ホンダF1(Honda F1)は、モータースポーツ世界選手権「フォーミュラ1」で活動している日本のレーシングチーム。正式名称は、ホンダ・レーシング・F1チームHonda Racing F1 Team)。

ホンダF1
エントリー名 ホンダ・R&D・カンパニー (1964 - 1966)
ホンダ・レーシング (1967 - 1968)
ラッキーストライク・ホンダ・レーシング・F1チーム (2006)
ホンダ・レーシング・F1チーム (2007 - 2008)
チーム国籍 日本の旗 日本
チーム本拠地 日本の旗 日本 東京 (1964)
オランダの旗 オランダ アムステルダム (1965 - 1966)
イギリスの旗 イギリス バークシャー スラウ (1967 - 1968)
イギリスの旗 イギリス ノーサンプトンシャー ブラックレー (2006 - 2008)
日本の旗 日本 栃木県さくら市 (2006 - 2008, 2015 - 現在)
イギリスの旗 イギリス バッキンガムシャー ミルトン・キーンズ (2015 - 現在)
主なチーム関係者 日本の旗 中村良夫
イギリスの旗 ロス・ブラウン
イギリスの旗 ニック・フライ
日本の旗 田辺豊治
主なドライバー アメリカ合衆国の旗 ロニー・バックナム
アメリカ合衆国の旗 リッチー・ギンサー
イギリスの旗 ジョン・サーティース
イギリスの旗 ジェンソン・バトン
ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ
以前のチーム名称 ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ
撤退後 ブラウンGP・フォーミュラワン・チーム
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1964 - 1968 , 2006 - 2008
出走回数 88
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズ
タイトル
0
優勝回数 3
通算獲得ポイント 157
表彰台(3位以内)回数 9
ポールポジション 2
ファステストラップ 2
F1デビュー戦 1964年ドイツGP
初勝利 1965年メキシコGP
最後のレース 2008年ブラジルGP
テンプレートを表示
ホンダ[注 1]
(エンジンサプライヤーとしての記録)
参戦年度 1964 - 1968 , 1983 - 1992 , 2000 - 2008 , 2015 - 2021
F1デビュー戦 1964年ドイツGP
初勝利 1965年メキシコGP
最後の勝利 2021年アブダビGP
最後のレース 2021年アブダビGP
出走回数 483 (481スタート)
搭載チーム ホンダ、スピリットウィリアムズマクラーレンロータスティレルB・A・Rジョーダンスーパーアグリトロ・ロッソレッドブルアルファタウリ
コンストラクターズ
タイトル
6 (1986, 1987, 1988, 1989, 1990, 1991)
ドライバーズ
タイトル
6 (1987, 1988, 1989, 1990, 1991, 2021)
優勝回数 89
表彰台(3位以内)回数 223
通算獲得ポイント 3,409
ポールポジション 90
ファステストラップ 76
テンプレートを表示

1964年に初参戦[1]2015年以降はエンジンサプライヤーとして参戦している。母体は自動車メーカーの本田技研工業

ホンダは、エンジンサプライヤーとしてコンストラクタータイトル6回、ドライバーズタイトル6回の獲得を記録。また、フルワークス体制で3勝を挙げており、F1に参戦した日本のメーカーの中で最も成功したメーカーである[2]

歴史 編集

ホンダのF1参戦は、シャーシ、エンジン含め全て自社製造しフルワークス体制でチームとして参戦した1964年から1968年の第1期、1983年から1992年までエンジン供給を行った第2期、当初エンジン供給の形で始まり、後にフルワークス体制のホンダF1チームに移行した2000年から2008年の第3期、エンジンとエネルギー回生システム(ERS)をパッケージしたパワーユニット(PU)のサプライヤーとしての2015年から2021年までの第4期に分かれる。

厳密には、参戦母体は以下のようになる。(#拠点も参照)

本記事では、第2期終了後にエンジン供給を行った「無限ホンダ」時代、2022年以降のHRCによるPU供給についても触れる。

第1期 編集

 
RA271(1964年)

1964年にF1参戦した当時のホンダは、マン島TTレースを制したものの、単なるオートバイメーカーに過ぎず、四輪車は軽トラックを発売しただけという四輪車メーカーとしては弱小メーカーでしかなかった。F1参戦の準備は、順風満帆の2輪部門の陰でこっそりと行われ、当初はエンジンサプライヤーとして参戦する予定だった。

1961年からF1の排気量は1.5Lと決まっており、横置きの1.5LV型12気筒エンジンを開発することに決定。エンジン技術者である中村良夫は、開発したエンジンを使ってもらうコンストラクターを探し始める。フェラーリBRMは自社製エンジンを使っているため除外され、ブラバムロータスクーパーのうちブラバムにほぼ内定した。その後ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められた。

1963年秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日、ホンダ本社に訪れこう言った。「2台走らせるロータス・25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス・25にあわせて行われた。

ところが参戦を予定していた1964年2月、チャップマンから電報が届いた。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものだった[3]。コンストラクターを探す時間はなく、自社でシャシーを造るフルコンストラクターとして参戦することになった。

急きょシャシーを急造することになるが、ナショナルカラーの問題が発生する。1960年代のF1マシンは国ごとにナショナルカラーが決まっており、イギリスはブリティッシュグリーン、フランスはブルー、イタリアはレッド、ドイツはシルバーという具合だった。日本は初出場なためナショナルカラーは決まっていなかった。宗一郎が好きな色だったゴールドが提案されたがすでに南アフリカが登録済み、日の丸をイメージした白と赤を申し出たがかなわず、アイボリーホワイトに日の丸を入れたものに決定した[4]

 
初優勝を果たしたRA272(ホンダコレクションホール所蔵)

1964年8月2日のドイツGPニュルブルクリンク)で初参戦[5]。チャップマンから絶縁電報を受け取ってからわずか6か月後のことであった。

1965年には全戦出場し最終戦の第10戦メキシコGPリッチー・ギンサーが念願の初優勝を果たすが、これは1.5Lエンジン時代のF1最終戦での勝利であると同時に、その後F1に参加したタイヤメーカーの中では最多の368勝をあげることになるグッドイヤーの初勝利でもあった。

1966年に大幅なレギュレーションの改正が行われ、エンジンの排気量がそれまでの1.5Lから倍の3.0Lになった。ホンダはこのレギュレーションに対応するべく新しいV型12気筒エンジンの開発を行ったが、既存のエンジンを結合したり、スポーツカーレースのカテゴリで使っていたエンジンを流用した他のチームと比べると、大幅に出遅れた。結局このシーズンは終盤のイタリアGPでようやくエンジンが完成して参戦した。同年のF2ではホンダエンジンを供給したブラバムが開幕11連勝を達成。最終戦でシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。

 
イタリアでの劇的なレースを制したRA300。このマシンはサーティースの仲介によってローラがシャーシーの制作に加わった。

1967年にはジョン・サーティースがチームに加入した。1964年のワールドチャンピオンの加入はチームに大きな力を与えた。このシーズンのドライバーはサーティース1人だけだったが、彼はホンダのマシンで優勝1回、3位1回と2回表彰台に昇り20ポイントを獲得、コンストラクターズランキング4位につけた。特に優勝したイタリアGPは2位のジャック・ブラバムに対してわずか0.2秒差での勝利で、この1967年の成績が第1期ホンダの最高成績となった。

1968年のワークスマシンは昨シーズンサーティースがイタリアで劇的な勝利をもたらしたRA300の進化版RA301であった。一方これとは別に、創始者の本田宗一郎が固執していた空冷エンジンV型8気筒)を搭載したRA302が制作され、この年のフランスGPに持ち込まれたが、スポット参戦でドライブしたジョー・シュレッサーが炎上死する悲劇に見舞われた。

この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始めた。この頃社会問題になっていた大気汚染に対する市販車用低公害型エンジン[6]の開発を理由として、結局1968年シーズン終了後F1活動休止を発表した。この年は初めてフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したマシンがドライバーズとコンストラクターズのチャンピオンになった。DFVエンジンの登場はグランプリからワークスチームの退場と、プライベーターチームの百花繚乱をもたらした。

第2期 編集

 
スピリット201C・ホンダ(1983年)
 
ウィリアムズFW10・ホンダ(1985年)
 
マクラーレンMP4/5・ホンダ(1989年)
 
ターボエンジン・RA168E(1988年)。この年マクラーレンのプロストとセナによってイタリアGP以外のすべてのレースに勝利した

ルノーによって先鞭が付けられたターボエンジンの登場は、自動車メーカーに対してF1へのカムバックを促した。ホンダはまずヨーロッパF2選手権全日本F2選手権にエンジン供給を行い、マーチ・エンジニアリングから主要人物2人を引き抜いてイギリスに拠点を置く小規模チーム「スピリット・レーシング」をホンダの資本により設立。スピリットチームをテストベッドとしてターボエンジンを供給し、1983年からF1へ15年ぶりに復帰した。その年の最終戦南アフリカGPからチャンピオンチームであるウィリアムズへのV型6気筒エンジンRA163Eの供給を開始し、翌1984年第9戦アメリカGPケケ・ロズベルグにより復帰後初勝利をあげた。

開発初期にはターボラグの解消に悩まされたが、量販車の技術を応用した低燃費・高出力のターボエンジンの開発に成功。車載センサーからリアルタイムでデータを収集するテレメトリーシステムを導入し、衛星回線を通じて日本の研究所でも分析を行った。さらに1986年まで中嶋悟鈴鹿サーキットなどでウィリアムズシャシーを使ったエンジンテストを行いつつ、ヨーロッパでもホンダエンジンを搭載したラルトF2に参戦した。その後中嶋悟は1987年にロータス(この年からエンジンを供給)から日本人初のフル参戦を果たした。なお、ホンダは中嶋の個人スポンサーでもあった。

また第2期F1活動中の1980年代後半には、1986年1987年にはコンストラクターズ・タイトル、1987年にはネルソン・ピケのドライバーズ・タイトルを獲得した上に、1988年にホンダエンジンを搭載したマクラーレンが16戦中15勝し[7][8]アイルトン・セナがドライバーズ・タイトルを獲得した。さらに1989年にはマクラーレンのアラン・プロストが、1990年にはセナが再びチャンピオンに輝くなど、その当時ホンダのエンジンが最も高性能であり、コンストラクターは6年連続、ドライバーは5年連続でホンダエンジン搭載車が獲得したことから、「ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない」とまで言われた。また、ホンダの活躍と中嶋の参戦、フジテレビジョンによる全戦中継が後押しした1980年代後半から1990年代前半にかけての日本国内のF1ブームでは、当時人気を博したセナと蜜月関係を結び、「F1のホンダ」として大いに知名度を高めた。 

1991年には、中嶋が所属するティレルチームに対し、前年マクラーレンが使用したV型10気筒エンジンをベースとしたRA101Eを供給した。しかし、これは前年のコスワースDFRに比べて、重く大きくなったことからマシンバランスを崩すことになり、エンジンパワーの増加による駆動系の信頼性の問題と相まって、ステファノ・モデナモナコGPでの予選2位、カナダGPでの決勝2位という散発的な好リザルトは得るも、シーズン通しての好成績には結びつかなかった。

同1991年にマクラーレン・MP4/6には、V型12気筒エンジンRA121Eが搭載された。そしてブラジルGPにおいてアイルトン・セナがドライブするマシンは深刻なギアボックス・トラブルを抱えていた。4速を失ったのを始め、続いて3速・5速を失った。レース終盤にはついに6速のみで走行せざるを得なかった[9]が、セナは母国初優勝を果たした。このことは彼の秀逸なドライビングテクニックのみならず、ホンダエンジンの高い適応性を示した。

その後、ウィリアムズが優れた空力性能に加えてアクティブサスペンションなどハイテク装備で他チームを圧倒したことや、本田技研工業の世界各国での新車販売不振などにより、第2期F1活動は1992年に終了。この間ウィリアムズやマクラーレンなど多くのチームにエンジンを供給していたホンダは、1983年から1992年までの間だけで通算69勝をあげ、F1史上空前の強力なエンジンサプライヤーとして君臨した。F1撤退後の1993年には、かつてライバルだったフェラーリへ技術供与を行っていた。

無限ブランドとしての参戦 編集

1992年には無限(現・M-TEC)が1991年にティレルに供給されたRA101Eをベースに独自に開発した無限MF351Hで、F1への参戦を開始[10]するなど、ホンダの撤退後もホンダの技術を元にしたエンジンはF1に参戦し続けた。

1996年にはモナコGPにてオリビエ・パニスリジェ)が無限ブランドとしてのF1初勝利をあげ、この勝利を皮切りとして1998年ベルギーGPではジョーダンデイモン・ヒルが優勝、チームメイトのラルフ・シューマッハが2位という、無限ブランドとして初(ジョーダンにとっても初)のワン・ツーフィニッシュを飾る。 1999年にはハインツ=ハラルド・フレンツェンフランスGPイタリアGPにてそれぞれ優勝を飾った。なお、フレンツェンのF1生涯における3回の優勝のうち、2回が無限エンジンでの勝利であった。

2000年もシーズン終了までジョーダンにエンジン供給がなされる予定であったが、この年からホンダブランドでB・A・Rのために開発したエンジンを投入したことに伴い、シーズン途中からジョーダンにもホンダエンジンとしてのブランドのエンジンが供給されることが決定したため、2000年度をもってこのブランドでの参戦に幕を閉じた。

1992年から2000年にかけての無限ブランドのF1における戦績は、通算4勝、ポールポジション1回、獲得総ポイント182ポイントであった。

非公式のシャシー開発 編集

 
RC-F1 1.5X(ホンダコレクションホール所蔵)

第2期活動の終盤、「エンジンだけでなく車体も造ってみたい」という社内有志の希望により、水面下でリサーチカーの試作が行われた[11]。1991年末にはV12エンジンを搭載するRC-F1 1.0X(現在ホンダ学園所蔵)、1992年にはモノコックを新造したRC-F1 1.5Xがテスト走行を行った。さらに、F1活動休止中の1996年にも、ステップドボトム仕様のRC-F1 2.0X(無限ホンダV10搭載)が製作された。1.5Xと2.0Xは黒一色のボディカラーから通称「カラス」と呼ばれた。

RC-F1プロジェクトをベースとした独自チームによるF1参戦の動きも研究所内で進められており、実戦ドライバーに飯田章を起用することも内定。1996年に飯田は国際F3000選手権にフル参戦するが、この参戦はホンダのバックアップを受けたプロジェクトの一部だった。しかしこの動きは最終的に消滅し、飯田も欧州での活動を止め帰国することとなった[12]

第3期 編集

フルワークスでの復帰宣言と断念 編集

 
RA099(ホンダコレクションホール所蔵)

1998年には当時本田技研工業の社長だった川本信彦の口から「シャシー製造を含めたフルワークスによるF1参戦」が明言された。その後、イギリスにホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) を設立し参戦準備を進め、デザインを日本で行いイタリアのダラーラがシャーシRA099の製作を担当して、1999年にテストドライバーにヨス・フェルスタッペンを起用してサーキット走行を行うところまで準備が進んだ。しかし、当時テクニカルディレクターを務めていたハーベイ・ポスルスウェイトバルセロナでのテスト中に急死したこと、またホンダ社内に根強く残る慎重論などを背景に、結局ホンダはフルワークスによる参戦を断念した。

