マレンゴの戦い

マレンゴの戦い(マレンゴのたたかい、: Bataille de Marengo)は、1800年6月14日に行われたフランス革命戦争における戦闘の一つ。

マレンゴの戦い
Lejeune - Bataille de Marengo.jpg
マレンゴの戦い
戦争フランス革命戦争第二次イタリア戦役
年月日1800年6月14日
場所:イタリア北部ピエモンテ地方アレッサンドリア南東12kmのマレンゴ
結果:フランスの勝利
交戦勢力
Flag of France (1794–1958).svg フランス共和国 ハプスブルク君主国の旗 オーストリア大公国
指導者・指揮官
Flag of France (1794–1958).svg ナポレオン・ボナパルト オーストリア帝国の旗 ミヒャエル・フォン・メラス英語版
戦力
兵員 28,000
大砲 24門
兵員 31,000
大砲 100門
損害
死傷 4,700
不明 900
死傷 6,000
捕虜 8,000
大砲 40門

フランス革命戦争

両軍の配置図
アルプスを越えるナポレオン

現在のイタリア共和国ピエモンテ州アレッサンドリアから南東へ12kmのマレンゴ英語版の地において、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ミヒャエル・フォン・メラス英語版率いるオーストリア軍に対して勝利を収めた。この結果、第二次対仏大同盟におけるイタリア方面の戦いは決着がつき、フランスはイタリア北部の勢力圏を再確立した。

目次

背景編集

1798年、第二次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦したオーストリアはドイツ方面へ軍勢を進めるのと同時に、フランスの衛星国が割拠していたイタリア北部にも侵攻軍を派遣した。フランスのイタリア方面軍は苦戦して後退を重ねジェノヴァにまで追い詰められていた。1799年にエジプト遠征から帰還して第一統領に就任していたナポレオンは、イタリア方面の劣勢を挽回するべく新しい軍隊を編制してジュネーヴに集結させていた。

1800年4月、ジェノヴァで包囲されたフランス軍が危機に陥った為に救援を急いだナポレオンは翌5月、37,000名を数える軍勢にアルプス山脈グラン・サン・ベルナール峠を越えさせてイタリア北部に進軍した。このスイス方面からの侵入はオーストリア軍の意表を突く機動であり、そこから東へ進む事でジェノヴァの攻囲軍とオーストリア本国の間の連絡線を断ち切る狙いがあった。しかし険しい山越えの中で運搬の困難さから多くの大砲が放棄されフランス軍の戦力は低下した。

両軍の動き編集

 
当時のイタリア北部

ミヒャエル・フォン・メラス英語版指揮下のオーストリア軍が攻囲する都市ジェノヴァには、アンドレ・マッセナ率いるフランス軍部隊が立て篭もり防戦に努めていた。アルプス山脈を越えた後のナポレオンはオーストリア軍の背後に回る形で東へ進み、ジェノヴァの北方にあるミラノおよびポー川流域に並ぶパヴィア他の諸都市を占領して、オーストリアの攻囲軍と本国を結ぶ補給線を分断する事に成功した。だがその間にジェノヴァのフランス軍部隊は力尽き、6月4日に開城した。

ジェノヴァ攻略後、オーストリア軍は補給線を回復するべくオットー・フォン・バートケズ英語版率いる部隊を北上させ、6月9日にパヴィアの南方にあるポー川南岸のモンテベッロまで進軍するが、フランス軍のジャン・ランヌ部隊に撃退された。

占領後のジェノヴァは物資が枯渇しており、補給線の回復に失敗したオーストリア軍はジェノヴァ一帯からの退却を決めて周到に計画を練った。自軍を本隊と別動隊に分け、更に地元イタリア人スパイによる偽情報を流して、自分達が北上してポー川を渡河し真っ直ぐミラノ方面へ向かうように見せ掛ける事にした。実際には北西のアレッサンドリアまで移動した後にポー川に沿って東へ進むつもりだった。

9日のモンテベッロの戦勝による油断で敵軍の戦意を過小評価していたナポレオンはこの情報操作に掛かり、ポー川の渡河を試みるはずのオーストリア軍を確実に捕捉撃滅する為に自軍を分けてポー川の南岸沿いに展開させる事にした。ヴィクトール=ペランの別動隊を西のアレッサンドリア方面に、アントワーヌ・ドゼーの別動隊を東のピアチェンツァ方面に向かわせ、ナポレオン本隊はその中央に陣取る事にした。

