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マイケル・ジャクソン

米国の総合芸術家

マイケル・ジョセフ・ジャクソンMichael Joseph Jackson1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国出身の総合芸術家歌手作曲家舞踏家平和活動家など、その活動は多岐にわたる。

マイケル・ジャクソン
Michael Jackson
Michael Jackson in 1988.jpg
基本情報
出生名 Michael Joseph Jackson
別名 Joe Jackson
生誕 1958年8月29日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 インディアナ州ゲーリー
死没 (2009-06-25) 2009年6月25日(50歳没)
ジャンル アダルト・コンテンポラリー
ソウル
ポップ
ダンス・ポップ
ディスコ
ニュージャックスウィング
AOR
ロック
R&B
ダンス・ミュージック
職業 音楽家
シンガーソングライター
音楽プロデューサー
ダンサー
振付師
実業家
俳優
ビートボクサー
パントマイマー
担当楽器 ボーカル
活動期間 1967年 - 2009年
レーベル スティールタウン・レコード
モータウン・レコード
エピック・レコード
ソニー・レコード
MJJプロダクション
共同作業者 ジャクソン5
ポール・マッカートニー
テディ・ライリー
公式サイト The Official Michael Jackson Site
SonyMusic

音楽作品の全世界での販売総数は3億枚[1][2]から3億5,000万枚以上とされている[3][4]史上最も売れた音楽家の一人として名を連ねており、「キング・オブ・ポップ[5]」と称されている。

グラミー賞受賞を13回(ノミネートは38回)果たしている[6]

略歴編集

ジャクソン5・ジャクソンズ編集

 
1971年ジャクソン5時代。(中央)

1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーアフリカ系アメリカ人街の家庭に六男として生まれる。

ジョセフはクレーン操縦士、母キャサリンはデパートのパートタイム従業員として家計を支えていた。ジョセフは当時彼の実弟が始めたバンド「ファルコンズ」の一員として音楽活動もしており、音楽家として成功する夢を抱いていた。音楽好きな両親の影響で、マイケルは他の兄弟と共に音楽と接する機会の多い環境で育った。

マイケルの兄ジャッキーティトジャーメインはよく父のギターを隠れて演奏していたが、ある日、ティトが弦を一本切ってしまう。張り替える間もなくジョセフに見つかってしまい、いつものようにジョセフは体罰を振るおうとするが、ティトは「僕にだって弾けるんだ」と抵抗を示し必死に演奏してみせたという。これを見てなかなかの上手さに気づいたジョセフは、自身の音楽経験を生かして子どもたちに音楽を教えることを決意する[7]

こうして三人は音楽グループとしての活動を始め、リーダーであったジャーメインを筆頭に、地元での人気を獲得していった。

1963年、兄弟のグループに加入。キャサリンがジョセフに「この子は歌えるのよ」と助言したことがきっかけであったという。

この頃からグループは「ジャクソン5」と名乗るようになった[8]

1967年には、ニューヨークアポロ・シアターへの進出を果たす。マイケルはそこでジェームス・ブラウンジャッキー・ウィルソンのパフォーマンスを見て学んだという。

1968年1月、スティールタウン・レコードからシングル『Big Boy』でデビュー。

この頃、ライブの前座でボビー・テイラーに出会う。ジャクソン5の素質を見出したボビーは、モータウン・レコードと契約させるべくジャクソン・ファミリーを無理矢理デトロイトに連れていく。それが功を奏し、同年7月にモータウンとの契約に成功する[9]

1969年10月、シングル『帰ってほしいの[10]でメジャーデビューし、全米チャート1位を獲得。可愛らしさ溢れるマイケルの歌声や、ベリー・ゴーディ・ジュニア率いるプロデューサー群による秀逸な楽曲群に加え、ダイアナ・ロスが発掘したという架空の設定も話題となり、グループは全米で人気を博すようになる。

1970年2月、シングル2作目の『ABC』がビートルズの『レット・イット・ビー』に代わり再び1位を獲得。その後、続く『小さな経験』と『アイル・ビー・ゼア』もチャートを制し、デビューから4曲連続で全米チャート1位を獲得するという偉業を成し遂げた。

1971年10月、シングル『ガット・トゥ・ビー・ゼア』[11]でソロデビュー。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年7月発表のシングル『ベン』は、ソロでは初となる全米チャート1位を獲得した。

しかしこの頃から次第に、ジャクソン5とモータウンの方向性の違いが少しずつ露呈し始める。同じモータウン所属のマーヴィン・ゲイスティーヴィー・ワンダーが自身で作詞作曲からプロデュースまで手掛ける中、いつまでもアイドル路線を続けさせられている状況にメンバーやジョセフは強い不満を示すようになった。しかしモータウンは一貫して彼らに曲の自作を許可することはなく、その軋轢は次第に大きくなっていく。再び全米1位に輝いた74年の『ダンシング・マシーン』の成功を除いては、無理矢理なアイドル路線による人気低迷が否めず、彼らは移籍を決意することとなった。

1975年エピック・レコードに移籍。移籍後は「ジャクソン5」の名前の使用継続が認められなかったため、グループは「ジャクソンズ」として装い新たに再出発することとなった。

