ペトロニーユ・ダキテーヌ

ペトロニーユ・ダキテーヌ (Pétronille d’Aquitaine、1125年頃 - 1193年頃)は、アキテーヌ公ギヨーム10世と妃アエノール・ド・シャテルローの娘。アリエノール・ダキテーヌの妹。

ペトロニーユ・ダキテーヌ
Pétronille d’Aquitaine

出生 1125年
死去 1193年
配偶者 ヴェルマンドワ伯ラウル1世
子女 エリザベート
ラウル2世
エレオノール
家名 ポワティエ家
父親 アキテーヌ公ギヨーム10世
母親 アエノール・ド・シャテルロー
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アリックス(Alix)、オック語でエリット(Aelith)と様々な名で呼ばれた。結婚後はアリックスと呼ばれた一方で、ペトロニーユは幼年時代の名称とみられる。

彼女は姉アリエノールに連れられてフランス宮廷へやってきて、当時16歳前後と若く美しかったペトロニーユは父より年上の壮年で、義兄フランス王ルイ7世の従兄にあたるヴェルマンドワ伯ラウル1世と出会い、恋愛関係になる。

しかし、ラウル1世は既に妻ブロワ家出身の妻エレオノール・ド・シャンパーニュがいた。彼は王妃アリエノールにより、妻と離婚し、ペトロニーユと結婚した[1]

しかし、ラウルに離縁されたエレオノールの実兄であるブロワ伯ティボー4世が妹が受けた仕打ちに激怒し、事件をローマ法皇に陳情したため、ラウル1世とペトロニーユ夫妻、ラウルと先妻の婚姻の無効を命じたルイ7世、それを宣言したサンスの司教はローマ教皇によって破門された。教皇インノケンティウス2世は破門の取り下げを約束したが、1143年に約束を撤回した。

フランス王家とブロワ家の間で戦闘が起こり、ルイ7世はヴィトリー=ル=フランソワの町を燃やした。最終的に教皇が崩御し、彼の後継者ケレスティヌス2世はランス公会議で破門を解除した。しかし、結局ペトロニーユとラウルは離婚し、翌年にラウルはティエリー・ダルザスの娘ローレットと再婚した。

その後、ペトロニーユはフランス宮廷の一員であり続け、夫ヘンリー2世に幽閉されていた姉アリエノールを定期的に訪問していた。ヘンリー2世が死ぬとアリエノールは解放され、ペトロニーユはフランス帰国を計画した。しかし、1189年以後のペトロニーユの記録が不足する。ペトロニーユはイングランドからフランスへ戻る旅の途上で熱を出し、港に到着する前、1190年代初めに亡くなったと伝えられている。

子女編集

夫ヴェルマンドワ伯ラウル1世と結婚している間に1男2女もうけているが、いずれの子も結婚したが、3人とも子宝に恵まれず(次女エレオノールが3人目の夫との間に1人女児を一度産むが乳児の内に夭折)、ペトロニーユの直系子孫は残っていない。

  • エリザベート(1143年 - 1183年) - フランドル伯フィリップ1世と結婚
  • ラウル2世(1145年 - 1167年) - ヴェルマンドワ伯。マルグリット・ダルザスと結婚、しかし子を遺さずハンセン病で若死
  • エレオノール(1148年/1149年 - 1213年)オストゥルヴァン伯ジョフロワ・ド・エノー、ヌヴェール伯ギヨーム4世、ブローニュ伯マチュー・ド・アルザス、フランス王家に財務官として仕えたボーモン=シュル=オワーズ伯マチュー3世らと結婚

脚注編集

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  1. ^ エレオノールとラウル1世が親族に当たることに目を付けたアリエノールは、それを理由として2人の婚姻の無効を教会に主張し、離婚を成立させたが、ラウル1世の父方の高祖母アデライード・ダキテーヌポワティエ家の生まれであり、ラウルとペトロニーユもまた、アキテーヌ公ギヨーム3世を共通祖先に持った血族結婚の夫婦である。