マーク・ブランデル

マーク・ブランデルMark Blundell1966年4月8日 - )は、イギリス生まれの元レーシングドライバー1992年のル・マン24時間レース優勝者。

マーク・ブランデル
Mark Blundell portrait 2011.jpg
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
出身地 同・バーネット
生年月日 (1966-04-08) 1966年4月8日(56歳)
F1での経歴
活動時期 1991,1993-1995
所属チーム '91 ブラバム
'93 リジェ
'94 ティレル
'95 マクラーレン
出走回数 61
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 3
通算獲得ポイント 32
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1995年オーストラリアGP
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経歴編集

元々オートバイモトクロスライダーであったが、1984年にイギリスフォーミュラ・フォード1600に参戦し、4輪レースのキャリアが始まった。1987年から1989年にかけて、国際F3000選手権に参戦。1988年に表彰台に3度立つ活躍でシリーズ6位を獲得した。

F1編集

ミドルブリッジから国際F3000に参戦していた1989年シーズンの途中、ウィリアムズF1から声がかかり、FW13をテスト、その後正式にテストドライバーに就任。テクニカル・チーフのパトリック・ヘッドから「ブランデルはとてもクレバーにドライブする」と評価を受け、1990年には後に名車FW14Bに搭載されることになるアクティブサスペンション開発のテストも任された。同年のメイン参戦レースはWSPCで、日産の一員としてル・マン24時間ではポールポジションのタイムをたたき出した(後述)。これらの結果とウィリアムズで重ねたテスト走行でブランデルは自信を付け、F1レギュラー参戦を希望していた[1]。ちょうどこの年はF3000時代に所属したミドルブリッジがブラバムを買収しており、ブラバムは当初ロベルト・モレノを91年の候補としていたが[2]、モレノが急遽ベネトン・フォーミュラで参戦することになったことで、ブランデルにブラバムと契約するチャンスが訪れた。

1991年にブラバムからF1にデビュー。第3戦から新車BT60が登場し、第11戦ベルギーGPで6位入賞、初の1ポイント獲得に成功する。8月に一度は翌1992年に向けてチーム残留が決まったが[3]、のちにオーナーの中内康児と意見の相違が生じ[注釈 1]、同年限りでチームを離脱。1992年はマクラーレン・ホンダのテストドライバーに就任した。

1993年にリジェからF1再参戦。ブラバム時代のチームメイトだったマーティン・ブランドルと再びコンビを組むことになった。この年は表彰台に2度上がるなど、同胞ブランドルと共にチームをランキング5位に押し上げた。

1994年にティレルへ移籍、前年より所属する片山右京のチームメイトとなった。予選の速さでは片山の陰に隠れたが、第5戦スペイングランプリで3位を獲得しヤマハエンジンにF1初表彰台をもたらすなど決勝で好走。最終的な獲得ポイントでは片山を上回った。しかし翌年のシート交渉ではミカ・サロが大手電話会社ノキアをスポンサーに付けティレルのシートを獲得したため、ブランデルはまたも他のシートを探すこととなった。

 
マクラーレン時代(1995年)

1995年に再びマクラーレンと契約し、テストドライバーとなる。しかしレギュラードライバーとして加入したナイジェル・マンセルが開幕前テストから好タイムを出せず、「コックピットサイズが体形に合わない」と不満を口外しはじめると開幕2戦を欠場。代役としてリザーブ契約でもあるブランデルが1戦ごとに契約を結ぶ形態ではあったが実戦機会を得た。更にマンセルがMP4/10の出来を不服とし、その後2レースを走ったのみでチームから離脱。以後はブランデルが最終戦までレギュラーに昇格し、2度の4位を含めチームメイトのミカ・ハッキネンを凌ぐ6度の入賞を記録したが、表彰台には一歩届かなかった。

