ボワルセル
ボワルセル (Bois Roussel) は、1930年代後半に活躍したフランスの競走馬、種牡馬。名繁殖牝馬のプラッキーリエージュが最後に残した産駒であり、1938年エプソムダービーに優勝した。種牡馬としても成功を収めた。
ボワルセル | |
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品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1935年 |
死没 | 1955年10月21日 |
父 | Vatout |
母 | Plucky Liege |
母の父 | Spearmint |
生国 | フランス |
生産者 | レオン・ヴォルテラ |
馬主 |
ボルテラ →ピーター・ビーティ |
調教師 | フレッド・ダーリン |
競走成績 | |
生涯成績 | 3戦2勝 |
獲得賞金 |
9,229ポンド 105,600フラン |
経歴
編集母を所有していたミッシェルハム氏は繁殖として供用する目的でコーン氏に預託していたが、ミッシェルハム急死によりそのまま所有するボアルセル牧場に置いた[1]。
その後に牧場の全てをコーンは売却し、購入したボルテラ氏は牧場名にあやかり、牧場で初めて生まれた馬に、ボワルセルと名付けた[2]。
競走馬時代
編集競走馬デビューは遅く、1938年4月にフランスのロンシャン競馬場で行われたジュイーニュ賞 (Prix Juigné) (2100メートル)で初出走を迎えて、ここを豪脚で差し切り優勝した[3]。
この勝利はイギリス人のピーター・ビーティ[4]の眼に止り、同馬の馬主であったボルテラと交渉が行われ、最初は4000ポンドが提示されるも拒否され、1000ポンドずつ増額されて8000ポンドで購入された[5][3]。
ビーティによって購入されたボワルセルはダービーの6週間前にイギリスへ渡りダーリン厩舎へ入厩[3]。
ブックメーカーによるボワルセルは20:1 (日本円で単勝2100円相当)で、バスクの9:4(日本円で単勝320円相当)、スコティッシュユニオンの8:1(日本円で単勝900円相当)より低い評価だった[6]。
予定時刻よりかなり遅れてスタートしたレースは、ボワルセルが出遅れてしまい、対照的な好スタートを決めたハルションギフトが、1マイル標識点で3馬身差の先頭を走る遥か後方を走っていた[7]。
タッテナムコーナーで先頭争いはハルションギフトと2番手に追い上げたスコティッシュユニオンにバスクが加わった先頭集団からボワルセルは12馬身離された[7]。
ゴールまで残り上り坂3ハロンで、先頭集団3頭からハルションギフトが後退し、バスクの脚色が衰える[7]。
そこを先頭争いから脱落した2頭を追い抜いたボワルセルが大外から急襲し、スコティッシュユニオンに4馬身の着差をつけて優勝した[7]。
騎乗したE・エリオット騎手は記者へレース中の事を語っている[3]。
「タッテナムコーナーで勝負をほとんど諦めていたが、1鞭入れたら奇蹟が起きた。 ボワルセルは何かに憑かれて変わったかのようにスピードを上げてバスクを抜き、スコティッシュユニオンを抜いた時にゴールまで1ハロンも無かったと思う。 追い抜いた後に後ろを見ると抜かれた2頭が止まっているように見えた。 もし、後1ハロン走っていたら半ハロンの差をつけていただろう[3]。」 ボワルセルはプラッキーリエージュが23歳の時に残した産駒であり、20世紀中で最も高齢の母から生まれたエプソムダービー馬となった[8]。
ダービー優勝後、陣営はボワルセルを当時世界有数の国際レースであったフランスのパリ大賞典(3000メートル)に遠征させた[9]。
6月26日、18頭立てで行われたこのレースにはイタリアダービー馬ネアルコやフランスダービー馬シラが出走[9]。 3番人気に支持されたがネアルコに3馬身離されて3着に敗れた[9]。
敗因は前脚の腱に軽度の炎症を発症していたからとされる[9]。 レース後イギリスに帰国したボワルセルは年内の出走を見合わせ、翌1939年のゴールドカップに備えて調教が積まれた[9]。
しかし同レースの直前に持病となっていた前脚の腱の炎症が悪化し、引退を余儀なくされた[10]。
種牡馬時代
編集競走馬引退後はイギリスのラトランド牧場で種牡馬となった[10]。
種付料は300ギニー[11][10]。 3戦2勝の戦績にしては高い理由は、イギリスで壊滅したセントサイモン系の復興や、カヴァリエーレ・ダルピーノらイギリス国外で活躍中の同父系やを期待と、当時のイギリス馬産家が好んだセントサイモンの奇跡の血量を有しているからとされる[10]。
初年度産駒からセントレジャーステークス優勝馬のテヘランを出すなど種牡馬成績は当初から良好だった[12]。
1946年、ビーティはボワルセルをアリ・カーンに数万ドルで売却。
その後、アリ・カーン[13]は1株2000ポンドで40株8万ポンドのシンジゲートを結成している[14]。
イギリスおよびアイルランドの種牡馬ランキングで1944年に7位を記録[12]。
1947年と1949年にそれぞれ2位に入っている[15]。
種牡馬ランキングは集計方法によって異なり、1949年はボワルセルが2位ではなくリーディングサイアーだったとする資料も存在する[16]。
1950年には20位に転落後は復活する事も無く終わった[12]。
ニックスはテヘラン やヒンドスタンの活躍から ゲインズバラの血が有る馬が成功したと言われる[14]。
後継種牡馬のうちテヘランはイギリスのリーディングサイアーとなり、ミゴリも成功を収めた。
