ポンパドウル(POMPADOUR)は、神奈川県横浜市に本社を置くベーカリーチェーン店[1]。「ポンパドウル」の他、首都圏での営業は多摩川を境に「横浜ポンパドウル」と「東京ポンパドウル」に分けて運営している[3]。 かつては北海道にも出店していた。

株式会社ポンパドウル[1]
POMPADOUR Co.,Ltd
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
231-0861
神奈川県横浜市中区元町4-158-1[2]
設立 1969年昭和44年)11月29日
業種 食料品
法人番号 9020001028856 ウィキデータを編集
事業内容 パン菓子など
代表者 代表取締役社長 三藤貴史
資本金 1億円
売上高 152億円
従業員数 1900名(社員数730名)
主要子会社 株式会社パレ・ド・パン
外部リンク https://www.pompadour.co.jp/
特記事項:数値は(株)ポンパドウル・(株)横浜ポンパドウル・(株)東京ポンパドウル3社を合算したもの
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店名は、フランス王ルイ15世の愛人だったポンパドゥール夫人にちなむ[1][4][5]

概要 編集

製パン工場の開設から自動化・機械化による量産へ 編集

1947年昭和22年)8月22日[6]三藤喜一が川崎市で「昭和堂」として製パン業を創業したのが始まりである[7]。 創業時は三藤喜一と夫人の三藤ヤス子の2人で営業していた[8]

1950年(昭和25年)2月に「株式会社昭和堂」を設立して法人化した[9][10]

1963年(昭和38年)11月に「株式会社昭和堂」が川崎市に機械化パン工場を開設し[11]1965年(昭和40年)8月に茅ケ崎工場を開設した[12]

昭和堂は、創業から10年近くは山崎製パン第一屋製パンなど最大手クラスと互角に戦う有力製パンメーカーとして事業活動を展開して[13]、フジパンとの合併直前には年間売上高約45億円・従業員約1,000人の製パンメーカーとして営業していた[8]

量産パンからの撤退とインストアベーカリーへの転換 編集

しかし、川崎・茅ケ崎に続く3番目の量産工場を狭山市に建設する準備を進めていたところ、土地は取得できたものの、規模の小さい昭和堂では従業員が思うように集まらなかった[7]。 また、高度成長期に激化した大量生産での競争では、大手製パンメーカーとの資金力の面などで差を付けられるようになってきたことから、方向転換を模索することになった[7]

そして、アメリカでの焼き立てパンを販売するインストアベーカリーを実際に訪問してその味の良さを改めて認識し、鮮度の良いインストアベーカリー事業へ参入することとした[13]

そこで、高級ファッションの街であった横浜市中区元町を出店先として選び[1][4]、高級パンのイメージを出すためにエリゼ宮殿を模した店舗を建設し、ターゲット層のショッピングを楽しむ若い女性客が困ることが多いトイレを1階に豪華に作るなどの工夫を凝らし、1969年(昭和44年)11月に、「ポンパドウル」の1号店として横浜元町店を開店した[13]。 また、当時なじみの薄かったハード系のフランスパンを主力商品として[4]一日8回焼き上げるなど最も美味しいとされる2時間以内で常時焼き立て提供するようにした[14]。 また、菓子パンも一日3回以上焼き上げ[3]、当時の日本で普通であったあんパン・ジャムパンなどではなくデニッシュ系の商品とすることで既存店との差別化を図った[4]

そして、品質の追求によるコストを反映して当時の標準的な菓子パンが同じく15円のところ50円とするなど約3倍の価格設定としたが[4]、内外装だけでなく包装紙や看板などを含めて「ポンパドウル」のコーポレートアイデンティティーの確立に当初から取り組んでいたことにより[15]高価格帯での販売が可能となった[15]

この店舗はテスト的に出店したもので[7]、業界で主流となっていた少品種大量生産の真逆となる多品種少量生産に挑戦し[16]、セントラルキッチンで製造した冷凍生地を使わずに店舗内の工場で一貫生産して直売する本来のインストアベーカリーの店舗として開業した[1]