エンジンサプライヤーとしての復帰 編集

 
2004年アメリカGPで3位を獲得した佐藤琢磨
 
B・A・R 007に搭載されたRA005E

2000年に、B・A・Rへエンジン供給と車体の共同開発を行うという形でF1に復帰した[13]。2000年シーズンはすでにB・A・Rによってマシンが製作されていたため、本格的な車体の共同開発は2001年以降となる。

エンジン供給にとどまらず、2002年からはホンダ独自のギアボックスの開発が行われた[14]。当初はギヤなどの内部部品とマグネシウムケーシングの研究が行われた。マグネシウムケーシングに関しては2002年のB・A・R 004で採用されたが、B・A・Rがカーボンファイバーケーシングの採用を決定したことから開発はそちらに移行した[15]。内部部品のほうに関しては開発が継続され、2004年から実戦投入された。2005年には、変速時のパワーロスを無くすシームレスシフト(クイックシフト)を実戦投入した[16]。2006年以降他チームにも急速に広まっていった。

2001年と2002年にはジョーダンにもエンジン供給を行った。

2000年から始まった第3期では、第2期と異なりなかなか良い結果を残せずにいた。しかし、2004年シーズンは好成績を収めた。タイヤをブリヂストンからミシュランに変更したが、その変更にうまく対応できたB・A・R 006で11回表彰台に上り、コンストラクターズランキング2位へと躍進した。しかし、念願の第3期初優勝には手が届かなかった。同年末にはチームの株式45%を取得し、共同経営に乗り出した。

2005年シーズンは、開幕当初レギュレーション変更に伴う影響をマシン設計に十分反映できていなかったことから出遅れ、ようやく、第4戦サンマリノGPで3、5位でフィニッシュし復活の兆しを見せたと思われるや、レース後の車検で重量違反が発覚し、その後の裁定でサンマリノGPのリザルト取り消しおよびその後2戦(スペインGPモナコGP)の出場停止となってしまった。しかし、その後巻き返しを見せて、第8戦カナダGPポールポジションを獲得、第12戦ドイツGP、第16戦ベルギーGPではジェンソン・バトンが表彰台を獲得したが、コンストラクターズランキングは6位に終わった。

フルコンストラクターとしての参戦再開 編集

 
RA1062006年アメリカGPにて)
2006年
2007年よりタバコ広告が全グランプリで禁止されることにともない、B・A・Rのメインスポンサーであるブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) が2006年限りで撤退することが決まっていた。そこで、ホンダはBATが保有する残り株式を取得し、38年ぶりに「純ホンダ」のワークスチームとして参戦することを決めた[17][18]
ドライバーはB・A・R時代からのエースであるバトンと、フェラーリから移籍のルーベンス・バリチェロ、サードドライバーにはアンソニー・デビットソンというラインアップ。また鈴木亜久里が新たに立ち上げたスーパーアグリにエンジンを供給し、ギアボックス等の開発にあたって技術支援も行った。
前半戦は成績不振が続き、B・A・R時代から技術部門を率いてきたジェフ・ウィリスに替えて、中本修平をシニア・エンジニアリング・ディレクターに任命した。第13戦ハンガリーGPでジェンソン・バトンが14位スタートながら波乱のレースを制して、優勝し第3期参戦としての初勝利を果たした。オールホンダとしては39年ぶりの優勝。後半戦はコンスタントにポイントを獲得して、コンストラクターズランキング4位で終了した。
2007年
 
展示されるRA107(2007年東京モーターショーにて)
2007年はバトン、バリチェロ共に残留、サードドライバーにスーパーアグリのレギュラーシートを獲得したデビッドソンに代わって前年レッドブルのレギュラードライバーだったクリスチャン・クリエンを迎えた。
ホンダは2007年に使用するマシンRA107のカラーとしてスポンサーロゴを使用せずに、宇宙から映し出される地球をイメージし、環境問題をテーマとしたカラーリングを発表した。ただしレギュレーションによって定められているノーズのマニュファクチャラーロゴと供給タイヤメーカーロゴはプリントされている。
このマシンを構成するカラーのピクセルをウェブ上で誰でも購入できるチャリティを展開した。イギリスGPからは、マシン上にピクセル購入した人の名前が小さな白文字で書かれた(環境問題に賛同すれば、寄付金は必ずしも必要でない)。リアウイングには「myearthdream.com」とチャリティサイトのアドレスが示された。
ホンダのエンジニアが初めて指揮を執って「低中速域でのダウンフォース向上」を目標にマシン開発を行なったが、シーズンオフのテスト段階からマシンの戦闘力の低さを露呈し、開幕後第7戦までノーポイントと成績が伸びず、事実上のBチームであるスーパーアグリにも遅れを取りチーム史上最悪の低迷期であった。第8戦フランスグランプリにおいてバトンがようやく初ポイント(8位・1pt)を記録したが、結局獲得ポイントは6点に終わった。コンストラクターズランキングは8位。
これらをふまえ、各分野での人材補強を着々と進めるため、ベネトンやフェラーリでミハエル・シューマッハの走りを支え、同年は休養していたロス・ブラウンをチーム代表に迎えることになった。
2008年
 
RA1082008年マレーシアGPにて)
2008年もバトン、バリチェロ共に残留、リザーブドライバー兼テストドライバーに去年までウィリアムズをドライブしたアレクサンダー・ヴルツを迎えた。新代表に就任したロス・ブラウンは「3年計画」というものでの活動を発表した。なお、バリチェロとは、2005年のフェラーリ以来の同僚となった。
昨年の「my earth dream」を継続した形の「earth dreams」コンセプトを発表。昨年とは異なる物の地球環境をテーマとしたカラーリングを用い、地球環境問題の意識向上を謳っている。
2008年度のマシンRA108も、開幕前から戦闘力不足が囁かれていた。予選ではなかなかQ3に進むことができず、決勝でも入賞圏外から離れた位置でフィニッシュすることがたびたびであった。第9戦イギリスGPでは大混乱の雨の中タイヤ戦略が的中し、ルーベンス・バリチェロが3位入賞。自身3年ぶり、チームにとっても2年ぶりのポディウムとなった。しかし、その後一度も入賞できず、コンストラクターズランキング9位でシーズンを終えた。
また、5月27日に、ブラックレーのファクトリーがF1チームとして初のISO14001を取得した。
サーキット以外でもF1マシンが登場した。メイクウィッシュ・ジャパンの依頼により静岡市葵区静岡県立こども病院に入院中の白血病の男の子の夢を叶えるために病院の中庭へF1マシンを持ち込み、その男の子は病室からストレッチャーに乗って移動、感動と感謝でF1マシンを眺めたという。

撤退とチーム売却 編集

2008年シーズン終了後、チームは2009年から搭載が可能になる運動エネルギー回生システム (KERS) のテストを進め、来期のドライバーにはバリチェロに代わり、セナの甥であるブルーノ・セナルーカス・ディ・グラッシを起用すると噂された[19]

しかし、2008年12月5日、ホンダ社長の福井威夫が緊急記者会見を行い、2009年以降F1世界選手権シリーズから撤退する方針を発表した[20]。撤退の理由として、サブプライムローン問題に端を発した金融危機による業績の悪化に伴って、レーシングチームの維持費負担がホンダの経営を圧迫する恐れがあるため、経営資源の効率的な再配分が必要であることが挙げられた。なお、今回の記者会見では「2008年の成績や今後のレギュレーション変更が(撤退の)理由ではない」ことを明言している。「休止」ではなく「撤退」という表現を使用したことについては、「自動車産業の新しい時代に対処するというメッセージが入っている」と説明した[21]

ホンダはチームを解散せず、新オーナーへの売却によりF1参戦を継続することを目指しており、2009年1月12日にFIAが公表した2009年シーズンのエントリーリスト[22]には依然名前が残されていた。3月6日、チーム代表であったロス・ブラウンに全株式を売却したことが発表され、新チーム名は「ブラウンGP F1チーム」となった[23]。売却額が1ポンド(147円)と報道された[24]ように無償譲渡も同然であった[25]

 
ブラウン・BGP001として参戦したRA109

ホンダのチーム資産とRA109(改めブラウン・BGP001)を引き継いだブラウンGPは、2009年開幕戦で初出場、初優勝を遂げるなどし、最終的にはダブル・タイトルを獲得した、翌年からはチーム売却でメルセデスチームとして活動している。

なお、F1への投資額に関して、2007年はホンダが全F1参戦チームで最もコストが高かったという[26]。また、デイリーテレグラフによれば、ロス・ブラウン獲得とその後の「2009年向け開発」を重視しての先行開発費用がさらに増えることから、2008年も最も高いコストをかけたチームとなる模様だと伝えられてきた。他にもBBCが報じた2005-2009年のメーカー別F1投資額[27]では、撤退し参戦していない2009年を除き全ての年で最高額を投じている[28]

さらに「Pitpass」の報じた1950-2009年のF1の全歴史で投じた額[29]でも、ホンダは17億2000万ポンドでトップとなっている(2位はメルセデスの14億7000万ポンド、フェラーリは8億9100万ポンド)。

撤退後の2009年、当時のホンダ社長である伊東孝紳は「経済的に回復してもF1に復帰することはない」と述べた[30]。しかし、2014年からF1のエンジン規定が見直されることから、ホンダがF1に復帰するのではないかとの憶測が流れた[31]。2013年2月の記者会見で、伊東は「F1のレギュレーションも変わりつつあり、一方で我々の事業も安定してきている」「今は一生懸命勉強している最中です」とコメントした[32]

なお、F1エンジンの開発を担当していた一部エンジニアは、2006年から2008年までF1プロジェクトの技術担当だった中本修平によってHRCへと招聘され、ロードレース世界選手権に参戦しているRC212Vのエンジン及び電子制御システム開発を担当している。また撤退発表後も、ホンダの栃木研究所においてシャシー開発が引き続き行われていたことが、2012年に明らかになっている(詳細はブラウン・BGP001#幻のRA109を参照)。

ホンダF1 第3期 関連人物 在任時期 等 編集

      ホンダF1 第3期 関連人物 在任時期 等                                 
  
↓ 1997.11 Tyrrell売却決定 ホンダF1       F1   F1
Tyrrell 027 取込企画 第3期-1 (BAT, BAR) 第3期-2 (BAR, BAR-H) 第3期-3 (HRF1) 車体使用年による区分 第4期
(1998.05.08 - 2016.07.05)             HONDA RACING DIVELOPMENT Ltd. (略称:HRD, Honda Racing, ホンダレーシング)
Tyrrell British American Racing BAR BAR-H HRF1 Brawn Mercedes
15%(Reynard) +35%(Mt.Eagle) +50%(BAT)
15%(Reynard) +30%(Mt.Eagle) +55%(BAT)
0→30%
鈴鹿直前
30% 45% 100% 延べ払いで順次シェアを減らす          
[33]  British American Racing Holdings Ltd
1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017
027= RA099 琢磨, バトン RA106 RA107 RA108 RA109
026 01 002 003 004 005 006 007 008  SA07  SA08A BGP001 W01 W02 W03 W04 W05 W06 W07
  マーク・エリス 地所, 工場施設, 風洞の実際の所有者[34]  
  Gil de Ferran (スポーティングディレクタ)
 
  ロン・メドーズ (スポーティングディレクタ)
B3 TWR Ferrari   gardening   ロス・ブラウン (代表) 2017.01- FOM
  エイドリアン     
レイナード (TD)
  マルコム
オーストラー (TD)
  ジェフ・ウィリス (TD)   中本修平 (TD) (→副MD)   ロス ブラウン (TD) Bob Bell Paddy Lowe   Technical Dir
  ヨルグ・ザンダー (Deputy TD)   ジェフ・ウィリス      Technology Dir
  マルコム・オーストラー   アンドリュー・グリーン   ケビン・テイラー P.Arnaboldi Chief Designer
quick shift gearbox   ヨルグ・ザンダー → Deputy TD (2007-2009)
TWR Arrows (composites gearbox)[35] quick shift gearbox   ケビン・テイラー → Chief Designer (2005-8) Toyota
 
Mercedes
  フィル・アルナボルディ (Project Leader) Bicester
  アンディ・ル・フレミング
Advanced Composites
 
  ゲイリー・サベージ (Advanced Composites)
  ジャッキー・エッケラート(英語) Engineering Director
Williams   クレイグ・ウィルソン (Race Engineer → Chief Race Engineer → Vehicle Dynamics) Williams 2017.05- FOM
1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017
  デビッド・ピッチフォース AeroDynamicists
新本部風洞 ARC風洞 NAS風洞 旧本部風洞 2002年春竣工 → Jag MD
1998.11ブラックリー風洞竣工 学卒採用 ブラックリー旧風洞を使用して  ザウバーを支援
 
  ジョン・オーウェン  Aero  (Project Leader)
 Aero  責任者 (1998-2000)   ウィレム・トーエ  Aero  BMWザウバー  
  サイモン・レイシー  Aero  責任者 (2001-2005) マクラーレン
  ジェフ・ウィリス  Aero  (→ TD) (2002-2005) レッドブル
 FondTech   Aero  マリアーノ・アルペリン      AeroDynamicists
ICL率 (1998) G-Force 2001-2009:HRD / (2008.08-) Aero  (Project Leader)ウインドシェア風洞   ドミニク・スミス [36]ノース カロライナ シャーロット ジーン・ハース
  ロイック・ビゴワ  Aero       
  スティーブ・クラーク  Aero [37]
 SA06 ,  SA07 ,  SA08A    ベンウッド  Aero    RA109, BGP001, W01, W02, W03
 ビル・ストーン (ファクトリー マネージャ → 2001年   救済 → 引退) (ロビン・ハードマーチ・エンジニアリングの一番目の従業員, 学生社長の製造者)
 
  ロン・メドウズ (ストーンのアシスタント → ファクトリーマネージャー → チームマネージャー → スポーティングディレクター)
 
  ラッセル・クーリー[38] (現在のメルセデスのチーフエンジニア)
 
  イアン・ライト[39] (シニアエンジニアとしてビークルダイナミクスモデリングソフトウェアと解析技術を開発) (2014.06までメルセデスの Head of Engineering Software)
  ジェフ・ウィリス  Aero  (→ TD) (2002-2005)
  ジェフ・ウィリス (TD) レッドブル (TD) HRT
 
Mercedes (Technology Director)
Jaguar   マーク・エリス Vehicle Dynamics (2017-18) SA07, SA08 Eng.Dir レッドブル Mercedes (Performance)  
2001.01-04.12 (MD) @BAR, @BARH   ニック・フライ 2004.12-2013.04 (CEO) @BARH, @HRF1, @Brawn, @Mercedes
  デビッド・リチャーズ (CEO) BARH
  吉野浩行
1998年 R&D社長, 1999年 本社専務, 2003年 社長   福井威夫 撤退後相談役
  中本修平
チーム関係者 第3期   木内武雄   和田康裕   西澤一俊   橋本健   村松慶太   /   (エンジン)   櫻原一雄   阿部弘
1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017
 

