プロレスリングZERO-ONE

プロレスリングZERO-ONE(プロレスリング・ゼロ-ワン)は、日本プロレス団体

ZERO-ONEは明言してないが業務提携を結んでいたアメリカのプロレス団体「NWA」はZERO-ONEをNWA日本支部として位置付けていた。

2004年11月25日、ZERO-ONE活動停止後に元所属選手と元スタッフが中心となり後継のプロレス団体「プロレスリングZERO1-MAX(プロレスリング・ゼロワン-マックス)」を設立。2009年1月1日、同団体と同じ読みで表記を変えたプロレス団体「プロレスリングZERO1(プロレスリング・ゼロワン)」に改称。

目次

歴史編集

2000年4月7日新日本プロレス東京ドーム大会で橋本真也小川直也との5度目のシングル戦に挑むことになった。その際に自らの引退をかけることになった。だが小川に敗れて公約通り引退。しかし熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた百万羽の折り鶴をきっかけに8月23日、引退撤回を表明。10月9日、新日本プロレス東京ドーム大会で復帰。復帰後、橋本は他団体との対抗戦に意欲を燃やして新日本に団体内組織「新日本プロレスリングZERO」の設立を表明。これは橋本の後見人的立場をとっていた藤波辰爾長州力ら当時の主流派に対抗する目的で設立を後押ししたという説もある。しかし、このことは新日本の上層部との対立を招いた。原因は新日本が全日本プロレスとの交流を進めていたのに対して橋本がプロレスリング・ノアとの対抗戦を望んでいたことが対立の主因とされる。11月13日、橋本の完全独立宣言とともに新日本は橋本を解雇。

2001年1月25日、橋本は大谷晋二郎高岩竜一、営業部の中村祥之など自身の趣旨に賛同して新日本を退団、退社したスタッフと共にZERO-ONEを設立するに至った。3月2日両国国技館で旗揚げ戦を開催。その後、ノアの協力、小川の参戦、武藤敬司が率いる全日本との対抗戦なども有り徐々に規模を拡大。2003年5月、テレビ東京が月1回のペースで「破壊王プロレスZERO-ONE」と題して地上波放送を開始。2004年8月、橋本が左肩手術のため欠場すると主力外国人選手をFEGに引き抜かれるなどして興行不振に陥り新日本との対抗戦実現を巡って橋本と所属選手、フロントとの意見対立も表面化。11月25日、橋本は記者会見を行い活動停止を発表。この時点で有限会社ゼロ・ワンが抱えていた負債は約1億円といわれる。橋本を除く元所属選手は元専務取締役の中村がファースト・オン・ステージを設立してプロレスリングZERO1-MAX(現:プロレスリングZERO1)の団体名の下に再出発。

伝説の旗揚げ戦編集

2001年3月2日両国国技館で開催した旗揚げ戦では「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ」との理念を掲げた。メインイベントは、それまでのプロレス界の常識を超えるすさまじいものになった。橋本真也新日本プロレス永田裕志とタッグを組みプロレスリング・ノア三沢光晴&秋山準組と対決。この初顔合わせはファンの注目はもちろんゲスト解説を務めた武藤敬司ら他団体の選手達の注目までも集めた。試合は19分10秒に三沢がジャーマン・スープレックスから片エビ固めで橋本からフォールを奪うがゴングが鳴った後も橋本は秋山を攻め続けたためZERO-ONE勢とノア勢の乱闘に発展。そこに観戦に訪れていた小川直也が登場して橋本に「だらしねぇ試合してんじゃねぇ!コノヤロー!」と絶叫。さらに三沢にも「三沢!受けてもらおうじゃねぇか!勝負を!」と怒鳴ったため三沢が激怒して小川に殴りかかった。さらに橋本の陣営に付いていた藤田和之までもがリングで「誰が一番強いか!決めりゃいいんだ!」と絶叫して複雑な対立構図が完成してファンを大いに驚かせた。しかし三沢は「お前らのな思うとおりにはさせねぇよ!絶対!」とリングを降りると橋本が「三沢!思うとおりにするから憶えておけ!」とまとめた。結局、ZERO-ONEとノア、小川、藤田との対立構図はこの一夜のみの出来事であったが、その後、ノア所属選手が新日本に参戦するなど、この試合を契機に団体間の垣根は急速に低くなりプロレス界の交流が活発になった。

タイトル編集

所属選手編集

スタッフ編集

レフェリー編集

リングアナウンサー編集

役員編集

代表取締役社長編集

専務取締役編集

来日外国人選手編集

歴代タッグチーム編集