その後もテヘラン系からタルヤーやクーガー、ミゴリ系からギャラントマンなど世界的に活躍馬が出たことからボワルセルは「セントサイモン系中興の祖」と呼ばれた。 しかし、20世紀末に勢力の大半を失い、21世紀に入るとデーモンウォーロックが残るくらいとなっている。
日本では持込馬のヒカルメイジが東京優駿を優勝し種牡馬としても成功したほか、種牡馬として輸入されたヒンドスタンがクラシック三冠馬のシンザンを送り出し大成功を収めるなど、直系の種牡馬が活躍した[14]。
ボワルセルはブルードメアサイアーとしても優秀で、1959年と1960年にイギリスおよびアイルランドのリーディングブルードメアサイアーとなった[15]。
競走成績
編集年月日 | レース名 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着馬/(2着馬) | |||
1938年 | 4月 | ロンシャン | ジュイーニュ賞 | 1着 | 2100m | ||||
6月 | 1日 | エプソム | ダービー | 1着 | E.エリオット | 12F | 4馬身差 | (Scottish Union) | |
6月 | 26日 | ロンシャン | パリ大賞典 | 3着 | 3000m | 3馬身差 | Nearco |
主な産駒
編集- テヘラン(セントレジャーステークス、イギリス・アイルランドリーディングサイアー)
- ミゴリ(凱旋門賞、エクリプスステークス、チャンピオンステークス)
- ヒンドスタン(アイリッシュダービー、日本リーディングサイアー7回)
- リッジウッド(セントレジャーステークス)
- フレンチベージュ(ドンカスターカップ)
- Delville Wood(豪州リーディングサイアー5回)
- ヒカルメイジ(東京優駿)
ブルードメアサイアーとしての主な産駒
編集- プチトエトワール(イギリスクラシック牝馬二冠)
- ダブルボアー(グッドウッドカップ)
- ズクロ(コロネーションカップ)
- カンテロ(セントレジャーステークス)
血統表
編集父ヴァトーはフランス2000ギニー勝馬。6年供用されて勝馬を出すもボワルセル以外の父系は途絶えている。[2]。
母プラッキーリージは本馬の他にサーギャラハッド、ブルドッグ、アドミラルドレイクと3頭のリーディンクサイアーを生んでいる[1]。
ボワルセルの血統(セントサイモン系 / St.Simon4×3=18.75% Gallinule4×5=9.38%(父内)) | (血統表の出典) | |||
父 Vatout 1926 鹿毛 |
父の父 Prince Chimay1915 栗毛 |
Chaucer | St.Simon | |
Canterbury Pilgrim | ||||
Gallorette | Gallinule | |||
Orlet | ||||
父の母 Vashti1921 鹿毛 |
Sans Souci | Le Roi Soleil | ||
Sanctimony | ||||
Vaya | Beppo | |||
Waterhen | ||||
母 Plucky Liege 1912 鹿毛 |
Spearmint 1903 鹿毛 |
Carbine | Musket | |
Mersey | ||||
Maid of the Mint | Minting | |||
Warble | ||||
母の母 Concertina1896 鹿毛 |
St.Simon | Galopin | ||
St.Angela | ||||
Comic Song | Patrarch | |||
Frivolity F-No.16-a |
脚注
編集- ^ a b 原田俊治 1970, p. 188.
- ^ a b 原田俊治 1970, p. 190.
- ^ a b c d e 原田俊治 1970, p. 182.
- ^ ダーリン調教師と競走馬購入の為に来ていた。
- ^ 同年のパリ大賞典後にテシオがネアルコを6万ポンドで売却した時より安く思えるが高額取引に見えたようで、フランス人はボルテラを「商売上手」と賞賛し、イギリス人はビーティを「人が良すぎる」と評した。
- ^ a b 原田俊治 1970, p. 180.
- ^ a b c d 原田俊治 1970, p. 181.
- ^ 原田俊治 1970, p. 189.
- ^ a b c d e 原田俊治 1970, p. 183.
- ^ a b c d 原田俊治 1970, p. 184.
- ^ 最高はバーラムとソラリオの500ギニー。次いでネアルコやハイペリオンの400ギニー。
- ^ a b c 原田俊治 1970, p. 185.
- ^ アーガー・ハーン3世の息子かは情報が少なく不明。
- ^ a b c d 原田俊治 1970, p. 186.
- ^ a b Leicester, Sir Charles (1974). Bloodstock Breeding. London: J.A. Allen & Co.. pp. 313–321. ISBN 978-0-85131-129-6
- ^ “Leading Sires of Great Britain and Ireland”. Thoroughbred Heritage. 2018年8月4日閲覧。
- ^ 1960年までの12ハロン以上のスタミナインデックスは次の順になる。ボワルセル(53・5%)。ハイペリオン(36・5%)。ネアルコ(33・5%)。
参考文献
編集- 原田俊治『世界の名馬』 サラブレッド血統センター、1970年