ポンパドゥルの開業当初は、主力商品としたフランスパンの売れ行きが伸び悩み、2トンのワンボックスカー1台分近い売れ残りのフランスパンが出たため、YWCAで募金箱を置いて無料で配布し、集まった募金を交通遺児に寄付するなど慈善活動に充てたことで、新聞などに取り上げられ、結果として売上が少しずつ伸び始めた[15]。 その後、バターを付けたフランスパンの試食や[15]、角切りのチーズをフランスパンの生地に混ぜて焼いた[15]1970年(昭和45年)2月28日に「チーズバタール」を発売する[17]などテコ入れを続け、放送番組などで取り上げてもらうことも増えたことの影響もあり[15]、売上が伸びて軌道に乗った[15]

こうして、売上を伸ばして軌道に乗ったものの、この時点では「昭和堂」グループの一部門として営業していた[7]

この1号店を開店させた前後に昭和堂にフジパンから合併の申し入れがあり[18]、量産パンの卸売りという「昭和堂」の主力部門と成長するインストアベーカリー事業という部門間で将来的に軋轢が生じることへの懸念や[7]インストアベーカリーの生産性の低さなどの克服は片手間では困難と考え方から[18]、事業譲渡を決断[7][18]1970年(昭和45年)6月1日に「昭和堂」はフジパンに吸収合併され[19]、インストアベーカリーのポンパドウルを分離独立させた[7]

そして、1971年(昭和46年)12月に横浜・伊勢佐木町商店街の入り口付近の関内駅近くに伊勢佐木町店を開店し、2階にはケーキ売り場、3階にはレストランを併設した[20]

当社は、全店舗に製パン工場を持つ本当のインストアベーカリー・チェーンとして、セントラルキッチンで製造した冷凍生地を焼き上げるだけの焼き立てパンを売るベーカリーとは一線を画した営業方針を採用しているのが特徴である[1]

その為、各店舗で個別に生産しながら、店舗間で味・品質に差が生じないようにする必要があることから、本社にベテラン職人による技術指導部門を置き、問題がある店舗が見つかった場合には、改善するまで当該店舗を指導し続ける体制を構築して、チェーン全店での質を保っている[14]

また、チェーン全体で約300種類の中から各店舗が150種類から200種類を選んで製造・販売し[21]、焼き上げから2時間以内が最も美味しいとされるフランスパンを一日8回焼き上げるなど常時焼き立てパンを提供するための多頻度生産も行っている[14]。 この鮮度を保つための焼き上げ回数の堅持を会社方針としているため、販売量が少ない店舗では1回の生産数が敢えて少なくするほか、朝10時の開店時に焼き上げる為に午前3時からの仕込みが必要となることから、早朝勤務者の宿泊や通勤費用も敢えて投じる営業形態をとっている[22]

そして、焼き立てパンを求める消費者が多く見込める立地を選んで、店舗併設の工場の生産能力分の売上が見込める市場規模のところのみ出店し、多品種少量生産を多頻度行う各店舗で、売れ行きに合わせたきめ細かな数値管理を行わせるため、各店舗に製造部門と販売部門のそれぞれに責任者を置いて、両社協議による店舗運営を行うスタイルを採用した[23]。 この方針の徹底の為、店舗ごとに売上のみならず原価管理を含めた月次決算のレポートを出しており、各店舗の責任者が数値管理に強くなる仕組みも作っている[24]。 こうした各店舗での数値管理を徹底させるシステムの構築は、1980年代半ば時点で本社の管理部門を全社の従業員数の1%強に抑制することを可能にしており、現場主義と間接部門の合理化の両立に繋がって、当社の収益力を高めることになった[25]

首都圏から全国展開へ 編集

その後、神奈川県内での店舗展開を進めたのち[1]1976年(昭和51年)に新宿店を出店して東京都へ進出し[1]、1980年代半ばには神奈川県・東京都・千葉県の首都圏25店舗のインストアベーカリーのチェーンへと成長した[26]。 そして、30店舗を超えた頃から多摩川を境に「横浜ポンパドウル」と「東京ポンパドウル」に分けて運営し[3]、課題点の早期把握と改善を目指した[27]

関東地方でのシェアを固めたのちに全国チェーン展開を目指しており[28]、全国展開の第1歩として1986年(昭和61年)6月5日井筒屋小倉本店地下に小倉を開店して九州へ進出した[29]

