サー・マイケル・モイゼイ・ポスタン英語:Sir Michael Moissey Postan1899年9月24日 - 1981年12月12日)は、ロシアベッサラビア(現:モルドバベンデル)出身、イギリス経済史家歴史家ケンブリッジ大学名誉教授

人物 編集

1937年からケンブリッジ大学の経済史教授を務め、1963年から1966年にかけて経済史学会の会長を務めた[1]。また、マルクス主義歴史学派経済発展段階説を「進化的偏見」と排撃して19世紀歴史学20世紀の歴史学に受容できないと主張した[1][2]

最初に娶ったは同国出身の経済史家アイリーン・パウア英語版だったが、1940年に死別[2]。その後、シンシア・ロザリー・ケッペル(Cynthia Rosalie Keppel)夫人と結婚し、2人の子を儲けた。

当時ロシア領土だったベッサラビア(現:モルドバ・ベンデル)のユダヤ人の家庭に生まれる。高校卒業後、サンクトペテルブルク大学キエフ大学などで学んだ。

1917年十月革命が起きると、1919年頃にはイギリスに亡命した。亡命後はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで教授となった。

1937年にアイリーン・パワーと結婚するが、1940年に死別。

1938年からケンブリッジ大学で教授を務める[3]。後に名誉教授。1981年12月12日、ケンブリッジで亡くなった。

日本では『中世の経済と社会』や『戦後ヨーロッパ経済史』の翻訳が知られている。

脚注・参考文献 編集

脚注 編集

参考文献 編集