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人物・来歴編集

1887年(明治20年)11月23日ケンタッキー州ルイヴィルに生まれる[1]

満26歳となった1914年大正3年)、カール・レムリインディペンデント・ムーヴィング・ピクチャーズに入社、同年3月5日公開、フランク・ホール・クレイン監督、エセル・グランディン主演による短篇映画 The Opal Ring に出演して、俳優として映画界にデビューする[1]。同年には、エセル・グランディンを主演に短篇映画 Forgetting を撮って監督業にも進出する[1]。同年から翌1915年(大正4年)にかけて、ハーバート・ブレノン、次いでスチュアート・ペイトンが監督する短篇映画で主演を務める[1]。同年、ハリー・ケリー主演で日本でも公開されたシリアル・フィルム『グラフト』に出演する[1]1916年(大正5年)、すでにユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)と社名を変えた同社傘下にブルーバード映画が設立され、ルパート・ジュリアン監督、エルシー・ジェーン・ウィルソン主演の『黒猫』に出演、チャールズ・スウィッカード監督の『双生児』に主演[1]、これらはいずれも日本でも公開された[2]1918年(大正7年)には同社を退社、監督業に専念する[1]

1920年(大正9年)7月、3歳年下の女優のコリーヌ・ベイカーと結婚する[1]

1928年昭和3年)8月6日、妻コリーヌと死別する[1]1929年昭和4年)、ホバート・ヘンリー初のトーキー女は嘘つき』を監督する[1]。その後もパラマウント映画でトーキーを手がけるが、1934年(昭和9年)4月23日に公開されたエドワード・アーノルド主演のUnknown Blonde を監督したのを最後に、満46歳で映画界を去った[1]

1964年(昭和39年)5月22日カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビヴァリーヒルズで死去した[1]。満76歳没。同郡ロサンゼルス市内のパインズ・クレマトリー会堂に眠る[3]

フィルモグラフィ編集

 
Temptation and the Man 1916年

特筆以外すべて監督作である[1]

1910年代編集

1920年代編集

1930年代編集

関連事項編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Hobart Henley, Internet Movie Database (英語), 2010年6月22日閲覧。
  2. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.
  3. ^ Hobart Henley, Find A Grave (英語), 2010年6月22日閲覧。

外部リンク編集