ポルトガル海上帝国

海外植民地を基盤としたポルトガルの黄金時代
ポルトガル領から転送)
ポルトガル帝国
Império Português (ポルトガル語)
1415年 - 1999年
ポルトガル帝国の国旗 ポルトガル帝国の国章
国旗(1830年 - 1910年)国章(1481年 - 1911年)
ポルトガル帝国の位置
世界でかつてポルトガル帝国の一部だった地域
公用語 ポルトガル語
国教 カトリック[1][2]
首都 リスボン
リオデジャネイロ(1808年 - 1821年)
君主
1415年 - 1433年ジョアン1世
1908年 - 1910年マヌエル2世
大統領
1911年 - 1915年 マヌエル・デ・アリアガ
1996年 - 1999年ジョルジェ・サンパイオ
首相英語版
1834年 - 1835年ペドロ・デ・ソウザ・ホルステイン
1995年 - 1999年アントニオ・グテーレス
変遷
セウタ征服 1415年
インド航路開拓1498年
ブラジル植民1500年
オランダ・ポルトガル戦争英語版1588年 - 1654年
ポルトガル王政復古戦争1640年 - 1668年
ブラジル独立1822年
インド植民地の喪失英語版1961年
ポルトガルの植民地戦争1961年 - 1974年
カーネーション革命1974年 - 1975年
マカオ返還1999年
現在アンゴラの旗 アンゴラ
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ
バルバドスの旗 バルバドス
ブラジルの旗 ブラジル
カーボベルデの旗 カーボベルデ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
グレナダの旗 グレナダ
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ
赤道ギニアの旗 赤道ギニア
モザンビークの旗 モザンビーク
ポルトガルの旗 ポルトガル
サントメ・プリンシペの旗 サントメ・プリンシペ
スリランカの旗 スリランカ
東ティモールの旗 東ティモール
マカオの旗 マカオ
シンガポールの旗 シンガポール
ウルグアイの旗 ウルグアイ
インドの旗 インド
先代次代
ポルトガル王国 ポルトガル王国
アメリカ先住民 アメリカ先住民
コンゴ王国 コンゴ王国
モノモタパ王国 モノモタパ王国
キルワ王国 キルワ王国
マラビ王国 マラビ王国
カアブ帝国 カアブ帝国
植民地化以前のティモール 植民地化以前のティモール
明
グジャラート・スルターン朝 グジャラート・スルターン朝
コーッテ王国 コーッテ王国
ジャフナ王国 ジャフナ王国
マラッカ王国 マラッカ王国
ビジャープル王国 ビジャープル王国
リオ・デ・ラ・プラタ副王領 リオ・デ・ラ・プラタ副王領
ポルトガル第一共和政 ポルトガル第一共和政
ブラジル帝国 ブラジル帝国
アンゴラ人民共和国 アンゴラ人民共和国
モザンビーク人民共和国 モザンビーク人民共和国
ギニアビサウ ギニアビサウ
カーボベルデ カーボベルデ
サントメ・プリンシペ サントメ・プリンシペ
東ティモール 東ティモール
マカオ マカオ
自由ダードラーおよびナガル・ハヴェーリー 自由ダードラーおよびナガル・ハヴェーリー
インド インド
オランダ領セイロン オランダ領セイロン
サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ
スペイン領ギアナ スペイン領ギアナ
オランダ領マラッカ オランダ領マラッカ

ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語: Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制の下で栄えた時期を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、既存の大国であったアステカ帝国インカ帝国の、それぞれの中心地域であったメキシコおよびペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は、とくに「海上帝国」とは言わない(スペイン帝国)。

ポルトガルの歴史
ポルトガルの国章
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先史時代英語版

ポルトガル ポータル
1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域。

世界史上における長命な帝国のひとつであり、1415年セウタ占拠から1999年ポルトガル領マカオ返還に至るまで、ほぼ6世紀にわたって君臨した。16世紀初頭からは、南北アメリカアフリカアジアオセアニアなど世界中の様々な地域にその版図を広げ、拠点を築き上げた。

概説 編集

 
ポルトガルの海外銀行 (Banco *Nacional Ultramarino) のためのアートワークの部分: ポルトガル帝国の植民地の象徴。リスボン
 
16世紀のポルトガル領。

ポルトガルの海上発展の礎 編集

1488年にアフリカ大陸南端に到達したポルトガルは東洋の香料貿易独占とキリスト教布教を目的としてインド洋に進出、沿岸各地に拠点を築いてムスリムと戦い、インド洋覇権を握った。このため、エジプトマムルーク朝などイスラム勢力から香料を仕入れて欧州での供給を独占していたヴェネツィア共和国の経済は大打撃を蒙った。ポルトガルはさらにマレー半島における香料貿易の重要な中継地であったマラッカ占領以後、東南アジア東アジアにまで貿易網を拡大し、世界的な交易システムを築き上げた。

