マルク・スレールMarc Surer, 1951年9月18日 - )は、スイス人の元レーシングドライバーである。F1には88戦にエントリーし、82回出走した。1981年ブラジルグランプリでファステストラップを記録した。日本では数種類の名前の表記があり、「マルク/マーク」「シュレール/スレール/シュラー/シュアー/ズレール/ズラー」などと表される。

マルク・スレール
基本情報
国籍 スイスの旗 スイス
出身地 同・アリスドルフ
生年月日 (1951-09-18) 1951年9月18日(72歳)
F1での経歴
活動時期 1979-1986
所属チーム '79,'81 エンサイン
'80 ATS
'81 セオドール
'82-'84,'86 アロウズ
'85 ブラバム
出走回数 88 (82スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 17
ポールポジション 0
ファステストラップ 1
初戦 1979年イタリアGP
最終戦 1986年ベルギーGP
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経歴 編集

生い立ち 編集

スイス北部、ドイツ国境に近いアリスドルフの農家に生まれる。子供の頃は家にあった父親のトラクターをいじるのが趣味だった。スピードへのあこがれはその頃からあり、スキーで足を骨折して病院で車椅子が与えられた時には、その車椅子で病院の前にあった坂を利用してのスピードトライアルを開催し怒られたりもしたという[1]

19歳でカートを開始し、1975年にローカルイベントのフォーミュラ・Veeに参戦開始する。

フォーミュラ3 編集

1976年にフォーミュラ3にデビューしドイツF3選手権2位、ヨーロッパF3選手権5位となり頭角を現す。1977年にBMWのジュニアチームに加入。DTMの前身である「Deutsche Rennsport Meisterschaft」に参戦し1勝、シリーズ5位となる。

フォーミュラ2 編集

1977年はツーリングカーと並行してヨーロッパF2選手権にも参戦し、初ポイントを挙げランキング13位。1978年、BMWジュニアチームからヨーロッパF2に参戦し、未勝利ではあったがランキング2位を獲得。同年7月の鈴鹿ルビートロフィーレースに来日し出場、マーチ782/BMWを駆り星野一義との一騎打ちを制して優勝している。

1979年、ヨーロッパF2で2勝を挙げ、ブライアン・ヘントンエディ・チーバーとの争いを制してシリーズ・チャンピオンを獲得する。

フォーミュラ1 編集

1979年F2シーズンの終了後、エンサインよりF1の終盤戦イタリアグランプリに初めてエントリーしたが、予選を通過することはできなかった。次戦カナダグランプリでも予選通過に失敗したが、最終戦アメリカグランプリで初めて予選を通過し、決勝に出走した。

1980年はATSよりフル参戦を果たすことになった。しかしキャラミサーキットでの南アフリカグランプリでクラッシュし負傷し、3戦を欠場した。フロントサスペンションのトラブルが原因とされる[2]

1981年はエンサインに移籍。ブラジルグランプリで4位(ファステストラップを記録)、モナコグランプリで6位に入賞し4ポイントを獲得した。シーズン途中でセオドールに移籍した。

1982年、アロウズに移籍。開幕前にキャラミで行われたテスト走行中に、リアサスペンションのトラブルによりクラッシュし負傷、序盤を欠場した[2]。第5戦ベルギーグランプリより復帰し、以後1984年まで3シーズンをアロウズで参戦した。

1985年はF1シートを確保できないままシーズン開幕を迎えたが、ブラバムのNo.2ドライバーであるフランソワ・エスノーが開幕から低調な戦績だったため[注釈 1]第5戦カナダGPからスレールがその後任としてにエースのネルソン・ピケを補佐、第12戦イタリアGPでは自己最高位タイとなる4位に入るなどシーズン5ポイントを挙げ、ブラバムはスレール加入前にはノーポイントだったが、シーズン終了時にはコンストラクターズランキングで5位を確保した。

