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マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)

初代ビーヴァーブルック男爵ウィリアム・マックスウェルマックス・エイトケン: William Maxwell "Max" Aitken, 1st Baron Beaverbrook, PC, ONB1879年5月25日 - 1964年6月9日)は、カナダ出身のイギリスの実業家、政治家、歴史家。

初代ビーヴァーブルック男爵
マックス・エイトケン
Max Aitken
1st Baron Beaverbrook
Lord Beaverbrook 1947.jpg
1947年のビーヴァーブルック卿
生年月日 1879年5月25日
出生地 英自治領カナダ連邦オンタリオ州メープル英語版
没年月日 (1964-06-09) 1964年6月9日(85歳没)
前職 実業家
所属政党 保守党
称号 初代ビーヴァーブルック男爵、初代準男爵枢密顧問官(PC)

内閣 ロイド・ジョージ挙国一致内閣
在任期間 1918年2月10日 - 1918年11月4日

内閣 第1次チャーチル内閣
在任期間 1940年5月14日 - 1941年5月1日

内閣 第1次チャーチル内閣
在任期間 1941年6月29日 - 1942年2月4日

内閣 第1次チャーチル内閣
在任期間 1943年 - 1945年

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 アシュトン=アンダー=ライン選挙区英語版
在任期間 1910年12月3日 - 1916年12月16日

その他の職歴
イギリスの旗 貴族院議員
1917年1月2日 - 1964年6月9日
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英領カナダにおいて証券会社ロイヤル・セキュリティーズ英語版を経営しながら、1909年にはカルガリー電力(現TransAlta)を創業し、カナダ滝水力発電所の建設を主導した[1]。1910年には自身の証券会社が保有するカナダセメント社(のちラファージュラファージュホルシム)に、サンドフォード・フレミング創設のWestern Canada Cement and Coal Companyを含むカナダ国内の11セメント会社を買収させ、国内産出量の5分の4を取り扱うようになった。このコングロマリットがした証券取引上の不正や杜撰な経営や価格統制は世間から非難され、フレミングやその関係者は1911年には手形委員会から収賄課徴金を課された[2]

エイトケンはそれでも、同コングロマリットの株式売却により財をなし、1911年にはイギリスの選挙に当選し、政治家・新聞事業者となり、1917年にビーヴァーブルック男爵に叙された。第二次世界大戦中には第1次チャーチル内閣で軍事関連の閣僚職を歴任した。

1951生まれのイギリス空軍少将のビーヴァーブルックは孫。

目次

経歴編集

1879年5月25日、英自治領カナダ連邦のオンタリオ州メープル英語版に生まれる[3][4]。父は長老派のミニスター(牧師)ウィリアム・カスバート・エイトケン[5][6]、母はその夫人ジェーン・ノーベル[3][5]スコットランド系の一家だった[7]

エイトケンが生まれて間もなく、一家はニューブランズウィック州ニューカッスル(現ミラミチ)英語版へ引っ越した[4]。そのため彼も同地の寄宿学校で学んだ[4]。少年期から狡猾な悪戯少年「マックス」として悪名を轟かせ[4]、金儲けに強い興味を示していた[8]

寄宿学校を出た後、ジャーナリストや保険販売員、法律事務所などで働き、法律事務所勤務時代にはロー・スクールにも通ったが、ロー・スクールは途中で投げ出している[8]。その後ボーリング場の経営をしていたが、1900年から公共事業債権の販売に携わるようになり[4]1903年には王立証券株式会社英語版の経営者となり、この事業によって巨万の富を築いた[8]20世紀初頭には有能だが物議を醸す投資家として名を馳せた[4]

1910年には仕事と政界入りを狙ってイギリス・ロンドンへ移住[8]アンドリュー・ボナー・ローの後押しを受けて、同年12月の総選挙英語版アシュトン=アンダー=ライン選挙区英語版から選出されて統一党(保守党)所属の庶民院議員となる[8][3]。政治家としてはジョゼフ・チェンバレンの関税改革論(保護貿易)と帝国統一維持を信奉していた[8][7]1911年6月20日にはナイト爵を与えられる[3]