1994年(平成6年)5月28日に小手指EPO1階に出店した小手指店で[30]、当社初の焼き立てパンのイートインコーナーを開設した[31]。 同年11月5日東武宇都宮百貨店1階に開店した宇都宮店では、酒売り場跡地で店舗面積が約72m2と狭く、店舗内に工場を併設できなかったことから、百貨店の裏側に仮設の工場建屋を設置して、百貨店側の負担で店内まで運ぶことで、完全に直結した工場を持つ店舗という従来からこだわってきた出典形式と異なる形での出店に踏み切った[32]

また、1998年(平成10年)10月1日に開店した吉祥寺店では、初めてマネージャーを含む全員が女性とするなど、女性社員の活用にも取り組み始めた[33]

2015年(平成27年)1月時点で全国に83店舗を展開している全国チェーンへと成長した[34]

年表 編集

過去に存在した事業所 編集

1963年(昭和38年)11月に機械化パン工場として開設した[11]
1970年(昭和45年)6月1日に「昭和堂」がフジパンに吸収合併され[19]、同社の川崎工場となった[36]1963年(昭和38年)7月に開設した機械化製パン工場[11]
1965年(昭和40年)8月に開設した[12]
設計は横浜設計事務所(佐野大偉代表取締役所長)[39]
1970年(昭和45年)6月1日に「昭和堂」がフジパンに吸収合併され[19]、同社の茅ヶ崎工場となった[38]

その他 編集

  • 2011年に、三藤喜一の息子三藤達男[注 1]によって、三藤喜一の人生と三藤達男の半生を綴った連載が神奈川新聞に連載され[40]、連載をまとめた『幸せを運ぶ赤い袋』(2012年、神奈川新聞)が出版されている。
  • 2012年のCoupe du Monde de la Boulangerie(クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・ブーランジュリー)2012年大会において、株式会社ポンパドウルの佐々木卓也がメンバーの一人である日本代表チームが優勝した[41][42]