ジャクソンズは1976年にアルバム『ザ・ジャクソンズ・ファースト〜僕はゴキゲン』をもって正式にデビューを飾るが、活動初期はモータウン時代同様自主プロデュースをすることが許されず、2作目『ゴーイン・プレイシズ〜青春のハイウェイ』まではギャンブル&ハフをプロデューサーに迎えて制作された。マイケルはこのことに再び強い不満を抱いており、特に2作目については「オージェイズの古い曲"Love Train"みたいで、必ずしも僕達のスタイルじゃない」「アイデンティティを失いつつあった」と当時の幻滅ぶりを明らかにしている。

初めてメンバーがプロデュースに関わったのは3作目の『デスティニー〜今夜はブギー・ナイト』で、このアルバムはR&Bチャートで3位を獲得するなど、前2作を大きく上回るヒットを記録した。マイケルとランディの作詞作曲によるカットシングル『シェイク・ユア・ボディ』も、全米チャートで7位まで上昇した。

同じく自主プロデュースの4作目『トライアンフ』も全米チャートトップ10入りを果たすなどヒットを記録し、批評家からも高い評価を受けた。特にマイケル自身のペンによる収録曲『キャン・ユー・フィール・イット』について、アンディ・ケルマンが「この曲の超自然的でスケールの大きなリズムは、単なるシングル曲という小さなスケールに収まらず、むしろ花火の演目のフィナーレ的だ」と絶賛するなど、ここにきてようやく作曲家やプロデューサーとしての彼らの力量が認められるようになった。

1978年ミュージカル映画ウィズ』でダイアナ・ロスと共演。この映画の制作現場で、その後3枚のアルバムを共に制作しマイケルの音楽人生を変えることになる音楽家、クインシー・ジョーンズと出会う。

同年、映画のサウンドトラックからのカットシングル『ユー・キャント・ウィン』でエピックからソロデビュー。

Off The Wall編集

1979年6月、移籍後初のソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』を発表。

家族やレーベルの反対を押し切ってそのままクインシーをプロデューサーとして迎え制作された本作は、70年代ディスコ・ブームとブラック・ミュージックの集大成ともいえる内容に仕上がり、全米で800万枚を売り上げるなど大ヒットを記録。批評家からも高い評価を受けた。

また本作は、ソロでは初の自作曲となる先行シングル『今夜はドント・ストップ』をはじめ、『ロック・ウィズ・ユー』『オフ・ザ・ウォール』『あの娘が消えた』の合計4シングルが全米チャートトップ10に入るという史上初の偉業を成し遂げた[12]

1981年3月、モータウンでの最後のアルバム『フォーエバー・マイケル』を発表。アルバムからは『想い出の一日』がシングルカットされ、『オフ・ザ・ウォール』との相乗効果もあり全英1位を記録した。

1982年7月、映画『E.T.』に「Someone In The Dark」を提供。ストーリーブックのナレーションにも参加し、2年後にグラミー賞を受賞した。

Thriller編集

1982年12月、移籍後から2作目のソロ・アルバムとなる『スリラー』を発表。先行シングルとしてポール・マッカートニーとのデュエット曲『ガール・イズ・マイン』がカットされた。

再びクインシーがプロデュースを担当した本作は、現在に至るまで少なくとも6500万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されている[13]。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられた。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇する。

本作の発表では付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなった。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」のミュージック・ビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなった。エディ・ヴァン・ヘイレンを奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」のミュージック・ビデオでは、ロスの本物のマフィアとの共演が実現し、集団でダンスを披露した。そして何より世界に衝撃を与えた「スリラー」のミュージック・ビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショート・フィルムとして制作され、その後現在に至るまでミュージック・ビデオの最高傑作として名を残している(2010年にその映像的価値が認められ、ミュージック・ビデオとしては唯一、アメリカ議会図書館に永久保存されることとなった[14])。

1983年5月、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで『ビリー・ジーン』を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露した[15]

同年10月、シングル『セイ・セイ・セイ』を英パーロフォンから発売。ポール・マッカトニーとのデュエットが再び実現したこの曲は、全米チャートで1位を獲得し、マイケルのキャリアでは『ビリー・ジーン』に次ぐ2番目の大ヒットとなった。この曲のミュージック・ビデオは後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタ・バーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演した。

1984年1月、ペプシのCM撮影において、事故で頭部に火傷を負う。和解金によってペプシとの関係悪化は避けられたものの、頭部の皮膚の深くにまで至る傷を残したこの事故は、後にマイケルが整形手術の繰り返しや鎮痛剤中毒に陥ってしまうきっかけとなり、その後の人生を大きく狂わせた。なお、事故で受け取った和解金はマイケルがすべて病院に寄付した。

同年7月、5枚目となるジャクソンズのアルバム『ヴィクトリー』を発表。『スリラー』のヒットも影響して本作は成功を収め、全米チャートでは最高4位を記録した。アルバムの発売に際して最後のコンサート・ツアー『ヴィクトリー・ツアー』も行われた。

同年末、ツアー終了を機にマイケルはジャクソンズを脱退した。

1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USA・フォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーのペンによる楽曲『ウィ・アー・ザ・ワールド』は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表するスター45人が集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げた(その全額が寄付された)。

