ポートランド (重巡洋艦)

重巡洋艦
USS Portland (CA-33) 30 July 1944.jpg
艦歴
発注 1929年2月13日
起工 1930年2月17日
進水 1932年5月21日
就役 1933年2月23日
退役 1946年7月12日
その後 スクラップとして売却
除籍 1959年3月1日
性能諸元
排水量 9,950トン
全長 610 ft 3 in (186 m)
全幅 66 ft 1 in (20.1 m)
吃水 17 ft 1 in (5.2 m)
機関 パーソンズ式タービン、4軸推進、107,000 shp
最大速力 32.7ノット (61 km/h)
航続距離 10,000 海里/15 ノット
乗員 士官、兵員848名
兵装 55口径8インチ三連装砲 3基
25口径5インチ単装砲 8門
12.7mm機銃 8丁
艦載機 水上機 4機
射出機 2基

ポートランド (USS Portland, CA-33) は、アメリカ海軍重巡洋艦ポートランド級重巡洋艦の1番艦。艦名はメイン州ポートランドに因む。姉妹艦はインディアナポリス[注釈 1]

艦歴編集

ポートランドの建造は1929年(昭和4年)2月13日に認可された。1930年(昭和5年)2月17日にマサチューセッツ州クインシーベスレヘム・スチールで起工し、1932年(昭和7年)5月21日にラルフ・D・ブルックス夫人によって進水、1933年(昭和8年)2月23日に艦長H・F・リアリー大佐の指揮下就役した。

同年4月1日にボストンを出港した。ポートランドは4月3日にニューヨーク州グレーヴズエンド湾英語版に到着する。翌晩、飛行船アクロン (USS Akron, ZRS-4) が海上に墜落したとの知らせを受け、ポートランドはその36分後に出航した。ポートランドは現場に到着した最初の艦艇となり、救助および探索を開始した。この事故で航空局長であるウィリアム・A・モフェット提督を含む73名が死亡した。

ポートランドは1935年(昭和10年)10月2日にカリフォルニア州サンディエゴを出航し、フランクリン・ルーズベルト大統領が乗艦した重巡ヒューストン (USS Houston, CA-30) に続いた。翌日大統領とその一行は魚釣りを楽しむ。パナマといくつかの港を訪問した後、2隻の巡洋艦はサウスカロライナ州チャールストンへ向かい、大統領はここで下艦した。

太平洋艦隊 (United States Pacific Fleet) の演習中に、ポートランドは1936年(昭和11年)5月20日に初めて赤道を越えた。その後、第二次世界大戦が始まるまでポートランドは太平洋艦隊隷下の巡洋戦隊の一部として平時訓練と親善訪問を続けた。太平洋戦争開戦時は、重巡3隻(シカゴ、ポートランド、インディアナポリス)で第4巡洋艦戦隊 (Cruiser Division 4) を編成していた。

1942編集

日本軍による真珠湾攻撃当日、第12任務部隊(空母レキシントン、重巡シカゴ、ポートランド、アストリア、駆逐艦5隻)は[2]アメリカ海兵隊の航空機を輸送するためミッドウェー島に向かう途中だった[3]。南雲機動部隊を捕捉撃滅するため反転してハワイ近海にもどり、また重巡インディアナポリスブラウン中将旗艦)も第12任務部隊に合流した[4]。索敵をおこないつつ、12月14日真珠湾に帰投した[4]

1942年(昭和17年)初頭、アメリカ海軍は健在の空母を活用して、日本軍の進攻を阻止しようとしていた[5][6]。だが大型空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) は1月12日に伊6に雷撃されて大破した[7][8]。ポートランドは1942年(昭和17年)5月まで西海岸ハワイフィジーで作戦活動を行った。 南太平洋に進出したポートランドは、フレッチャー提督が率いる第17任務部隊英語版の指揮下にはいり、トーマス・C・キンケイド少将率いる攻撃部隊に所属して、空母ヨークタウン(フレッチャー提督旗艦)と空母レキシントンフィッチ提督旗艦)を護衛した[9]

この頃、日本軍の南洋部隊(指揮官井上成美中将、第四艦隊司令長官)はパプアニューギニアポートモレスビー占領を目指してMO作戦を発動し、珊瑚海に展開した[10]。第17任務部隊も珊瑚海に進出し、日本軍と激突する。これが珊瑚海海戦である(珊瑚海海戦、両軍戦闘序列[11]5月7日クレース英語版少将が率いるクレース部隊英語版[注釈 2]が日本軍輸送船団撃滅のため分離したので[12]、ヨークタウンとレキシントンの護衛艦艇はさらに減ってしまった[13]

5月8日の戦闘で、日本軍のMO機動部隊に所属する第五航空戦隊瑞鶴翔鶴)より69機の攻撃隊が発進し、第17任務部隊に攻撃をおこなう[注釈 3][注釈 4]。 ポートランドを含め、各艦は空母2隻を守りきれなかった[16]。7日から8日にかけての航空戦で日本側は軽空母祥鳳(5月7日)が沈没し[17]、空母翔鶴が損傷した[18]。 アメリカ側は5月7日にタンカー1隻と駆逐艦1隻が沈没[17]、8日の戦闘で空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) が沈没し、空母ヨークタウンUSS Yorktown, CV-5)が損傷した[19]。レキシントンは駆逐艦フェルプスにより雷撃処分され[20]、ポートランドはレキシントンの生存者722名を救出した。第17任務部隊は南方へ離脱した[21]

 
ミッドウェー海戦で撃沈されたヨークタウンの生存者をフルトンに移乗させるポートランド、1942年6月7日

ポートランドは、新艦長ローレンス・T・デュボース大佐を迎えた。5月31日、第17任務部隊は真珠湾を出撃した[22]。続くミッドウェー海戦における重巡2隻(ポートランド、アストリア)はひきつづきフレッチャー提督が率いる第17任務部隊に所属し、空母ヨークタウンの護衛をおこなった[23]。本作戦には空母2隻(エンタープライズホーネット)を基幹とする第16任務部隊(司令官スプルーアンス提督)が参加し[24]、先任のフレッチャー提督が空母3隻を指揮した(ミッドウェー海戦、戦闘序列[25][26]

