座標: 北緯51度13分13秒 東経22度36分0秒 / 北緯51.22028度 東経22.60000度 / 51.22028; 22.60000

マイダネクMajdanek)、正式にはルブリン強制収容所(独:Konzentrationslager Lublin)は、ナチス・ドイツ第二次世界大戦中に設置した強制収容所の一つである。ポーランドルブリン郊外に位置する。ここにはガス室が設置された。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所と同じく強制収容所と絶滅収容所の役割を兼ね備える収容所であった[1]。規模はアウシュヴィッツ=ビルケナウに次ぐ。

マイダネクの監視塔と有刺鉄線

親衛隊(SS)がつけた正式名称は「ルブリン強制収容所」であったが、周辺住民たちはこの収容所を近隣の村マイダンの名前をとって「マイダネク」と呼び習わしていた。戦後はこの名前で有名となった[2][3]

マイダネクには総計50万人もの人々が収容され、戦後のポーランド側発表によるとうち36万人以上が死亡したという[4][5]。それによるとマイダネクの死者で一番多いのは、ポーランド人であり、ユダヤ人ロシア人が続く[1]。ユダヤ人死者数は ヒルバーグ (1997, p. 170) によると5万人であったという。2022年1月現在、マイダネク博物館の公式発表によれば、犠牲者数は8万人であり、うちユダヤ人は6万人とされている。[6]

収容所の歴史編集

ルブリンから南方2キロの所のヴィスワ川ブク川に挟まれた場所に存在していた。北東にソビボル強制収容所、南東にベウジェツ強制収容所が存在した[2]

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けたルブリン地区の親衛隊及び警察高級指導者オディロ・グロボクニクにより、1941年秋に建設工事開始、作業は1942年5月まで急ピッチで進められ、その後は少しずつ拡張され、最終的には1942年冬に完成した[7]

 1942年5月時点でマイダネクは広さ273ヘクタールであった。有刺鉄線の鉄条網で分けられた6つの区域から成っていた。300人以上収容可能な住居バラックが144棟建てられた。他強制収容所と同様、厳重な警備態勢が敷かれていた。高さ4メートルの支柱を2列に一定間隔で立てその間を有刺鉄線で結びフェンスとし、2列の柱の間に一方の柱の天辺から他方の根元まで対角線に有刺鉄線が渡され、この第三の網を碍子で固定、ここに電流を流していた。一定間隔に機関銃を備えた監視塔も設けていた。親衛隊員が看守であり、警察犬として200頭のシェパードも飼われていた[8]

 
囚人の宿所バラックのベッド

当初はマイダネクにガス室はなく、独ソ戦のロシア人捕虜や先のポーランド侵攻の際のポーランド人捕虜の収容先として考えられていたという。最初期のころから近隣の村から連行したユダヤ人数千人も収容された[3]。1942年4月頃のルブリン・ゲットーの解体、1943年5月頃のワルシャワ・ゲットーの解体の際にはそこの大量のユダヤ人がマイダネクに移送されてきている。しかし、囚人の中で一番多かったのは非ユダヤ系ポーランド人であった。

1942年9月から10月にかけ最初のガス室が3つ設置された[3]。最終的にマイダネクにはガス車1台と6つのガス室が置かれた[9]。マイダネクでのガス殺にはチクロンB一酸化炭素が併用された。一度に1914人をガス殺可能であった[9]

 ガス室は1942年10月から1943年秋にかけ本格稼働していた。マイダネクはアウシュヴィッツと同様、強制収容所と絶滅収容所の側面を兼ね備えた収容所であった。まだ働ける者は働かせる一方、飢餓や看守の暴力で衰弱した者、チフスに罹った者、そしてナチスにとって死んだ方が好都合な者などはガス室へ送られた[9]。現在このガス室は一般公開され、天井に沈着する青々としたチクロンBを今でも確認出来る[10]。マイダネクで使用されたチクロンBは総計7711キロである[10][9]

 マイダネクでは銃殺も多く行われた。1941年12月、ソ連捕虜の約1900人銃殺に始まり、ソ連捕虜が定期的に銃殺された。しかし銃殺の規模が一番大きかったのは1943年11月3日の「収穫祭作戦」(囚人からは「血の水曜日」)と呼ばれるユダヤ人大量銃殺だった。マイダネク収容所の8400人と他の収容所や町から連行された1万人の計1万8000人のユダヤ人がこの日銃殺された[11][12]

