ボルナイ(Bolunai,モンゴル語: Булунай,中国語: 孛羅乃, ? - 1470年以降)とは、15世紀中後期のホルチン部の統治者。モーリハイ王を殺してオンリュート(チンギス諸弟の後裔)の最有力者となったが、オイラトのオシュ・テムルに敗れて衰退した。

概要 編集

ボルナイの父親バートル・シューシテイはホルチン部の統治者としてモンゴルのアダイ・ハーンタイスン・ハーンに仕えており、オイラトとの戦闘を勝利に導いたこともある有力諸侯の一人として知られていた。しかしオイラトのエセン・タイシがタイスン・ハーンと対立し、これを弑逆して間もなくバートル・シューシテイもまたエセンに謀殺されてしまった。

モンゴル年代記の一つ、『アルタン・トブチ』によるとエセンはバートル・シューシテイの謀殺後にボルナイも捜索していたが、ボルナイはソロングートのサンクルダイとその妻ハラクジンに助けられ、オイラトのイラチュ・バヤンのもとに預けられた。イラチュ・バヤンはボルナイに父母の事を知ろうとせずオイラトの人間として生きるよう語っていたが、ハラクジンはボルナイが貴人の生まれであることを慮り、自身の長子マーシを遣わしてボルナイを盗みだしホルチン部の下に送らせた。

ホルチン部に至ったボルナイに対し、弟のウネ・ボラトはボルナイ不在時に自らがホルチン部を統治していたことを謝り、ホルチン部の統治権を返上したという。以上の逸話は『蒙古源流』にはない記述であり、『蒙古源流』ではウネ・ボラトの存在にしか言及していないことからボルナイとウネ・ボラトを同一人物であるとする説も存在する[1]

エセン・タイシは景泰4年(1453年)にハーンに即位したが間もなく殺され、モンゴルではマルコルギス・ハーンを擁立したボライ・タイシが有力となった。ボルナイが明朝の記録に始めて登場するのは天順7年(1463年)のことで、この時ボルナイはマルコルギス・ハーンとともに明朝に使者を派遣している[2]。この時ボルナイは「西王」を称しているが、これは明朝の訳官が同じ音である「斉王」を訳し間違えたものと見られ、実際に後に使者を派遣した際には正しく「斉王孛魯乃」と記されている。「斉王」という称号はジョチ・カサル家当主が代々襲封してきた封号であり、明朝の伝える「孛羅乃」がジョチ・カサルの末裔でホルチン部統治者である明白な証拠となっている[3]

成化元年(1465年)、ボライ・タイシはマルコルギス・ハーンを弑逆し、ボライもまたモーリハイ王によって殺された。モーリハイはボルナイと同じくオンリュート(チンギス諸弟の後裔)に属する人物で、モーラン・ハーンを擁立することで有力者となった。成化3年(1467年)にはボルナイはモーリハイと連名で二度明朝に使者を派遣しており[4][5]、両者は協力関係にあったものと見られる。

成化4年(1468年)、モーリハイはモーラン・ハーンを弑逆したために殺された。モンゴル語史料ではモーリハイを殺した人物をホルチン部のウネ・ボラトとするが、明朝の史料ではウネ・ボラトに関する記述がないこと、後にボルナイがモーリハイの勢力を吸収していることなどから実際にモーリハイを殺したのはボルナイではないかと推測されている[6]。ボルナイはモーリハイを殺してその勢力を吸収したもののモーリハイほどの影響力を行使できず、新たにハーンを擁立することもなかったためモンゴルは10年近い空位時代に突入した。

成化5年(1469年)、ボルナイの勢力は内部抗争を起こし、ボルナイ、カダ・ブカ、モーリハイの息子オチライという三者の勢力に分裂した[7]。さらに翌成化6年(1470年)にはボルナイはオイラトのオシュ・テムル・タイシ(エセン・ハーンの息子)との戦いに敗れ[8]ドーラン・タイジの統治する卜剌罕衛に逃れ、ボルナイの臣下の一部は明朝に投降した[9]

オシュ・テムルに敗れた後のボルナイに関する記述はなく、この後間もなくボルナイは亡くなったものと見られる。ボルナイの後には弟のウネ・ボラトがホルチン部の統治者となった。

家系 編集

モンゴル年代記の一つ、『恒河の流れ』にジョチ・カサルからボルナイに至る系図が記されている。

脚注 編集

  1. ^ 谷口1980,298頁
  2. ^ 『明英宗実録』天順七年六月丁亥「迤北馬可古児吉思王・満剌楚王・孛羅乃西王・右都督兀研帖木児等・頭目哈答不花等、各遣頭目阿老出等二百人、来朝貢馬」
  3. ^ 谷口1980,301-302頁
  4. ^ 『明憲宗実録』成化三年三月己丑「迤北斉王孛魯乃・黄岑王毛里孩遣使臣咩勒平章等二百八十一人来朝」
  5. ^ 成化三年四月戊午「迤北孛魯乃・毛里孩等因遣使朝貢奏欲遣報使」
  6. ^ 井上2002,12頁
  7. ^ 『明憲宗実録』成化五年十一月乙未「時孛羅部落自相讎殺、分而為三、孛羅人馬往驢駒河、哈答卜花往西北、故毛里孩子火赤児往西路」
  8. ^ 『明憲宗実録』成化六年五月乙酉「……孛羅乃王往年為阿失帖木児所敗、已奔卜剌罕衛、近報又云、率衆東来、蓋此虜雖敗亡之餘、而部落猶多」
  9. ^ 『明憲宗実録』成化六年五月庚寅「把都等倶迤北孛羅乃部下、為阿失帖木児所敗、故来降」

参考文献 編集

  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 谷口昭夫「斉王ボルナイとボルフ・ジノン」『立命館文學 (三田村博士古稀記念東洋史論叢)』、1980年