第4期 編集

第2期マクラーレンとのジョイント 編集

 
マクラーレンMP4-30・ホンダ(2015年マレーシアグランプリ)

2013年5月16日、ホンダは緊急記者会見を開き、2015年よりパワーユニット(エンジンおよびエネルギー回生システム(ERS)。以下、PUと略す)のサプライヤーとしてF1へ復帰すると発表した[40][41]。2015年は第2期のパートナーだったマクラーレンのみと再び組むことになるが[42]、独占契約ではないため2016年以降は複数チームへ供給する可能性もある[43]。2015年2月10日には本田技研工業本社(東京都港区南青山)にて本田技研社長伊藤孝紳および新井康久F1プロジェクト総責任者がフェルナンド・アロンソおよびジェンソン・バトンの両選手同伴でF1復帰に関する記者会見を開いた[44]

2015年は一年を通じて信頼性やパフォーマンスに悩まされた。カナダGPではチームからの(パワー不足のため)燃料をセーブせよという無線の指示にアロンソが「こんなドライビング、まるでアマチュアのようじゃないか。僕はレースをする。燃料のことは後で集中するから」と断り[45]、ホンダのホームグランプリとなる日本GPでもアロンソが無線で「GP2のエンジンかよ! GP2だ!」とパワー不足のエンジンに不満を漏らした[46]。コンストラクターズランキング9位とマクラーレンは創立以来ワーストの結果となってしまった。

ここまで戦闘力不足が起きたのは理由があり、車体設計においては、空力的メリットを得るために車体後部をタイトに絞り込んだ「サイズゼロ」コンセプトを導入したが、そのアグレッシブな設計ゆえに冷却系の問題が発生[47]。また、エンジン全体の小型化を優先した関係で、MGU-H(熱エネルギー回生)の発電量不足やデプロイメント(エネルギーの使用配分)の問題にも悩まされ[48]、いわゆるパワー不足の原因となった[49]。また、2015年のレギュレーションは「シーズン開幕前にエンジンのホモロゲーションを行い、それをシーズン中使用する」という規定となっていた。ただ、この年はトークンシステム[50]によりホモロゲーションは事実上解除されていたが、2015年に参戦したホンダの場合、「新規参入メーカーはシーズン前にすべてのホモロゲーションを行う」という規定の対象となっていた。最終的にはトークンシステムの利用に基づいて開発した改良型エンジンの投入は開幕戦以降に行うことは認められていたものの、序盤戦は未利用のモデルで戦わざるをえず、前半戦は相対的な戦闘力不足もあった。ただ、ベルギーGPでの改良型の投入や最終戦アブダビGPでは、バトンがホンダPUよりも圧倒的に性能の優れているメルセデスPUを搭載するウィリアムズバルテリ・ボッタスを抑えたり、アロンソがレース中のラップタイムで3番目に速いタイムを出すなど、後半戦では性能の向上を果たしたモデルを投入して、コースによっては一定の戦闘力を発揮した。しかし、シーズン中にこの問題点が判明したものの、ホンダは他のメーカーに比べ使えるトークン数が少ないうえ、エンジン使用数の制限によりかつてのような物量作戦で実戦データを収集して改良するという手も使えなかった。そのため、シーズンで使用しているモデルのユニット別の改良は可能であったが、この制度上、2016年に行われたターボの大型化など[51]のエンジンの再設計を行ったモデルの投入は事実上禁止されていたため(ただし、再設計については他のメーカーも同様である)、2015年度中に抜本的な解決策は不可能であった。むしろ「サイズゼロ」コンセプトを選んだマクラーレンとそれを受け入れたホンダの失敗[52][53]という側面もあった。

ただ、この失敗は以前に2014年のフェラーリが犯しており、2014年シーズン後にエンジンのコンパクト化に起因するパワー不足[54]とパワー不足を埋め合わせるほどの空力的アドバンテージ[55]はなかったと同チームの技術者らがコメントしている。そのため、マクラーレン側もシャシー設計の方針を誤った面もあり、全ての責がホンダにあるものではなかった。

2016年八郷隆弘社長は同年の目標を「安定的に予選10位以内から決勝に臨む」ことに定めた[56]定年に伴い退職する新井康久に代わり、長谷川祐介がF1プロジェクト総責任者に就任した[57][58]。 予選では度々Q3まで進出、決勝でもコンスタントに入賞できるようになりダブル入賞4回を記録。高速サーキットのイタリアGPではアロンソがファステストラップを記録し、同系統のコースであるベルギーGPで入賞するなど、ターボの大型化などのエンジンの再設計[51]やシャシーの見直し[59]により、前年に比べれば戦闘力の向上に成功した。だが、ホンダの地元日本GPでは前年同様不調に終わった。同GPでQ1敗退を喫したバトンは、高速サーキットの鈴鹿はマクラーレン・ホンダにとってカレンダーで最悪のサーキットの一つとコメント[60]し依然として苦戦が続いていた。表彰台には及ばなかったものの、コンストラクターズランキング6位まで浮上した。

2017年もマクラーレンへ独占供給を続ける[61]。長谷川祐介F1プロジェクト総責任者は「2017年の“現実的な目標”は表彰台」と語っている[62]。新車MCL32に搭載された「RA617H」はコンセプトを一新し、低重心化と軽量化を図りパワーを向上させたとしている[63]が、プレシーズンテストではトラブルが続出し、パワー不足も露呈してしまった[64]。ただし、パワー不足については、他メーカーのパフォーマンス改善がホンダを上回っていたと長谷川は語っている[65]。それでもアロンソは開幕2戦では渾身の走りで入賞圏内を走行していたが、いずれもパワーユニット以外のトラブルによりリタイアに終わった。第3戦バーレーンGPは信頼性及びパワーの低さの問題が如実に現れたレースとなった。ストフェル・バンドーンがFP1およびFP2それぞれでMGU-Hのトラブルに見舞われ[66]、予選ではアロンソがMGU-Hのトラブルが発生[67]。決勝ではバンドーンのMGU-Hに再びトラブルが発生しスタートすらできず[68]、アロンソは「こんなパワー不足でレースをしたことはない!」と無線で叫ぶほどのパワー不足に泣かされるも、下位グループとのバトルを行いつつ走行していたが[69]、完走を目前にエンジントラブルが発生してリタイア(90%以上走行したため14位完走扱い)に終わった[70]。さらにロシアGPでもフリー走行でバンドーンのMGU-Kが故障し、早くも4戦目で規定を超える5基目のパワーユニット交換を強いられ、予選ではアロンソが再びパワー不足を嘆く無線が流れた[71]。決勝ではフォーメーションラップでアロンソのパワーユニット(以下PU)に不具合が出てスタートすらできなかった。スペインGPでもフリー走行でアロンソのPUにトラブルが発生したが、予選では初めてQ3に進出し7番グリッドを得た。モナコGPではバトン(インディ500に参戦したアロンソの代走)とバンドーンが揃ってQ3に進出した。しかし、高速サーキットのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われたカナダGPでは、決勝におけるアロンソのスピードトラップトップ317.6km/hに対し、トップのセバスチャン・ベッテルフェラーリ)は344.1km/hと26.5km/hも遅く、「彼らはストレートの途中で僕を抜いていった。こんなにスピード差があるのは危険でさえある」とアロンソは酷評した。それでもアロンソはレース終盤まで入賞圏内の10位を走行していたが、残り2周でエンジンがブローして入賞を逃した[72]。ここまでマクラーレンはチームワーストの開幕7戦ノーポイントとなってしまった。しかし第8戦アゼルバイジャンGPでアロンソが9位に入り、ようやく今季初入賞を果たした。その後、ハンガリーGPでアロンソが6位、バンドーンが10位にそれぞれ入賞し、ザウバーを逆転してコンストラクターズランキング最下位を脱し9位となった。

パートナーシップの終焉 編集

この状況に業を煮やしたマクラーレンは、ホンダとの提携解消を示唆した[73]。一方、ホンダはマクラーレン以外のチームへのパワーユニット供給を模索し[74]、2018年からザウバーへカスタマーパワーユニットを供給することが決まった[75]。しかし、ザウバーのチーム代表がモニシャ・カルテンボーンからフレデリック・ヴァスールに交代してからは契約の解除が検討され[76]、7月27日に契約が白紙撤回された[77](翌28日にフェラーリとの契約を発表[78])。その後、トロ・ロッソとの交渉を行ったが一度決裂した[79]。しかし、第14戦シンガポールグランプリのフリー走行1回目の後に、供給されることが発表され[80]、同時に2015年から供給を行っていたマクラーレンとの契約を2017年いっぱいで解消することが発表された。契約解消発表後は入賞回数も増加し、アロンソは終盤3戦でポイントを獲得した。

シーズン終了後に長谷川F1プロジェクト総責任者が退任、運営体制も変更され、HRDさくらを担当する執行役員が研究開発をリードし、レース・テスト運営も統括する。また、F1プロジェクト総責任者のポジションは廃止され、現場の指揮に専念するテクニカルディレクターを新たに設置した。初代テクニカルディレクターは田辺豊治が務める[81]

この3年間に関して、元FOA会長のバーニー・エクレストンは「毎日毎日、彼らは協力して働くのではなく、あらゆることで戦いをしかけていた。愚かなことだ」とマクラーレン側の態度を批判した[82]。また、マクラーレン側がホンダに対して理不尽な態度を何度も繰り返した事を批判する声[83]、アロンソが政治的駆け引きからホンダを一方的に批判していると指摘する者[84][85]もいるなど、ホンダに対して同情的な声も聞かれた。

後年、当時ホンダのモータースポーツ部長を務めた山本雅史が、契約解消した経緯の一部を明かしている。マクラーレンとは3年+2年オプションの契約であり、オプションを行使した残り2年の契約に両社とも前向きであった。しかし、マクラーレン側は今シーズンの不振を補填する目的で、オプションから更に延長した3年契約を要求。これにホンダ側は難色を示したため、マクラーレンは正規のオプションも行使せず解消に至ったと説明している。

ホンダF1 第4期 関連人物 在任時期 等 編集

      F1 第4期 PUサプライ関連 人物在任時期 等                                 
2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022

 F1-2014
2位

  R.E.15
4位

  
タグ・ホイヤーバッジ
2位

  
タグ・ホイヤーバッジ
3位

  
タグ・ホイヤーバッジ
3位

 
3位

 
2位

 
2位

1位      



  R.E.14
7位

  R.E.15
7位

  060
7位

 
トロ・ロッソバッジ
7位

 
9位

 
6位

 
7位

 
6位

9位      
ヘルムート・マルコ
  シルバーストーン
PU搭載
決定発表

ホンダ
PU搭載
  Honda Racing Development UK Ltd
マルコは
  から資金を得て
別系統の     ルノーPUを
  イルモアに
設計させた
マック初会 2016.07     山本雅史 MD (Honda Racing Development UK Ltd 代表取締役社長)     MASAコンサルティング
[86]山本雅史 モータースポーツ部長     数佐明男 モータースポーツ部長     長井昌也 モータースポーツ部長
    松本宜之 F1担当役員   松本宜之 F1研究開発担当役員, 本田技術研究所社長
     長井昌也 HRC 企画管理部長
  ブランドコミュニケーション本部
  森山克英 ブランドコミュニケーション本部長
2013.05.16 - 新井康久 F1プロジェクト総責任者 長谷川祐介 F1プロジェクト総責任者[87]     渡辺康治 執行役員総務担当     渡辺康治 F1担当執行役員, ブランドコミュニケーション本部長, 広報部長
ホンダ本社通いをした
マーティンウィットマーシュ
はもういなかった
  ↓  契約解除交渉  ↓ 非更新
契約
解除
    田辺豊治 テクニカルディレクター 2019年以降は現場統括責任者
     渡辺康治 HRC 代表取締役社長
    本橋正充 副テクニカルディレクター 2019年以降はトロ・ロッソ担当チーフエンジニア兼任 2022年から暫くはRBPTに出向し田辺の後任
    浅木泰昭 HRD Sakuraセンター長および執行役員 2018-2021年は開発責任者兼任
     浅木泰昭 HRC 4輪レース開発部長
  
 
  
  RA615H
  
  RA616H
  
  RA617H
  
  R.E.18
  
  E-Tech 19
  
  E-Tech 20
  
 
  
 
2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020 2021 2022
   
R.E.14
8位
   
R.E.16
9位
   
R.E.17
6位
   
R.E.18
4位
   
E-Tech 19
5位
   
E-Tech 20
5位
   
E-Tech 21
5位
   
E-Tech R.E.22
4位

レッドブルグループ勢とのジョイント 編集

 
トロ・ロッソ STR13・ホンダ

レッドブル・レーシングとは、第4期の復帰当初から関係者と水面下で接触していた。後にクリスチャン・ホーナーは、2015年にバーニー・エクレストンの仲介でPU供給のための交渉を行ったものの、ロン・デニスが拒否権を発動したために供給が実現しなかったこと、さらに既に同時点でホンダからPUの図面を受け取っていたことを明らかにしている[88]。また2017年のシーズン中にも、ザウバーへのカスタマーPU供給が発表された段階で「既にデニスがマクラーレンを去っており、マクラーレンが拒否権を発動しない」ことが確認できたこともあり、スクーデリア・トロ・ロッソとの締結を進めていた秘話を明かしている[88][89]

2018年はトロ・ロッソへ単独供給を行う。開幕前のテストではPUに関するトラブルはほとんど見られず順調に周回をこなしたが[90][91]、開幕戦オーストラリアGPで早くもピエール・ガスリーのMGU-Hにトラブルが出てリタイア[92]ブレンドン・ハートレイはタイヤのトラブルに2回見舞われた影響で最下位の15位完走に終わり、厳しいスタートとなった。その後、第2戦でガスリーが4位入賞を果たし第4期における最高記録を更新したが、結果的にそれが唯一の見せ場となってしまい、マシントラブルの減少やQ3進出回数ではマクラーレンを上回っているなど明るいニュースも見られたが、テクニカルディレクターのジェームス・キーの離脱によるシャシー開発の停滞、チーム戦略やドライバーのミス、などにより十分な結果を残せず苦戦。また、マシン開発において後半段階でのPU変更であったため、マシン自体にもホンダPU用に改設計する余裕がなく、全体的な戦闘力不足も生じた。そのため、トロ・ロッソとしてはコンストラクターズ9位と前年より後退し、かつてのパートナーだったマクラーレンを逆転するには至らなかった。

トロ・ロッソの親チームであるレッドブルが、ルノーとの関係悪化からホンダへパワーユニット供給元を変更する噂が各所から流れていたが[93][94]、6月19日にホンダと2019年から2年間の供給契約を締結したことを正式に発表した。トロ・ロッソへも引き続き供給を行う[95]。レッドブルチーム代表のクリスチャン・ホーナーは「今シーズンのホンダには大きな進歩が見られた。カナダGPで投入されたルノーとホンダの各新パワーユニットへの調査の結果、パワーユニット変更への決心が付いた」「純粋に技術的な理由により、これが将来に向けて正しい動きであるという結論に達した」[96]「初めて自動車メーカーと緊密に連携することになり、当初から車体とパワーユニットの融合を考慮したマシン造りができる」[97]とコメントしている。なお、レッドブル側はアストンマーティンとのタイトルスポンサー契約は継続する意向を示し、日英の自動車メーカーの名前が「1つのチームに並び立つ」ことになる[98]。更にターボチャージャーの開発・製造に関わる技術協力体制を強化すべく、IHIとテクニカルパートナーシップ契約を締結した[99]