シーズン終盤に翌年からのデビッド・クルサード移籍加入が発表され、シーズンオフには恒例となってしまった翌年の正シート探しに注力することとなったブランデルはマクラーレンでの走りを高評価したメルセデス(マクラーレンにエンジンを供給)の支援もあり、ザウバーへの移籍を画策し交渉を続けたが、ベネトンのシートを失ったものの同年のF1で2勝を挙げたジョニー・ハーバートとのシート争奪戦に敗れ、以降ブランデルがF1のシートを得ることは無かった。

スポーツカー編集

1989年と1990年は、日産と契約し世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に参戦した。

1990年のル・マン24時間レースでは予選専用のエンジンを積んだ日産・R90CKで2位を6秒以上引き離す3分27秒02を記録しポールポジションを獲得した[4]

一旦F1のシートを失った1992年にプジョーワークスと契約しスポーツカー世界選手権(SWC)にフル参戦。1992年のル・マン24時間レースではプジョー・905を駆り優勝した。

CART編集

1995年をもってF1を去った後、アメリカ合衆国チャンプカー・ワールド・シリーズ(CART)に活躍の場を求めた。1996年からパックウェスト・レーシングに加入。チームメイトはマウリシオ・グージェルミンで、パックウェストは元F1コンビ2台での参戦だった。リオのオーヴァルコースでは、後年にブランデル自身が「自分のキャリアで最もひどいクラッシュだった」と語るハイスピードクラッシュを経験した[5]。ブランデルは1997年にシリーズ3勝を挙げる活躍を見せランキング6位を獲得。CARTには5シーズンフルエントリーしたが、2000年は最高位7位のランキング21位と結果が振るわず、翌年に向けて契約を更新できずパックウェストのシートを新鋭スコット・ディクソンに奪われた。

その他の経歴編集

2001年のル・マン24時間レースでは、結果的にはリタイヤとなったが、LMP675カテゴリーのMGローラEX257をドライブし、格上のLMP900カテゴリーであるクライスラーLMPや、キャデラック・ノーススターLMPを上回るスピードを見せた。2002年には、MG・ZRスーパー1600を駆って、世界ラリー選手権(WRC)・ラリーGBにスポット参戦し、リタイア。

2019年にはイギリスツーリングカー選手権(BTCC)にアウディ・S3で参戦、久々の現役復帰となったが[6]、結局この参戦は同年限りとなり、翌2020年1月に現役引退を発表[7]。一方で同年2月には自らのチームとして「MBモータースポーツ」を設立し、BTCCにホンダ・シビックで参戦、自らはチーム監督を務めることを明らかにした[8]

現在は、解説者として活動する他、ドライバーマネージメントも手掛けており、ゲイリー・パフェットマイク・コンウェイ[8]ヤン・マーデンボローらがマネジメント傘下にいる[9]