日本時間6月5日(連合軍時間6月4日)の戦闘で、まず日本側主力空母3隻が被弾炎上すると、第二航空戦隊司令官山口多聞少将は唯一健在の空母飛龍から攻撃隊を発進させた[27][注釈 5]。 第17任務部隊(空母ヨークタウン、重巡アストリア、ポートランド、駆逐艦部隊[注釈 6])は輪形陣を形成し[33]、重巡2隻はヨークタウンの斜め前両舷に配置されていた[34]。 アメリカ側はF4F ワイルドキャットと各艦の対空砲火で九九艦爆12機を撃墜したが、ヨークタウンに爆弾3発が命中した[30]。フレッチャー提督は旗艦をアストリアに変更した[35][36]。ポートランドはヨークタウンの曳航を命じられたが、ヨークタウンの応急修理が成功して行動可能になったので[36]、曳航はとりやめられた[37]

しばらくすると友永丈市大尉が率いる飛龍第二次攻撃隊(零戦6、艦攻10)が出現し[38][31]、第17任務部隊を攻撃する[39][40]。アストリアとポートランドは、第16任務部隊から派遣された4隻(重巡ペサンコーラヴィンセンス、駆逐艦ベンハムバルチ)と共に[41][42]、速力20ノット程度のヨークタウンを護衛した[43]。F4Fの邀撃や対空砲火で友永隊長ふくめ艦攻5機と零戦3機を撃墜したが、ヨークタウンに魚雷2本が命中した[注釈 7]。 ヨークタウンは放棄され[45]、乗組員は護衛艦艇に移乗した[46]。アストリアやポートランドを含めて各艦は第16任務部隊に合流した[47]。駆逐艦ヒューズ英語版だけがヨークタウンにつきそった[48]。アメリカ軍は曳船ヴィレオ英語版と駆逐艦5隻でヨークタウンの曳航を試みたが[49]伊号第百六十八潜水艦に捕捉される[50]。伊168の雷撃よって空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンが沈没した[51][52]。連合軍側は空母1隻と駆逐艦1隻の沈没と引き換えに[53]、日本側主力空母4隻と重巡三隈を撃沈して勝利した[54]

ヨークタウンが沈没したので、ポートランドは新鋭戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) および新型軽巡洋艦アトランタ (USS Atlanta, CL-51) と共に第16任務部隊(司令官トーマス・C・キンケイド少将)に配備され、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) を護衛する[55]。フレッチャー中将率いる第61任務部隊英語版には、空母3隻(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)が所属していた[56][55]。 8月7日から9日にかけて、第61任務部隊はソロモン諸島ガダルカナル島ツラギ島に上陸する海兵隊の支援を行う[57]ウォッチタワー作戦連合軍戦闘序列[58][注釈 8]。 その後、第61任務部隊は同海域に留まり連合軍の補給線の防衛任務に従事した[60]第一次ソロモン海戦[61][62]

8月23日から25日にかけて行われた第二次ソロモン海戦(連合軍呼称、東ソロモン海戦両軍戦闘序列)では[63]、連合軍は第18任務部隊(空母ワスプ基幹)を燃料補給のため後退されており[64]、第17任務部隊(空母ホーネット基幹)も真珠湾を出撃したばかりで間に合わなかった[62]。フレッチャー提督は手持ち空母2隻(サラトガ、エンタープライズ)で日本艦隊を迎え撃った[65]。 艦上機と基地航空隊の空襲により空母龍驤[66]と輸送船金龍丸および駆逐艦睦月を撃沈し[67][注釈 9]、日本軍のガダルカナル島への増援を阻止することに成功した[70][71]。 日本側も第一航空戦隊翔鶴瑞鶴)から九九式艦上爆撃機を基幹とする攻撃隊を送り込む[72]。第11任務部隊(旗艦サラトガ)が日本艦隊と距離をとったので、第16任務部隊(エンタープライズ、ノースカロライナ、ポートランド、アトランタ、駆逐艦隊)が一航戦攻撃隊の矢面にたった[73]。F4Fの邀撃に加えて、直衛艦は対空砲火で九九艦爆を次々に撃墜した[74]。 だが、翔鶴艦爆隊が弾幕を突破して空母エンタープライズに爆弾3発を命中させ、数発の至近弾を与えた[74]。エンタープライズは中破して後退を余儀なくされ、同艦所属機はガダルカナル島ヘンダーソン基地に配備された[75]。修理のためエンタープライズは戦線を離脱し[76]、9月10日真珠湾に到着した[77][注釈 10]

その後ポートランドは一旦引き返し、部隊に再合流するためアトランタ級軽巡洋艦サンフアン (USS San Juan, CL-54) を伴って南太平洋に向かった[注釈 11][注釈 12]。 その途中の10月15日、マーロン・S・ティスデール英語版少将指揮下のポートランドとサンフアンはタラワ南方を通過中、砲撃訓練を兼ねてタラワ近海の日本軍艦艇を襲撃する[80][81]。日本軍タラワ守備隊は接近するポートランドを日本軍輸送船と勘違いしており、砲撃開始直前にようやく異変に気付いた[82]測量艦筑紫に至っては、発砲されるまでポートランドを最新鋭の大和型戦艦武蔵と思っていたという[83]。 ポートランドは、まずタラワ在泊の測量艦筑紫に対して艦砲射撃を行い、次いでタラワに入港しつつあった特設巡洋艦浮島丸大阪商船、4,730トン)、特設給糧艦日立丸(日産汽船、6,540トン)、駆逐艦夕凪第29駆逐隊)に対して砲撃を行った[84][85][86]。さらにSOCシーガル水上観測機を発進させ[87]、着弾観測や小型爆弾による空襲を実施させた[84]。ポートランドの砲撃や空襲により、筑紫の内火艇が沈没した他、日立丸の便乗者に死傷者が出た[88]。タラワでは艦砲射撃がはじまると共に、同島守備隊の横須賀鎮守府第六特別陸戦隊が民間人抑留者を含む捕虜22名を処刑してしまった[89]。『戦史叢書62巻』では「横六特司令は、この米巡洋艦の来襲を、当時各島掃蕩の際、捕えた捕虜の奪還の前兆と判断していた。」と記述している[88]