1986年、スレールはアロウズに復帰した。しかし、第5戦ベルギーGP終了後の6月1日、西ドイツで開催されたADACヘッセン400kmラリーフォード・RS200で参戦し[3]、時速200kmでコントロールを失い立木に激突[4]。マシンは炎上し、コ・ドライバーは死亡[5]。スレールは命は助かったが手などにやけどを負い、全身に骨折があった[1]。特に腰骨の骨折はひどく、以後1年間車椅子での生活を余儀なくされた[6][2]。長期入院を経て退院し、9月のポルトガルGPのパドックに両手に包帯をした姿でかなりやせてしまっていたが、事故以来初めて姿を見せF1関係者を安心させた。パドック内でメディア取材に応じ、「まだレーサーを引退はしないけど、F1はもう引退だろうね」と話した。今後の予定としてBMWでサルーンカーレースに出場したい希望があり、スイステレビのレースコメンテイターとしてレースには関わっていくと思う、と話した[7]

その後、復帰の可能性を探るべくBMWのツーリングカーで試走し[1]、結果は上々でありBMWから正式な復帰オファーも来たが、スレールはすぐに返事が出来なかった。

引退への葛藤 編集

1年間の車椅子での療養となった期間に、スレールは「スイスの山々や、夕焼けの美しさを見たり、雲がこんなにきれいなのかと発見したり、今までこんなことも気づかなかったのかと思った」という[1]。生死の境をさまよったことで、今までモータースポーツ以外のことに目を向けていなかったことに初めて気が付き、「レーサーを辞めることにはかなり勇気が要った。でも走る意味も見つからなくなってしまった。勝つという事に闘争心を燃やすことが出来なくなったんだ。恐怖心は無かったんだけど。[1]」と述べ、レース復帰することなく引退を決断した。

引退後 編集

現役引退後、スイスの「D.R.SスイスTV」でレース解説者となった。スイスでは子供向けのレーシングスクール開催や、スイス人の若いドライバーのための募金活動「スイス・マルク・スレール・ファンド」を開始。ドイツでレーシングスクールも主宰し、DTMでBMW系チームのチームマネージャーも務めた。事故から10年経った1995年時点でも身体の多くの部分に痛みが走ったり、十分に動かない関節があると言い、「その痛みの度に、つまり毎日事故のことは思い出すよ。でも生きることを楽しんでるし、レースとも関わっている。後悔は何も無いよ」と語っている[1]

プライベート 編集

スレールは、2人のプレイメイトとの結婚歴がある。ヨランダ(英語)(ドイツ語)(1986年-1993年)、クリスティーナ(英語)(1996年-2000年)の2名とも自動車レースを始め、それぞれフォーミュラカーやツーリングカーのレースに参戦している。

レース戦績 編集

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権 編集

チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1976年 ホフマン・レーシング シェブロン・B35 BMW HOC THR VLL SAL PAU HOC ROU MUG PER EST NOG HOC
DNQ
NC 0
1977年 ホフマン・オート・テクニッキ マーチ・762 SIL
9
THR
7
HOC
Ret
NÜR VLL
7
PAU MUG
5
ROU
Ret
NOG
7
PER MIS EST 13位 5
マーチ・エンジニアリング マーチ・772P DON
4
1978年 Polifac BMW Junior Team マーチ・782 THR
2
HOC
2
NÜR
4
PAU
3
MUG
2
VLL
9
ROU
3
DON
3
NOG
2
PER
Ret
MIS
2
HOC
2
2位 51
1979年 マーチ・792 SIL
DNS
HOC
Ret
THR
9
NÜR
1
VLL
1
MUG
Ret
PAU
3
HOC
5
ZAN
3
PER
Ret
MIS
3
DON
2
1位 38
1981年 マルクス・ホルツ・レーシング マーチ・812 SIL HOC
Ret
THR
12
NÜR VLL MUG PAU PER SPA DON MIS MAN NC 0

全日本F2選手権 編集

マシン 車番 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1978年 マーチ・782 BMW 1 SUZ FSW SUZ SUZ
1
SUZ NIS SUZ -[8] -[8]

