プリュトン (: Pluton) は[注釈 1]フランス戦間期に建造した軽巡洋艦で、フランス海軍では敷設巡洋艦に分類していた[注釈 2]。 艦名はローマ神話プルートーに由来し、フランス海軍で何代も襲名されてきた。 第二次世界大戦勃発直後の1939年9月13日カサブランカ機雷の爆発事故を起こし[4]、破壊された[5]

プリュトン
基本情報
建造所 ロリアン工廠
運用者  フランス海軍
艦種 軽巡洋艦(敷設巡洋艦)
前級 デュゲイ・トルーアン級
次級 ジャンヌ・ダルク
建造費 102,671,658フラン
艦歴
起工 1928年4月16日
進水 1929年4月10日
就役 1932年1月25日
最期 1939年9月13日、爆発事故で破壊
改名 ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(1940年予定)
要目
基準排水量 5,300 トン
満載排水量 6,214 トン
全長 152.5 m
水線長 144.0 m
最大幅 15.5 m
吃水 5.2 m
主缶 ジロンド式重油専焼細管ボイラー×2基
ノルマン式重油専焼細管ボイラー×2基
主機 ブレゲー式ギヤード・タービン×2基
出力 57,000馬力 (43,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 30ノット (56 km/h)
航続距離 4,500海里 (8,300 km)/14ノット
乗員 513名
兵装
装甲 砲の防楯: 20 mm
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概要

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第一次世界大戦では、北海において連合軍ドイツ帝国海軍機雷戦を展開した[6]世界大戦終結後、フランス海軍は、高速兵員輸送艦としても活用できる機雷を敷設可能な巡洋艦の建造を要望した[6]

イギリス海軍の機雷敷設巡洋艦「アドヴェンチャー」に触発され、1925年海軍整備計画で建造された艦である。艦形は「アドヴェンチャー」よりも小型で防御力も低いが、敵駆逐艦を撃退するだけの火力と、優力な敵艦から逃走可能な30ノットという速力を持っていた。また機雷敷設甲板に居住区画を設けることで最大約1,000名の兵士を収容可能で、高速輸送艦の任務もこなすことができた[6]。戦間期には、砲術学校の練習艦として運用された[6]。フランス海軍は本艦以外にも、機雷敷設巡洋艦として軽巡洋艦エミール・ベルタン」を建造し[7]、1935年より艦隊で運用している[8]

艦形

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船体形状は乾舷の高い長船首楼型船体で外洋での凌波性は良好であった。

艦首から前向きに主砲としてシールド付きの13.8cm単装砲架を背負い式で2基配置、下部に艦橋構造は箱型とし、その上に三脚式の前檣が立つ。艦橋構造の背後から2本の煙突が立っているが、第一次大戦後のフランス海軍ではボイラー室とタービン室を交互に振り分けたシフト配置を採っているために、2本煙突の間隔は1番煙突と2番煙突の間は広く取られている[6]

煙突の間にはシールド付きの7.5cm単装高角砲が片舷2基ずつ計4基が配置され、広い射界を持っていた。2番煙突の後部から艦載艇置き場となっており、後檣の基部に1基が付いた艦載艇用のボート・ダビットで運用された。後檣も三脚式で中部に探照灯台が置かれた。その後ろは上部に測距儀が配置する後部船橋、後ろ向きに背負い式配置で13.8cm単装砲が2基が配置された。艦尾甲板上には片舷2条ずつの機雷投下軌条(レール)が設置され計4条が配された。

舷側にはプロムナード・デッキとされて開口されていたが、砲術練習巡洋艦任務に就いた際に艦内容積の不足が指摘されたため、艦内容積を増やすために開口部を塞いで居住空間が増やされた。フランス海軍で「プルトン」の艦名は伝統的に機雷敷設艦に命名されており、本艦は1940年に「ラ・トゥール・ドーヴェルニュLa Tour d'Auvergne)」と改名され、練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」と共に運用される予定だった。

艦歴

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1925年度計画艦だがフランスの造船事情も絡み、1928年4月に起工、1931年10月に竣工、翌年1月に艦隊へ就役した[6]。193年以降は砲術学校の練習艦として運用され、そのため居住区画を増設した[6]

1939年9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻を開始した[9]大西洋ドイツ海軍ポケット戦艦が出現する懸念があり[注釈 3]、「プリュトン」はフランス保護領モロッコカサブランカ沖に機雷敷設を行う任務を与えられた[6]。機雷120個を搭載し、9月2日にブレストから出航[13][14][注釈 4]襲撃部隊に護衛されて航行し、9月5日にカサブランカに着いた[16]。その途中、「プリュトン」は機雷の安全装置を解除するよう命じられた[16]

機雷敷設は結局中止となり、9月13日に埠頭で機雷を降ろす作業が開始されたが、開始間もないころに機雷の爆発が起きて艦は破壊された[17]。「プリュトン」は18時間にわたって燃え続けた[16]。艦長DuBois大佐以下186名が死亡するか行方不明となり、73名が負傷[16]。他にも21名の死亡ないし行方不明者と26名の負傷者が出た[16]。港湾施設や作業員も多数の死者を出した[18][注釈 5]。後日、いくつかの使えるものは回収され、138.6㎜砲の一つは訓練用として練兵場に据えられた[16]。「プリュトン」は1952年から1953年にかけて解体された[16]