政界への進出編集

第一次世界大戦中には首相ロイド・ジョージに接近し[8]1916年7月に準男爵、ついで1917年1月に連合王国貴族ビーヴァーブルック男爵に叙せられ、貴族院議員に列した[9]第一次世界大戦中はカナダ軍の広報を担当した[4]。カナダ戦争記念基金を創設してカナダ軍の戦争を描いた芸術を奨励した[7]

また1916年には『デイリー・エクスプレス』を買収した[10]

第一次世界大戦末の1918年にはロイド・ジョージ内閣で情報大臣英語版ランカスター公領大臣に就任した[3]。同年枢密顧問官にも列する[3]

第一次世界大戦後は政界を離れて新聞事業に集中した。『デイリー・エクスプレス』の他、『イヴニング・スタンダード英語版』も買収し、また『サンデー・エクスプレス』を創刊した[8]。イギリスを代表する新聞事業者として国際的にも巨大な影響力を持った[4]。関税改革論の受けが悪かったため、1930年前後には帝国内自由貿易と称した保護貿易論で民を扇動し、1930年代の保守党内の保護主義の高まりに一定の関与をした[8][11]

1936年12月のエドワード8世退位騒動の際にはウィンストン・チャーチルや初代ロザミア子爵ハロルド・ハームズワースオズワルド・モズレー準男爵らとともにウォリス・シンプソンと結婚することを希望するエドワード8世を支持したが、結局エドワード8世は首相スタンリー・ボールドウィンの脅迫で退位に追い込まれている[12]

この時期には「英米軍事協約必要論」を提唱しており、1936年には日本国内でもその和訳版が出版された[13]。新聞紙面でネヴィル・チェンバレンの対独融和政策に対して楽観論を示していたが、戦争が近づいてくると対独強硬論を唱えるようになった[14]

第二次世界大戦中の1940年5月にチャーチル内閣が発足すると、政界復帰して航空機生産大臣に就任し、スピットファイアの製造を指揮し、バトル・オブ・ブリテンの勝利に貢献した[4]1940年から1942年にかけてチャーチル戦時内閣の閣僚の1人であり[3]1941年には軍需大臣英語版に転任し、チャーチルと米国大統領ルーズベルト大西洋憲章を検討した大西洋会談にも参加し[15]、翌1942年まで務めた[3]

1943年から1945年にかけては王璽尚書を務めた[3]1944年には帝国戦争博物館の管財人を務めた[3]

政界でいつまでもやっていけるようなタイプの人間ではなく、第二次世界大戦終戦とともに政府から退くことになった[8]。第二次世界大戦後は支配下の新聞を監督しつつ、自分の回顧録や友人の伝記の執筆を行った[8]1947年から1953年にかけては名誉職のニューブランズウィック大学英語版学長を務めた[3]

1964年6月9日に死去。爵位は長男のジョン・ウィリアム・マックスウェル・エイトケン英語版が継承した[3][5]

歴史家として編集

 
墓地にあるエイトケンの胸像

第一次世界大戦後、エイトケンは1925年にPoliticians and the Press、1928年にPoliticians and the Warを出版した[16]。初版が発行されたとき、この二冊はほとんどの歴史家から無視され、好意的な書評を載せたのはエイトケンの発行する新聞のみだった[17]。ところが、二冊の統合版が出版されたときには、書評は好意的だった。「この本はスエトニウスあるいはマコーリーの著作がアルフレッド・ヒッチコックの映像技術で表現されたようなものだ」、「サッルスティウスクラレンドンの著作のように簡にして要を得ている」などの書評があった。イギリスの著名な歴史家A・J・P・テイラーもエイトケンの著作を「タキトゥスオーブリーの美点を兼ね備えている」と賞賛している[18]

栄典編集

爵位・準男爵位編集

1916年7月3日に以下の準男爵位を新規に叙される[5]

  • (ニューブランズウィックの)初代準男爵
    (1st Baronet "of New Brunswick")
    勅許状による連合王国準男爵位)