 他の強制収容所と同様、ドイツの戦況が悪化するにつれ、食糧が不足し常時餓死者が発生した。生きている囚人も骨と皮だけになるか、飢餓による鼓腸を起こし異常に太って見えるかのどちらかになっていった。

 死体は当初埋められていたが、ソ連軍接近に伴い、証拠隠滅のため死体が掘り起こされては改めて焼却された。生存者は別の収容所へ移送され、1944年7月23日にソ連軍が到着した際にはわずかな囚人しか残されていなかった。施設の多くも焼却されるか爆破されたが、焼却炉だけは爆破しきれずそのまま残っていた。

ソ連の報告編集

 
マイダネクのガス室

1944年8月12日のソ連の通信員ローマン・カルマンの報告によると、解放時のマイダネクはこのような状態であったという。

「私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。ヒトラーの悪名高き絶滅収容所である。ここで50万人以上の男女、子供が殺された。これは強制収容所などではない。殺人工場だ。ソ連軍が入った時、収容所は生ける屍になった収容者が1000人程度残されているだけだった。生きてここを出られた者はほとんどいなかったのである。連日何千人もの人が送り込まれてきて残忍に殺されていったのだ。ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。」[13]

ソ連から送られてきたこれらの報告を受け、イギリスの新聞『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』は1944年10月にマイダネク収容者の写真を掲載するとともに次のように報道した。

「余りに残虐な写真を掲載したことについて理由を述べたい。本紙読者は、ドイツ人が犯したこの残虐な犯罪について信じられないかもしれない。われわれの報道がプロパガンダと思うかもしれない。そうした懸念から写真掲載の必要があると考えたのである。これらの写真こそが60万人から100万人の人々がマイダネクで組織的に殺戮された動かぬ証拠である。掲載した写真だけでも残虐だが、マイダネクの惨状はさらに残虐だったのである。」[14]

囚人について編集

 
マイダネクにある慰霊碑。建材には犠牲者の遺灰が入れられている。

様々な国籍の人々がマイダネクに収容されていた。ポーランドロシアウクライナの国籍者が特に多く、ドイツフランスイタリアオランダギリシアの国籍者がそれに次ぐ数がいた。それよりも数は少ないが、ベルギーセルビアクロアチアハンガリースペインノルウェースイストルコ中国などの国籍者も相当数いた[15]。囚人は、実に28カ国、ユダヤ人を含め55人種、総計50万人に及んだという。このうち全体の60%以上にあたる36万人以上が死亡したといわれる[4]。その内訳は、21万5000人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万5000人が毒ガス・銃殺によるという[5]

著名な囚人編集

収容所の体制について編集

 マイダネクは親衛隊経済管理本部 (WVHA) により監督された強制収容所の一つである。したがって他の強制収容所と同様の組織体制の下で運営されていた。1943年夏にはハインリヒ・ヒムラーが視察に訪れている[8]

所長編集

歴代所長は以下の通り[16]

脚注編集

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参考文献編集

  • 栗原, 優 『ナチズムとユダヤ人絶滅政策-ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房、1997年3月。ISBN 978-4623027019 
  • ヒルバーグ, ラウル 著、望田幸男原田一美井上茂子 訳 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』 下、柏書房、1997年。ISBN 978-4760115174 
  • ベーレンバウム, マイケル 著、石川順子高橋宏 訳 『ホロコースト全史』創元社、1996年8月。ISBN 978-4422300320 
  • ベンツ, ヴォルフガング 著、中村浩平中村仁 訳 『ホロコーストを学びたい人のために』柏書房、2012年3月。ISBN 978-4760140930 
  • ラカー, ウォルター 著、井上茂子芝健介・永岑三千輝・木畑和子・長田浩彰 訳 『ホロコースト大事典』柏書房、2003年10月。ISBN 978-4760124138 
  • リュビー, マルセル 著、菅野賢治 訳 『ナチ強制・絶滅収容所-18施設の生と死』筑摩書房、1998年3月。ISBN 978-4480857507 

外部リンク編集