6月13日、ヴィクトール部隊が向かったアレッサンドリアでオーストリア軍部隊が発見され、ナポレオン本隊も駆け付けるとそこにいたのはバートケズの部隊だった。ナポレオンはバートケズは出撃せずに篭城すると考え、このままアレッサンドリアを包囲させる事にした。だが、そこにジェノヴァから後続するメラス指揮下のオーストリア軍本隊が接近していた。こうしてフランスとオーストリア両軍は6月14日にアレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇する事になった。

戦闘編集

 
フォン・メラス

6月14日朝、アレッサンドリアに南東から近付くミヒャエル・フォン・メラス英語版は、前方のマレンゴにフランス軍の存在を確認すると自軍31,000名を直進させ、午前9時にマレンゴの村にいたヴィクトール=ペランの部隊を急襲した。戦場から5kmの地点にいたナポレオンは大兵力のオーストリア軍本隊が出現した報せに驚き、東方にいるアントワーヌ・ドゼーの別働隊に伝令を送ると、手元にいるジャン・ランヌ歩兵隊とジョアシャン・ミュラ騎兵隊を直ちに前線へ向かわせ、ナポレオン自身も本隊を率いて午前11時に戦場に到着した。

先日に別働隊を割いていた兵力分散の失策が祟って、この時点で前線に集結出来たフランス軍は23,000名程度となり、数で勝るオーストリア軍31,000名の攻勢を支えるのに手一杯の状態となった。午後2時にはマレンゴの村がオーストリア軍に奪われ、敗色が濃くなったフランス軍は3km余りの後退を強いられた。自軍の揺るぎない優勢を見たメラスは勝利を確信し戦勝の報告を本国首都ウィーンへ送っている。

 
ケレルマン

午後5時、敗北寸前のフランス軍の元に、多数の落伍兵を出しながらも強行軍で駆け付けて来たアントワーヌ・ドゼー率いる別働隊5,000名が到着し、息を吹き返したフランス軍は反撃に転じた。ドゼー部隊がオーストリア軍の攻撃を正面から支えてる間に、フランソワ・ケレルマン率いる騎兵隊400名がオーストリア軍の左側面に突入した。この突撃は秒単位と言われる程の完璧なタイミングで行われ、オーストリア軍陣形の隙間を駆け抜けて全体の要となる中央部隊を一気に突き崩した。オーストリア軍中央は壊走し、その混乱が次々と周囲に波及してやがて全体の統率を失わせる事になり、これを好機と見たナポレオンはフランス全軍に総攻撃を命じた。オーストリア軍は総崩れとなり退却にも失敗して、兵力のおよそ半数を失いつつアレッサンドリアに逃げ込む事を余儀なくされた。

 
ドゼーの死

戦いはフランス軍の大逆転勝利に終わったが、勝利の貢献者であるドゼーは最後の激闘の中で銃弾に倒れ31歳で戦死した。もう一人の貢献者であり、言わば針の一刺しでオーストリア軍を崩壊に追い込んだケレルマンは元帥に次ぐ地位の将軍に昇進した。このマレンゴの功績は余りに大きく、その後のケレルマンが数々の不正と醜聞と強欲さで悪評を垂れ流す事になっても彼の地位を揺るがせなかった。

影響編集

アレッサンドリアで包囲されたオーストリア軍司令官ミヒャエル・フォン・メラス英語版は6月15日に降伏し、フランスはイタリア北部における勢力圏を再確立した。

その後、ドイツ方面でもマリー・モロー率いるフランス軍が12月3日のホーエンリンデンの戦いで勝利を収めた事でオーストリアは戦意を喪失し、翌年2月のリュネヴィルの和約に応じる事になった。オーストリアが脱落した事で第二次対仏大同盟は崩壊した。

逸話編集

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    鶏肉のマレンゴ風
    マレンゴの勝いの夜、ナポレオンはお抱えの料理人デュナンに勝利を祝う特別な料理を注文した。しかし大混戦の中で全ての荷物が失われており、慌てたデュナンは戦場周辺を走り回って食材をかき集め、火を通した鶏肉をトマトとニンニクとワインで煮込み、茹でたザリガニと目玉焼きを添えたあり合わせの即席料理をナポレオンに出した。ナポレオンはこの料理を大変気に入り「鶏肉のマレンゴ風」として知られるようになった。以後のナポレオンは縁起を担ぐ意味でもこの「鶏肉のマレンゴ風」を好み、特に戦いの前夜によく注文したという。
  • プッチーニのオペラ『トスカ』では、第1幕でナポレオンがマレンゴの戦いに敗れたという誤報がもたらされ、第2幕でナポレオンが勝ったという正しい知らせが届く。
  • ナポレオンの肖像画にも描かれている芦毛の愛馬「マレンゴ」の名はこの戦いが由来とされている。

参考文献編集

外部リンク編集