1986年9月、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では『ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド』と『アナザー・パート・オブ・ミー』がオリジナル曲として披露された(後者は次のアルバム『BAD』に収録)。

BAD編集

1987年8月、クインシーとの最後の作品となるアルバム『BAD』を発表。シンセサイザーの多用が生んだより先鋭的なサウンドに加え、『マン・イン・ザ・ミラー』に代表される世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が本作の大きな特徴となった。また、表題曲の発売に際しては、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話を基にしたマーティン・スコセッシ監督による18分の大作ショート・フィルムが付けられ、前回の『スリラー』に続いてミュージック・ビデオにおける革新性を再び示した。

同年9月、ソロ初のワールド・ツアー『バッド・ワールド・ツアー』を開始し、初演の地には日本が選ばれた。横浜公演が日本テレビで放映され、日本では「マイケル旋風」と呼ばれる大きなマイケルブームが巻き起こった。最終的に同ツアーは1989年初頭まで続けられ、4つのギネス記録を打ち立てることになる。

最終的に本作の売上は多く見積もって3000万枚に達したとされており、売上では前作『スリラー』は超えなかったものの、先行シングル『キャント・ストップ・ラヴィング・ユー』から5曲連続で全米チャート1位を獲得するという初めての快挙を成し遂げた。

1988年1月、自伝『ムーンウォーク』を発表。

同年5月、推定3800万ドルで建設した豪邸「ネバーランド」に引っ越す。

10月、マイケルが主演及び原案製作総指揮を務めた映画『ムーンウォーカー』が公開。劇中では『スムーズ・クリミナル』や『リーヴ・ミー・アローン』などの楽曲が披露された。

1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制する。この時エリザベス・テイラーがマイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは現在に至るまで「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるようになる。

1990年、アーケードゲーム『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』が発表される。

Dangerous編集

1991年11月、4年ぶりとなる新作アルバム『デンジャラス』を発表。3作品を続けて手掛けてきたクインシーに代わってニュー・ジャック・スウィングの先駆者であるテディ・ライリーをプロデューサーに迎えた本作では、これまで以上にソリッドなサウンドを目指して新境地に挑戦した。

本作の売上は前作『BAD』を上回り、前作同様多くのシングルヒットが生まれた。特に先行シングル『ブラック・オア・ホワイト』は、人種の壁を乗り越えようというその歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国のチャートで1位を獲得した。マコーレ・カルキンと共演したショート・フィルムも話題となり、劇中の演出ではモーフィングと呼ばれる映像技術が使用された。

1992年6月、2度目のワールド・ツアー『デンジャラス・ワールド・ツアー』を開始。収益金は全てヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。

同年7月、シングル『ジャム』のショート・フィルムにて、NBAの選手でマイケル同様「MJ」のイニシャルを持つマイケル・ジョーダンと共演[15]

1993年1月、スーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。当時低迷していた「スーパーボウル」の視聴率が[16]マイケルの出演によって大きく改善したため、以降は有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となった[17]

同年2月、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演。インタビューではさまざまな疑惑に答え、尋常性白斑に罹患していることを初めて明かした。

8月、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされる。これにより11月、開催中であった『デンジャラス・ワールド・ツアー』の中止を余儀なくされた。裁判ではジョーダンの父イヴァンの異常性が明らかとなり、またジョーダンの証言にも多数の矛盾が発覚する。ところが、裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケルは和解金を支払うことを選択した。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまった。

1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。

HIStory編集

1995年6月、2枚組アルバム『ヒストリー:パスト、プレゼント・アンド・フューチャー:ブック1』を発表。1枚目が『HIStory Begins』と銘打たれたベスト盤、2枚目が『HIStory Continues』と呼ばれる未発表曲集という特異な構造を持つ本作では、全米に蔓延る社会問題の数々や、また93年の訴訟以降より強まることとなった世間からのバッシングに対するマイケルの怒りや悲愴が、これまでにないほど鮮烈に表現された。

先行シングルとしては妹ジャネットとのデュエット『スクリーム』がカットされ、そのショート・フィルムは「史上最も費用の使われたミュージック・ビデオ」としてギネス世界記録に認定された。同年8月にシングルカットされた『ユー・アー・ノット・アローン』は、全米チャートで初登場1位を記録するという前人未到の快挙を成し遂げ、こちらもやはりギネス世界記録に認定された。環境問題を扱った10月発表のシングル『アース・ソング』は、アメリカでは受け入れられなかったにもかかわらず、イギリスでは自身最大のヒット曲となった。

1996年1月、リサと離婚。

同年9月、3度目のワールド・ツアー『ヒストリー・ワールド・ツアー』を開始。

10月、主演・製作総指揮・脚本を務めた短編映画『マイケル・ジャクソン 「ゴースト」』を公開。劇中では表題曲や『イズ・イット・スケアリー』などの新曲が披露された。映画はカンヌ国際映画祭にて上映された。

11月、デビー・ロウと結婚。

1997年5月、ジャクソン5としてロックの殿堂入りを果たす[15]

同月、リミックス盤ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア:ヒストリー・イン・ザ・ミックス』を発表。前作『ヒストリー』収録曲のリミックス集に、新たな未発表曲が5曲加えられた形で発売された。殆どプロモーションは行われなかったにもかかわらず、リミックス盤としては史上最高となる600万枚の売上を記録した。