約30分間の艦砲射撃後、ポートランドはタラワ島の目前で水上偵察機を回収し、同島から離れていった[84]。 ポートランドはタラワのほかアベママ英語版マイアナの両環礁に対しても砲撃を行い、サンフアンも赤道以南のギルバート諸島内を遊弋する[90]。日本軍の特設監視艇2隻が配備点で「敵巡洋艦と交戦」を報告したあと行方不明となった[88]。この巡洋艦がサンフアンであった[90]。日本側は反撃のため九七式大艇一式陸攻を繰り出したが、アメリカ巡洋艦2隻は立ち去った後だった[87]

10月26日の南太平洋海戦(連合軍呼称、サンタクルーズ諸島沖海戦。両軍戦闘序列)において[91]、戦艦サウスダコタUSS South Dakota, BB-57)、重巡ポートランド、軽巡サンフアンはキンケイド提督が指揮する第16任務部隊に所属し[92]、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) を護衛した[93][94]26日朝、第一航空戦隊翔鶴瑞鶴瑞鳳)第一次攻撃隊の攻撃により、第17任務部隊の空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) が戦闘不能となった[95]。 つづいて一航戦第二次攻撃隊の攻撃で[96]、エンタープライズに爆弾3発が命中、雷撃により駆逐艦ポーター (USS Porter, DD-356) が沈没、駆逐艦2隻が被弾機に突入された[97]。ポートランドには魚雷3本が命中したが、不発であった[98][注釈 13]。 一航戦第二次攻撃隊は「翔鶴隊:敵航空母艦一隻爆撃六弾命中、続イテ攻撃セル瑞鶴艦攻隊ノ成果ト相俟テ之ヲ撃沈ス 駆逐艦一隻大破炎上 敵機一機撃墜」「瑞鶴隊:航空母艦一(エンタープライズ型)撃沈、戦艦一(サウスダコタ型)轟沈、巡洋艦一(艦型不詳)撃沈、駆逐艦一大破 敵機八機撃墜」と報告した[97]。このあと第二航空戦隊(空母隼鷹)攻撃隊や一航戦第三次攻撃隊の空襲があったが[103]、アメリカ側に決定的な損害はなかった。 一連の戦闘で連合軍側は空母ホーネット[104]と駆逐艦ポーターを喪失する[105]。空母エンタープライズ大破の他に、戦艦サウスダコタ、軽巡サンフアン等が若干の被害をうけた[106]

2週間後、ポートランドは第三次ソロモン海戦に参加する[107]。万全の状態ではなかったエンタープライズは、ハルゼー提督から「ガダルカナル島南方に留まり、ソロモン諸島の北方海面に進出してはならない」と命令されていた[108]。11月12日、ダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将の巡洋艦と駆逐艦戦隊が護衛するアメリカ軍高速輸送船団(ターナー提督)はガダルカナル島に到着[109]、ルンガ岬沖合で揚陸作業を開始した[110]。連合軍艦隊は一式陸上攻撃機による二度の空襲を撃退したが[111]12日の対空戦闘で旗艦サンフランシスコUSS San Francisco, CA-38)が小破、同士討ちで駆逐艦ブキャナン英語版 (USS Buchanan, DD-484) が損傷[112]、輸送船3隻が小破した[113]

この時、日本陸軍第38師団のガダルカナル島輸送に関連し、同島のヘンダーソン飛行場艦砲射撃を実施するため[114]連合艦隊は第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する金剛型戦艦2隻(比叡霧島)を中核とした挺身攻撃隊を送り込んでいた[115][注釈 14]。 アメリカ軍は高速輸送船団を避退させると共に[119]、同部隊を護衛していた巡洋艦戦隊を金剛型戦艦にぶつけた[120]キャラハン少将の指揮する巡洋艦戦隊(重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦8隻)は[121][122]、不満を抱きながら金剛型戦艦に立ち向かった[123]。 これが第三次ソロモン海戦の第一夜戦である[124]。 アメリカ側の問題は、旧式のSCレーダーを乗せた重巡サンフランシスコと軽巡アトランタが二人の将官の旗艦であり、最新のSGレーダーを装備した3隻(ポートランド、ヘレナ、ジュノー)が単縦陣の後方に配置されていたことだった[125][注釈 15]

11月13日午前0時頃よりはじまった夜戦は大乱戦となり[注釈 16]、「停電した酒場の乱闘」と化した[128][129]。 1時58分、ポートランドは右舷に魚雷の直撃を受ける[注釈 17]。スクリュー2本を損傷しは5度右に傾いた。また3番砲塔の揚弾筒が損傷し砲塔は旋回不能となった。舵の損傷はバラスト調整による角度修正で補われたが、航行要員の補充は行えず、艦は右方向への旋回を余儀なくされた。 1度目の旋回が終わろうとするとき、比叡が炎上する他の艦の炎によって照らされる[注釈 18]。ポートランドは前方の砲塔で射撃を行った[132]。比叡も応射したものの命中することはなく、ポートランドは8インチ砲4門による一斉射撃で比叡に直撃弾を与えた[注釈 19]

日米双方とも大損害を受けたあと健在艦や行動可能艦は撤退を開始、アメリカ側艦隊も動けるものは撤収し、行動不能になったポートランドとアトランタなどが戦場に残された[133][注釈 20]。 午前6時30分、依然旋回中であったポートランドは、サボ島の南で損傷した時雨級駆逐艦1隻を発見した[136]。ポートランドは放棄された駆逐艦夕立(第2駆逐隊)[137]の船体に対して6マイルの距離から砲撃を行う。駆逐艦五月雨(第2駆逐隊)は夕立乗組員を収容したあと同艦自沈処分のため現場に留まっていたが[138]、敵重巡洋艦の接近を見て戦場を離脱していった[139][140]。6度目の一斉射撃の後、爆発がおこり[141]、夕立は沈没した[142]。 このときサボ島周辺で舵復旧につとめていた比叡は、ルンガ方面距離約24Kmに損傷巡洋艦を発見した[143]。後部主砲で、この巡洋艦を砲撃した[127][144]。比叡の砲撃は命中しなかった[注釈 21][注釈 22]。 ポートランドはアイアンボトムサウンドからの離脱に成功した[注釈 23]上陸用舟艇および港内哨戒艇、タグボートの支援を受け、ポートランドは11月14日にツラギ島に停泊した。続いてオーストラリアシドニーに曳航され応急修理が施される。サモアおよび真珠湾を経由して、1943年3月3日にメア・アイランド海軍造船所に到着した。ローレンス・T・デュボース艦長は少将に昇進し、ポートランドに別れを告げた[注釈 24]