F1 編集

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1979年 エンサイン N179 ARG BRA RSA USW ESP BEL MON FRA GBR GER AUT NED ITA
DNQ
CAN
DNQ
USA
Ret
NC
(33位)
0
1980年 ATS D3 ARG
Ret
BRA
7
NC
(22位)
0
D4 RSA
DNS
USW BEL MON FRA
Ret
GBR
Ret
GER
12
AUT
12
NED
10
ITA
Ret
CAN
DNQ
USA
8
1981年 エンサイン N180B USW
Ret
BRA
4
ARG
Ret
SMR
9
BEL
11
MON
6
ESP 16位 4
セオドール TY01 FRA
12
GBR
11
GER
14
AUT
Ret
NED
8
ITA
DNQ
CAN
9
CPL
Ret
1982年 アロウズ A4 RSA BRA USW SMR BEL
7
MON
9
DET
8
CAN
5
NED
10
GBR
Ret
FRA
13
GER
6
AUT
Ret
ITA
Ret
21位 3
A5 SUI
15
CPL
7
1983年 A6 BRA
6
USW
5
FRA
10
SMR
6
MON
Ret
BEL
11
DET
11
CAN
Ret
GBR
17
GER
7
AUT
Ret
NED
8
ITA
10
EUR
Ret
RSA
8
15位 4
1984年 BRA
7
RSA
9
BEL
8
FRA
Ret
MON
DNQ
CAN
Ret
DET
Ret
20位 1
A7 SMR
Ret
DAL
Ret
GBR
11
GER
Ret
AUT
6
NED
Ret
ITA
Ret
EUR
Ret
POR
Ret
1985年 ブラバム BT54 BRA POR SMR MON CAN
15
DET
8
FRA
8
GBR
6
GER
Ret
AUT
6
NED
10
ITA
4
BEL
8
EUR
13
RSA
Ret
AUS
Ret
13位 5
1986年 アロウズ A8 BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
9
MON
9
BEL
9
CAN DET FRA GBR GER HUN AUT ITA POR MEX AUS NC
(26位)
0

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1978年   アルトス フランキー ザウバー PP AG   オイゲン・シュトラール
  ハリー・ブルマー
ザウバー・C5 S
2.0
257 NC NC
1981年   ウルト-ルブリフィルム チーム ザウバー   ディーター・クエスター
  デイビット・ディーコン
BMW・M1 Gr.5 207 DNF DNF
1982年   フォード・ワークス AG
  ザクスピード
  クラウス・ルートヴィッヒ
  マンフレッド・ヴィンケルホック
フォード・C100 C 67 DNF DNF

BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1980年 ザウバー・モータースポーツ DON AVU MCO NOR
3
BRH
Ret
HOC
13
ÖST
4
ZAN
2
IMO
Ret
8位 37

関連項目 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1991年に取材を受けたネルソン・ピケが「チームメイトで最悪だったのはブラバムの時のフランソワ・エスノーだ。スピンだらけで最悪だった」と発言。F1グランプリ特集 Vol.15 1990年7月号 52頁 CBSソニー出版

出典 編集

  1. ^ a b c d e f GP People マルク・スレール 生死の淵から蘇り知った生きることの本当の意味 F1グランプリ特集vol.75 95頁 ソニー・マガジンズ 1995年9月16日発行
  2. ^ a b c 「F1グランプリボーイズ」津川哲夫 三推社・講談社 1988年
  3. ^ スレールがRS200でラリーにも出場 Racing On No.003 33頁 1986年7月1日発行
  4. ^ ADAC Rallye Hessen 1986 EWRC Results.com
  5. ^ Marc Surer's RS200 Major Crash CarThrottle.com 2021年1月26日
  6. ^ 「Autocourse 1986-1987」Hamilton, Maurice (Editor) Hazleton Publishing, 1986, p120 ISBN 0-905138-44-9
  7. ^ SPOT NEWS フォードRS200でラリー中に事故を起こし、重態だったマルク・スレールが退院後初めてGPパドックに現れた Racing On No.008 1986年12月号 33頁下段 1986年12月1日発行
  8. ^ a b JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。

外部リンク 編集

先代
ブルーノ・ジャコメリ
ヨーロッパF2チャンピオン
1979年
次代
ブライアン・ヘントン