人物編集

  • 愛用のヘルメットデザインは1985年にブランデル自身が考案した。その当時はF1を目指してフォーミュラ・フォードに参戦していたが、自らの好きな色であるブルーとイエローを基調としてイニシャル「MB」を組み合わせたデザインを考案しペイントした。頭頂部に大きく「MB」を配置したのは、将来F1までステップアップしていくことを夢見ていたので、それが実現できてモナコグランプリを走ることになったとしたら、名物コーナーであるロウズ・ヘアピンのロウズ・ホテルの階上からカメラマンがF1マシンをステアリングロックさせている自分を撮影するだろうとイメージし、上方からの視線では頭頂部に大きくイニシャルがあると判りやすいのではないか、と思いを巡らせて決定したのだという[10]。それから6年後にF1シートを得てモナコGP出走を果たし、夢を実現させた。
  • 1991年にF1ブラバムのシートを獲得しマーティン・ブランドルとコンビを組んだ際、2人の名前が非常に似ていたことが「ブラバムのブラ・ブラコンビ」として日本でF1を伝えているメディアで話題となった。2年後の1993年にはリジェで再びチームメイトとなり、1度ならず2度コンビを組んだことで更に注目されることとなる。当時F1中継で実況担当だった古舘伊知郎から「MBコンビ」「アナウンサー泣かせ」「F1界の峰竜太竜雷太」と言われていた他、1993年の開幕前のF1ポールポジションでは、ドライバー紹介の前に、漫才舞台の横に「ぶらんどる&ぶらんでる」とお笑いコンビのように表記された絵を登場させるネタも見られた。
  • 7歳先輩であるブランドルとは非常に良好な関係で、1991年のブランデルにとってF1ルーキーイヤーに「マーティン(ブランドル)は僕にとても力を貸してくれて、彼がそこまでする必要は無いのに、という事まで僕がチーム内で居心地いいよう配慮してくれて、気晴らしの方法を教えてくれたり、とても感謝している」と述べており[11]、それ以来の信頼関係がある。2004年に2人で共同設立したレーシングドライバー・マネージメント会社はともにイニシャルが同じことから「2MB」だった。その後ブランドルがテレビでの解説業などに集中するため会社から離れることとなり、2009年1月以降はブランデルが単独でオーナーとなった。社名は「2MB」のまま引き継がれ[12]、その後2013年7月5日付で「MB PARTNERS」に改名された[13]
  • アルコール類ではウォッカが飲めるが、「アルコール以外では何が好きか」と聞かれた際に「バナナ・ミルクシェイク」と答えている。
  • 1995年日本グランプリでは予選2日間ともにマシンを壊しまともにタイムアタックができず、結果グリッド最後尾の23番手[注釈 2]に沈んだ。この時の予選通過タイムは1日目のタイムアタック前にかろうじて1周した16:42.640が記録された[14]。(この時PPを取ったミハエル・シューマッハのタイムは1:38.023で、その差は+15:04.617。また、予選23位のベルトラン・ガショーは1:48.289。)このタイムはF1史上でも最も遅い予選通過タイムである[注釈 3]

レース戦績編集

国際F3000選手権編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1987年 フリートライ・レーシング SIL
Ret
VLL
5
SPA
2
PAU DON
9
BRH
6
BIR
DNQ
15位 5
BS・オートモービル PER
9
IMO
Ret
BUG
Ret
JAR
8
1988年 ローラ・モータースポーツ JER
2
VLL
5
PAU
Ret
SIL
9
MNZ
Ret
PER
Ret
BRH
3
BIR
Ret
BUG
7
ZOL
2
DIJ
Ret
6位 18
1989年 ミドルブリッジ・レーシング SIL
3
VLL
Ret
PAU
6
JER
DNQ
PER
Ret
BRH
Ret
BIR
5
SPA
DNS
BUG
Ret
DIJ
6
11位 8

全日本F3000選手権編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1988年 Footwork Sports レーシングチーム SUZ FSW MIN SUZ SUG FSW SUZ SUZ
Ret
NC 0

F1編集

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1991年 ブラバム BT59Y USA
Ret
BRA
Ret
19位 1
BT60Y SMR
8
MON
Ret
CAN
DNQ
MEX
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
12
HUN
Ret
BEL
6
ITA
12
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
DNPQ
AUS
17
1993年 リジェ JS39 RSA
3
BRA
5
EUR
Ret
SMR
Ret
ESP
7
MON
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
7
GER
3
HUN
7
BEL
11
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
7
AUS
9
10位 10
1994年 ティレル 022 BRA
Ret
PAC
Ret
SMR
9
MON
Ret
ESP
3
CAN
10
FRA
10
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
5
BEL
5
ITA
Ret
POR
Ret
EUR
13
JPN
Ret
AUS
Ret
12位 8
1995年 マクラーレン MP4/10 BRA
6
PAC
Ret
10位 13
MP4/10B SMR ESP MON
5
CAN
Ret
FRA
11
GBR
5
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
5
ITA
4
PAC
9
JPN
7
AUS
4
MP4/10C POR
9
EUR
Ret