1917年1月2日に以下の爵位を新規に叙される[5]

  • カナダ・ニューブランズウィック州におけるビーヴァーブルック、およびサリー州チャークリーの初代ビーヴァーブルック男爵
    (1st Baron Beaverbrook, of Beaverbrook in the Province of New Brunswick, Canada, and of Cherkley in the County of Surrey)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)

家族編集

1906年に陸軍軍人チャールズ・ウィリアム・ドラリー少将の娘グラディスと最初の結婚をし、彼女との間に以下の3子を儲ける[3]1963年にマーシア・クリストフォリデスと再婚するが、彼女との間に子供はない[3]

脚注編集

出典編集

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  1. ^ 100 Years, 100 People:1909–1919”. TransAlta (2011年12月2日). 2014年10月20日閲覧。
  2. ^ The New York Times, 13 May 1911, "Canadian Cement Scandal,"; Edmonton Bulletin, Nov. 30, 1911
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Lundy, Darryl. “Sir William Maxwell Aitken, 1st Baron Beaverbrook” (英語). thepeerage.com. 2016年3月1日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i カナダ政府. “Sir William Maxwell Aitken (Lord Beaverbrook)” (英語). Government of Canada. 2016年3月1日閲覧。
  5. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Beaverbrook, Baron (UK, 1917)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年3月1日閲覧。
  6. ^   "Beaverbrook, William Maxwell Aitken, 1st Baron" . Encyclopædia Britannica (12th ed.). 1922.
  7. ^ a b c クラーク 2004, p. 80.
  8. ^ a b c d e f g h i j k MCDOWALL, DUNCAN. “Aitken, William Maxwell, 1st Baron Beaverbrook” (英語). Historica Canada. 2016年3月1日閲覧。
  9. ^ UK Parliament. “Mr Max Aitken” (英語). HANSARD 1803–2005. 2016年3月1日閲覧。
  10. ^ クラーク 2004, p. 109.
  11. ^ クラーク 2004, p. 146.
  12. ^ クラーク 2004, p. 156.
  13. ^ ビーヴアブルツク卿の英米軍事協約必要論』、『国際パンフレット通信』、タイムス出版社国際パンフレット通信部、1936年11月。
  14. ^ クラーク 2004, p. 183.
  15. ^ Joint Statement by President Roosevelt and Prime Minister Churchill, August 14, 1941. Lillian Goldman law library, Yale Law School.
  16. ^ この二冊は1960年に再版された。Taylor, p. 102.
  17. ^ Taylor, p. 251.
  18. ^ Taylor, p. 645.
  19. ^ Vice Marshal Lord Beaverbrook', Royal Air Force, United Kingdom.
  20. ^ Beaverbrook opens the House with Japanese restaurant. The Caterer, 2017年8月.

注釈編集

参考文献編集

外部リンク編集

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代:
アルフレッド・スコット英語版
アシュトン=アンダー=ライン選挙区英語版
選出庶民院議員

1910年英語版1916年英語版
次代:
アルバート・スタンリー英語版
公職
新設 情報大臣英語版
1918年
次代:
初代ダウンハム男爵英語版
先代:
サー・フレデリック・コーリー英語版
ランカスター公領大臣
1918年
新設 航空機生産大臣
1940年1941年
次代:
ジョン・ムーア=ブラバゾン
先代:
サー・アンドルー・ダンカン英語版
軍需大臣英語版
1941年–1942年
次代:
サー・アンドルー・ダンカン英語版
新設 戦争生産大臣英語版
1942年
次代:
オリヴァー・リトルトン英語版
(生産大臣)
先代:
クランボーン子爵
王璽尚書
1943年1945年
次代:
アーサー・グリーンウッド英語版
イギリスの爵位
爵位創設 初代ビーヴァーブルック男爵
1917年1964年
次代:
ジョン・エイトキン英語版
イギリスの準男爵
爵位創設 初代準男爵
1916年1964年
次代:
ジョン・エイトキン英語版