ボリス・エリツィン (1875年生)

ボリス・ミハイロヴィチ・エリツィンロシア語: Борис Михайлович Эльцин1875年 - 1937年11月27日)は、ロシア内戦期のバシコルトスタンで活動した革命家・政治家。

ボリス・ミハイロヴィチ・エリツィン
Борис Михайлович Эльцин
生年月日 1875年
出生地 Flag of the Russian Empire (black-yellow-white).svg ロシア帝国キエフ県ズヴェニゴロトカ郡ズヴェニゴロトカウクライナ語版
没年月日 1937年11月27日
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
出身校 帝立ノヴォロシア大学医学部卒業
前職 衛生医
所属政党ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ
子女 ヴィクトル・エリツィン

在任期間 1917年5月 - 1918年7月
1919年7月 - 12月

Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic (1918–1937).svg ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
ウファ県革命委員会議長
在任期間 1918年4月 - 7月
1919年6月30日 - 8月

Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic (1918–1937).svg ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
ウファ県ソビエト執行委員会議長
在任期間 1919年8月 - 1920年

Flag RSFSR 1918 03.png ロシア・ソビエト共和国
ウファ県人民委員会議議長
在任期間 1918年4月 - 7月

Flag of the Ukrainian Soviet Socialist Republic (1919-1929).svg ウクライナ社会主義ソビエト共和国
社会保障人民委員
在任期間 1920年5月29日 - 1921年
テンプレートを表示

生涯編集

前半生編集

1875年ロシア帝国キエフ県ズヴェニゴロトカウクライナ語版に生まれた[1]ユダヤ人[2]平民[3]1898年オデッサの帝立ノヴォロシア大学 (ru) 医学部を卒業し[3]、同年にロシア社会民主労働党に入党[4]1910年に革命運動に関与してウファ県ロシア語版に追放され、ベレベイロシア語版郡 (ru) やビルスクロシア語版郡 (ru) で[5]衛生医として働いていた頃にボリシェヴィキに接近した[3]1917年3月にはボリシェヴィキ・ウファ委員会幹部会[4]およびウファ県ソビエト執行委のメンバーとなり[5]、ウファ市議会議員としても活動[3]ウラジーミル・レーニンに反対してレフ・トロツキーの派閥に入り、ムスリムの間で宣伝活動を行った[3]

革命期編集

1917年11月8日(ユリウス暦10月26日)には[4]党ウファ県委幹部会の、12月4日には県革命委と全ロシア中央執行委ロシア語版のメンバーとなった[5]。同年5月から翌1918年7月までは[1]党県委議長、1918年1月から7月までは県ソビエト執行委議長、4月から7月までは県人民委員会議議長および県革命委議長に就き[4][5]バシコルトスタンの工場国有化に従事[3]アレクサンドル・チュルパロシア語版とともに、軍事委員ロシア語版エラズム・カドムツェフ (ru) による対コサック軍を編制した[3]。5月のチェコ軍団蜂起ロシア語版に際しては、ウファからボリシェヴィキを撤退させることで、チェコ軍団の平和的な撤退を試みた[3]

6月にはモスクワへ移り、レーニンによって全ロシア中央執行委とロシア社会主義連邦ソビエト共和国内務人民委員部 (ru) 参議員に任命され[3]、翌1919年まで委員部地域経済部部長を務めた[4]。この時、エリツィンはプロレタリア独裁の考えを後退させたロシア共和国憲法ロシア語版の改定案を提出し、レーニンと対立した[3]

1919年1月にボリシェヴィキがウファを奪回すると、エリツィンはレーニンからバシコルトスタンのソビエト権力を組織する権限を与えられ[3]、6月30日から8月まではウファ県革命委議長、7月から12月までは党県委議長、8月から翌1920年までは県ソビエト執行委議長を再び歴任[4]自治バシコルトスタンバシキール語版と対立し[5]、「タタール=バシキール共和国」構想に対する反対意見は第9回党大会ロシア語版でも話し合われた[3]。さらにバシコルトスタンでの工業復興政策をレーニンによって批判され、1920年には同地での職を解かれた[3]

後半生編集

 
1927年の左翼反対派たち(トロツキーの背後に立っているのがエリツィン)

その後は1920年5月29日から翌1921年までウクライナ共和国社会保障人民委員に就き[4]、また1920年からはロシア共和国教育人民委員部ロシア語版大政治教育部参議会や「クラースナヤ・ノーヴィ」(ru) 出版社社長、1925年からはロシア共和国ゴスプラン生産力研究会議議長を務めた[5]1923年には確たる左翼反対派ロシア語版として「46の宣言英語版」に参加し、トロツキーの追放後も彼を支持し続けた[3]。トロツキーはエリツィンを「党の背骨」の一人に数え、レーニンもまた彼をチュルパ、ニコライ・ブリュハノフロシア語版とともに「責任あるソビエト労働者」と評したが、同時にその客観性については疑義を挟んでいる[3]

その後、エリツィンは1929年トロツキストとして党を除名され、スーズダリ刑務所ロシア語版に収監された[3]。そして1936年に再逮捕され、翌1937年11月27日に銃殺された[4]ヴャトカ県ロシア語版ソビエト執行委議長などを務めた長男ヴィクトル1938年に銃殺され、次男も追放先のフェオドシヤで死去し、娘もまたシベリアへ追放された[3]。その後、エリツィンは1956年名誉回復ロシア語版がなされた[5]

脚注編集

  1. ^ a b Первые секретари Уфимского губкома, Башкирского обкома, Башкирского рескома партии (PDF)”. Архивы Башкортостана. Управление по делам архивов Республики Башкортостан. p. 1. 2018年8月11日閲覧。
  2. ^ Список граждан, расстрелянных на территории Магаданской области, реабилитированных посмертно // Вечерний Магадан : газета. — Магадан: 15 июля 1994. — № 28. — С. 72.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Борис Михайлович Эльцин”. Fedy (2007年2月25日). 2018年8月11日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h Эльцин Борис Михайлович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2018年8月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g ЭЛЬЦИН / Г. В. Мордвинцев // Ф — Я. — Уфа : Башкирская энциклопедия, 2011. — (Башкирская энциклопедия : [в 7 т.] / гл. ред. М. А. Ильгамов ; 2005—2011, т. 7).
党職
先代:
なし
  ロシア共産党(ボ)ウファ県委員会議長
1917年5月 - 1918年7月
次代:
ヴェニアミン・エルモシチェンコロシア語版
先代:
ヴァシリー・ビシャーリン
  ロシア共産党(ボ)ウファ県委員会議長
1919年7月 - 12月
次代:
エヴゲニー・プレオブラジェンスキー
公職
先代:
ウラジスラフ・ドルジツキー
  ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ウファ県革命委員会議長
1919年6月30日 - 8月
次代:
なし
先代:
?
  ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ウファ県ソビエト執行委員会議長
1919年8月 - 1920年
次代:
イヴァン・チェルニャジエフ
先代:
なし
  ロシア・ソビエト共和国ウファ県人民委員会議議長
1918年4月 - 7月
次代:
アレクセイ・スヴィデルスキーロシア語版
先代:
ニコライ・グレボフ=アヴィロフロシア語版
  ウクライナ社会主義ソビエト共和国社会保障人民委員
1920年5月29日 - 1921年
次代:
?