1999年6月、有志の友人たちと共にチャリティ・コンサート「マイケル・ジャクソン & フレンズ」を開催。収益金は赤十字社ユネスコネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。

同月、デビー・ロウと離婚。

2001年3月、史上最年少でロックの殿堂入りを果たす。

同年9月、マイケル・ジャクソン 30周年記念ソロ・イヤーズを開催。ジャクソン5の再結成が行われたほか、次のアルバムの先行シングルである『ユー・ロック・マイ・ワールド』も披露された。

Invincible編集

10月、生前最後のスタジオ盤となる『インヴィンシブルを発表。本作の制作においては、ロドニー・ジャーキンスをはじめとした若手プロデューサーの起用で時流に乗りつつも、自身の声を主体としたバラードに大きな精力が注がれた。同時にエピック移籍以降のソロ4作品のデジタルリマスター盤も発売された。

一方この頃から、ソニー戦争と呼ばれるマイケルとソニーとの確執が表面化するようになる。

同月、アメリカ同時多発テロの被災者支援のため、ワシントンD.C.RFKスタジアムでチャリティコンサートを行う。新曲『ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ』も披露され、約300万ドルの収益を集めた。

2002年4月、民主党全国委員会によるパーティーにて、『ヒール・ザ・ワールド』を含む3曲を披露。このコンサートが彼が踊った最後のコンサートとなった。

晩年編集

 
ラスベガスにてファンとともに(2003年

2003年11月、ベスト盤『ナンバー・ワンズ』を発売。先行シングルとして『ワン・モア・チャンス』がカットされた。

同年11月、ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑が浮上。93年の訴訟とは違って今回は刑事裁判にかけられ、マイケル・ジャクソン裁判として全世界の注目を受けることとなる。

2004年11月、ボックスセット『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』を発表。往年の代表曲に数々の未発表音源を織り混ぜたCD4枚と、92年のブカレスト公演の模様を映したDVD1枚が収録された。

2005年6月、裁判のすべての起訴事実に関して無罪が言い渡される。

7月、ライブDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』を発売。なお、内容は『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』に収録されたものと同じもの。

2006年5月、訪日。無罪判決後初めて公の場に姿を表す。MTVジャパンのレジェンド・オブ・ミュージック・アワードを受賞した。

2008年2月、企画盤『スリラー25周年記念盤』を発売。『スリラー』収録曲の最新リミックスが収められ、そこでエイコンファーギーなどと共演した。

同年8月、最後となるベスト盤『キング・オブ・ポップ』を発売。このアルバムはマイケルの生誕50周年を記念して企画され、インターネット上で行われた投票で各国独自に収録曲が決められた。完全生産限定盤として発売され、全ての国のバージョンにボーナス・トラックとして『スリラー・メガミックス』が収録された。

2009年3月、ロンドンにて記者会見を開き、O2アリーナで最後のツアー『THIS IS IT』を行うと発表。チケットが売り出されると4時間で50公演分が完売した。

死後編集

 
Googleにおける2009年6月25日の「Michael Jackson」のアクセス数の推移。左の矢印はマイケル死亡が確認された14時26分、右は死亡が報道された14時44分

2009年6月25日、自宅にて心肺停止状態に至り死亡。主治医のコンラッド・マーレーは過失致死罪の有罪判決を受けている。

同年10月、予定されていたO2アリーナでの公演のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画マイケル・ジャクソン THIS IS IT』が公開。翌年発売されたBlu-rayは日本のオリコンにおいては歴代4位の売上を記録している[18][注 1]

同年、Googleの検索ワードランキングで1位になった[19]

2010年6月25日、一周忌であるこの日にドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔』が公開[20]

同年12月、死後初のスタジオ盤『MICHAEL』が発表。本作は、『スリラー』制作段階で収録候補となっていたイエロー・マジック・オーケストラの『ビハインド・ザ・マスク』のカバー[21]をはじめ、生前に録音された10の未発表音源が集められた作品として注目を集めた。しかしプロモーションの時点から、一部の収録曲の歌唱に関して「マイケルによるものではないのではないか」という疑惑がプレスや家族からかけられることとなる。ソニーは一貫してその疑惑を否定してきたものの、2018年8月にようやく「『モンスター』『ブレイキング・ニュース』『キープ・ユア・ヘッド・アップ』の3曲が他の歌手によって歌われたものである」と正式に認めたことが報じられた。

2011年1月、ドキュメンタリー映画マイケル・ジャクソン ライフ・オブ・アイコン 想い出をあつめて[22]が公開。ホイットニー・ヒューストンなど生前の友人やマネージャー、アーティストたちがマイケルとの想い出を語っている。

11月、リミックス盤イモータル』が発売[23]シルク・ドゥ・ソレイユによる同名のトリビュート・ツアーのサウンドトラック盤として発売された。

2012年9月、『BAD 25周年記念盤』が発売[24]。2012年版リマスターの施されたオリジナル盤の他、同時期に録音された未発表音源、最新リミックス、及び1988年のロンドン公演の模様を収めたDVD『ライヴ・アット・ウェンブリー』を同梱している[25]。記念盤の発売に合わせて、スパイク・リー監督によるドキュメンタリー映画『BAD25』も公開された[26]

