッピウス・クラウディウス・プルケル
クィントゥス・フルウィウス・フラックス III
執政官 I
同僚:グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス
紀元前211年
次代
マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス II
マルクス・クラウディウス・マルケッルス IV
先代
グナエウス・コルネリウス・レントゥルス
プブリウス・アエリウス・パエトゥス III
執政官 II
同僚:ガイウス・アウレリウス・コッタ
紀元前200年
次代
ルキウス・コルネリウス・レントゥルス
プブリウス・ウィッリウス・タップルス