ギャラリー 編集

参考書籍 編集

  • 三藤達男『幸せを運ぶ赤い袋』神奈川新聞、2012年。ISBN 978-4876454976 

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 三藤達男は、1994年(平成6年)に社長就任[34]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i 奥平恵 “企業インタビュー〈ポンパドウル〉1店舗1工場を貫く異色の企業”. 事務と経営 1983年9月号 (日本経営協会) (1983年9月1日).pp106
  2. ^ 福間孝 “ベーカリーの経営方針 ポンパドゥルの人材育成”. IEレビュー 1997年3月号 (日本インダストリアル・エンジニアリング協会) (1997年3月1日).pp28
  3. ^ a b c 三藤達男 “(株)ポンパドゥル成功の秘訣と今後のリテールベーカリーのあり方”. パン科学会誌 1998年3月号 (日本パン科学会研究所) (1998年3月1日).pp50
  4. ^ a b c d e 福間孝 “ベーカリーの経営方針 ポンパドゥルの人材育成”. IEレビュー 1997年3月号 (日本インダストリアル・エンジニアリング協会) (1997年3月1日).pp24
  5. ^ 独創と挑戦こそが伝統”. 朝日新聞 (2015年12月11日). 2017年10月31日閲覧。
  6. ^ a b 『食品工業総合名鑑』 光琳書院、1964年。pp15
  7. ^ a b c d e f g h i j “従業員の心をつかむ70年代"ホンパドール"戦略”. ジャパンフードサイエンス 1970年8月号 (日本食品出版) (1970年8月).pp50-51
  8. ^ a b “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp8
  9. ^ a b 『帝国銀行・会社要録 第42版』 帝国興信所、1961年。pp14-7
  10. ^ 『日本会社録 第5版』 交詢社出版局、1967年7月10日。pp282
  11. ^ a b c d 安達巌 “近代日本パン食文化史(35)”. パン 1995年12月号 (日本パン技術者協会) (1995年12月25日).pp9
  12. ^ a b c 安達巌 “近代日本パン食文化史(35)”. パン 1995年12月号 (日本パン技術者協会) (1995年12月25日).pp10
  13. ^ a b c d 奥平恵 “企業インタビュー〈ポンパドウル〉1店舗1工場を貫く異色の企業”. 事務と経営 1983年9月号 (日本経営協会) (1983年9月1日).pp107
  14. ^ a b c “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp12
  15. ^ a b c d e f g 三藤達男 “(株)ポンパドゥル成功の秘訣と今後のリテールベーカリーのあり方”. パン科学会誌 1998年3月号 (日本パン科学会研究所) (1998年3月1日).pp49
  16. ^ “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp9
  17. ^ a b “「チーズバタール」誕生50年で特別価格 ポンパドウル”. 神奈川新聞(神奈川新聞社). (2020年2月26日)
  18. ^ a b c 奥平恵 “企業インタビュー〈ポンパドウル〉1店舗1工場を貫く異色の企業”. 事務と経営 1983年9月号 (日本経営協会) (1983年9月1日).pp108
  19. ^ a b c d “業界ニュース”. 製菓製パン 1970年7月号 (製菓実験社) (1970年7月).pp302-307
  20. ^ a b “ベーカリー訪問(51) ポンパドール”. パン 1972年2月号 (日本パン技術者協会) (1972年2月25日).pp20
  21. ^ “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp17
  22. ^ 福間孝 “ベーカリーの経営方針 ポンパドゥルの人材育成”. IEレビュー 1997年3月号 (日本インダストリアル・エンジニアリング協会) (1997年3月1日).pp25
  23. ^ “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp13
  24. ^ “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp14
  25. ^ “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp15
  26. ^ “「焼きたて」で売りまくる!インストア・ベーカリーのパイオニア(株)ポンパドゥル”. 近代中小企業 1985年12月号 (中小企業経営研究会) (1985年12月1日).pp11
  27. ^ 三藤達男 “(株)ポンパドゥル成功の秘訣と今後のリテールベーカリーのあり方”. パン科学会誌 1998年3月号 (日本パン科学会研究所) (1998年3月1日).pp51
  28. ^ 佐藤友律 “CIS講座(11)新しい企業像づくりをめざすイメージ統合 <実例編9>高品質の製品づくりによる一石二鳥のイメージ政策「ポンパドウル」(神奈川・横浜市)”. 製菓製パン 1982年11月号 (製菓実験社) (1982年11月).pp204-206
  29. ^ a b “ベーカリー訪問(206) ポンパドウル小倉店”. パン 1986年7月号 (日本パン技術者協会) (1986年7月25日).pp22
  30. ^ a b “西友、5月28日「小手指EPO」が開店 30~40代女性に照準”. 日本食糧新聞 (日本食糧新聞社). (1994年4月18日). pp4
  31. ^ a b “東京ポンパドール、小手指店に同社初の焼きたてパンイートインコーナー”. 日本食糧新聞 (日本食糧新聞社). (1994年6月6日). pp5
  32. ^ a b “ベーカリー訪問(291) ポンパドウル宇都宮店”. パン 1994年5月号 (日本パン技術者協会) (1994年5月25日).pp32
  33. ^ a b 三藤達男 “(株)ポンパドゥル成功の秘訣と今後のリテールベーカリーのあり方”. パン科学会誌 1998年3月号 (日本パン科学会研究所) (1998年3月1日).pp53
  34. ^ a b 高木香奈(2015年1月8日).“45周年、元町に恩返し ポンパドウル・三藤達男社長”. 毎日新聞 (毎日新聞社). pp神奈川版
  35. ^ 『神奈川県工場名鑑 昭和37年版』 神奈川県、1963年3月31日。pp31
  36. ^ 金子嘉正 “ちょっとお話を社会への奉仕で世界にジャンプ”. 製菓製パン 1971年2月号 (製菓実験社) (1971年2月).pp136-139
  37. ^ 『神奈川県工場名鑑 昭和45年版』 神奈川県、1971年3月30日。pp16
  38. ^ a b 『日本職員録 第13版 下』 人事興信所、1970年。ppふ4
  39. ^ 『設計事務所便覧 1967・全国版』 日刊建設工業新聞社、1966年11月30日。pp268
  40. ^ パンと歩んだ「人生」、ポンパドウル三藤達男社長が神奈川新聞連載控え講演”. 神奈川新聞 (2011年8月21日). 2017年10月31日閲覧。
  41. ^ ヨコハマNOW記事「横浜が生んだ世界一のパン職人」株式会社ポンパドウルの佐々木卓也さん2012/5/10
  42. ^ 横浜中法人会記事「パリの世界大会で優勝されたのは、クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・ブーランジュリー……?(笑)。ベーカリーのワールドカップということでしょうか。」より