ペーローズ1世

サーサーン朝の君主

ペーローズ1世Peroz I, パフラヴィー語: 𐭯𐭩𐭫𐭥𐭰, ペルシア語: پیروز‎)はサーサーン朝の君主(シャーハーン・シャー、在位:459年 - 484年)。

ペーローズ1世
𐭯𐭩𐭫𐭥𐭰
シャーハーン・シャー
Iran, ladjvard, mazandaran, busto di un re sasanide, bronzo, V-VII sec. ca..JPG
ペーローズ1世のものと考えられている胸像[注釈 1]
在位 459年 - 484年

死去 484年
バルフ近郊
子女 カワード1世
ジャーマースプ
サンビセ英語版
ペーローズドゥフト英語版
王朝 サーサーン朝
父親 ヤズデギルド2世
母親 デナグ
宗教 ゾロアスター教
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ペーローズ1世の金貨

ペーローズ1世はヤズデギルド2世(在位:438年 - 457年)の子で、ホルミズド3世(在位:457年 - 459年)の弟にあたる。ペーロース1世はわずかに2年間の治世で終わったホルミズド3世から王位を奪った。ペーローズ1世の治世中、西方のコーカサス地方のアルバニア英語版における反乱の鎮圧に成功し、東方のキダーラ朝英語版との抗争に終止符を打った。しかし、代わりにキダーラ朝の地を支配したエフタルへの対処にはそれほど成功しなかった。これは最終的にペーローズ1世が戦死することになるバルフ近郊における戦いでの壊滅的な敗北をもたらした。ペーローズ1世の死後、有力者、特にスフラ英語版シャープール・ミフラーン英語版の手によって、ペーローズ1世の兄弟であるバラーシュが新しい王として擁立された。

名前編集

ペーローズ (Peroz)中期ペルシア語(パフラヴィー語)の名前で、「勝利を得た」を意味している[2]。この名前は、数世紀前にサーサーン朝の支流であるクシャーノ・サーサーン朝の統治者であったペーローズ1世英語版によってすでに使用されていた[2]

即位まで編集

ペーローズの父のヤズデギルド2世が457年に死去し、兄であり後継者であったホルミズドがシャフレ・レイで王位についた[3]。弟のペーローズは、有力な貴族であるミフラーン家の実力者、ラハム・ミフラーンの支援を受けて帝国の北東方面へ逃亡し、自身の王位を主張するために軍隊を集め始めた[3][4]。こうしてサーサーン朝は分裂し、王家内で争う状況に陥った。二人の兄弟の母であるデナグが、首都のクテシフォンから帝国の摂政として一時的に統治を行った[3]。東方地域に残る複数の記録では、ペーローズは不公正であるとみなされていたホルミズド3世よりも王位に値したとされている[5]。『Codex Sprenger 30』の名で知られる著者不明の記録文書のみが、ホルミズド3世を「勇敢でより優れている」と記述し、ペーローズを「より宗教に博識」であったとしている[5]

ペーローズは後にエフタルの君主のフシュナヴァズ英語版の下へ向かい、フシュナヴァズはペーローズの王位をめぐる争いに軍事的な支援をすることに同意した[5]。459年、エフタルとミフラーン家の協力のもと、ペーローズは軍隊を率いてホルミズド3世を打ち破った。いくつかの記録では、ホルミズド3世はペーローズによって赦されたとされているが、ペーローズがホルミズド3世と家族三人を殺害したと記されている他の記録によって否定されているため、ほぼ確実に伝説であると考えられている[5]。後にペーローズ1世はフシュナヴァズにタールカーンを割譲した[6]

治世編集

 
アルガリを狩るペーローズ1世のプレート。

内戦の余波編集

サーサーン朝の内戦は、地方の損失を伴う程の影響を国家に与えた。コーカサス・アルバニアの王であるヴァチェ2世英語版は、サーサーン朝の支配に対して反乱を起こし、兄弟が互いに争うのに忙しい状況の中で独立を宣言した。このため、ペーローズ1世は459年に即位すると軍隊を率いてアルバニアに向かい、国を完全に征服した。その後ペーローズ1世は、サーサーン朝アルメニア英語版アルメニア人が、彼らの宗教であるキリスト教を自由に信仰することを認めた。また、東ローマ帝国に対しサーサーン朝と協力してコーカサスを外部の侵略から守ることで合意した[7]。さらに乳兄弟であるイザド・グシュナースプ英語版に、父の治世中に捕えられていたアルメニア人をヘラートへ連行するように命じた[4]