2014年5月、生前の未発表曲を集めたアルバム第2弾となる『エスケイプ』が発表[27]ビルボード・ミュージック・アワードでは『スレイヴ・トゥ・ザ・リズム』のホログラム・パフォーマンスが話題を呼んだ[28]。8月、『プレイス・ウィズ・ノーネーム』がシングルカットされ、ショート・フィルムTwitterで先行公開された[29]

同年11月、クイーンのコンピレーション盤『クイーン・フォーエバー』にフレディ・マーキュリーとのデュエット曲『生命の証』を収録[30]

2019年3月3日、記事にて純資産が約5億ドルとなったと報道[31]

パフォーマンス編集

歌唱法編集

4オクターブもの音域を持つといわれるマイケル・ジャクソンは、その独特な歌声で人気を博してきた。

ジャクソン5時代から『オフ・ザ・ウォール』の頃までは声のよく通るソウルフルな歌唱法が見られるが、『スリラー』以後はよりポップやロック色を強めていった傾向がある。

基本的にマイケルの声は年を重ねるごとに深みを増していったが、彼はキャリアを通じて歌唱力を維持するための努力を欠かさなかった(ウィル・アイ・アムによると、マイケルは5秒のパートをレコーディングするのに1時間のウォーミングアップを要し、広い声域を守る為普段から高音で話していたという[32])。2001年発表の楽曲『2000ワッツ』ではデジタル処理で声を加工したのではないか(実際は加工されていない[32])と囁かれたほど低い声で歌っていた一方で、同じアルバムに収録された『バタフライズ』では驚くほど柔らかなファルセットを披露するなど、その多彩なボーカルレンジは晩年まで健在であった。

ボイス・パーカッションも得意としており、曲を思いついた時にはまずそれをテープレコーダーに録音していたという。マイケルは1992年のオプラ・ウィンフリー・ショーにて『フー・イズ・イット』をボイスパーカッションのみで披露しているほか、1995年発表の『タブロイド・ジャンキー』では曲の基本ビートとしてボイスパーカッションを導入している。

ダンス編集

『ビリー・ジーン』のパフォーマンスで必ず披露される「ムーンウォーク」をはじめ、爪先立ち、スピン、足で蹴る動きなど、マイケル・ジャクソンのダンスはフレッド・アステアなどに強い影響を受けており、キャリアを通じて彼を象徴する代名詞となっていった。

スムーズ・クリミナル』の振付に登場する、体全体を斜め45度に傾くパフォーマンスは「無重力傾斜(アンチ・グラヴィティ・リーン)」と呼ばれ、それを行うのに必要な特殊な靴の開発において特許を取得している[33]

パントマイマーとしても知られる。「パントマイムの神様」と称されるマルセル・マルソーは「マイケルは生まれながらのパントマイム・アーティストだ」と語っていたという[34]

ファッション編集

1986年の『キャプテンEO』以降、マイケルの衣装はマイケル・ブッシュとデニス・トンプキンスが担当している。ブッシュによると、マイケルは衣装が会場の最後尾の観客にも見えるよう考慮したため、衣装の多くはライトストーンで覆われたものにしていたという[35]ルーズソックスにもライトストーンが散りばめられていたが、ブッシュの高度な縫製技術を持ってしてもマイケルの激しいパフォーマンスには耐えられず、コンサート終盤にはライトストーンが落ちてしまう。そのためブッシュは夜通し修復を行っていたという。

ゼロ・グラヴィティ」の特許を開発したのもブッシュである。仕掛けが成功したとき、マイケルは感動の涙を流したという[36]

ディスコグラフィ編集

音楽以外にも、映画、アニメ、ゲーム、書籍などさまざまな作品の制作に関わっている。また、マイケルは『ブラック・オア・ホワイト』以降、自身のミュージック・ビデオを「ショート・フィルム(短編映画)」と呼んでいる。マイケルは自身の曲を脚本として捉え、その物語を伝える手段としてショート・フィルムを制作していた[15]

公演編集

ワールド・ツアー
タイトル 期間 公演回数 総観客
動員数
映像ソフト 備考
Bad World Tour 1987年9月12日

1989年1月27日
15か国
123公演
440万人 ライヴ・アット・ウェンブリー マイケル初のソロ・ツアー。
Dangerous World Tour 1992年6月27日

1993年11月11日
69公演 320万人 ライヴ・イン・ブカレスト 性的虐待疑惑等による心労により中断。
HIStory World Tour 1996年9月7日

1997年10月15日
35か国
82公演
450万人 未発売 DVD発売用に少なくとも、ミュンヘンの映像が専用機材で記録された。
その他
タイトル 期間 公演回数 総観客
動員数
映像ソフト 備考
Michael Jackson & Friends 1999年
7月25、27日
2か国
2公演
未発売 チャリティ・コンサート。
30th Anniversary Concert 2001年
9月7日、10日
アメリカ
2公演
未発売 マイケルのソロ活動30周年記念コンサート。
THIS IS IT 2009年7月13日