 
レッドブル・RB15・ホンダ
 
2019ブラジルGPのホンダ1–2

2019年はレッドブルとトロ・ロッソの2チームに供給。レッドブルのマックス・フェルスタッペンが開幕戦オーストラリアGPで3位に入賞し、レッドブルとのパートナーシップ初戦で2008年イギリスGP以来、2015年のF1復帰後初の表彰台を獲得した[100]。メルセデスが開幕から連勝を続ける中で迎えた第9戦オーストリアGPでフェルスタッペンが優勝を果たし、ホンダにとっては2006年ハンガリーGP以来、2015年のF1復帰後初優勝となった[101]。さらに第11戦ドイツGPでは雨で大波乱となったレースでフェルスタッペンがシーズン2勝目をあげ、さらにトロ・ロッソのダニール・クビアトも3位に入り、1992年ハンガリーGP以来となるダブル表彰台を獲得した。さらに第12戦ハンガリーGPでは、フェルスタッペンがメルセデスのルイス・ハミルトンと名勝負を繰り広げた。しかし、終盤でタイヤがもたず、賭けに出たハミルトンに抜かされてしまった。第20戦ブラジルGPではフェルスタッペンがシーズン3勝目をあげ、さらにトロ・ロッソのピエール・ガスリーが2位に入り、1991年日本GP以来、2015年のF1復帰後初となる1-2フィニッシュとなった。

 
アレクサンダー・アルボンがドライブするRB16

2020年も引き続きレッドブルとトロ・ロッソから名前を変えたアルファタウリに供給。開幕戦オーストリアGPでは、ホンダ勢としては、レッドブルの2台がPUの電気系トラブル[102]、アルファタウリのクビアトが他車とのバトルで起きた接触によりサスペンションが破損しそれぞれリタイア[103]。開幕戦はガスリーの7位入賞のみの厳しいスタートとなった。しかし、第2戦シュタイアーマルクGPでフェルスタッペンが今季初の表彰台を獲得するものの、メルセデスとの差は大きく[104]、フェルスタッペンは表彰台の一角に食い込むものの[105]、差を詰められない状況が続いた。それでも、第5戦70周年記念GPでフェルスタッペンがタイヤ戦略も駆使して優勝を飾った[106]。また、アルファタウリ側もチームとして下位ながらも連続入賞を記録するなど、前年より競争力が高めていた[107]。そして、第8戦イタリアGPではアルファタウリのガスリーがピットインのタイミングがプラスに働き上位へ浮上。そして、レース中盤の赤旗中断からの再スタート後、首位へ浮上し、そのまま逃げ切り自身初優勝を果たした[108]。これによりホンダは2014年のPU化以降、初めて同一メーカーのPUでの複数チームで優勝を果たしたPUメーカーとなった(その後、第16戦サヒールGPでメルセデスPU搭載チームのドライバーであるセルジオ・ペレスの優勝によりメルセデスも達成)。ただし、タイトル争いという点では、最終的には第13戦エミリア・ロマーニャGPでのフェルスタッペンのリタイアによりその可能性は消滅[109]している。その一方で最終戦アブダビGPではフェルスタッペンがポール・トゥ・ウィン[110]を飾りシーズンを終えた。

F1事業撤退からホンダ・レーシングへ 編集

2020年10月2日17時に突如として翌2021年シーズン限りでF1事業からの撤退を発表。2050年のカーボンニュートラル実現に向けて経営資源を集中させるためだと八郷社長は説明した[111]。背景には、メディアによって金額の捉え方について差異はあれどF1部門の開発予算が少なからず会社の経営の負担となっている状況や会社の収益構造の課題による先行き不安から[112][113][114]、2022年以降の供給に対する不安要素は以前から囁かれていた。

しかし、レギュレーション的には予定では2024年までは現在のV6ハイブリッドパワーユニットが継続されるうえ[115]、2020年5月には2021年からPUのアップデートの制限や2023年から新エンジンへ変わるまでの間はPUの開発を凍結する方針も決定したため[116]、開発費の軽減も含め、2022年以降も供給するためのハードルは低くなりつつあった。また、2019年アブダビグランプリの前後に2021年まで供給契約の延長を発表したことやF1の現場にいるスタッフらは2022年以降も供給するという前提の言動をしていたことから[117][118][119][120][121]、撤退する可能性は低いという楽観視する見方が強くなっていた。そのうえ、2015年復帰時には「二度と撤退しない」と明言していた背景や会見で参戦を継続すべきだと声があったことを認めたこともあり[122]、この発表はあまりに突然過ぎる撤退表明であった。そのため日本のF1ファンたちから多くの困惑と批判の声が上がり、モータースポーツメディアの国内最大手であるオートスポーツ誌すら感情的な記事を掲載するほどであった[123]

ただし、撤退発表後から少し経ってから書かれた専門誌の記事によれば、ホンダ本社の首脳陣は、2020年のプレシーズンテストの頃(2月)より前の段階でカーボンニュートラル実現も含めた会社の方針転換に重点を置いて議論しており、F1からの撤退も議題に入っていた[124]。新型コロナウイルス感染症の影響で7月からのシーズン開幕となったが、山本雅史によれば、5月に八郷とホンダ本社で1対1のミーティングを行った時点で、八郷から「もう決めたんだ」と撤退が決まったことを告げられたという[125]。またレッドブルの運営面のトップであるヘルムート・マルコには、開幕戦の前後に撤退する方針が伝えられていた[126][127][128]。一方でPU開発責任者の浅木泰昭らには、9月上旬まで撤退が告げられなかった[129]。レッドブルでも現場責任者となるクリスチャン・ホーナーやフェルスタッペンのコメントによれば[130]、両者その情報を直前まで知らなかったが、ホーナーは9月にホンダが開発計画の変更を伝えてきた点、フェルスタッペンはホンダが2022年以降の活動が不明な点から、その可能性があることを推測していたとコメントしている。

2022年シーズン以降については、ホンダとしてのPU供給は行わないものの、レッドブルが新たに設立したPU製造会社「レッドブル・パワートレインズ」(RBPT)に対し、ホンダの持つ知的財産等の利用権を与えるとしていた[131]。また2022年型PUの開発までは引き続きホンダが担当するほか、HRD Milton Keynesのスタッフの一部(現地雇用者の大半)もレッドブルに引き継ぐ[132][133]。さらに四輪レーシングの開発拠点である「HRD Sakura」(本田技術研究所の一部門)を二輪のホンダ・レーシング(HRC)に移管統合し、今後はHRCがモータースポーツ全般の運営を担うと公表した[134][135]。その後周辺状況の変化により、HRCは2025年まで現行のPUの製造・組み立て・供給を継続すると発表した[135][136]。RBPTではPUの調整を行いバッジネームをつけて使用する。ホンダの日本人スタッフからは、2021年まで副テクニカルディレクターを務めた本橋正充が出張対応で、現場のリーダーを務めた[137][138](2023年4月に折原伸太郎に交代[139])。人事では、ブランド・コミュニケーション本部長を務めホンダF1チームを支援していた渡辺康治が、HRC代表取締役社長に就任した[140]

2022年3月から2025年までのPUの開発がレギュレーションで凍結(信頼性改修は除く)されたため、PUの開発に従事していたエンジニアは基本的には全員が先進技術研究所(本田技術研究所)に異動した。そのため「HRC Sakuraに残っているのは、PUの組み立て担当者やテクニカルサポートの要員のみ」と渡辺社長が説明していたが[141]、後日にホンダF1の首脳陣であった浅木泰昭(当時HRC常務取締役)は「いろいろ変わったが、撤退前と比較して技術陣がやっている作業に何ら変わりはない」[142]、湊谷圭祐エンジニアは「レース現場では撤退前から2人減った程度で、ずっと以前から十数人の少数精鋭」と語っている[143]。またバッテリーやERS(エネルギー回生システム)などの電気関連の、F1をやりながら開発した方がいいと思われる部分の技術者はHRC Sakuraに残っている[144]

将来への布石・展望など 編集

HRD Sakuraの責任者である浅木泰昭センター長は、『本田技術研究所ではもう難しいが、統合したホンダ・レーシング(HRC)からの参戦なら、将来のF1復帰の検討もあり得なくはない』と見解を語った[145]。そして2023年春に定年退職を迎えたコメントでは『2026年シーズンPUの製造者登録したのは、F1復帰の可能性を踏まえたもの。再参戦の可能性がゼロなら、自分は最後までSakuraに残ることは無かった』と答えた[146]

マネージングディレクターを務めた山本雅史は、もしF1復帰があるなら『PUマニュファクチャラー(エンジン・サプライヤー)の立ち位置では、やれる事が非常に制限され限界があった。スポンサー獲得も分配金も無く技術面の恩恵も少ない。マーケティング、ブランディングをさらに高めたいならコンストラクター(車両製造者)として参戦するべき』と提言している[147]

HRCの新社長に就任した渡辺康治(元ブランド・コミュニケーション本部長)は、『(次世代PUが導入される予定の)2026年シーズン以降から復帰するという議論は全く無いが(2022年夏時点)、条件が揃えばF1に戻るということは考えられる。復帰するにしても全て止めてしまうと立ち上げに苦労するので、技術の継続は必要だと考えている』と答えている。また、レッドブルから「HRC」のエンジン名で登録を要請された場合の問いには、『それではスポンサー付(バッジネーム)のようで、少しためらう。我々(HRC)はパワーユニットサプライヤーではないので』と難色を示している[148]

2022年11月、F1の2026年シーズンから新PU規定が導入される製造メーカー登録について、締め切り間際にホンダ・レーシング(HRC)名義でエントリーした。HRC代表の渡辺康治は『レースの研究を加速させるためであり、F1再参戦を意図するものではない』と、この時点ではF1復帰を否定している[149]。そう明らかにした数日後、翌2023年シーズンのレッドブルPU製造者名が『Honda RBPT』の名称でエントリーが決定した[150]

2023年春、F1ジャーナリストの米家峰起が、これまで取材した記事をまとめている。『HRCとしては、2026年以降もF1参戦を望んでいる。しかしホンダ本社から許可が出なければできない。社内には賛成派もいれば反対派もいて、その意思疎通を図っている時間的余裕はない。そのために製造者登録だけでも行っておき、2026年参戦の可能性を残した』。また、仮に2026年に間に合わなかったとしても、2027年以降に参戦する可能性もあり、つまりは『参戦の判断が下れば、いつでも何でもできるように準備している』と伝えた[151]

第5期 編集

アストンマーティンとのジョイント 編集

2023年5月24日、F1世界選手権2026年シーズンからPUサプライヤーとしての完全復帰を発表。新パートナーとして、アストンマーティンF1チーム(AMR GP)と複数年の提携合意を公表した[152]。アストンマーティンとの関係は現時点で「唯一のワークス供給」となる[153]

ホンダ本社にて三部敏宏社長や渡辺康治HRC社長が会見し、アストンマーティン・ラゴンダ会長のローレンス・ストロールや、アストンマーティン・パフォーマンス・テクノロジーズCEOのマーティン・ウィットマーシュも同席。三部社長は『カーボンニュートラルの開発を理由に撤退したが、その後F1側のレギュレーションでもカーボンニュートラル燃料や電動マネジメント技術の導入が示されたため、方向性が合致した』と説明した[154]。なおカーボンニュートラル燃料は、アストンマーティンのスポンサーでもあるアラムコとホンダで共同開発する[153]。また、英国ミルトン・キーンズにあった欧州の拠点はレッドブル・パワートレインズに移管させ消滅しているため、現場の活動や開発体制について暫くはHRC Sakuraが担い、いずれは欧州にも新たな拠点を設ける[155]

モータージャーナリスト国沢光宏の取材によると、「三部社長は当初復帰に消極的だったものの、推進派である青山真二副社長と渡辺HRC代表が活動再開に奔走し、特にホンダの重要な市場であるアメリカのF1人気の高まりが契機となった」と伝えている[156]

2024年2月末、「ホンダ・レーシング・コーポレーションUK」(HRC UK)を英国に設立した。2026年シーズンから運用するための、新たな欧州の拠点となる[157]

拠点 編集

第1期 編集

当初本田技術研究所・和光研究所(埼玉県和光市)がシャシー・エンジンの双方を開発していたが、1967年以降は和光は原則としてエンジン開発のみを担当し、シャシーについてはイギリスのローラ・カーズが中心となる体制が組まれた。しかし和光でのシャシー開発が完全にストップしたわけではなく、以後もRA302のような独自シャシーを投入したことがある。

第2期 編集

第1期と同じく和光研究所がエンジンの開発・製造を担ったが、ヨーロッパにもエンジンのリビルド等を行う前線基地が必要との判断から、イギリス・オックスフォードシャーに通称「ラングレーオフィス」[158]と呼ばれるファクトリーを構え、第2の拠点として使用していた[159]

第3期 編集

ホンダの四輪開発部隊の中心が本田技術研究所・栃木研究所(栃木県芳賀郡芳賀町)に移ったことから、エンジンの開発も栃木で行われるようになった。また前述の通り、第3期はF1参戦のための子会社としてホンダ・レーシング・ディベロップメント(HRD)が設立されたことから、イギリス・バークシャーのブラックネル[160]に置かれたHRDの本社が前線基地として使われた[161]。シャシーについてはノーザンプトンシャー・ブラックリー・レイナードパークにある旧B・A・Rのファクトリーが買収後も使われていた。

第4期 編集

日本とイギリスの2拠点体制となっている。2拠点間の時差を利用してほぼ24時間体制で開発が行われていた[162]

HRD Milton Keynes, Motor Sports Division (HRD UKとも)
イギリス・バッキンガムシャーミルトン・キーンズに所在[163]。2019年2月の設立。前年から更地に施設が建設された、主にレースの運用部門のエンジニアが常駐し、バッテリーパックの開発なども行っていた[162]
2022年2月末で閉鎖され、従業員の大半はRBPTに移籍したとされる[135]が、Honda R&D Europe(UK)に編成替えがなされたものであり、ほぼ継続的に業務をこなしている。
第4期スタート当初からPUのメンテナンス関連は南側の建物、M-TECの英国子会社のMugen Euro Co.,Ltd[164][165]が使用された。
第3期のスタート時に設立されたホンダ・レーシング・ディベロップメント(HRD)が2016年に整理をうけている。
2019年2月以前の参戦の本社側からの制御は、佐藤英夫山本雅史の2名のモータースポーツ部長の手によるもの。
R&D Sakura → HRD Sakura → HRC Sakura
栃木県さくら市に所在。元々は本田技術研究所の一部門として創設され、F1以外にSUPER GTスーパーフォーミュラ等の車両・エンジンの開発も行っているが[166]、全従業員の8割以上がF1に関わっている[162]。主にパワーユニット(PU)の基礎開発などを担当する。内部にはPUの組立室や部品の検査部門、エンジンのテストベンチ、サーキットとリアルタイムで接続しレース中のモニター等を行う「ミッションルーム」、SUPER GT用車両をそのまま入れられる風洞などが設けられている[167][168]。またホンダコレクションホールと連携し、過去のF1車両のレストアなどを行う「ヘリテージ部門」もある[168]
なお2022年からは業務がホンダ・レーシング(HRC)に移管され、HRCの4輪部門として活動する。それに伴い、名称が「HRC Sakura」に変更になった[167]