抗争と衰退 編集

しかし17世紀に入ると、新教国オランダイギリスも七つの海に進出を始め、ポルトガルと競合するようになる。特にオランダはスペインに対する独立戦争を展開しており、当時スペインと同じ君主を戴いていたポルトガルのガレオン船を拿捕したり、マラッカなどのポルトガル植民地を占領して行った。日本の禁教と鎖国も新教国オランダの反ポルトガル陰謀の結果であると言えなくもない[3]。このため17世紀後半以後ポルトガルのアジア貿易は衰退したが、南米大陸ブラジルの植民に力を注ぎ、18世紀にはブラジルが盛んに産出されてポルトガルは再び黄金時代を迎えることになる。しかし、1703年にイギリスと結んだメシュエン条約は、結果として金の流出を招き、ポルトガル本国には、それ程、経済的な恩恵を与える事が出来なかった(非公式帝国)。

19世紀になるとブラジルの生産も低迷し、ブラジル植民地英語版自体が独立を達成してポルトガルから離れていく。ナポレオン戦争後はイギリス帝国が世界の海に覇権を唱え、ポルトガルに残されたのは旧時代の名残りともいえるアンゴラモザンビークなどのアフリカ植民地とインドのゴアディウマカオティモールなどだった。

これらの植民地第二次世界大戦後、1960年代に独立戦争が勃発した(マカオの場合は一二・三事件による中国とポルトガルの取引で戦火を逃れた[4][5]が、インドの植民地は1961年12月にインド軍武力侵攻により制圧された)。最終的に1974年のカーネーション革命をきっかけにしてポルトガルはこれらの植民地の独立を承認した。

財政、金融 編集

ポルトガルの東インド貿易は、名目上は全てポルトガル王室の事業だったが、単独で人員と船を継続するのは人口と王室の財政規模から不可能だった。そのためイタリア系やドイツ系の金融援助を受けて進められた[6]。16世紀後半からは、ジェノヴァ共和国サン・ジョルジョ銀行から融資を受けていた。リスク管理のために複数の人間が共同出資するコンパーニアや、高利の海上貸付であるレスポンデンシアが行われていた。ポルトガルはカトリック教国であり、教会法ではウスラによって高利が禁じられていた。このためカトリック教徒の間では、海上貸付は海上保険の名目で扱われた[7]

統治体制 編集

貿易体制 編集

当時のポルトガルの貿易は、主に4種類に分けられる。

(1) 喜望峰を通ってポルトガルとインド洋を結ぶ王室事業
この貿易では、王室と契約をした船が用いられた。
(2) 王室と、王室の許可を受けた船が特定の時期と地域で行う貿易
時代の中国、日本、シャムベンガルコロマンデルなどで行われ、貿易の権利は売却されて個人貿易にも用いられるようになった。
(3) 非公式な私貿易
正式な貿易は王室または王室の許可が必要であったが、合法ではない貿易を始める者も多数にのぼった。ポルトガル人の中には、現地の商人と協力して貿易をしたり、海賊行為を行う者もいた。
(4) カルタスを用いる貿易
ゴアの副王や各地のカピタンが通行証としてカルタスを発行して、船長名、船の情報、乗組員の情報を記録した。カルタスを持つ船は安全を保障される代わりに、ポルトガル要塞への寄港と納税が義務づけられた。カルタスを持たない船がポルトガル船に拿捕された時は生命の保障がなかった[8]

主要年表 編集

出典・脚注 編集

  1. ^ C. Bloomer, Kristin (2018). Possessed by the Virgin: Hinduism, Roman Catholicism, and Marian Possession in South India. Oxford University Press. p. 14. ISBN 9780190615093 
  2. ^ J. Russo, David (2000). American History from a Global Perspective: An Interpretation. Greenwood Publishing Group. p. 314. ISBN 9780275968960. "the Church of England was a " state church " in the colonies the way it indisputably was in England, and as the Roman Catholic Church was in the neighboring Spanish and Portuguese empires." 
  3. ^ 当時、岡本大八事件平山常陳事件島原の乱などで、キリスト教に不信感を募らせていた幕府に対し、オランダは、ポルトガルの宣教師が、本国と結んで日本を蚕食する恐れありと伝えた。そして、一方で自分たちオランダは布教を伴わない貿易が可能であると訴えていた
  4. ^ Far Eastern Economic Review, 1974, page 439
  5. ^ The Evolution of Portuguese - Chinese Relations and the Question of Macao from 1949 to 1968, Moisés Silva Fernandes, Chinese Academy of Social Sciences, 2002, page 660
  6. ^ 羽田 2017, p. 60.
  7. ^ 岡 2010, p. 195.
  8. ^ 羽田 2017, p. 62.
  9. ^ ディウ世界飛び地領土研究会
  10. ^ ダドラ&ナガルハベリー世界飛び地領土研究会
  11. ^ ダマン世界飛び地領土研究会
  12. ^ サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ世界飛び地領土研究会

参考文献 編集

  • 岡美穂子『商人と宣教師 - 南蛮貿易の世界』東京大学出版会、2010年。 
  • 羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社〈講談社学術文庫〉、2017年。 

関連項目 編集

基本情報:

外部リンク 編集