ペリェシャツ半島
ペリェシャツ半島(ペリェシャツはんとう、Pelješac クロアチア語の発音:[pɛ̌ʎɛʃats])(地元のChakavian方言:Pelišac;イタリア語:Sabbioncello)は、クロアチアのダルマチア南部にある半島。ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の一部であり、クロアチアで二番目に大きい半島である。ストンから始まる峡谷からロビスタ岬まで、長さは65 kmに及ぶ。
由来編集
ペリェシャツという名前は、Orebićの町の丘の名前、Pelisacに由来しているとされる。 「ペリェシャツ」と呼ばれるようになったのは最近のことで、歴史を通して、Stonski Rat、Puncta Stagni、Ponta di Stagno、Sabbioncelloといった他の名前も使われてきた。
地理編集
半島にはカルスト地形が広がる。
半島の西部には、高さ961メートルの最高峰がある。
歴史編集
先史時代編集
ペリェシャツ半島で最も初期の知られている歴史的記録は古代ギリシャのものである。 この地域は、イリリア戦争後にローマのダルマチア地方の一部となった(紀元前220年から紀元前219年まで)。 ローマ人の移住は間もなく続くようになり、6世紀にペリェシャツ半島は東ローマ帝国(ビザンチン)統治下におかれた。
中世編集
6世紀と7世紀の民族大移動で、アバール人とスラヴ人はバルカン半島西部に到達し、ダルマチアの海岸に沿ってネレトヴァ川がアドリア海に入る地域の内部から支配権を握り、コトル湾へと侵入した。彼らが海岸に定住し始めると、地元の沿岸住民は島に追い出された。
デ・アドフェンマント・インペリオ(約960年)によると、この時代、ペリェシャツ半島はセルビア人の居住するザフムリェ(ザックルミア)の一部だった。
セルビアのステファン・ネマニャの兄弟であるMiroslav of Humはザフムリェを持ち、ストンに首都をおいていた。
Zahumlje(以降Humと呼ばれる)はMiroslavljević家の代々の土地だった。1219年、セルビアの聖サワがストンにハムの君主国を設立した。
やがて、セルビアの王のステファン・ネマニッチ(ステファン・ネマニャの息子)は、土地の再分配を行い、ペタルの弟のアンドリヤにストンとペリエサックを譲渡した。
1325年1月22日、ステファン・ウロシュ3世デチャンスキは、ストン市とペリェシャツ半島の彼の海事所有物をラグサ共和国に売却するための文書を発行し、1333年にラグサ共和国に手渡された。
近代編集
フランス帝国は1806年に旧共和国を廃止してこの地域を占領した。 1815年にオーストリア帝国に与えられ、1867年以来オーストリア - ハンガリーの二元君主国のツィスライタニエンの一部となった。 1918年から1991年の間、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の中のクロアチア社会主義共和国に属した。
市町村編集
行政上、半島は以下の自治体に分かれている。[1]
・オレビッチ、人口 4,165人(2001年)
・Trpanj、人口 871人
・ジャンジーナ、人口 593人
・ストン、人口 2,605人
交通編集
ペリェシャツ橋編集
ペリェシャツ半島と本土の間にペリェシャツ橋を架ける計画がある。しかし、将来ネウムに貨物港を建設した際に貨物船の高さが制限されることになるためボスニア・ヘルツェゴビナが反対し、資金的な問題もあって難航している。 両国間で船舶の権利と境界が適切に定義されるまで、建設の開始は継続的に延期されている。
関連項目編集
参考文献編集
- ^ “12. STANOVNIŠTVO PREMA NARODNOSTI, PO GRADOVIMA/OPĆINAMA, POPIS 2001.”. 2019年7月15日閲覧。