七年間の飢饉(464年 - 471年)編集

この時代の歴史家は、農作物に大きな打撃を与え、国が荒廃した七年間の飢饉の発生を記録している。干ばつによってチグリス川の水位が著しく低下し、泉、井戸、灌漑施設の水が干上がり、家畜が死に絶えた。飢饉が帝国内に蔓延し、農村地帯では餓死者が発生するようになった。ペーローズ1世は一時的に税の徴収を取り止め、すべての貯蔵庫を解放して民衆へ食料を配給させ、最悪の事態を回避するように努めた[8]。但し、この大災害に関する記録は、危機の最中の464年にペーローズ1世がキダーラ朝に対して軍事作戦を準備したという事実を考慮すると、いくぶん誇張されている可能性がある[9]

キダーラ朝との戦い編集

 
トランスオクシアナでのキダーラ朝の支配を終わらせた直後、467年か468年にバルフで鋳造されたとみられるペーローズ1世の硬貨。立っている姿のペーローズ1世は特徴的な第二の王冠を身に着けている。

サーサーン朝の王、シャープール2世(在位:309年 - 379年)の治世中にトランスオクシアナの一部に勢力を築き、サーサーン朝との長い抗争の歴史を持っていたキダーラ朝英語版が、460年代初頭にサーサーン朝への貢納を取り止め、両国間の戦争を再開した。しかし、戦争の開始当初ペーローズ1世はキダーラ朝と戦うための十分な兵力を保持していなかったため、464年に東ローマ皇帝レオ1世に財政支援を求めた。しかしレオ1世はペーローズ1世の要求を拒否した[10][9]。その後、ペーローズ1世はキダーラ朝の王であるクンハス(Kunkhas)に和平とペーローズ1世の妹との結婚を提案した。しかしながらペーローズ1世はクンハスを騙そうとし、代わりに身分の低い女性を送った。

しばらくした後、クンハスはペーローズ1世が約束を偽ったことを知り、軍隊を強化するために軍の専門家を派遣して欲しいと要請することで、逆にペーローズ1世を騙そうとした。結局、300人からなる軍の専門家の一団がバラーム(Balaam、バルフと同じ都市かソグディアナの一都市と考えられている)のクンハスの宮廷に到着したとき、彼らは殺されるか外観を傷つけられ、ペーローズ1世が約束を偽ったためだと告げてペルシアへ送り返した[10]

その後の経過についてははっきりとしていないが、最終的にペーローズ1世はエフタルの助力を得てキダーラ朝を打ち破った。461年頃にペーローズ1世によって総督の地位に登っていたアルチョン・フン英語版の支配者メハマ英語版(在位:461年 - 493年)は、466年にキダーラ朝に勝利したペーローズ1世と同盟を結んだ[11]467年までに、ペーローズ1世はエフタルの支援を受けてバラームの占領に成功し、トランスオクシアナにおけるキダーラ朝の支配を完全に終わらせた[10]。キダーラ朝はまだガンダーラ地方のいくつかの場所を支配していたものの、二度とサーサーン朝を悩ませることはなかった[10]

 
ペーローズ1世の王冠を被った姿をしたエフタル王の硬貨[12]。5世紀後半。

対エフタル第一次・第二次戦争編集

しかしながら、しばらくした後にエフタルはペーローズ1世を裏切り、バルフを占領してサーサーン朝とエフタルの間で最初の戦端を開いた。469年にペーローズ1世は両軍の三度目の戦闘において大敗を喫し、エフタルの捕虜となった。ペーローズ1世は身代金を支払った後に釈放された[13]。東ローマ帝国はいくらかの資金を貸し付けることでペーローズ1世を助けた[7][13]

471年、ペルシアが飢饉から完全に回復する前にエフタルとの新たな戦争が勃発した。これはフシュナヴァズによって積み重なった侮辱が発端となっていた。ペーローズ1世は臣下のイベリアヴァフタング1世を伴ってエフタルへの侵攻を率い、エフタルに退却を強いらせた[14][15][16]。しかし、ペーローズ1世はエフタル軍に対し丘陵地帯への追撃を試みた際に大敗を喫して再び捕えられた。ペーローズ1世はフシュナヴァズへ人質として彼の娘と神官長(モウベド英語版)を引き渡すことを余儀なくされ、身代金が支払われるまで開放されなかった[17]

アルメニアの混乱編集

481年イベリアが反乱を起こし独立を宣言した。ペーローズ1世は反乱を鎮めるためにアルメニアのマルズバーンアードゥル・グシュナースプ英語版をイベリアに派遣した。しかし、アードゥル・グシュナースプがアルメニアを離れると今度はアルメニアが反乱を起こし、マルズバーンとしてバグラトゥニ家英語版サハク2世英語版を擁立した[18]。アードゥル・グシュナースプは反乱を鎮圧するために7,000人の騎兵隊を率いてアルメニアに駆けつけたが、アコリ(アララト山の北斜面側)の戦いで敗死した[19]

