ベルナール・ダルニッシュ
ベルナール・ダルニッシュ(Bernard Darniche、1942年3月28日 - )はフランスの元ラリードライバー、元レースドライバー。
ベルナール・ダルニッシュ | |
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基本情報 | |
国籍 | フランス |
生年月日 | 1942年3月28日(82歳) |
WRCでの経歴 | |
活動時期 | 1973 – 1987 |
所属チーム |
アルピーヌ・ルノー ランチア フィアット アウディ |
出走回数 | 38 |
チャンピオン回数 | 0 |
優勝回数 | 7 |
表彰台回数 | 11 |
ステージ勝利数 | 115 |
通算獲得ポイント | 87 |
初戦 | 1973 ラリー・モンテカルロ |
初勝利 | 1973 ラリー・モロッコ |
最終勝利 | 1981 ツール・ド・コルス |
最終戦 | 1987 ツール・ド・コルス |
ランチア・ストラトスを駆り、1976年と1977年にヨーロッパ・ラリー選手権、1976年と1978年にフランス・ラリー選手権を制覇した。また「ターマックのスペシャリスト」としてツール・ド・コルスを6回制し[1]、この偉業は後に並んだディディエ・オリオールとともに最多勝記録である。
経歴
編集1967年ラリーにデビューしたダルニッシュは、1970年アルピーヌ・ルノーのワークスドライバーとなり、1972年フランス・ラリー選手権を初制覇。1973年に新設された世界ラリー選手権大会に参戦し、第16回ラリー・モロッコに優勝、第44回アルペン・ラリーで2位となり、アルピーヌ・ルノーのコンストラクターズタイトル獲得に貢献した。1977年に創設された FIA カップ・ラリードライバーズ選手権では3位となり、3年連続してドライバーズ選手権でトップ10入りを果たした。またこの間、ルノーを離れるとWRCにおいては1974年のコルスより1978年までフィアット、ランチアワークス、フランス国内ディーラーによる有力プライベーター「シャルドネ」チームと渡り歩きながらフィアット・124アバルトラリー、ランチア・ストラトス、フィアット・131アバルトとフランス国内中心の活動に留まるも、最終的には1979年よりシャルドネへ留まり1975、1977、1979、1980年の4回、ランチア・ストラトスでツールド・フランス・オートモビルで優勝している。ル・マン24時間レースにも出場し、1978年ロンドー M378 で総合9位( GTP クラス優勝)、1979年にはロンドー M379 で5位となった。
1979年ラリー・モンテカルロでは、年頭のツールドコルス前よりワークスチームと協力体制を敷いた[2]チーム・シャルドネのランチア・ストラトスで劇的な逆転優勝を遂げた。支給された粗悪ガソリンによるキャブレーション不良[3]に悩まされ、6分27秒遅れの6位で最終日を迎えたダルニッシュは、マリオーリの徹夜による燃料系(キャブレター含む)調整作業によりトラブルを克服。回せなかったエンジンも全開で回せるようになり10 の SS 全てでトップタイムを叩き出し、最終 SS チュリニ峠で首位のフォード・エスコート 1800 のビョルン・ワルデガルドを6秒差で逆転した。[4]。彼は標高1,600メートルのアルプスの雪と氷の峠道で通常夜間行われていた難所、チュリニ峠ステージの最多勝利記録を保持している。いわゆる「長いナイフの夜」[5]で、ダルニッシュは 10 のイベントに勝利した[6]。
その後もWRCでは1987年まで唯一得意とするコルスとモンテカルロでスポット参戦しており、シャルドネでランチア・037ラリー、プライベーターとしてワークスで一時的に各車の手ごたえを掴んではアウディ・クワトロ、プジョー・205ターボ16、メルセデス・ベンツ 190E等で参戦していた。
引退後
編集近年では地元フランスでのTV、ラジオの自動車番組にゲスト出演するかたわら、2010年秋に開催されたランチア・ストラトス「コレクターズミーティング」メンバーによる40周年復興プロジェクトであるニューストラトスの完成プレス向けイベントに招かれ試乗。ドライブフィール上のアドバイス等もしている。[7]
戦績
編集タイトル
編集年 タイトル 搭乗車 1972 フランス・ラリー選手権 アルピーヌ・ルノー A110 1800 1976 ヨーロッパ・ラリー選手権 ランチア・ストラトス HF 1976 フランス・ラリー選手権 ランチア・ストラトス HF 1977 ヨーロッパ・ラリー選手権 ランチア・ストラトス HF 1978 フランス・ラリー選手権 ランチア・ストラトス HF