F1での戦績 編集

シャーシの結果 編集

(key)

シャーシ エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 WDC ポイント WCC ポイント
1964 RA271 RA271E
1.5L V12
D MON NED BEL FRA GBR GER AUT ITA USA MEX NC 0 9位 0
  ロニー・バックナム Ret Ret Ret
1965 RA272 RA272E
1.5L V12
G RSA MON BEL FRA GBR NED GER ITA USA MEX 7位 11 6位 11
  リッチー・ギンサー Ret 6 Ret Ret 6 14 7 1
  ロニー・バックナム Ret Ret Ret Ret 13 5 14位 2
1966 RA273 RA273E
3.0L V12
G MON BEL FRA GBR NED GER ITA USA MEX 11位* 5* 8位 3
  リッチー・ギンサー Ret NC 4
  ロニー・バックナム Ret 8 NC 0
1967 RA273
RA300
RA273E
3.0L V12
G

F

RSA MON NED BEL FRA GBR GER CAN ITA USA MEX 4位 20 4位 20
  ジョン・サーティース 3 Ret Ret Ret 6 4 1 Ret 4
1968 RA300
RA301
RA302
RA273E
3.0L V12
RA301E
3.0L V12
RA302E
3.0L V8
F

G

RSA ESP MON BEL NED FRA GBR GER ITA CAN USA MEX 7位 12 7位 14
  ジョン・サーティース 8 Ret Ret Ret Ret 2 5 Ret Ret Ret 3 Ret
  ジョー・シュレッサー Ret NC 0
  デビッド・ホッブス Ret NC 0
  ヨアキム・ボニエ* 5 22位* 3*
2006 RA106 RA806E
2.4L V8
M BHR MAL AUS SMR EUR ESP MON GBR CAN USA FRA GER HUN TUR ITA CHN JPN BRA 7位 30 4位 86
  ルーベンス・バリチェロ 15 10 7 10 5 7 4 10 Ret 6 Ret Ret 4 8 6 6 12 7
  ジェンソン・バトン 4 3 10 7 Ret 6 11 Ret 9 Ret Ret 4 1 4 5 4 4 3 6位 56
2007 RA107 RA807E
2.4L V8
B AUS MAL BHR ESP MON CAN USA FRA GBR EUR HUN TUR ITA BEL JPN CHN BRA 15位 6 8位 6
  ジェンソン・バトン 15 12 Ret 12 11 Ret 12 8 10 Ret Ret 13 8 Ret 11 5 Ret
  ルーベンス・バリチェロ 11 11 13 10 10 12 Ret 11 9 11 18 17 10 13 10 15 Ret 20位 0
2008 RA108 RA808E
2.4L V8
B AUS MAL BHR ESP TUR MON CAN FRA GBR GER HUN EUR BEL ITA SIN JPN CHN BRA 18位 3 9位 14
  ジェンソン・バトン Ret 10 Ret 6 11 11 11 Ret Ret 17 12 13 15 15 9 14 16 13
  ルーベンス・バリチェロ DSQ 13 11 Ret 14 6 7 14 3 Ret 10 16 Ret 17 Ret 13 16 11 14位 11
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ
  • 印はリタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。
  • * ヨアキム・ボニエはプライベートチームからの出走。
  • * ドライバーは他のシャーシメーカーでポイントを獲得した。

エンジンの結果 編集

エンジン シャーシ タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 WDC ポイント WCC ポイント
1983 RA163E
1.5L V6t
スピリット・201
スピリット・201C
G BRA USW FRA SMR MON BEL DET CAN GBR GER AUT NED ITA EUR RSA NC 0 NC 0
  ステファン・ヨハンソン Ret Ret 12 7 Ret 14
ウィリアムズ・FW09   ケケ・ロズベルグ 5 5位* 27* 11位 2
  ジャック・ラフィット Ret 11位* 11*
1984 RA163E
1.5L V6t
RA164E
1.5L V6t
ウィリアムズ・FW09
ウィリアムズ・FW09B
G BRA RSA BEL SMR FRA MON CAN DET USA GBR GER AUT NED ITA EUR POR 8位 20.5 6位 25.5
  ケケ・ロズベルグ 2 Ret 4 Ret 6 4 Ret Ret 1 Ret Ret Ret 8 Ret Ret Ret
  ジャック・ラフィット Ret Ret Ret Ret 8 8 Ret 5 4 Ret Ret Ret Ret Ret Ret 14 14位 5
1985 RA164E
1.5L V6t
RA165E
1.5L V6t
ウィリアムズ・FW10 G BRA POR SMR MON CAN DET FRA GBR GER AUT NED ITA BEL EUR RSA AUS 3位 40 3位 71
  ケケ・ロズベルグ Ret Ret Ret 8 4 1 2 Ret 12 Ret Ret Ret 4 3 2 1
  ナイジェル・マンセル Ret 5 5 7 6 Ret DNS Ret 6 Ret 6 11 2 1 1 Ret 6位 31
1986 RA166E
1.5L V6t
ウィリアムズ・FW11 G BRA ESP SMR MON BEL CAN DET FRA GBR GER HUN AUT ITA POR MEX AUS 2位 70 (72) 1位 141
  ナイジェル・マンセル Ret 2 Ret 4 1 1 5 1 1 3 3 Ret 2 1 5 Ret
  ネルソン・ピケ 1 Ret 2 7 Ret 3 Ret 3 2 1 1 Ret 1 3 4 2 3位 69
1987 RA167E
1.5L V6t
ウィリアムズ・FW11B G BRA SMR BEL MON DET FRA GBR GER HUN AUT ITA POR ESP MEX JPN AUS 1位 73 (76) 1位 137
  ネルソン・ピケ 2 DNS Ret 2 2 2 2 1 1 2 1 3 4 2 15 Ret
  ナイジェル・マンセル 6 1 Ret Ret 5 1 1 Ret 14 1 3 Ret 1 1 DNS 2位 61
  リカルド・パトレーゼ 9 13位* 6*
ロータス・99T   アイルトン・セナ Ret 2 Ret 1 1 4 3 3 2 5 2 7 5 Ret 2 DSQ 3位 57 3位 64
  中嶋悟 7 6 5 10 Ret NC 4 Ret Ret 13 11 8 9 Ret 6 Ret 12位 7
1988 RA168E
1.5L V6t
マクラーレン・MP4/4 G BRA SMR MON MEX CAN DET FRA GBR GER HUN BEL ITA POR ESP JPN AUS 1位 90 (94) 1位 199
  アイルトン・セナ DSQ 1 Ret 2 1 1 2 1 1 1 1 10 6 4 1 2
  アラン・プロスト 1 2 1 1 2 2 1 Ret 2 2 2 Ret 1 1 2 1 2位 87 (105)
ロータス・100T   ネルソン・ピケ 3 3 Ret Ret 4 Ret 5 5 Ret 8 4 Ret Ret 8 Ret 3 6位 22 4位 23
  中嶋悟 6 8 DNQ Ret 11 DNQ 7 10 9 7 Ret Ret Ret Ret 7 Ret 16位 1
1989 RA109E
3.5L V10
マクラーレン・MP4/5 G BRA SMR MON MEX USA CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR ESP JPN AUS 1位 76 (81) 1位 129 (141)
  アラン・プロスト 2 2 2 5 1 Ret 1 1 2 4 2 1 2 3 Ret Ret
  アイルトン・セナ 11 1 1 1 Ret 7 Ret Ret 1 2 1 Ret Ret 1 DSQ Ret 2位 60
1990 RA100E
3.5L V10
マクラーレン・MP4/5B G USA BRA SMR MON CAN MEX FRA GBR GER HUN BEL ITA POR ESP JPN AUS 1位 78 1位 121
  アイルトン・セナ 1 3 Ret 1 1 20 3 3 1 2 1 1 2 Ret Ret Ret
  ゲルハルト・ベルガー Ret 2 2 3 4 3 5 14 3 16 3 3 4 Ret Ret 4 4位 43
1991 RA121E
3.5L V12
マクラーレン・MP4/6 G USA BRA SMR MON CAN MEX FRA GBR GER HUN BEL ITA POR ESP JPN AUS 1位 96 1位 139
  アイルトン・セナ 1 1 1 1 Ret 3 3 4 7 1 1 2 2 5 2 1
  ゲルハルト・ベルガー Ret 3 2 Ret Ret Ret Ret 2 4 4 2 4 Ret Ret 1 3 4位 43
RA101E
3.5L V10
ティレル・020 P   中嶋悟 5 Ret Ret Ret 10 12 Ret 8 Ret 15 Ret Ret 13 17 Ret Ret 15位 2 6位 12
  ステファノ・モデナ 4 Ret Ret Ret 2 11 Ret 7 13 12 Ret Ret Ret 16 6 10 8位 10
1992 RA122E
3.5L V12
RA122E/B
3.5L V12
マクラーレン・MP4/6B
マクラーレン・MP4/7A
G RSA MEX BRA ESP SMR MON CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR JPN AUS 4位 50 2位 99
  アイルトン・セナ 3 Ret Ret 9 3 1 Ret Ret Ret 2 1 5 1 3 Ret Ret
  ゲルハルト・ベルガー 5 4 Ret 4 Ret Ret 1 Ret 5 Ret 3 Ret 4 2 2 1 5位 49
2000 RA000E
3.0L V10
BAR・002 B AUS BRA SMR GBR ESP EUR MON CAN FRA AUT GER HUN BEL ITA USA JPN MAL 7位 17 5位 20
  ジャック・ヴィルヌーヴ 4 Ret 5 16 Ret Ret 7 15 4 4 8 12 7 Ret 4 6 5
  リカルド・ゾンタ 6 9 12 Ret 8 Ret Ret 8 Ret Ret Ret 14 12 6 6 9 Ret 14位 3
2001 RA001E
3.0L V10
ジョーダン・EJ11 B AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN BEL ITA USA JPN 13位 6 5位 19
  ハインツ=ハラルド・フレンツェン 5 4 11 6 Ret Ret Ret PO Ret 8 7
  リカルド・ゾンタ 7 Ret 19位 0
  ジャン・アレジ 10 6 8 7 Ret 15位* 5*
  ヤルノ・トゥルーリ Ret 8 5 5 4 DSQ Ret 11 Ret 5 Ret Ret Ret Ret Ret 4 8 9位 12
BAR・003   オリビエ・パニス 7 Ret 4 8 7 5 Ret Ret Ret 9 Ret 7 Ret 11 9 11 13 14位 5 6位 17
  ジャック・ヴィルヌーヴ Ret Ret 7 Ret 3 8 4 Ret 9 Ret 8 3 9 8 6 Ret 10 7位 12
2002 RA002E
3.0L V10
ジョーダン・EJ12 B AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR GBR FRA GER HUN BEL ITA USA JPN 11位 7 6位 9
  ジャンカルロ・フィジケラ Ret 13 Ret Ret Ret 5 5 5 Ret 7 DNQ Ret 6 Ret 8 7 Ret
  佐藤琢磨 Ret 9 9 Ret Ret Ret Ret 10 16 Ret Ret 8 10 11 12 11 5 15位 2
BAR・004   ジャック・ヴィルヌーヴ Ret 8 10 7 7 10 Ret Ret 12 4 Ret Ret Ret 8 9 6 Ret 12位 4 8位 7
  オリビエ・パニス Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret 8 9 5 Ret Ret 12 12 6 12 Ret 14位 3
2003 RA003E
3.0L V10
BAR・005 B AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN ITA USA JPN 16位 6 5位 26
  ジャック・ヴィルヌーヴ 9 DNS 6 Ret Ret 12 Ret Ret Ret 9 10 9 Ret 6 Ret
  佐藤琢磨 6 18位 3
  ジェンソン・バトン 10 7 Ret 8 9 4 DNS Ret 7 Ret 8 8 10 Ret Ret 4 9位 17
2004 RA004E
3.0L V10
BAR・006 M AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER HUN BEL ITA CHN JPN BRA 3位 85 2位 119
  ジェンソン・バトン 6 3 3 2 8 2 3 3 Ret 5 4 2 5 Ret 3 2 3 Ret
  佐藤琢磨 9 15 5 16 5 Ret Ret Ret 3 Ret 11 8 6 Ret 4 6 4 6 8位 34
2005 RA005E
3.0L V10
BAR・007 M AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER HUN TUR ITA BEL BRA JPN CHN 9位 37 6位 38
  ジェンソン・バトン 11 Ret Ret DSQ 10 Ret DNS 4 5 3 5 5 8 3 7 5 8
  佐藤琢磨 14 Ret DSQ 12 Ret DNS 11 16 12 8 9 16 Ret 10 DSQ Ret 23位 1
  アンソニー・デビッドソン Ret NC 0
2006 RA806E
2.4L V8
スーパーアグリ・SA05
スーパーアグリ・SA06
B BHR MAL AUS SMR EUR ESP MON GBR CAN USA FRA GER HUN TUR ITA CHN JPN BRA 23位 0 11位 0
  佐藤琢磨 18 14 12 Ret Ret 17 Ret 17 15 Ret Ret Ret 13 NC 16 DSQ 15 10
  井出有治 Ret Ret 13 Ret 25位 0
  フランク・モンタニー Ret Ret 16 18 Ret Ret 16 27位 0
  山本左近 Ret Ret Ret Ret 16 17 16 26位 0
2007 RA807E
2.4L V8
スーパーアグリ・SA07 B AUS MAL BHR ESP MON CAN USA FRA GBR EUR HUN TUR ITA BEL JPN CHN BRA 17位 4 9位 4
  佐藤琢磨 12 13 Ret 8 17 6 Ret 16 14 Ret 15 18 16 15 15 14 12
  アンソニー・デビッドソン 16 16 16 11 18 11 11 Ret Ret 12 Ret 14 14 16 Ret Ret 14 23位 0
2008 RA808E
2.4L V8
スーパーアグリ・SA08A B AUS MAL BHR ESP TUR MON CAN FRA GBR GER HUN EUR BEL ITA SIN JPN CHN BRA 21位 0 11位 0
  佐藤琢磨 Ret 16 17 13
  アンソニー・デビッドソン Ret 15 16 Ret 22位 0
2015 RA615H
1.6L V6t
マクラーレン・MP4-30 P AUS MAL CHN BHR ESP MON CAN AUT GBR HUN BEL ITA SIN JPN RUS USA MEX BRA ABU NC 0 9位 27
  ケビン・マグヌッセン DNS
  フェルナンド・アロンソ Ret 12 11 Ret Ret Ret Ret 10 5 13 18 Ret 11 11 11 Ret 15 17 17位 11
  ジェンソン・バトン 11 Ret 14 DNS 16 8 Ret Ret Ret 9 14 14 Ret 16 9 6 14 14 12 16位 16
2016 RA616H
1.6L V6t
マクラーレン・MP4-31 P AUS BHR CHN RUS ESP MON CAN EUR AUT GBR HUN GER BEL ITA SIN MAL JPN USA MEX BRA ABU 10位 54 6位 76
  フェルナンド・アロンソ Ret 12 6 Ret 5 11 Ret 18 13 7 12 7 14 7 7 16 5 13 10 10
  ストフェル・バンドーン 10 20位 1
  ジェンソン・バトン 14 Ret 13 10 9 9 Ret 11 6 12 Ret 8 Ret 12 Ret 9 18 9 12 16 Ret 15位 21
2017 RA617H
1.6L V6t
マクラーレン・MCL32 P AUS CHN BHR RUS ESP MON CAN AZE AUT GBR HUN BEL ITA SIN MAL JPN USA MEX BRA ABU 15位 17 9位 30
  フェルナンド・アロンソ Ret Ret 14 DNS 12 16 9 Ret Ret 6 Ret 17 Ret 11 11 Ret 10 8 9
  ジェンソン・バトン Ret NC 0
  ストフェル・バンドーン 13 Ret DNS 14 Ret Ret 14 12 12 11 10 14 Ret 7 7 14 12 12 Ret 12 16位 13
2018 RA618H
1.6L V6t
トロ・ロッソ STR13 P AUS BHR CHN AZE ESP MON CAN FRA AUT GBR GER HUN BEL ITA SIN RUS JPN USA MEX BRA ABU 19位 4 9位 33
  ブレンドン・ハートレイ 15 17 20 10 12 19 Ret 14 11 Ret 10 11 14 Ret 17 Ret 13 9 14 11 12
  ピエール・ガスリー Ret 4 18 12 Ret 7 11 Ret Ret 13 14 6 9 14 13 Ret 11 12 10 13 Ret 15位 29
2019 RA619H
1.6L V6t
レッドブル・RB15 P AUS BHR CHN AZE ESP MON CAN FRA AUT GBR GER HUN BEL ITA SIN RUS JPN MEX USA BRA ABU 3位 278 3位 417
  マックス・フェルスタッペン 3 4 4 4 3 4 5 4 1 5 1 2 Ret 8 3 4 Ret 6 3 1 2
  ピエール・ガスリー 11 8 6 Ret 6 5 8 10 7 4 14 6 7位 95
  アレクサンダー・アルボン 5 6 6 5 4 5 5 14 6 8位 92
トロ・ロッソ STR14   ダニール・クビアト 10 12 Ret Ret 9 7 10 14 17 9 3 15 7 Ret 15 12 10 11 12 10 9 13位 37 6位 85
  アレクサンダー・アルボン 14 9 10 11 11 8 Ret 15 15 12 6 10 8位 92
  ピエール・ガスリー 9 11 8 14 7 9 16 2 18 7位 95
2020 RA620H
1.6L V6t
レッドブル・RB16 P AUT STY HUN GBR 70A ESP BEL ITA TUS RUS EIF POR EMI TUR BHR SKR ABU 3位 214 2位 319
  マックス・フェルスタッペン Ret 3 2 2 1 2 3 Ret Ret 2 2 3 Ret 6 2 Ret 1
  アレクサンダー・アルボン 13 4 5 8 5 8 6 15 3 10 Ret 12 15 7 3 6 4 7位 105
アルファタウリ・AT01   ダニール・クビアト 12 10 12 Ret 10 12 11 9 7 8 15 19 4 12 11 7 11 14位 32 7位 107
  ピエール・ガスリー 7 15 Ret 7 11 9 8 1 Ret 9 6 5 Ret 13 6 11 8 10位 75
2021 RA621H
1.6L V6t
レッドブル・RB16B P BHR EMI POR ESP MON AZE FRA STY AUT GBR HUN BEL NED ITA RUS TUR USA MEX SÃO QAT SAU ABU 1位 395.5 2位 585.5
  マックス・フェルスタッペン 2 1 2 2 1 18 1 1 1 Ret 9 1 1 Ret 2 2 1 1 2 2 2 1
  セルジオ・ペレス 5 11 4 5 4 1 3 4 6 16 Ret 19 8 5 9 3 3 3 4 4 Ret 15† 4位 190
アルファタウリ・AT02   角田裕毅 9 12 15 Ret 16 7 13 10 12 10 6 15 Ret DNS 17 14 9 Ret 15 13 14 4 14位 32 6位 142
  ピエール・ガスリー 17† 7 10 10 6 3 7 Ret 9 11 5 6‡ 4 Ret 13 6 Ret 4 7 11 6 5 9位 110
情報源:[169]
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ
  • 印はリタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。
  • * ドライバーは他のエンジンメーカーでポイントを獲得した。