2010年3月6日
ロンドン
50公演
75万人 THIS IS IT
[注 2]
マイケル本人の急死により中止。

受賞・殿堂入り記録編集

350以上の賞を受賞している。またロックなどさまざまな分野で殿堂入りを果たしている。

人物・私生活編集

趣味編集

ゲーム好きとしても知られる。日本メーカーのゲームは特にお気に入りで、中でも熱烈と言っていいほどの「セガファン」であった。『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』では自らがゲームの題材になっているほか、『スペースチャンネル5』では開発者に直接出演を依頼したという[37]。自宅にはアーケードゲームのコレクションがあり日本のゲームも多数購入している[38]

また、彼が来日した際に、「ギャラクシーフォース」の大型筐体版をプレゼントされたという逸話がある[39]

アニメ好きでもある。『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』『新バビル二世』『赤い光弾ジリオン』は『スクリーム』のショート・フィルムで使用されている。

容姿編集

1979年にステージに鼻をぶつけて大怪我を負ったことがきっかけとなり、『オフ・ザ・ウォール』から『スリラー』の頃に初めて鼻の整形手術を施している。それ以降も整形手術を重ね、その容姿変化はマスメディアの格好のねたにされた。

なお、肌の色の変化は、死後の検死報告でも明らかにされた通り、尋常性白斑という病気に由来するものである。1984年にCMで大火傷を負ってしまったのも尋常性白斑の進行を早め、またそのときの治療が顔立ちに変化を与えたと言われている[40]

自宅編集

生まれ育った実家は家庭が貧しかったこともあり、一軒家に家族11人で住んでいた[41]

1988年に推定3,800万ドル[日本円 1]で建築したネバーランドは敷地面積が約2,700エーカー(1,092万平方キロメートル)に及び、遊園地、動物園、ゲームセンター、マンション、レコーディングスタジオなどが併設されており、敷地内を機関車が走っている。マイケルはこの豪邸を自分のためだけに使うのではなく、病気の子どもたちや貧しい子どもたちを招くなどチャリティにも使っていた。

しかし晩年のマイケルはバンク・オブ・アメリカから2億7,000万ドル以上の負債を抱えており、ネバーランドは抵当に入っていた。[42] 2005年5月、ディストレス債権がバンカメからフォートレス・インベストメント・グループへ売却され[43]、2008年5月、コロニー・キャピタルとマイケルの合弁会社シカモア・ヴァレー・ランチ・カンパニーに売却され[44]、2014年8月、コロニー・キャピタルによる売却が決定した[45]

マイケルが息を引き取ったロサンゼルスホーンビーヒルズの豪邸は、敷地面積1,545坪のフランスのシャトー風の造りになっている。7つの寝室とトイレが13室、ジム、試写室、スパ設備、試飲部屋つきのワインセラーを備えているほか、ガレージには7台の車を収容することができるという。マイケルは家賃10万ドル[日本円 2]で、子どもたちと一緒に住んでいた。マイケルの死後に2千数百万ドルで売りに出された。2012年には買い手がついた[46]

生前は他にも多数の豪邸を所持しており、死後5年が経った2014年現在もカリフォルニア州エンシノの豪邸はエステートが管理を続けている[45]

家族関係編集

ジョセフからは少年時代に虐待を受けていたことを明かしている。歌とダンスのレッスンは非常に厳しく、ベルトなどあるもの何でも使って叩かれたという。その様子を見た母キャサリンは「やめて!死んじゃうわ!殺しちゃうわ!」と泣き叫んでいたという。また虐待は身体のみに留まらず、「デカ鼻」などとも言われ続けた[47]

マイケルの性的志向には、ゲイ、バイセクシュアル、ストレートなど、さまざまな説が飛びかった。一人目の妻リサ・マリーとは2年足らずで離婚している。離婚理由についてリサ・マリーは「普通の結婚生活だった。セックスもしていた。しかし彼がある時点で、彼の血を吸い取るような人たちとドラッグか、または彼らか私かを選ばなくてはいけなくなり、彼は、私を遠ざけることを選んだ」と語っている[48]

2人目の妻、デビー・ロウは「セックスはまったくなかった」と証言している。子どもに対してはプライバシーを守ることに気を遣い、子どもの中でもパリスは父を大変慕っており、寝室の壁をマイケルのポスターで覆っているという[49]。異人種間結婚でも、ネグロイド的な容姿の特徴が一部は見られるはずだが、マイケルの子には、白人的な特徴しか見られない。この点に、多くの人々が疑問を感じているのは自然な現象である。

交友関係編集

多くの著名人との親交で知られる。

南アフリカ大統領ネルソン・マンデラとは家族のような仲だった。マイケルの訃報を聞いた彼は追悼のコメントを残している[50]

ダイアナ・ロスには中学生時代に告白したが振られている。そのときマイケルは「もう一生結婚なんてしない」とまで言ったが、結局は2度結婚している。失恋後も友人関係は保たれており、ダイアナはマイケルの遺児の後見人にも指名されている、とゴシップ・サイトは報じている[51]

1980年代初頭までは、イギリスの音楽家であるポール・マッカートニーやフレディ・マーキュリーとの親交もあった。アルバム『スリラー』の制作に合わせ、両者とのデュエット曲の制作も行われた(様々な事情でフレディと録音した楽曲『ステイト・オブ・ショック』は収録が見送られ、現在に至るまで公式には公開されていない)。