世界ラリー選手権での勝利
編集# イベント シーズン コ・ドライバー 搭乗車 1 第13回 ラリー・モロッコ 1973 アラン・マエ アルピーヌ・ルノー A110 1800 2 第19回 ツール・ド・コルス - ラリー・ド・フランス 1975 アラン・マエ ランチア・ストラトス HF 3 第21回 ツール・ド・コルス - ラリー・ド・フランス 1977 アラン・マエ フィアット 131 アバルト 4 第22回 ツール・ド・コルス - ラリー・ド・フランス 1978 アラン・マエ フィアット 131 アバルト 5 第47回 ラリー・モンテカルロ 1979 アラン・マエ ランチア・ストラトス HF 6 第23回 ツール・ド・コルス - ラリー・ド・フランス 1979 アラン・マエ ランチア・ストラトス HF 7 第25回 ツール・ド・コルス - ラリー・ド・フランス 1981 アラン・マエ ランチア・ストラトス HF
世界ラリー選手権リザルト
編集
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- 1973 - 1976年はコンストラクターズ選手権のみ開催。
- 1977、1978年シーズンは、FIA カップ・ラリードライバー( FIA Cup for Rally Drivers )が WRC 全イベントの他に 10 のイベントも含めて争われた。
ル・マン24時間レース
編集年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1972年 | ジョン・グリーンウッド レーシング | アラン・クーディニ ジョン・グリーンウッド |
シボレー・コルベット | GTS +5.0 |
82 | DNF | DNF |
1976年 | IMSA キャメル | ジョン・グリーンウッド | シボレー・コルベット スティングレイ | IMSA GT |
29 | DNF | DNF |
1978年 | ジャン・ロンドー | ジャン・ロンドー ジャッキー・ハラン |
ロンド―・M378-フォード コスワース | GTP 3.0 |
294 | 9位 | 1位 |
1979年 | VSD キャノン ジャン・ロンドー | ジャン・ラニョッティ | ロンドー・M379-フォード コスワース | S +2.0 |
292 | 5位 | 1位 |
1980年 | スクーデリア・ランチア・コルセ | ハンス・ヘイヤー テオ・ファビ |
ランチア・ベータ・モンテカルロ | Gr.5 | 6 | DNF | DNF |
1981年 | BMW イタリア-フランス チーム BMW モータースポーツ |
フィリップ・アリオー ジョニー・チェコット |
BMW・M1 Gr.5 | Gr.5 | 277 | 16位 | 5位 |
脚注
編集- ^ 1970年、1975年、1977年、1978年、1979年、1981年。
- ^ 過程として、ランチアワークスは親会社フィアットの意向とレギュレーション改正でのユニット単位でのパフォーマンスダウンに抗うかの如く充分な支援を得られない中での苦肉の策として、79年レギュレーションに適合する世代前パワーユニット(4バルブ→2バルブエンジン)チューンをワークスエンジニアであるクラウディオ・マリオーリに依頼し、ピレリの試作タイヤ支援もコルスに間に合う形で功を制した事がこのシーズン2勝の確信に繋がる。
- ^ 元々彼の駆るストラトスはピーキーなエンジン。当然トラブルシュート中により原因がはっきりするまで7000回転付近まで回転数を抑えつつ走っていた。この為、フィアット勢は抑えられてもフォード勢には苦戦していた。
- ^ なおワルデガルドには最終 SS で観客が置いた岩を除けるため30秒余りを失うトラブルがあった。- “47ème Rallye Automobile de Monte-Carlo”. RallyBase. 2011年11月5日閲覧。
- ^ 夜の闇を切り裂くハイビームの光からこのように呼ばれた。
- ^ “Turini Winners”. col-de-turini.com. 2011年11月5日閲覧。
- ^ new-stratos.com 10 The Presentation (英語)より 2011年4月19日閲覧。
参考文献
編集- “Bernard Darniche”. RallyBase. 2007年2月17日閲覧。