ホンダエンジンを搭載したチームとドライバー 編集

車両ギャラリー 編集

  • ワークス (第1期)(1964年 - 1968年)
  • ワークス (第3期)(2006年 - 2008年)
  • サプライヤー (第2期)(1983年 - 1992年)
  • サプライヤー (第3期)(2000年 - 2008年)
  • サプライヤー (第4期)(2015年 - 2021年)
  • RBPTのOEMメーカーとして(2022年 - 2025年)
  • 車体設計の継承関連(1999年・2006年・2009年)

シャーシおよびエンジンの型式名 編集

ホンダでは伝統的に「RA」で始まる型式名としているが、これは第1期のF1参戦時において、すでに実績を残していた2輪と区別する意味において、「Racing Automobile」を示す意味で付けられたもの。なお、その後に付けられる数字については参戦時期において下記のように異なる意味が込められている。

第1期
系統だった命名規則はなかった模様。最初に作られた試作エンジンの「RA270E」については、「最高出力270馬力(最高時速270kmという説もある)を目標とする」というところから「270」とつけられたと言われている。1967年の「RA300」以降については、シャシーの開発体制を日本の研究所が中心だった旧体制からイギリスの現地部隊中心の新体制に改めたことから、新たな飛躍を目指す意味で当時の監督だった中村良夫が番号を一新することを決め、きりの良いところで「300」とした。
第2期 : RA1○△E
R(Racing)
A(Automobile)
1(Formula One)
○(シリンダー数の下1桁。0,2,6が用いられた)
△(西暦の下1桁)
E(Engine)
第3期のエンジン : RA○△△E
R(Racing)
A(Automobile)
○(シリンダー数の下1桁。0,8が用いられた)
△△(西暦の下2桁)
E(Engine)
2006-2008年のシャーシ : RA1△△
R(Racing)
A(Automobile)
1(Formula One)
△△(西暦の下2桁)
第4期 : RA○△△H
R(Racing)
A(Automobile)
○(シリンダー数の下1桁。6が用いられている)
△△(西暦の下2桁)
H(Hybrid)

参戦年度・型式名 編集

  • 第1期
    • 1963年 RA270(試作シャシー)、RA270E(研究目的の試作エンジン、1.5L V12
    • 1964年 RA271(シャシー)、RA271E(エンジン)
    • 1965年 RA272(シャシー)、RA272E(エンジン)
    • 1966年 RA273(シャシー)、RA273E(エンジン、レギュレーション改定に伴い排気量が3.0Lとなる)
    • 1967年 RA273, RA300(シャシー、ホンダとローラの共同開発によるマシン。通称Hondola)、RA273E(エンジン)
    • 1968年 RA300, RA301, RA302(シャシー)、RA301E, RA302E(エンジン、RA302EはV型8気筒空冷エンジン
  • 第2期
    • 1983年 RA163E(80度V型6気筒 1.5Lエンジン、F2用エンジンをショートストローク化した上でターボを付加した)
    • 1984年 RA164E
    • 1985年 RA164E、RA165E(完全新設計、ロングストローク化)
    • 1986年 RA166E
    • 1987年 RA167E
    • 1988年 RA168E
    • 1989年 RA109E(ターボエンジン禁止により3.5L NA・V10エンジンに移行)
    • 1990年 RA100E
    • 1991年 RA121EV12エンジン、マクラーレンに供給)、RA101E(V10エンジン、ティレルに供給)
    • 1992年 RA122E、RA122E/B
  • 第3期
    • 1999年 RA099(シャシー)、無限MF301HD(エンジン) - フルコンストラクター参戦準備のテストに使用された。
    • 2000年 RA000E(3.0L V10エンジン)
    • 2001年 RA001E
    • 2002年 RA002E
    • 2003年 RA003E
    • 2004年 RA004E
    • 2005年 RA005E
    • 2006年 RA106(シャシー)、RA806E(エンジン、レギュレーション改定に伴い2.4L V8へ移行)
    • 2007年 RA107(シャシー)、RA807E(エンジン)
    • 2008年 RA108(シャシー)、RA808E(エンジン)
  • 第4期
    • 2015年 RA615H(1.6L V6ターボ)
    • 2016年 RA616H
    • 2017年 RA617H
    • 2018年 RA618H
    • 2019年 RA619H
    • 2020年 RA620H[171]
    • 2021年 RA621H

関連人物 編集

  • 第1期
    • 中村良夫 - 第1期(1964年 - 1968年(断続的))監督。同時期、監督と市販四輪車開発を兼務した。
    • 河島喜好 - 1965年に短期ながら監督を務めた(埼玉製作所の所長と兼務)。のちの第2代本田技研工業社長。
    • 久米是志 - RA302のエンジン設計者(当時は川本の上司)。のちの第3代本田技研工業社長。
    • 川本信彦 - RA300・RA301のエンジン設計者であり、第2期参戦当初(1983年~1984年)のチーム監督でもあった。のちの第4代本田技研工業社長。
    • 入交昭一郎 - RA273のエンジン設計者。入社まもない設計者だったが中村達に抜擢された。後のホンダ副社長、元セガ社長。
    • 佐野彰一 - RA271/272、RA300/301/302のシャシー設計者。第2期でも1985年頃に一時F1チームに合流していた。
  • 第2期
    • 桜井淑敏 - 第2期前半(1984年 - 1987年)総監督。
    • 後藤治 - 第2期後半(1988年 - 1990年)プロジェクトリーダーを務める。退社後にマクラーレン、フェラーリザウバーに在籍。
    • 本田博俊 - 元無限社長。本田宗一郎の長男。1992年から2000年まで「無限-ホンダ」としてエンジン供給し、実質的にホンダ不在の間を埋めた。
  • 第3期
    • 吉野浩行 - 1998年、第5代本田技研工業社長に就任。就任直後の1998.05.08 HONDA RACING DIVELOPMENT Ltd. (略称:HRD, Honda Racing, ホンダレーシング)を設立。ホンダ第3期の関与のあり方自体を決定づける判断をした。
    • 福井威夫 - 2000年の第3期F1参戦開始時に指揮を執る。のちの第6代本田技研工業社長。2008年の撤退会見も社長として行うこととなった。
    • 木内健雄 - 第3期前半のHONDA F1総監督(F1プロジェクトリーダー)。第2期はアイルトン・セナやアラン・プロストの担当エンジニアを務めた。
    • 和田康裕 - 本社のモータースポーツ部長を務め、ワークス体制時には本田技術研究所「HRD」の社長を兼任した。
    • 西澤一俊 - HRD所属のテクニカルディレクター。その後、栃木研究所に異動し第3期前半のエンジン/パワートレイン部門責任者を務めた。
    • 中本修平 - HRD所属の技術ディレクター。ワークス体制時には技術部門の総責任者(テクニカルディレクター)を務めた。
    • 橋本健 - 車体の技術開発責任者。
    • 櫻原一雄 - エンジン開発責任者。
    • 村松慶太 - 第3期末期のモータースポーツ部長。
    • ニック・フライ - ホンダ・レーシング・F1チームのCEO
    • ジェフ・ウィリス - 前身B・A・Rのテクニカルディレクター。ワークス体制初期まで同職を務めた。
    • ジル・ド・フェラン - 2005年より2007年7月までB・A・Rおよびホンダのスポーティングディレクターを務めた。
    • ロス・ブラウン - 2007年 - 2008年にチーム代表を務めた。
  • 第4期[172]
    • 佐藤英夫 - 2011年春から2016年春までのモータースポーツ部長。
    • 山本雅史 - 参戦2年目、2016年春から2019年春までのモータースポーツ部長。就任時に、ブランド・コミュニケーション本部が設定される。2019年 - 2021年は現地のF1参戦本体のHRD-UKのマネージングディレクター。退社した2022年以降はコンサルティング事業でF1に携わりマルコに密着する。
    • 渡辺康治 - 2018年より執行役員総務担当。2020年よりブランド・コミュニケーション本部長 兼 広報部長。2022年度からホンダ・レーシング(HRC)の代表取締役社長に就任した[173]
    • 数佐明男 - 2019年以降のモータースポーツ部長。
    • 長井昌也 - 2021年以降のモータースポーツ部長。(以上本社関連人事、以下は技術職)
    • 新井康久 - 2015年のF1プロジェクト総責任者。
    • 長谷川祐介 - 2016年・2017年のF1プロジェクト総責任者。
    • 田辺豊治 - 2018年 - 2021年のテクニカルディレクター。2019年以降は現場統括責任者を兼任。第2期はゲルハルト・ベルガーのエンジニアを務めた。
    • 浅木泰昭 - 2018年以降「HRD Sakura」のセンター長および執行役員。2018年 - 2021年は開発責任者を兼任。
    • 本橋正充 - 2018年 - 2021年の副テクニカルディレクター。2019年以降はトロ・ロッソ(現スクーデリア・アルファタウリ)担当チーフエンジニアを兼任。2022年から暫くはレッドブル・パワートレインズに出向し、田辺の後任として2023年4月まで現場のリーダーを務めた[138]
    • デヴィッド・ジョージ - 2019年 - 2021年のレッドブル担当のPUチーフエンジニア。北米ホンダ、HPDのエンジンエンジニアで田辺の移籍を追ってF1の世界に移動。現在はHPDに戻ってエンジンをR&D、その開発車両は異音を発生させているという。彼の上司にあたるデビッド・ソルターズもPU設計の経験のある人で、今後の動向が期待される。(See also) ソルターズ職歴タイムライン
    • 折原伸太郎 - 2023年4月より「トラックサイドゼネラルマネージャー」として、本橋の後任の現場責任者を務める[139]

