ベオグラード包囲戦 (1440年)

ベオグラード包囲戦(ベオグラードほういせん、セルビア語: Опсада Београдаトルコ語: Belgrad Kuşatması)は、セルビア専制公領英語版の要塞都市ベオグラードへの包囲。ベオグラードは1439年にオスマン帝国がセルビアを征服した後、ハンガリー王国英語版の防御線における重要な要塞であり、オスマン軍は1440年にベオグラードを5か月間にわたって包囲した[3]

ベオグラード包囲戦
戦争オスマン・ヨーロッパ戦争英語版セルビア・オスマン戦争英語版
年月日1440年4月末 - 10月
場所セルビア専制公領英語版ベオグラード
結果:ハンガリーとセルビアの勝利
交戦勢力
オスマン帝国 Flag of Vladislaus I of Hungary.svg ハンガリー王国英語版
セルビア専制公領英語版
指導者・指揮官
ムラト2世
アリー・ベイ・エヴレノスオール英語版
ヨヴァン・タロヴァッチ英語版
戦力
不明[1]
損害
17,000(キリスト教側の文献による)[2]

背景編集

ハンガリー王位とスラヴォニアクロアチア=ハンガリー同君連合英語版)王位をめぐる争いが内戦に発展すると、オスマン帝国はそれに乗じて進軍、スルターンのムラト2世はベオグラードの占領を決定した[4]

両軍編集

オスマン軍の指揮官はムラト2世Ali Bey Evrenosoğluだった。オスマン軍はベオグラードの周りに壁を建て、そこから投石でベオグラードを攻撃した[5]。また1439年に鹵獲したスメデレヴォ製の大砲も使用した[6]

ベオグラード駐留軍の戦力は不明で[1]、城の守備についてはセルビア専制公ステファン・ラザレヴィッチ英語版の治世(1402年 - 1427年)に大砲が設置されていただけだった[7]イヴァン・タロヴァッチ英語版のクロアチア兵約500人のほか、チェコ人イタリア人弓兵が傭兵として加勢した。現地のハンガリー人も守備軍を手伝った[8]。タロヴァッチの軍勢は一部が銃が使えたため優位に立ち、これが対オスマン軍の戦闘で銃を使用した最初の例である[9]

戦闘編集

ムラト2世は1440年4月末に軍を率いてベオグラードに接近した[10]。タロヴァッチは最初はオスマン軍が大軍であることに気付かずに会戦で撃破しようとしたが、城から出てすぐに気づき、城内に引き返した[8]。ムラト2世はベオグラードを包囲して陣地を築き、大砲や攻城塔の設置を命じた[8]コンスタンチン・ミハイロヴィッチ英語版によると、ベオグラードの城壁にオスマン帝国の旗をはためかせたオスマン兵にはベイの称号と相応の領地が約束されたという。Evrenosoğluはすでにベイの称号を有したが、自身の名声をさらに高めようとして自らベオグラード城壁への強襲を率いたという[11]

脚注編集

  1. ^ a b Šolajić, Dragutin (1954). Ratna prošlost Beograda. Beogradske novine. p. 50. Колика је била јачина београдске посаде није познато
  2. ^ T͡Svetkova, Bistra Andreeva (1979). Pametna bitka na narodite: evropeĭskii͡a︡t i͡u︡goiztok i osmanskoto zavoevanie--krai͡a︡ na XIV i pŭrvata polovina na XV v (ブルガリア語). Kn-vo "Georgi Bakalov". p. 91. ...17 000 жертви в тия тежки сражения за овладяване
  3. ^ Jefferson 2012, pp. 236–240.
  4. ^ Magaš, Branka (2007). Croatia through history: the making of a European state (英語). Saqi. p. 74.
  5. ^ Babinger, Franz (1992). Mehmed the Conqueror and His Time (英語). Princeton University Press. pp. 18–. ISBN 0-691-01078-1
  6. ^ Parry, Vernon J.; Yapp, Malcolm (1975). War, technology and society in the Middle East (英語). Oxford University Press. p. 185.
  7. ^ Tasić, Nikola (1995). Istorija Beograda. Srpska akademija nauka i umetnosti, Balkanološki institut. p. 67. Град јс био снабдевен топовима који су били распорсђени још у времс деспота Стефана Лазаревића.
  8. ^ a b c Klaić, Vjekoslav (1901). Povjest Hrvata: od najstarijih vremena do svršetka XIX. stoljeća. Tisak i naklada knjižare L. Hartmana (Kugli i Deutsch). p. 175.
  9. ^ Prosvjeta. Društvo hrvatskih književnika. 1908. p. 415. Tako je dakle Ivan Talovac mogao prvi upotiebiti puške u ratu s Turcima.
  10. ^ Klaić, Vjekoslav (1901). Povjest Hrvata: Dio 1. Treće dova: Vladanje kraljeva iz raznih porodica (1301-1526) 1. knj. Anžuvinci i Sigismund do gubitka Dalmacije (1301-1409). Tisak i naklada knjižare L. Hartmana. p. 175.
  11. ^ Jefferson 2012, pp. 240–244.

参考文献編集

関連図書編集

座標: 北緯44度29分 東経10度17分 / 北緯44.49度 東経10.28度 / 44.49; 10.28