1943 - 1944編集

 
レイテ島を砲撃するポートランド

南部カリフォルニア水域で運用訓練を行った後、ポートランドは5月後半にアリューシャン列島に向けて出航し、6月11日に到着した。アッツ島攻略作戦アッツ島を占領した連合軍は、つづいてキスカ島の攻略を目指した[149]。7月になると、ロバート・C・ギッフェン少将が指揮する巡洋艦と駆逐艦がキスカ島に対する艦砲射撃をおこなった[150]。7月22日、ギッフェン少将の艦隊(重巡3、軽巡1、駆逐艦5)とグリフィン少将の艦隊(戦艦2、重巡1)は陸軍基地航空隊と共にキスカ島を攻撃した[150]。 7月23日(日本時間7月24日)、アメリカ軍のカタリナ飛行艇がアッツ島南西200海里の地点で7隻の船をレーダーで捕捉し、キンケイド提督はこれを日本軍増援輸送船団と判断し、隷下のギッフェン少将とグリフィン少将の艦隊に対処を命じた[151]。7月26日、日本側の撤収部隊は濃霧に起因する多重衝突事故の対応に追われていて、キスカ島突入どころではなかった[152]。一方のアメリカ側は、暗号解読などで26日もしくは27日に日本艦隊がキスカ島に出現すると判断していた[152]。同26日0007以降、戦艦2隻(ミシシッピーアイダホ)、重巡洋艦(ポートランド、ウィチタサンフランシスコ)と護衛の駆逐艦で行動中、戦艦や巡洋艦はレーダーで「敵艦隊」を捉え、約30分間にわたり砲撃をおこなった(ピップスの戦い[152]。弾薬と燃料が不足したので、アメリカ艦隊は撤収した[152]。警戒のため駆逐艦1隻(ハル)が配備された[153]。 この間隙をぬって第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が率いる撤収部隊が突入し[154]、7月29日に日本守備隊を収容して島を去った[155][注釈 25]

8月になり、ロックウェル提督が率いる上陸作戦部隊は、チャールズ・コレット少将が指揮下する約3万7000名の上陸部隊を乗せてアダック島を出撃した[159]。戦艦2隻(ペンシルヴェニアアイダホ)、巡洋艦(ポートランド、サンタ・フェ)などを含むアメリカ艦隊が、上陸作戦を支援する[159]8月15日夜明け前、アメリカ艦隊はキスカ島に艦砲射撃を浴びせ、上陸作戦がはじまった[160]。既述のように日本軍はキスカ島から撤退していたので、上陸作戦は完全な空振りに終わった[159]。8月17日、ポートランドは小キスカ島への偵察上陸部隊に対する支援射撃を行った。戦場を離脱し、9月23日に真珠湾に到着、10月初めにサンフランシスコに帰還する。その後10月半ばに再び真珠湾に到着した。

1943年11月から1944年2月までポートランドはギルバート・マーシャル諸島の戦いに参加した。その後3月30日、4月1日にパラオヤップウルシー環礁ウォレアイ環礁に対する空母攻撃部隊の護衛を行った。

ポートランドは続いて空母部隊と共にホーランディアタナメラへの上陸支援を4月21日から24日にかけて行う。その後トラック島攻撃部隊の一部として、他の5隻の巡洋艦、駆逐艦と共に北方に向かい、ポートランドはサタワン環礁への砲撃を行った。

一連の任務が完了するとポートランドはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所へ向かう。オーバーホール後戦線復帰すると9月12日から14日にかけてペリリュー島への上陸前艦砲射撃を行った。上陸作戦は9月15日に始まり、ポートランドは5日間にわたって支援射撃を行い、日本軍の拠点を破壊した。ポートランドは9月29日までペリリューで艦砲射撃を行い、その後マヌス島ゼーアドラー湾に向かった。

続いてフィリピンへの攻撃部隊に加わったポートランドは、10月17日にレイテ島に到着、翌日レイテ湾入りした。ポートランドは上陸前艦砲射撃を行い、日本軍の抵抗を撃退した。

10月24日から25日にかけて行われたレイテ沖海戦太平洋戦争における最大規模の海戦となった(レイテ沖海戦、両軍戦闘序列)。ポートランドは、第7艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将が指揮する第77任務部隊 (Task Force 77) に所属し[161]、火力支援を担当する第77任務部隊第2群(指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将)として行動する[注釈 26]。 10月25日未明のスリガオ海峡海戦では、第二戦隊司令官西村祥治中将率いる日本艦隊(第一遊撃部隊第三部隊、通称「西村部隊」または「西村艦隊」)と、第77任務部隊の砲雷撃戦が繰り広げられた[163]。 海峡を交差した第77任務部隊は、丁字戦法で西村部隊に集中砲火を浴びせた[164][165][注釈 27]。 砲撃と魚雷の集中攻撃を浴びて山城は沈没、西村中将は戦死した[168]。最上と時雨は損傷しながら戦場を離脱し、第77任務部隊の同士討ちで駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が損傷した[169]。巡洋艦3隻(ルイスビル、ポートランド、デンバー)は撤退してゆく最上を追いかけて砲撃を浴びせたが、とどめをさせずに振り切られた[170]。第77任務部隊の他の軽巡と駆逐艦は、海峡に取り残されていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた[171][注釈 28]

1945編集

 
戦艦ペンシルベニアと、後続のコロラドルイビル、ポートランド、軽巡洋艦コロンビア。1945年1月

1945年(昭和20年)1月3日から3月1日まで、ポートランドはリンガエン湾、コレヒドールでの戦いに参加した。1月5日にリンガエン湾沖に到着、ボリナオ岬へ砲撃を行い、同日湾内に入ると東岸部への砲撃を開始した。しかし日本軍による激しい特攻が始まり、砲撃は直ちに中止された。リンガエン湾を巡る上陸作戦で、1月5日に駆逐艦が、7日に駆逐艦が沈没した。