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本語ではプルトンと表記する事例もある[2][3]
  2. ^ 二等巡洋艦“プルトン Pluton”[2] 全要目{排水量4,773噸 速力30節 備砲13.8糎砲4門 起工1928年4月 竣工1931年4月 建造所ロリアン海軍工廠}全長122.05米、幅15.54米、平均吃水5.18米。上記兵装の外に3.7糎速射高角砲を8門及び高角機關銃12門を有す。30節の全速力に要する軸馬力57,000馬力で、重油搭載量は1,200噸である。/“エミイル・ベルタン”と同じく機械水雷敷設装置を有してゐる。右の艦型圖にて艦尾に圓形のものが2列に並置されてゐるのがそれである。二等巡洋艦に機雷敷設装置を取付けてゐるのは決して佛國海軍の此種巡洋艦に限らず、各國海軍もそれぞれ二等巡洋艦には設置してゐるやうであるが、佛國海軍の二等巡洋艦中の所謂敷設巡洋艦は特にその名に背かぬ完備さを誇つてゐるのである。その地勢からして、又世界大戰の經驗からしてかゝる艦種の必要を痛感したのである。
  3. ^ ドイッチュラント級装甲艦3隻のうち[10]、「シェーア」は長期修理中だった[11]。8月中旬以降、「シュペー」と「ドイッチュラント」がドイツ本国を出撃して、イギリス海軍は8月31日にポケット戦艦出撃の事実を知った[12]
  4. ^ イギリスとフランスなど連合国ナチス・ドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が勃発したのは9月3日である[15]
  5. ^ (羅馬十六日同盟)[19] 佛領モロツコのカサブランカより十六日羅馬に達した報道によれば、去る十四日朝カサブランカ港で火藥積込み中の一フランス水雷敷設艦が突如爆發沈没した。尚同艦は沈没後も海中で爆發を繼續し遂に死者四百名負傷者行衞不明者多數を出した(記事おわり)

出典

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  1. ^ http://www.navweaps.com/Weapons/WNFR_55-40_m1927.php
  2. ^ a b ポケット海軍年鑑 1935, p. 153二等巡洋艦プルトン
  3. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 138a敷設巡洋艦「プルトン」輸送能力も有する機雷敷設用巡洋艦
  4. ^ フランス汽船爆發 惨!死者四百 負傷者、行衛不明者多數”. Shin Sekai Asahi Shinbun, 1939.09.18. pp. 03. 2024年12月23日閲覧。
  5. ^ 佛軍艦爆發惨事 乘組員數百名爆死”. Nippu Jiji, 1939.09.16. pp. 01. 2024年12月23日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 138b.
  7. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 130敷設巡洋艦エミイル・ベルタン
  8. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 139.
  9. ^ 同盟旬報80号 1939, p. 58☆獨軍進撃命令下る
  10. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 124–125■ドイツの大型巡洋艦
  11. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 32.
  12. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 81.
  13. ^ "THE FIRST LIGHT CRUISERS OF THE 1922 PROGRAM (Part II)", p. 232, French Cruisers 1922-1956, p. 176
  14. ^ 同盟旬報81号 1939, p. 129フランス船大爆發
  15. ^ 同盟旬報80号 1939, pp. 86–88, 96.
  16. ^ a b c d e f g "THE FIRST LIGHT CRUISERS OF THE 1922 PROGRAM (Part II)", p. 232
  17. ^ "THE FIRST LIGHT CRUISERS OF THE 1922 PROGRAM (Part II)", p. 232, French Cruisers 1922-1956, p. 177
  18. ^ 佛軍艦爆發す”. Kashū Mainichi Shinbun, 1939.09.16. pp. 01. 2024年12月23日閲覧。
  19. ^ 火藥積込み中の佛國船 發火し死者四百”. Nichibei Shinbun, 1939.09.18. pp. 01. 2024年12月23日閲覧。

参考文献

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  • 世界の艦船増刊第50集 フランス巡洋艦史」(海人社)
  • ダドリー・ポープ『ラプラタ沖海戦 グラフ・シュペー号の最期』内藤一郎(第5版)、早川書房〈ハヤカワ文庫ノンフィクション〉、1978年8月。ISBN 4-15-050031-2 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「フランスの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『同盟旬報第3巻第25号(通号080号)、昭和14年9月20日作成、同盟通信社』1939年9月。Ref.M23070016000。 
    • 『同盟旬報第3巻第26号(通号081号)、昭和14年9月30日作成、同盟通信社』1939年9月。Ref.M23070016200。 
  • John Jordan, Jean Moulin, French Cruisers 1922-1956, Seaforth Publishing, 2013, ISBN 978-1-84832-133-5
  • Jean Guiglini, Albert Moreau, "THE FIRST LIGHT CRUISERS OF THE 1922 PROGRAM: The Minelaying Cruiser "Pluton" (Part II)", Warship International Vol. 29, No. 3, International Naval Research Organization, 1992, pp. 225-243

関連項目

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