483年、アルメニア軍はアケスガの戦いでサーサーン朝軍に敗れ、サハク2世は戦死し、共に反乱を主導したヴァハン・マミコニアン英語版タオ英語版へ逃亡した[20]。反乱への対処のために派遣されていたシャープール・ミフラーン英語版は、混乱の収束が見えてくるとペーローズ1世に呼び戻され、ザルミフル・ハザールクスト英語版に指揮権を委ねたが、彼もまたアルメニアに長く留まることはなく数ヶ月で呼び戻された。軍司令官を頻繁に交代させる方針は、当面の間アルメニアが失われる状況を招いた。

対エフタル第三次戦争と戦死編集

 
ペーローズ1世の敗北と死を描いたシャー・ナーメ(王の書)の15世紀の写本。

ペーローズ1世はエフタルに対するかつての軍事行動による不名誉な敗北から完全には立ち直っていなかった。このため、ペーローズ1世はすべての部隊を一斉に招集して戦争の再開を目論んだ。彼に最も近い腹心や顧問の多くがこの企てに反対したものの、481年にペーローズ1世は戦争を開始した[9]。しかし、483年の終わりか、おそらくは484年にバルフ近郊において壊滅的な敗北を喫し、ペーローズ1世は戦死した[9]。ペーローズ1世の息子と兄弟のうち四人が共に命を落とし[21]、ペーローズ1世の遺体は発見されなかった[22]。戦後、サーサーン朝の東方に位置するホラーサーンの主要都市であるニーシャープールヘラートおよびメルヴがエフタルの支配下に置かれた[23]。しかし、ペルシアの七大貴族の一つであるカーレーン家英語版スフラ英語版がすぐに新しい軍隊を編成してエフタルによるさらなる侵攻を食い止め[24]、ペルシアの有力者、特にスフラとミフラーン家のシャープール・ミフラーンによって、ペーローズ1世の兄弟であるバラーシュが王に擁立された[25]

ペルシア文学におけるペーローズ1世編集

ペーローズ1世は、13世紀のイランの歴史家、イブン・イスファンディヤール英語版による伝説的なロマンス物語の中で言及されている。物語は、ペーローズが美しい女性を夢に見て恋に落ちるところから始まる。その後、ペーローズはその女性を見つけ出すために、親族であり親友であるミフラーン家のミフルフィルズを遣わす[26]。ミフルフィルズは苦労の末に女性を見つけだし、最後に女性がイザド・グシュナースプの姉妹であることが判明する(彼女の父親は彼女にアシュタットと名付けていた)。後にペーローズは彼女と結婚し、彼女の要求に応えてタバリスターンアーモル英語版の町の基礎を築いた[27]

注釈編集

  1. ^ それぞれのサーサーン朝の君主は特徴的な形の王冠(数種類の場合もある)を身につけていた。この胸像の王冠はペーローズ1世によって使用されていた王冠の特徴と一致している[1]

出典編集

  1. ^ Frye 1983, p. 135.
  2. ^ a b Rezakhani 2017, p. 78.
  3. ^ a b c Kia 2016, p. 248.
  4. ^ a b Pourshariati 2008, p. 71.
  5. ^ a b c d Shahbazi 2004, pp. 465–466.
  6. ^ Zeimal 1996, p. 138.
  7. ^ a b Daryaee 2008, p. 25.
  8. ^ Kia 2016, p. 270.
  9. ^ a b c d Schippmann 1999, pp. 631-632.
  10. ^ a b c d Zeimal 1996, pp. 125-126.
  11. ^ Rezakhani 2017, p. 118.
  12. ^ Maas 2014, p. 287.
  13. ^ a b Litvinsky 1996, p. 142.
  14. ^ Toumanoff 1963, pp. 368–369.
  15. ^ Robert W 1996, pp. 153–251.
  16. ^ М. Лордкипанидзе 1988.
  17. ^ Frye 1983, p. 148.
  18. ^ Grousset 1947, pp. 216–217.
  19. ^ Grousset 1947, p. 219.
  20. ^ Grousset 1947, p. 221.
  21. ^ Potts 2018, p. 295.
  22. ^ Payne 2015, p. 287.
  23. ^ Schindel 2013, pp. 136–141.
  24. ^ Payne 2015, p. 288.
  25. ^ Shahbazi 2005.
  26. ^ Pourshariati 2008, p. 72.
  27. ^ Pourshariati 2008, p. 73.

参考文献編集

ペーローズ1世

生年不詳 - 484年

先代:
ホルミズド3世
サーサーン朝の王の一覧
459年 - 484年
次代:
バラーシュ