ポートランドは2月15日にマニラ湾に入り、コレヒドール島南岸に対して上陸前の砲撃を始める。その後3月1日にレイテ湾に帰還し、5ヶ月ぶりの修理および補給に入る。

沖縄戦では、第5艦隊 (Fifth Fleet) 隷下の第54任務部隊(指揮官モートン・デヨ少将)第4群(指揮官マコーミック少将:戦艦アイダホ、戦艦ウェストバージニア、重巡ペンサコーラ、ポートランド、大型軽巡ビロクシ、駆逐艦アーウィンポーターフィールドキャラハンカッシン・ヤングプレストン)を編成していた(沖縄戦、連合軍戦闘序列)。 3月26日から4月20日まで沖縄戦での支援作戦に従事したポートランドは、24回の敵の攻撃を受け、敵機4機を撃墜、2機の破壊を支援した。5月8日から沖縄に対する砲撃および占領支援を行い、6月17日に維持作業のためレイテ島に向かう。8月6日に中城湾に到着すると維持作業および訓練を開始する。

8月15日に日本は降伏し、ポートランドはジョージ・D・マレー中将の旗艦となる。ポートランドはトラック島に向かい、ここでニミッツ提督の代理となるマレー中将が日本軍の降伏調印文書を受理した。

ポートランドは9月21日に真珠湾を訪れ、24日まで停泊した。真珠湾では600名の帰還兵を乗艦させた。10月8日にパナマ運河を通過、10月27日にメイン州ポートランドで海軍記念日の記念式典に参加する。1946年3月11日にフィラデルフィア海軍造船所に入り、不活性化および予備役艦隊への配属が行われた。ポートランドは1946年7月12日にフィラデルフィアで退役し、1959年3月1日に除籍された。1959年10月6日にニューヨークのユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社に売却され、1961年から62年にかけてフロリダ州パナマシティのウェインライト造船所で解体された。