脚注 編集

  1. ^ ホンダ26年からF1復帰 アストン・マーチンにエンジン中心とするパワーユニット供給”. 日刊スポーツ (2023年5月24日). 2023年5月24日閲覧。
  2. ^ 70周年GPで優勝の栄誉 ホンダがF1史に刻んだ軌跡と復活への光明”. 自動車情報誌「ベストカー」 (2020年8月16日). 2021年2月24日閲覧。
  3. ^ それまで同社にエンジンを供給していたコヴェントリー・クライマックス社が、ロータスと当時協力関係にあったジャガーに買収され、ロータスも引き続きコヴェントリー・クライマックスのエンジンを使わなくてはならなくなったためとされる
  4. ^ 後に一部車種で設定されたスポーツグレード「タイプR」では、当時のマシンのアイボリーホワイトを彷彿とさせる「チャンピオンシップホワイト」が専用色として設定された。
  5. ^ 「ホンダについて特筆すべきは、車自身のユニークさよりも、それがフルに開発される以前にグランプリ・レースの渦中に躍り出たという事実にある。ダイムラー・ベンツのような会社だったら、少くとも勝つチャンスがなければ決してその製品をレースに出したりはしないに違いない。しかしホンダは彼らの実験を大観衆の眼前で行うことを少しも恐れない。仕事を早く仕上げるためにはレースカレンダーの要求に勝るものはないのを知っているかのようだ。ホンダがモーターサイクル・レースに現われたときも然りだった。最初の数シーズンはひどく素人くさかったのに、ごく短期間に世界のトップランクにのし上がった。」 1964 F1グランプリレーサー デイヴィド・フィップスCAR グラフィック1965年2月号
  6. ^ F1から撤退後に誕生したのがCVCCエンジンである
  7. ^ イタリアGPでセナと接触しホンダエンジン16戦全勝を阻んだジャン=ルイ・シュレッサーは、1968年にホンダRA302で事故死したジョー・シュレッサーの甥であり、ホンダにとって皮肉な巡り合わせとなった。
  8. ^ エンジンサプライヤーとしての最多勝利は1995年にルノーが上回るまでホンダが保持していた。
  9. ^ そのときの彼を捉えたオンボードカメラでは、シフトチェンジをせず終始ステアリングをから手を離さずに周回している映像が記録されている
  10. ^ エンジンのカムカバーには「HONDA」のロゴがつけられたほか、エントリー名も「無限ホンダ」だった
  11. ^ "ツインリンクもてぎ開業15周年記念展示『'90s Racing Collection』第4回 もてぎ 2&4 レース編". モビリティランド. 2013年1月15日閲覧。]
  12. ^ 飯田章とホンダF1をめぐる知られざる物語。1996年国際F3000挑戦の裏側にあったプロジェクト - オートスポーツ・2022年1月27日
  13. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』三栄書房、2011年、p.84頁。ISBN 9784779611933 
  14. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』三栄書房、2011年、p.77頁。ISBN 9784779611933 
  15. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』三栄書房、2011年、p.81頁。ISBN 9784779611933 
  16. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』三栄書房、2011年、p.78頁。ISBN 9784779611933 
  17. ^ 【F1 2005】ホンダ、BAR株100%取得、2006年は単独チームで参戦”. webCG. 2022年10月28日閲覧。
  18. ^ "Honda、BAR Hの全株式取得 単独チームで参戦へ". Carview.(2005年10月4日)2013年1月15日閲覧。
  19. ^ "バリチェロ、「F1に残留できなければ引退する」". F1-Gate.com.(2008年11月13日)2013年1月15日閲覧。
  20. ^ F1レース活動について ホンダ 広報発表 Press Information 2008 2008年12月5日閲覧
  21. ^ "【ホンダF1撤退】福井社長「休止」でなく「撤退」". レスポンス.(2008年12月5日)2013年1月15日閲覧。
  22. ^ 2009 FIA Formula One World Championship - Entry List Archived 2010年1月6日, at the Wayback Machine.
  23. ^ 全株式をブラウン氏に売却=F1撤退のホンダ(時事通信)
  24. ^ "【新聞ウォッチ】ホンダ、F1チームを1ポンドで売却、読売が衝撃報道". レスポンス.(2009年4月10日)2013年1月15日閲覧。
  25. ^ 2004年にフォードがF1から撤退した際にも、ジャガー・レーシングレッドブルへ1ドルで売却したといわれる[1]
  26. ^ Honda's costs highest in F1-report MOTOR AUTHORITY 2008年11月17日閲覧
  27. ^ Has downturn left F1 underpowered?-BBC SPORT
  28. ^ 撤退済みの2009年もフェラーリの倍・ルノーやBMWの半額程度を投じている。これは、報じられた「餞別」「手切れ金」「撤退補償金」的な意味合いのものと思われる。
  29. ^ Manufacturer spending spiralled out of control
  30. ^ ホンダ、F1復帰の可能性を否定 Topnews 2009年7月14日付け、2010年12月18日閲覧
  31. ^ "ホンダのF1復帰の可能性は? 具体的な“2つの動き”". オートスポーツ.(2013年1月12日)2013年1月15日閲覧。
  32. ^ "ホンダ、F1復活については「勉強している最中」(2/2)". オートスポーツ.(2013年2月8日)2013年2月8日閲覧。
  33. ^ Re: British American Racing (Holdings) Ltd”. www.chasecambria.com. 2022年12月23日閲覧。
  34. ^ Adrian Reynard's Official Website - 最後の部分に記載”. 2022年6月18日閲覧。
  35. ^ KevinTaylor”. linkedin.com. 2022年12月19日閲覧。
  36. ^ Dominic Smith - The talented folk of F1”. grandprix.com. 2022年12月27日閲覧。
  37. ^ Steve Clark フェラーリの新しいチーフ・レース・エンジニア”. Nextgen-Auto.com (2012年1月10日). 2022年12月19日閲覧。
  38. ^ Russell Cooley”. linkedin.com. 2022年12月18日閲覧。
  39. ^ Ian Wright”. linkedin.com. 2022年12月18日閲覧。
  40. ^ ホンダ、F1復帰を正式発表!マクラーレン・ホンダ復活! F1-Gate.com 2013年5月16日
  41. ^ “ホンダ社長、F1復帰を正式発表 マクラーレンと”. 日本経済新聞 電子版 (日本経済新聞社). (2013年5月16日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFL160N8_W3A510C1000000/?dg=1 2013年5月16日閲覧。 
  42. ^ “ホンダF1復帰の2015年は「マクラーレンが唯一の顧客」”. TopNews. (2014年4月18日). http://www.topnews.jp/2014/04/18/news/f1/106535.html 2014年4月18日閲覧。 
  43. ^ “独占契約ではないとマクラーレン”. ESPN F1. (2013年5月16日). http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/108209.html 2013年5月16日閲覧。 
  44. ^ 日刊スポーツ 2015年2月11日付、P9右下
  45. ^ フェルナンド・アロンソ、燃料セーブの指示を拒否 - F1-gate.com・2015年6月8日
  46. ^ フェルナンド・アロンソ、レース中に怒りの無線 「GP2のエンジンかよ!」 - F1-gate.com・2015年9月27日
  47. ^ "ホンダ「F1挑戦は想像以上に困難」苦戦の原因語る"オートスポーツweb (2015年8月6日)2020年2月15日閲覧
  48. ^ "F1:ホンダの弱点、デブロイメントとは?". F1-Gate.com. (2015年10月15日)2020年2月15日閲覧
  49. ^ "ホンダ“サイズゼロ”に未来はあるか 元フェラーリ浜島裕英が今季戦いを解説 (page2/2)". スポーツナビ. (2015年9月24日)2020年2月15日閲覧
  50. ^ F1:パワーユニット開発の『トークン』とは?F1-Gate.com(2015年06月06日)2020年02月15日
  51. ^ a b "Honda、コンセプト維持のままターボの大型化を目指す". ESPN F1.(2016年1月13日)2020年2月15日閲覧
  52. ^ マクラーレン・ホンダF1辛口コラム総括編(1)ホンダの最大の過ちは「傲慢」で「無知」な初動”. AUTOSPORTweb (2017年12月23日). 2020年2月15日閲覧。
  53. ^ 【ホンダF1特集:パート2/5】ホンダの楽観視と準備不足www.topnews.jp(2020年1月1日)2020年2月15日閲覧
  54. ^ フェラーリ、“問題だらけのPU”の弱点克服へ努力”AUTOSPORT Web (2015年1月30日)2020年2月15日閲覧
  55. ^ マルモリーニがフェラーリを批判”. ESPN F1 (204年8月19日)2020年2月15日閲覧
  56. ^ “ホンダ 八郷隆弘社長、今季F1目標は「安定的に予選10位以内から決勝」”. F1-Gate.com. (2016年2月26日). http://f1-gate.com/honda/f1_30096.html 2016年12月10日閲覧。 
  57. ^ “新井康久、ホンダのF1プロジェクト総責任者退任は「定年退職」”. F1-Gate.com. (2016年2月24日). http://f1-gate.com/honda/f1_30068.html 2016年12月10日閲覧。 
  58. ^ “ホンダ:F1プロジェクト総責任者 新井康久の“定年退職”に疑問の声”. F1-Gate.com. (2016年2月26日). http://f1-gate.com/honda/f1_30111.html 2016年12月10日閲覧。 
  59. ^ 【マクラーレン分析前編】驚異の進化度。ホンダは2017年のダークホースになりうるwww.as-web.jp(2016年9月21日)2020年2月15日閲覧
  60. ^ “ジェンソン・バトン 「鈴鹿はマクラーレン・ホンダには最悪のサーキット」”. F1-Gate.com. (2016年10月9日). http://f1-gate.com/button/f1_33252.html 2016年12月10日閲覧。 
  61. ^ “ホンダ、2017年のF1エンジン供給もマクラーレンのみ”. F1-Gate.com. (2016年5月16日). http://f1-gate.com/honda/f1_31054.html 2016年12月10日閲覧。 
  62. ^ “ホンダ F1 「2017年の“現実的な目標”は表彰台」”. F1-Gate.com. (2016年11月30日). http://f1-gate.com/honda/f1_34102.html 2016年12月10日閲覧。 
  63. ^ ホンダF1長谷川総責任者「構造を一新し、パワー向上を実現しました」:マクラーレン・ホンダ発表会”. AUTOSPORTweb (2017年2月24日). 2017年2月25日閲覧。
  64. ^ アロンソ、ホンダF1の“アマチュアのようなトラブル”を批判も「心配なのは信頼性よりもパワーのなさ」”. AUTOSPORTweb (2017年3月9日). 2017年3月10日閲覧。
  65. ^ パフォーマンス差に「恐ろしさも感じる」とHonda”. ESPN F1 (2017年3月11日). 2017年3月11日閲覧。
  66. ^ “ストフェル・バンドーン 「まだトラブルのない週末を過ごせていない」”. F1-Gate.com. (2017年4月15日). https://f1-gate.com/vandoorne/f1_35913.html 2017年4月18日閲覧。 
  67. ^ “ホンダF1 「アロンソにもMGU-Hの不具合」 / F1バーレーンGP 予選”. F1-Gate.com. (2017年4月16日). https://f1-gate.com/honda/f1_35941.html 2017年4月18日閲覧。 
  68. ^ “ストフェル・バンドーン、MGU-H問題でスタートすらできず”. F1-Gate.com. (2017年4月17日). https://f1-gate.com/vandoorne/f1_35973.html 2017年4月18日閲覧。 
  69. ^ “フェルナンド・アロンソ 「こんなパワー不足でレースをしたことはない!」”. F1-Gate.com. (2017年4月17日). https://f1-gate.com/alonso/f1_35965.html 2017年4月18日閲覧。 
  70. ^ “フェルナンド・アロンソ、エンジントラブルでリタイア”. F1-Gate.com. (2017年4月17日). https://f1-gate.com/alonso/f1_35974.html 2017年4月18日閲覧。 
  71. ^ “フェルナンド・アロンソ 「ホンダのF1エンジンは1周あたり3秒遅い」”. F1-Gate.com. (2017年4月30日). https://f1-gate.com/alonso/f1_36198.html 2017年4月30日閲覧。 
  72. ^ “フェルナンド・アロンソ、ホンダのパワー不足は「危険なレベル」”. F1-Gate.com. (2017年6月12日). https://f1-gate.com/alonso/f1_37022.html 2017年6月12日閲覧。 
  73. ^ “マクラーレン、ホンダに最後通告 「我々には2018年の代替プランがある」”. F1-Gate.com. (2017年6月10日). https://f1-gate.com/mclaren/f1_36951.html 2017年6月12日閲覧。 
  74. ^ “マクラーレン 「ホンダがエンジンカスタマーを探すサポートをする」”. F1-Gate.com. (2017年4月21日). https://f1-gate.com/mclaren/f1_36042.html 2017年4月30日閲覧。 
  75. ^ “【F1】 ホンダ、ザウバーへのF1パワーユニット供給を正式発表”. F1-Gate.com. (2017年4月30日). https://f1-gate.com/honda/f1_36214.html 2017年4月30日閲覧。 
  76. ^ “ザウバー、新チーム代表の最優先事項は「ホンダ問題の解決」”. F1-Gate.com. (2017年7月14日). https://f1-gate.com/sauber/f1_37548.html 2017年7月28日閲覧。 
  77. ^ ホンダ、ザウバーF1との技術提携契約を白紙撤回。「双方の目指す方向性に相違が生じた」”. AUTOSPORTweb (2017年7月27日). 2017年7月28日閲覧。
  78. ^ ザウバーF1、ホンダとの提携取りやめ、フェラーリとパワーユニット契約。2018年は最新仕様搭載へ”. AUTOSPORTweb (2017年7月28日). 2017年7月28日閲覧。
  79. ^ “ホンダF1、トロ・ロッソへのエンジン供給に関する交渉が決裂”. F1-Gate.com. (2017年8月18日). https://f1-gate.com/honda/f1_38046.html 2017年8月18日閲覧。 
  80. ^ “ホンダ、トロ・ロッソへのF1パワーユニット供給を正式発表”. F1-Gate.com. (2017年9月15日). https://f1-gate.com./honda/f1_38538.html 2017年9月15日閲覧。 
  81. ^ ホンダF1責任者の長谷川氏が退任。2018年に向け体制一新、テクニカルディレクターが新設”. AUTOSPORTweb (2017年12月7日). 2017年12月7日閲覧。
  82. ^ 「悪いのはホンダではない」。エクレストンがマクラーレンF1を非難。ルノーでの成功に懐疑的”. AUTOSPORTweb. 2018年12月8日閲覧。
  83. ^ マクラーレン・ホンダF1辛口コラム総括編(2)ホンダに依存しながら侮辱し続けたマクラーレンの咎”. AUTOSPORTweb (2017年12月30日). 2018年12月8日閲覧。
  84. ^ ブチギレの真相 : アロンソ記者会見「僕にはどうすることもできない」 FORMULA1-DATA