女優エリザベス・テイラーとは親友であった[52]

ゴシップ・事件編集

マイケルに関する噂話や事件の数は計り知れず、中には矛盾したものも多い(『声を高くするために睾丸を摘出している』という噂があるにもかかわらず[53]、「マイケルには隠し子がいる」という噂もある[54])。

こうしたマスコミの姿勢は一部の著名人から批判されている。「バーレーンで職探し」といった噂が流されたとき、レイモン・ベインは「読んだ内容90パーセントは信じないでください。大半は嘘ですから」と語っている。マドンナは追悼スピーチで「魔女狩りが始まったのです。マイケルについてのネガティブな噂が次から次に出てきました。彼の痛みを感じました。街を歩いていて世界中が敵になったように感じるのがどういうことなのか、私は知っています。リンチを行う群集の叫び声が大きすぎるために自分の声は届かないと悟り、どうすることも自己防衛もできないと感じるのがどういうことなのか、私は知っています。彼が家族やキャリアの再建に勤しむ中、世間は批判に徹しました」と語っている[55]

隠し子疑惑編集

マイケルには隠し子疑惑がある。2014年3月にはミキ・ハワードの息子で歌手のブラントン・ハワードがDNA型鑑定の結果、99.9パーセントの確率でマイケルの隠し子であるとの報道がなされた。ブラントンはFacebookにて「自分は訴えを起こすつもりはない。お金には困っていない。DNA検査を受けたのは事実だが、そういった目的で受けたわけではない」とコメントしている[54]。またブラントンが産まれた時期などから、マイケルのヒット曲『ビリー・ジーン』はミキ・ハワードのことを歌ったものではないかという噂もあるが[54]、マイケル本人は生前「実在する誰のことでもない」としている。なお、ミキ・ハワードとマイケルが交際しているとの報道は、過去にされていない。

偏見報道編集

変化を続けるマイケルの外観に関して、マスメディアは「白人になりたくて肌を脱色し、整形を繰り返した」という相次いで報道した。しかし実際には、肌の変色は尋常性白斑という遺伝性の疾患によるものであり、死後の検死報告において正式に証明されている[56]

2005年マイケル・ジャクソン裁判に関する報道について、作家・ジャーナリストのアフロダイテ・ジョーンズは「当時のメディアはマイケルを標的にし彼の破滅を企てていた、メディア関係者の中には、検察側の主張に合わせて報道を歪めるような不公平な偏向報道をしていた者もいた。自らも以前はTV視聴者にマイケルが有罪と思い込ませるようなコメントをしていた。2200ものメディア関係者が裁判を取材したが、自らの偏向報道を認めた者はほんの少ししかいない」ということを自著『マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか?』の序文で告白している。正式な裁判記録に基づいて綴られたこの著書は、マイケル側に立った本ということで当時は出版してくれる出版社が見つからず、自費出版に至ったという。マイケルの弁護を担当したトーマス・メゼロウ弁護士も「メディアはマイケルが有罪になることを望んでいた。有罪になり刑務所に入りでもすれば、世界的に有名なスターの栄光と堕落ということで映画・TV・書籍などのあらゆる媒体でネタにでき、そうなれば何十億ドルにもなる莫大な収益が見込めたからだ」という内容の序文を寄せている。また同事件についてFBIも捜査しているが、FBIはマイケルが有罪であるという証拠を一切発見できず、無実だったと結論づけている[57]。ジャーナリストのチャールズ・トムソンは、マイケル・ジャクソン裁判に関する偏向報道の概要を裁判記録と当時の実際の報道とを比較して次のように指摘した[58]

「裁判記録を見てみると、裁判の実態は、検察側の証人や証言に信憑性がないことが弁護側の反対尋問によって次々暴かれていったものだったことがわかるのだが、そういった検察側に壊滅的なダメージを与えた反対尋問は無視され、報道されないという傾向があった。逆に、マイケルが有罪であると視聴者にほのめかすような報道や中傷コメントは常軌を逸するほど多かった。裁判では信憑性がないとされた検察側の主張が、あたかも真実であるかのように報道され続けた。無罪評決が下された後も、メディアは反省や謝罪をするどころか裁判の実態を検証し正しく伝え直す報道もせず、評決前にマイケルが有罪になるとコメントしていたニュースアンカーやコメンテーターたちは無罪評決が出たことに対し『恥をかかされた』と怒り、マイケルを中傷し続けた。メディアは視聴者を騙し、マイケルに甚大なダメージを与えた。この裁判報道はジャーナリズム史上最も恥ずべき出来事の一つである」

裁判編集

マイケルは金銭目的で訴えられることが非常に多いが、有罪判決を受けたことは一度もない

大企業との確執編集

2000年代からマイケルとソニー・ミュージックエンタテインメントの関係は険悪なものとなっていた。マイケルとソニーとの契約は1,000億円規模で7枚のアルバム+ベスト盤だったが、アルバム『インヴィンシブル』の売り上げが予想よりも低く、マイケルはソニーに多額の負債を負い、ビートルズの版権もソニーが押さえていたため、ソニーを離れられなかったのである[59]2002年7月、マイケルは公の場で「トミー・モトーラは悪魔で人種差別主義者」であり、彼の同僚のアーヴ・ゴッテイに不利益な扱いをしたと発言した[60]。ソニー側は、マイケルのプロモーションに消費した2,500万ドルが損害となったと反論した。