ポートランドは第二次世界大戦の戦功で16個の従軍星章を受章した。

出典編集

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  1. ^ 一等巡洋艦 “ポートランド Portland[1] 全要目{排水量9,800噸 速力32.7節 備砲20糎砲9門 12.7糎高角砲8門 起工1930年2月 竣工1933年2月 建造所ベスレヘム造船會社}これは米國一等巡洋艦第二次計畫に属する7隻中の第一艦で、全長177.99米、幅22.36米、平均喫水5.33米。高角機銃8門 魚雷發射管はこの艦から廢止してしまった。特に前檣の基本部を強固にして各部を廣くし外後部煙突附近を改善し格納庫、其他の區劃をもうけこゝに8門よりなる高角砲臺(白く包んであるもの)を形成して防空設備の完璧を期してゐるのは注目すべきであらう。前檣はやゝ高くなった。なほ定員は551名に減少している。
    同型艦“インディアナポリス Indianapolis” 排水量9,950噸の外“ポートランド”とすべて同一。1930年3月起工、1932年11月竣工、ニューヨーク造船會社の産。
  2. ^ クレース隊:重巡オーストラリア、重巡シカゴ、軽巡洋艦ホバート、駆逐艦パーキンス英語版ウォーク英語版ファラガット
  3. ^ 五航戦攻撃隊69機を、瑞鶴飛行隊長高橋赫一少佐が指揮する[14]
  4. ^ 連合軍側の戦力は、第17任務部隊第2群(攻撃部隊:重巡〈ミネアポリス、ポートランド、ニューオーリンズアストリアチェスター〉、駆逐艦〈フェルプス英語版デューイエールウィンモナガン〉)、第17任務部隊第5群(空母隊:空母〈ヨークタウン、レキシントン〉、駆逐艦〈モーリス、アンダーソン、ハムマン、ラッセル〉)であった[15]
  5. ^ 飛龍発進時の第一次攻撃隊は小林道雄大尉が指揮する零戦6と艦爆18だったが[28]、零戦2機がSBD攻撃のため分離し、第17任務部隊に到達したのは零戦4と艦爆18だった[29]。第17任務部隊との戦闘で小林隊長をふくむ艦爆13機、零戦3が失われた[30][31]。帰投した艦爆も1機が修理不能、艦爆2と艦戦1が修理を必要とした[32]
  6. ^ 駆逐艦ハムマンアンダーソン英語版ラッセル英語版モーリス英語版ヒューズ英語版
  7. ^ 母艦に戻った飛龍第二次攻撃隊は、零戦3、艦攻5機であった[43]。艦攻4機は修理不能、艦攻1機も修理を必要とした[44]
  8. ^ フレッチャー機動部隊(旗艦サラトガ)[59]:戦艦ノースカロライナ、空母3隻(サラトガエンタープライズワスプ)、重巡5隻(ミネアポリスニューオーリンズポートランドソルトレイクシティサンフランシスコ)、軽巡アトランタ、駆逐艦(アーロンワードバルチベンハムデイルファーンホルトファラガットグレーソングウィンラフィロングマクドナウモーリーフェルプススタックストレットウォーデン)。
  9. ^ 8月24日の戦闘で日本側は分遣隊の龍驤が沈没[68]、前進部隊の水上機母艦千歳が損傷した[65]25日の戦闘では、金龍丸と睦月沈没の他、軽巡神通が中破した[69]
  10. ^ エンタープライズは10月16日に真珠湾を出撃、10月24日午後に第17任務部隊と合流した[78]
  11. ^ 『戦史叢書62巻』185ページなど、複数の二次資料で同行艦を軽巡洋艦ジュノー (USS Juneau, CL-52) と記述するが[79]、実際は同型艦のサンフアンであった。第18任務部隊でワスプを護衛していたサンフアンは[55]、砲架の故障で真珠湾に後退していた。軽巡ジュノーは第18任務部隊に加勢されている。
  12. ^ サンフアンは10月5日に真珠湾を出発、フナフティ島に物件を揚陸するとギルバート諸島にむかった。
  13. ^ アメリカ側の資料で、南太平洋海戦の対空戦闘中に日本軍潜水艦が第61任務部隊を襲撃、ポートランドに魚雷を命中させたり、駆逐艦ポーターを撃沈したとの資料がある[99]。日本側記録では、該当艦がない[100]。確認できる攻撃は、10月27日午前3時38分の伊21から戦艦ワシントンに対するもの(伊21はコロラド級戦艦と判断していた[101]。早爆してワシントンに被害なし)[102]
  14. ^ 挺身攻撃隊(指揮官阿部弘毅少将)は[116]、第十一戦隊(比叡、霧島)、第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦長良、第6駆逐隊〈〉、第16駆逐隊1小隊〈雪風天津風〉、第61駆逐隊〈照月〉)、第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦朝雲、第2駆逐隊〈村雨五月雨夕立春雨〉、後方警戒/第27駆逐隊〈時雨白露夕暮〉)であった[117][118]
  15. ^ アメリカ艦隊の単縦陣は、先頭から駆逐艦カッシングラフィーステレットオバノン(SGレーダー装備)、軽巡洋艦アトランタスコット少将旗艦)、重巡洋艦サンフランシスコ(キャラハン少将旗艦)、重巡ポートランド(SG装備)、軽巡ヘレナ(SG装備)、軽巡ジュノー(SG装備)、駆逐艦アーロン・ワードバートンモンセンフレッチャー(SG装備)であった[126]