  85. ^ 【ホンダF1特集:パート3/5】アロンソの忠誠心の欠如www.topnews.jp(2020年1月1日)2020年2月16日閲覧
  86. ^ 2016年シーズンのホンダF1はどう変わる”. MOTA(旧オートックワン) (2016年2月23日). 2022年12月15日閲覧。
  87. ^ 長谷川祐介 - F1用語集”. Formula1-Data. 2022年12月15日閲覧。
  88. ^ a b 【特集】レッドブルがホンダF1と歩んだ“軌跡”……チーム首脳陣の声と共に振り返る「ホンダが唯一の道だった」 - motorsport.com 2022年4月2日
  89. ^ ホンダとレッドブルが密になった日。マクラーレン離別に知られざる経緯。”. Number Web (2019年7月21日). 2019年7月21日閲覧。
  90. ^ ホンダの2018年型F1パワーユニット、1台のみで7レース分を走破”. F1-Gate.com (2018年3月10日). 2018年3月24日閲覧。
  91. ^ 2018年 F1プレシーズンテスト:総合タイム&周回数・走行距離”. F1-Gate.com (2018年3月12日). 2018年3月25日閲覧。
  92. ^ ホンダ田辺TD「ガスリーのトラブルはMGU-H。原因を調査する」”. motorsport.com (2018年3月25日). 2018年3月26日閲覧。
  93. ^ 「レッドブル・ホンダ誕生で不利になることはない」と現ワークスのトロロッソF1 autosport 2018年3月5日、同6月20日閲覧。
  94. ^ F1 Topic:モナコのPUトラブルでルノーへの信頼を再び失ったレッドブル、カナダGPの新PUを注視 autosport 2018年5月29日、同6月20日閲覧。
  95. ^ ホンダ・レッドブルF1が誕生。2019年から2年間のパワーユニット供給で合意”. AUTOSPORTweb (2018年6月19日). 2018年6月20日閲覧。
  96. ^ レッドブルF1代表、ホンダを選択したのは「純粋に技術的な面で優れていたから」。アップグレードの効果を見て発表を早める F1速報 2018年6月20日。
  97. ^ 目指すはF1タイトル獲得、優秀な若手ドライバーと技術陣を擁した2019年のレッドブル・ホンダ体制www.as-web.jp(2018年8月23日)
  98. ^ レッドブル、12年にわたるパートナー、ルノーに別れ。アストンマーチンとのタイトルスポンサー契約は継続へ AUTOSPORTweb(2018年6月19日)、同20日閲覧。
  99. ^ ホンダF1:エンジン開発を更に加速、株式会社IHIとのテクニカルパートナーシップ締結を発表 Formula1-Data(2018年11月13日)
  100. ^ レッドブル、Hondaと挑んだ初戦で表彰台”. ESPN F1 (2019年3月17日). 2019年3月20日閲覧。
  101. ^ ホンダ”. F1gate (2019年7月1日). 2019年7月1日閲覧。
  102. ^ ホンダF1、3台がトラブルでリタイヤ…エンジンの電気系統の可能性もformula1-data.com(2020年7月6日)2021年2月15日閲覧。
  103. ^ サスの破損で入賞逃したクビアト「オコンとの接触でレースが終わった」(2020年7月6日)2021年2月15日閲覧。
  104. ^ 台本・ERS・カルチャー…勝ち目はなかった?レッドブル・ホンダ対メルセデス、完敗した3つの理由formula1-data.com(2020年7月14日)2021年2月15日閲覧。
  105. ^ 2位フェルスタッペン、前方は遠く後方は遥か彼方「ひたすら羊の数を数えていた(笑」formula1-data.com(2020年8月3日)2021年2月15日閲覧。
  106. ^ ホンダF1、1989年以来初のシルバーストーン制覇!山本雅史MD「この経験を活かして次戦に挑みたい」formula1-data.com(2020年8月10日)2021年2月15日閲覧。
  107. ^ パフォーマンスの向上を実感「サーキットの得意、不得意の差は小さくなった」/ホンダ本橋CEインタビューwww.as-web.jp(2020年8月19日)2021年2月15日閲覧。
  108. ^ ホンダF1、PUに不具合発生もガスリーが初勝利の大金星「共に歩んでこれた事を誇りに思う」formula1-data.com(2020年9月7日)2021年2月15日閲覧。
  109. ^ F1最年少王者記録更新の可能性が消えたフェルスタッペン「それは僕にとって重要ではない」topnews.jp(2020年11月4日)2021年2月15日閲覧。
  110. ^ フェルスタッペン、メルセデスの牙城ヤス・マリーナで圧勝「完璧な形でシーズンを締め括れた!」formula1-data.com(2020年12月14日)2021年2月15日閲覧。
  111. ^ ホンダF1参戦終了、理由は「カーボンニュートラル実現」に向けた経営資源の集中jp.motorsport.com(2020年10月2日)2020年10月3日閲覧。
  112. ^ 記者の軽い質問に関係者が見せた困り顔 ホンダF1撤退、開幕前に感じていた予兆globe.asahi.com(2020年10月2日)2021年9月28日閲覧。
  113. ^ 四輪事業の低迷が深刻化するホンダはどこに向かうのかnet.keizaikai.co.jp(2019年10月8日)2020年10月3日閲覧。
  114. ^ ホンダF1撤退は業界再編の号砲news.yahoo.co.jp(2020年10月2日)2020年10月3日閲覧。
  115. ^ 2025年F1パワーユニットは2ストローク化の噂。“うるさくて臭い”エンジンがF1に乗りうるワケwww.as-web.jp(2020年1月20日)2020年10月3日閲覧。
  116. ^ F1パワーユニット開発、2023年より全面凍結へ…新型コロナ危機へのコスト削減策としてformula1-data.com(2020年5月26日)2021年9月28日閲覧。
  117. ^ ホンダF1、2021年もレッドブルとトロロッソにエンジンを供給…撤退話に”一応の終止符”formula1-data.com(2019年11月27日)2020年10月3日閲覧。
  118. ^ ホンダが再開するF1で目論むこと。「撒いた種が今年は花を咲かす」number.bunshun.jp(2020年6月23日)2020年10月3日閲覧。
  119. ^ たった1年…何故? レッドブル、ホンダとのF1エンジン契約延長の背景を説明formula1-data.com(2019年11月30日)2020年10月3日閲覧。
  120. ^ アルファタウリ・ホンダが大空へ!優勝したF1イタリアGPからホンダ・ジェット始動!“新しいパートナーシップ”を喜ぶwww.topnews.jp(2020年9月9日)2020年10月3日閲覧。
  121. ^ ホンダのF1活動継続を強く期待するレッドブルwww.topnews.jp(2020年10月1日)2020年10月3日閲覧。
  122. ^ 社内には”F1参戦を継続すべき”という声もあった。ホンダ八郷社長「最後は私が判断した」jp.motorsport.com(2020年10月3日)2020年10月3日閲覧。
  123. ^ 【特別コラム:ホンダF1撤退】多くのレースファンを失望させたホンダ。F1活動終了で失う大切なものwww.as-web.jp(2020年10月3日)2020年10月3日閲覧。
  124. ^ ホンダF1撤退発表の余波。フェルスタッペン、ガスリーの思いはsportiva.shueisha.co.jp(2021年10月10日)2021年9月28日閲覧。
  125. ^ 『歓喜 ホンダF1 苦節7年、ファイナルラップで掴みとった栄冠』(尾張正博著、インプレス、2022年)pp.146 - 148
  126. ^ 「ホンダのF1撤退はずっと前から知っていた」とレッドブル首脳www.topnews.jp(2020年10月5日)2021年9月28日閲覧。
  127. ^ ホンダF1、ラストシーズンの勝算。「隠し球」でメルセデスを乗り越えろsportiva.shueisha.co.jp(2021年3月15日)2021年9月28日閲覧。
  128. ^ 【F1開幕】「負けたままでは撤退できない」エンジニアの誇りを懸け、ホンダが“前倒し”新PUで最後のシーズンに挑むnumber.bunshun.jp(2021年3月25日)2021年9月28日閲覧。
  129. ^ 『歓喜』pp.150 - 152
  130. ^ ホンダのF1活動終了を”予期”していたフェルスタッペン「最後のレースまでプッシュ続ける」jp.motorsport.com(2020年10月9日)2021年9月28日閲覧。
  131. ^ レッドブル、2022年以降もホンダ製PU使用継続。新会社レッドブル・パワートレインズ設立 - motorsport.com 2021年2月16日
  132. ^ レッドブル、“ポストホンダ時代”に向け見通し良好か。新会社設立で柔軟性も確保 - motorsport.com 2021年2月24日
  133. ^ 山本MD会見:ホンダF1最終シーズンに向け、攻めの開発でパワー向上「みなさんの記憶に残るような1年にしたい」 - オートスポーツ・2021年3月13日
  134. ^ 当社及び連結子会社の組織再編(簡易吸収分割)に関するお知らせ”. 本田技研工業株式会社. 2022 年1月 12 日閲覧。
  135. ^ a b c 2022年Hondaモータースポーツ活動計画”. 本田技研工業 (2022年1月14日). 2022年1月26日閲覧。
  136. ^ ホンダ、レッドブルF1への支援を2025年まで延長---最前線の現場を公開”. レスポンス. 2022年8月2日閲覧。
  137. ^ 今後ホンダとレッドブルどうなる?山本雅史さんと柴田久仁夫さん&尾張正博さん座談会”. 中日スポーツ (2022年3月18日). 2022年3月23日閲覧。
  138. ^ a b レッドブル&HRC密着:ホンダとの新たな第一歩を踏み出したバーレーンGP。初日はフェルスタッペンが首位発進 | F1 | autosport web”. AUTO SPORT web (2022年3月19日). 2022年12月26日閲覧。
  139. ^ a b 熱田護のF1インタビュー ホンダの折原伸太郎トラックサイドゼネラルマネージャー「レースの現場に行きたいと言っていたので夢が叶った。ホンダって素晴らしい会社だって思います」 - Car Watch・2023年6月29日
  140. ^ ホンダ、2022/4/1付の執行職・部長関連人事”. ジェイツ・コンプレックス (2022年2月18日). 2022年7月3日閲覧。
  141. ^ 【渡辺康治HRC社長インタビュー前編】レッドブルを表敬訪問。F1の動向を見守るも「すぐにF1に戻るという議論はない」 - オートスポーツ・2022年7月14日
  142. ^ F1からは撤退も…ホンダ技術首脳陣が明かす舞台裏 パワーユニット開発「作業に何ら変わりはない」”. 中日スポーツ (2022年10月8日). 2022年10月8日閲覧。
  143. ^ レッドブル&HRC密着:ライバルを凌駕する信頼性とデータの熟成。「パワーユニット側でできることを最大限やりました」”. 三栄【オートスポーツweb】 (2022年10月10日). 2022年10月10日閲覧。
  144. ^ 自分たちのパワーユニットが勝ったんだ! ホンダ、念願のF1ダブルタイトル獲得を喜ぶ。HRC浅木氏「こんな時が来るなんて、感無量です」”. motorsport.com. 2022年10月28日閲覧。
  145. ^ ホンダ浅木泰昭、レッドブルF1用PU開発は1月から新LPLに引き継ぎ「後輩たちがしっかりしたモノを作ってくれるはず」”. motorsport.com (2022年1月26日). 2022年1月26日閲覧。
  146. ^ ホンダF1の挑戦は2026年以降も続く? PU開発率いた浅木泰昭、勇退を前に「再参戦の可能性がゼロなら今までやっていない」”. motorsport.com (2023年4月2日). 2023年4月3日閲覧。
  147. ^ 「もしF1復帰があるならコンストラクターとして…」ホンダ元MD・山本雅史が語る舞台裏と角田への期待”. スポーツナビ autosport (2022年2月1日). 2022年2月1日閲覧。
  148. ^ 【渡辺康治HRC社長インタビュー後編】2025年末までのサポートに関する契約は今後締結へ「ある程度活動を続けられる」”. autosport web (2022年7月15日). 2022年7月15日閲覧。
  149. ^ ホンダ・レーシング、2026年からのF1新PU規定の製造メーカーに登録したと明かす「参戦復帰に即座に繋がるわけではない」”. motorsport.com (2022年12月12日). 2022年12月12日閲覧。
  150. ^ F1 Topic:ホンダロゴを継続使用の2023年、レッドブル&アルファタウリのエンジンは『Honda RBPT』に”. autosport web (2022年12月17日). 2022年12月17日閲覧。
  151. ^ ホンダがホンダであるために「やる、辞めるの繰り返しじゃダメなんです」…2026年再始動に向けて「心が動く」要素は揃った”. 集英社 (2023年3月17日). 2023年4月3日閲覧。
  152. ^ ホンダ、2026年からのF1復帰を発表。アストンマーティンにパワーユニットを供給へ”. autosport web (2023年5月24日). 2023年5月24日閲覧。
  153. ^ a b ホンダ『四輪モータースポーツに関する記者会見』質疑応答全文”. オートスポーツ (2023年5月24日). 2023年5月24日閲覧。
  154. ^ ホンダ三部社長、F1参戦の理由は「カーボンニュートラルの方向性と新規則が合致したため」タイトルへの意気込みも示す”. autosport web (2023年5月24日). 2023年5月24日閲覧。
  155. ^ F1復帰を発表したホンダ。2021年に”カーボンニュートラル燃料”を先行投入したことはアドバンテージになるのか? HRC渡辺社長「燃料は鍵になる」”. motorsport.com (2023年5月24日). 2023年5月24日閲覧。
  156. ^ やっぱホンダは「F1」でしょ! 2026年復帰参戦へ至る意外な「きっかけ」とは”. メディア・ヴァーグ (2023年5月24日). 2023年5月24日閲覧。
  157. ^ ホンダ、2026年F1復帰に向け準備加速。ヨーロッパの活動拠点”HRC UK”を設立完了「運用の効率を上げ、アストンマーティンと共に勝利を目指す」”. motorsport.com (2024年3月27日). 2024年3月28日閲覧。
  158. ^ ラングリー · イギリス スラウ”. google maps. 2022年9月25日閲覧。
  159. ^ F1エンジニアの生態 - IP Force
  160. ^ ブラックネル · イギリス”. google maps. 2022年9月25日閲覧。
  161. ^ ホンダ、2006年Honda F1世界選手権参戦体制を発表 - オートックワン・2006年2月20日
  162. ^ a b c Honda Racing Insights - Hondaの2つのファクトリー - ホンダF1・2017年10月12日
  163. ^ Honda Racing Development UK Ltd : 設立 2019/02 会社案内”. HONDA公式サイト. 2022年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月28日閲覧。
  164. ^ F1欧州活動拠点について(2013年07月11日) : MUGEN EURO Co., Ltd.は(株)M-TECの英国子会社”. honda.co.jp. 2022年8月27日閲覧。
  165. ^ 外観 Mugen の工場”. Google Maps. 2022年9月3日閲覧。
  166. ^ HRD Sakura - Honda R&D
  167. ^ a b F1パワーユニットを製造する「HRC Sakura」ホンダモータースポーツ活動の心臓部を取材 - くるくら・2022年8月4日
  168. ^ a b 第714回:HRC Sakuraでわかった「ホンダがF1をやりたくなる理由」 - WebCG・2022年8月9日
  169. ^ Honda Engine – Grands Prix started”. StatsF1. 2020年12月3日閲覧。
  170. ^ プライベートチームからの出走
  171. ^ 【動画】トロロッソ/アルファタウリF1が新車を初始動、ホンダ2020年型パワーユニット『RA620H』のサウンドを披露”. autosport web (2020年2月10日). 2020年2月16日閲覧。
  172. ^ 【レッドブル・ホンダF1密着】テストで見つけたマイナートラブルは全て修正。実力が判明する予選に向け万全の準備で臨む”. オートスポーツweb (2019年3月14日). 2019年3月18日閲覧。
  173. ^ ホンダのモータースポーツ活動を担う新生HRC、渡辺康治社長がカーボンニュートラル対応などに言及”. インプレス【Car Watch】 (2022年4月23日). 2022年10月7日閲覧。

注釈 編集

  1. ^ 無限ホンダRBPT、ホンダRBPT名義の記録は含まれていない。

関連項目 編集

外部リンク 編集