しかし騒動はこれだけでは終わらなかった。ソニー幹部によると、ソニーと対立していたマイケルがソニーから離れた場合、ATV版権カタログの権利に関して激しい損失が起こる。そのため版権カタログを奪うべく幹部、財政相談役らがマイケルの周囲で対立していたという。元マイケルの広報担当、アン・マリー・カイトによると彼ら側近はマイケルから膨大な額の金を着服し、陰謀を企てていたという。このことはマイケル・ジャクソン裁判でも問題になり、弁護人トーマス・メゼロウはマイケルのことを「名声を失墜させようとした側近たちの被害者だ」と述べた。マイケル側に動きがあったとき、ソニー側にそのビートルズの版権の半分を売り渡すのではないかというメディアの観測もあったが、マイケル側はそれは「新たな融資が組みあがったこと」であると言い、カタログは売っていないと語っている[61]

マイケルの広報担当だった女性、レイモン・ベインは、2009年にマイケルを相手どって約43億円の訴訟を起こしている[62]

2006年4月にソニーは、マイケルの借入金2億7,000万ドルに対する債務保証の見返りとして、ソニーATVミュージックパブリッシングの経営権とマイケルが保有する同社株の50パーセント(発行済株式の25パーセント)を2億5,000万ドルで購入する権利を得ている[63][64][65]

慈善活動編集

マイケルは活発な慈善活動家としても知られていた。

幼い頃から、両親に許可をもらえればお小遣いでキャンディを大量に買い占め近所の子どもたちに配っていたなど、その前触れは見られた。ある時には母キャサリンのささやかなアクセサリーまでも学校の先生にプレゼントしてしまったという[66]

またホームレスの人を見ると放っておけず、車を停めポケットからありったけのお金を提供し、励ましていたという[67]

オークション編集

2010年10月、マイケルとマイケル・ジョーダンが『ジャム』のショート・フィルムで使用した、2人のサインが入りバスケットボールが競売にかけられた。落札金額は24万5,000ドル[日本円 3]。この他にも、マイケルがアルバム『ヒストリー』のティーザー撮影に使用したライトストーン手袋も出品され、落札金額は18万ドル[日本円 4]だった[68]

12月、パリで生前、未公開だった4枚のポートレートが競売にかけられた。これらポートレートは1999年にフランスの写真家アルノ・バニが撮影したものでマイケルがアルバム『インヴィンシブル』のために依頼したものであったが、レコード会社の意向で採用されなかった。落札金額は「古代エジプトのファラオ王のようなポーズの写真」が2万6,000ユーロ[日本円 5]、「マイケルの左目の周りに青い光沢のある素材を施した写真」が2万5,000ユーロ、「黒いシャツで顔の下半分を覆った写真」が2万2,000ユーロ、「赤いカーテンの前に立っている写真」が9,000ユーロだった[69]

また同月の別のオークションでは『バッド・ワールド・ツアー』で使用されたライトストーン入りグローブと白い中折れ帽子が出品された。落札金額はグローブが33万ドル[日本円 6]、帽子が7万2,000ドル[日本円 7]だった[70]

2011年には『スリラー』のショート・フィルムで着用していた革ジャンが180万ドル[日本円 8]で落札された。このオークションには他にも多数マイケルのゆかりの品々が出品され、ゴールド・ディスクは1万5,000ドル[日本円 9]、80年代にマイケルが着用していたサングラスが6万ドル[日本円 10]、サイン入りの黒のハットが3万3,750ドル[日本円 11]、MTVアワードでマイケルが受け取ったトロフィーが5万4,400ドル[日本円 12]、マイケルが描いた落書きが7,680ドル[日本円 13]で落札された[71]

2012年、ステージ衣装が一斉にオークションにかけられる。うち55着をレディー・ガガが落札。ガガはマイケルの遺品をコレクションしており、それらを展示する博物館の建設も計画しているという[72]

ちなみにマイケルも生前オークションに参加しており、1999年長年の夢であった『風と共に去りぬ』のオスカー像を150万ドル[日本円 14]で落札した。しかし死後、行方不明になっていると遺産管理者が公表した。像の転売禁止が制定されたのは1950年以降であり、同映画の像の行方にアカデミーは関わっていない[73]。像は管理者によって行方が隠されているか、盗まれたのだろうと推測されている。

関連項目編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 2014年7月現在
  2. ^ リハーサル映像。

日本円換算

  1. ^ 約39億円
  2. ^ 約1000万円
  3. ^ 約2500万円
  4. ^ 約1800万円
  5. ^ 約290万円
  6. ^ 約3300万円
  7. ^ 約700万円
  8. ^ 約1億4,400万円
  9. ^ 約120万円
  10. ^ 約480万円
  11. ^ 約330万円
  12. ^ 約550万円
  13. ^ 約77万円
  14. ^ 約1億2000万円

出典編集

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外部リンク編集