  16. ^ 〔 一.一二日ノ夜ハ「ガ」島[飛行場]射撃ノ為11S(比叡、霧島)ハ10S(長良 d×6)ヲ直衛トシ「サボ」島ノ西方ヨリ進入セルモ二三三〇頃右方ニ敵C1×4 C2(防空)×2 d×7ガ輸送船ノ外方ヲ低速ニテ警戒中ナルヲ發見近距離ニ於テ敵ニ先ンジテ有利ナ態勢ヨリ之ヲ照射砲撃竝ニヲ加ヘ忽チ其ノ数艦ヲ撃沈セリ 又前方ニ進出シ居レル前衛dハ北方ニ別ノ敵C1×3 d×2ヲ発見之ト激戰ス 尓后ノ戰斗ハ各艦夫々勇敢ニ肉迫猛撃シ彼我混戰ニ陥レル為詳細ハ判明セズ/尚比叡ノ沈没ニ至レル状況ハ曩ニ奏上セル通リナルモ、同艦ハ翌日天明后「サボ」島南方ニ漂流セル敵損傷Cヲ砲撃々沈スル等最后迄奮戰セリ。[127](以下略)〕
  17. ^ 駆逐艦夕立が発射した魚雷とする資料がある[130]。なお、本海戦に参加した日本側のほとんどの駆逐艦が魚雷を発射し、命中を記録している。
  18. ^ 旗艦比叡は戦闘開始と共に探照灯を照射したため集中射撃を浴びて炎上、通信機能を失っていた[131]
  19. ^ なお比叡の舵機室上方(右舷水線付近)に命中した20㎝砲弾は不発だったが、直径約2.5の破孔から浸水がはじまり舵が故障、行動不能となった[131]
  20. ^ サンフランシスコ艦上でキャラハン少将は戦死、アトランタでもスコット少将が戦死した[134]。アトランタは自沈処理され、ジュノーは離脱中に伊26の雷撃で撃沈された[135]
  21. ^ 比叡では主砲数斉射をはなったあと敵巡洋艦の姿が見えなくなったので、士気をあげるため撃沈と報じた[143]。一部の著作では、比叡はポートランドを砲撃したとする。アメリカ側資料では、曳船ボボリンクに曳航されていた駆逐艦アーロン・ワード (USS Aaron Ward, DD-483) であったという[141]
  22. ^ 未曾有の大激戰 あの第三次ソロモン海戰で、わが戰艦が一隻沈没したのですが、その最期は戰史に殘る壮烈なものでした。十二日夜、わが戰艦が核心となつて、補助部隊とともに敵艦隊を攻撃、巡洋艦七隻、驅逐艦三隻を撃沈、巡洋艦二隻大破、驅逐艦十隻を大中破したのですが、明けて十三日朝、ガダルカナル島方面の敵飛行機百餘機がわが戰艦めがけて來襲しました。/ これを一身に引受けたわが戰艦は、百餘機の敵機に對し猛烈な攻撃を行ひ、敵機多數を撃墜したのですが、つひに戰艦も満身創痍の損害を受けたこの時、サボ島の島かげから一隻の敵大型巡洋艦がわれに止めを刺さんとして出撃して來たのです。/ わが戰艦は莞爾としてこれを邀へ撃ち、戰艦は敵巡洋艦に最後の巨彈を酬い、忽ちこれを撃沈したのですが、その後、わが戰艦は長時間の奮戰の後、つひに沈没したのです。/ その凄烈な奮戰ぶりがまるで眼に見えるやうで、私どもの感奮を促してやみません。/ これこそ、正しく敵にわが皮を切らせて、敵の肉を切り、わが肉を切らして骨を切らんとする眞劍勝負であり、決戰であつたのです。/ そしてまたガダルカナル島をめぐつて、彼我陸兵の死闘も執拗につゞけられてゐます。[145]
  23. ^ 比叡は救援艦(雪風時雨白露夕暮照月)と共に戦場からの離脱に努力した[146]。日中になりB-17型重爆や、ヘンダーソン基地から飛来したエンタープライズ所属機の空襲により損傷が拡大[147]、自沈した[138]
  24. ^ デュボース少将は巡洋艦戦隊の指揮官となり、1944年(昭和19年)8月初旬にはスカベンジャー作戦の一貫として駆逐艦を撃沈し、レイテ沖海戦では小沢機動部隊を追い詰めて空母千代田と駆逐艦初月を撃沈した[148]。この作戦のあとデュボース少将は陸上勤務にまわり、モートン・デヨ少将が後を引き継いだ。
  25. ^ 7月26日夕刻の衝突事故により損傷した駆逐艦若葉が帰投し、初霜が補給部隊にまわって3隻(海防艦国後、駆逐艦初霜、タンカー日本丸)となった[156]。撤収部隊は第五艦隊司令長官の軽巡多摩、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が指揮する軽巡2隻(阿武隈木曾)、第10駆逐隊司令指揮の収容隊(夕雲風雲秋雲朝雲薄雲)、第一警戒隊(島風五月雨)、第二警戒隊(長波)となった[157][158]
  26. ^ 戦列部隊(戦艦ミシシッピウェイラー少将旗艦〉、メリーランドウェストバージニアペンシルベニアテネシーカリフォルニア、駆逐艦オーリックコニーシガニークラックストンソーンウェルズ)、左側面部隊(重巡ルイビル〈オルデンドルフ少将旗艦〉、ポートランドミネアポリス、軽巡デンバーコロンビア、駆逐艦ニューコムルースベニオンヘイウッド・L・エドワーズリチャード・P・リアリーロビンソンアルバート・W・グラントブライアントハルフォード)、ほかに近接掩護の第77任務部隊第3群〈右側面部隊(豪州重巡シュロップシャー、軽巡フェニックス〔バーケイ少将旗艦〕、ボイシ、駆逐艦6〉、特殊攻撃群〈駆逐艦7隻)がある[162]
  27. ^ アメリカ側の戦艦6隻と巡洋艦多数が砲撃を開始したとき、米軍前衛駆逐艦の雷撃により戦艦扶桑と駆逐艦2隻(満潮山雲)が沈没、駆逐艦朝雲が艦首を吹き飛ばされていたので[166]、西村艦隊で戦闘可能なのは戦艦山城、航空巡洋艦最上、駆逐艦時雨だけになっていた[167]
  28. ^ しぶとい重巡最上ミンダナオ海で護衛空母から発進したTBF アベンジャーの雷撃で航行不能となり、志摩艦隊(第五艦隊)の駆逐艦によって雷撃処分された[172]

脚注編集

  1. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 113(原本208-20頁)一等巡洋艦 ポートランド
  2. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 374-375開戦時の海上兵力配備
  3. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 92-94開戦後の米太平洋艦隊の動静
  4. ^ a b 戦史叢書10 1967, pp. 393-394.
  5. ^ バーガー、PEARL HARBOR 1984, pp. 178-181航空主兵戦略の勝利
  6. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 101-102米空母機動部隊の作戦
  7. ^ ニミッツ 1962, p. 41.
  8. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 111-112サラトガを雷撃
  9. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 235-237連合軍側の作戦
  10. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 61珊瑚海海戦概況図(昭和17年5月7~8日)
  11. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 247-249珊瑚海海戦
  12. ^ 空母ヨークタウン 1984, pp. 101-102.
  13. ^ ニミッツ 1962, p. 53.
  14. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 307-310敵空母攻撃
  15. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 269-271連合軍の作戦
  16. ^ 日本空母戦史 1977, p. 236a珊瑚海海戦。日本機攻撃時における米陣形図(昭和17年5月8日朝11時18分)
  17. ^ a b ニミッツ 1962, pp. 54-55.
  18. ^ 日本空母戦史 1977, p. 238.
  19. ^ ニミッツ 1962, pp. 56-59五月八日の戦闘
  20. ^ 日本空母戦史 1977, p. 239.
  21. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 320-323レキシントンの沈没と米機動部隊の引き揚げ
  22. ^ 戦史叢書43 1971, p. 390空母部隊邀撃配備につく
  23. ^ 日本空母戦史 1977, p. 286.
  24. ^ ロード、逆転 1969, p. 40.
  25. ^ ニミッツ 1962, pp. 69-70.
  26. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 163.
  27. ^ 戦史叢書43 1971, p. 336.
  28. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 347-354二 「飛龍」の第一次強襲成功
  29. ^ 日本空母戦史 1977, p. 285.
  30. ^ a b 日本空母戦史 1977, p. 287.
  31. ^ a b 戦史叢書43 1971, pp. 436-437わが見事な攻撃
  32. ^ 戦史叢書43 1971, p. 353.
  33. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 201.
  34. ^ ニミッツ 1962, pp. 86a-87「ヨークタウン」攻撃を受く(六月四日)
  35. ^ ロード、逆転 1969, p. 186.
  36. ^ a b 空母ヨークタウン 1984, pp. 219-221.
  37. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 401-403ヨークタウンの被爆
  38. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 355-362二次攻撃、さらに敵空母一隻撃破
  39. ^ 日本空母戦史 1977, p. 288.
  40. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 223.
  41. ^ ニミッツ 1962, p. 87.
  42. ^ ロード、逆転 1969, p. 182.
  43. ^ a b 日本空母戦史 1977, p. 290.
  44. ^ 戦史叢書43 1971, p. 360.
  45. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 403-404ヨークタウン雷撃を受け総員退去
  46. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 237.
  47. ^ 日本空母戦史 1977, p. 291.
  48. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 249.
  49. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 253.
  50. ^ ニミッツ 1962, pp. 98-99「ヨークタウン」の最後(六月七日)
  51. ^ ニミッツ 1962, p. 359.
  52. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 150-153ヨークタウンの撃沈
  53. ^ 日本空母戦史 1977, p. 298.
  54. ^ ニミッツ 1962, pp. 100-101ミッドウェー/むすび
  55. ^ a b c 日本空母戦史 1977, p. 327.
  56. ^ 日本空母戦史 1977, p. 318.
  57. ^ ニミッツ 1962, pp. 110-111.
  58. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 435-438連合軍の作戦準備
  59. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 307付録(II)サボ島沖海戦時におけるフレッチャー機動部隊の勢力
  60. ^ サボ島沖海戦 1988, pp. 89-90.
  61. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 474-476ガダルカナル泊地における連合軍の配備
  62. ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 562-563連合軍の作戦
  63. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 137東ソロモン海戦(日本側呼称、第2次ソロモン海戦)
  64. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 102.
  65. ^ a b ニミッツ 1962, pp. 121-122.
  66. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, pp. 135-136.
  67. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 142.
  68. ^ 日本空母戦史 1977, p. 326.
  69. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 104-106.
  70. ^ 戦史叢書83 1975, p. 68.
  71. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 103.
  72. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 113-114.
  73. ^ 日本空母戦史 1977, p. 331.
  74. ^ a b 日本空母戦史 1977, pp. 332-334.
  75. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, pp. 140-142.
  76. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 580-582米機動部隊の作戦
  77. ^ 日本空母戦史 1977, p. 339.
  78. ^ 日本空母戦史 1977, p. 366.
  79. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 184a-185米巡洋艦に撃沈された海形丸、久榮丸
  80. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 296-298浮島丸、米巡洋艦に襲わる(十月)
  81. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 183a-184来襲した米巡洋艦を逸す
  82. ^ 戦史叢書62 1973, p. 183b.
  83. ^ 変わりダネ軍艦奮闘記 2017, pp. 31-33武蔵と思いきや敵巡!
  84. ^ a b c #S1710(下)経過概要 p.3(昭和17年10月)〔 15|1130頃/1330頃|「ヒューストン」型C1×1「ギルバート」群島ノ「タラワ」南方ニ出現一一四〇ヨリ約三十分間近距離ニ接近陸上並ニ碇泊艦砲撃 艦載(航空機)×2ニテ碇泊艦銃爆撃 視界内ニテ(航空機)ヲ揚収後高速ニテ南方ニ避退/マーシャル方面(航空機)部隊ハ直ニ(航空機)攻撃ヲ準備セルモ日没時刻ノ関係上遂ニ攻撃ノ機ヲ逸ス|南洋|ac浮島丸(4730t)及T日立丸(6540t)及夕凪碇泊中夕凪ハ主砲ヲ以テ応戰ス ac及Tニ数名ノ負傷者アリ陸上被害ナシ 「ソロモン」作戰ノ牽制ト認メラル 同方面部隊ハ更ニ警戒ヲ嚴ニシアリ 〕
  85. ^ #S17.04二海護(3) p.10(昭和17年10月)〔 参考(一)麾下艦船部隊ノ行動 〕、同部隊戦時日誌 pp.22-23(経過概要、10月15日~16日参照)
  86. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  87. ^ a b 日本軽巡戦史 1989, p. 297.
  88. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 184b.
  89. ^ 谷浦英男 2000, pp. 220-222.
  90. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 185.
  91. ^ ニミッツ 1962, pp. 130-133.
  92. ^ 日本空母戦史 1977, p. 370.
  93. ^ 戦艦ワシントン 1988, p. 122.
  94. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 274-275二 連合軍側の兵力
  95. ^ 日本空母戦史 1977, p. 376.
  96. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 290-292一航戦第二次攻撃
  97. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 291.
  98. ^ 戦史叢書83 1975, p. 292.
  99. ^ ニミッツ 1962, p. 362.
  100. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 199-202南太平洋海戦における潜水艦作戦
  101. ^ #S1710(下)経過概要 p.21(昭和17年10月)〔 27|0338|イ21ハ敵B×1(コロラド型)ヲ襲撃レンネル島S180′|南東|魚雷一本命中 イ21(3Sg 8Ss/6F) 〕
  102. ^ 戦史叢書98 1979, p. 202.
  103. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 293-294,297-300.
  104. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 304-305ホーネット撃沈
  105. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 310-311戦果の判定
  106. ^ 戦艦ワシントン 1988, p. 128.
  107. ^ 死闘ガダルカナル(歴群06) 1995, pp. 30-31第3次ソロモン海戦バトル・オーダー 11月12日~13日"第1夜戦"
  108. ^ ニミッツ 1962, p. 134.
  109. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 362-365連合軍の状況
  110. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, pp. 252-254.
  111. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 335-336三 基地航空部隊の作戦(十一月中旬まで)/ガ島及びニューギニア方面の作戦
  112. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 124.
  113. ^ 戦史叢書83 1975, p. 336.
  114. ^ 戦史叢書98 1979, p. 203.
  115. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 359-360挺身攻撃隊の進撃
  116. ^ #十一戦隊日誌(5) pp.4-5〔 (イ)軍隊区分各隊ノ主要任務 〕
  117. ^ 戦史叢書83 1975, p. 356.
  118. ^ 死闘ガダルカナル(歴群06) 1995, p. 136表1 第3次ソロモン海戦ガ島砲撃隊の編成
  119. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 125.
  120. ^ ニミッツ 1962, p. 136.
  121. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 364-365.
  122. ^ 死闘ガダルカナル(歴群06) 1995, pp. 80-81ゼロ距離射撃の応酬
  123. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 254.
  124. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 257ガダルカナル海戦第1段階(日本側呼称、第3次ソロモン海戦)1942年11月13日
  125. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 127.
  126. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 126.
  127. ^ a b #S1711(上)経過概要 pp.31-33(第三次ソロモン海戦経過概要)
  128. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 255.
  129. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 138.
  130. ^ バラード、悲劇の海 1994, p. 140.
  131. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 366.
  132. ^ 戦艦ワシントン 1988, p. 143.
  133. ^ 死闘ガダルカナル(歴群06) 1995, p. 81第3次ソロモン海戦行動図(11月12日~13日)
  134. ^ ニミッツ 1962, p. 137.
  135. ^ 戦史叢書98 1979, p. 206.
  136. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 258.
  137. ^ #南方部隊作戦史料(第3次ソロモン海戦) p.2〔 敵味方不明駆逐艦四アル中一隻ハ味方駆逐艦ニシテ敵米甲巡之ヲ撃沈セリ 〕
  138. ^ a b 死闘ガダルカナル(歴群06) 1995, p. 82.
  139. ^ 戦史叢書83 1975, p. 371.
  140. ^ 五月雨出撃す 2010, pp. 145-147.
  141. ^ a b バラード、悲劇の海 1994, p. 142.
  142. ^ 戦艦ワシントン 1988, p. 145.
  143. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 372.
  144. ^ #十一戦隊日誌(5) p.14〔 〇四〇七ルンガ方向巨離二四粁ニ敵損傷巡洋艦(ホノルル型)一隻ヲ認メ後部主砲群ニ依リ射撃数斉射ニ依リ命中彈アリ之ヲ撃沈ス 〕
  145. ^ #週報第322号 pp.4-5
  146. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 374-375.
  147. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 261.
  148. ^ Leyte 1971, pp. 178-179.
  149. ^ 戦史叢書29 1967, pp. 669-670.
  150. ^ a b 戦史叢書29 1967, p. 671.
  151. ^ 戦史叢書29 1967, p. 672.
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参考文献編集

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関連項目編集

外部リンク編集