世界スポーツプロトタイプカー選手権,スポーツカー世界選手権編集

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1989年 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R89C C1 SUZ DIJ
15
JAR
8
BRH NÜR DON
3
SPA
3
MEX
12
11位 27
1990年 日産・R90CK C1 SUZ MON
Ret
SIL
NC
SPA
10
DIJ
3
NÜR
5
DON
6
MTL
2
MEX
2
10位 16
1992年 プジョー・タルボ・スポール プジョー・905 C1 MON SIL LMN
1
DON SUZ MAG NC 0

ル・マン24時間レース編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1989年   NISMO   ジュリアン・ベイリー
  マーティン・ドネリー
日産・R89C C1 5 DNF DNF
1990年   ジュリアン・ベイリー
  ジャンフランコ・ブランカテリ
日産・R90CK C1 142 DNF DNF
1992年   プジョー・タルボ・スポール   デレック・ワーウィック
  ヤニック・ダルマス
プジョー・905 Evo 1B C1 352 1位 1位
1995年   ガルフ・レーシング
  GTCレーシング
  レイ・ベルム
  マウリツィオ・サンドロ・サーラ
マクラーレン・F1-GTR GT1 291 4位 3位
2001年   MG スポーツ&レーシング Ltd.   ジュリアン・ベイリー
  ケビン・マクガリティー
MG-ローラ・EX257 LMP675 92 DNF DNF
2002年   ジュリアン・ベイリー
  ケビン・マクガリティー
LMP675 219 DNF DNF
2003年   チーム・ベントレー   デビッド・ブラバム
  ジョニー・ハーバート
ベントレー・スピード8 LMGTP 375 2位 2位

注釈編集

  1. ^ 中内は「マークがブラフ(他チームからさらに好条件のオファーがあるとはったりをかけていたという。)を使ってたんですよね。それがちょっと・・・。F3000からの付き合いだし信頼してたんですけどね。」とインタビューで述べた。 「戦う名門 ブラバム」F1 CIRCUS フットワーク出版 1991年9月号
  2. ^ リジェ鈴木亜久里が予選中にクラッシュして決勝は不出場だった。そのため24番手だったが繰り上がっている。
  3. ^ 当時は参戦台数24台で107%ルールもないため、不出場以外での予選落ちがなかった。仮に107%ルールを考慮すると961.651%となる。

出典編集

[脚注の使い方]
  1. ^ ブランデル来季F1参戦を熱望「ウィリアムズでの2年のテスト貢献は、自分ではかなりの実績だと思っているんだ。理想を言わせてもらえればイギリスのチームでF1に出たい」 グランプリ・エクスプレス 1990年ハンガリーGP号 46頁 1990年9月1日発行
  2. ^ 準備進むブラバム・ヤマハ グランプリ・エクスプレス 1990年日本GP号 47頁 1990年11月8日発行
  3. ^ ブランデル残留決定のブラバム、11月には本拠移転を計画 GPX 1991年ベルギーGP号 30頁 山海堂 1991年9月14日発行
  4. ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.175-246「祭りの決算」。
  5. ^ My worst accident was at the Rio de Janeiro oval in 1996. ガーディアン 2002年9月14日
  6. ^ 元F1ドライバーのマーク・ブランデル、英国ツーリングカー選手権に参戦。アウディS3をドライブ - オートスポーツ・2019年2月19日
  7. ^ マーク・ブランデル、レースキャリアに終止符「引退を発表する時が来た」 - motorsport.com 2020年1月6日
  8. ^ a b 元F1ドライバーで現役退いたマーク・ブランデル、新チームを立ち上げ英国ツーリングカーに復帰 - オートスポーツ・2020年2月20日
  9. ^ ヤン・マーデンボロー、スーパーGT復帰への強い思いを語る「僕にはやり残したことがある」”. jp.motorsport.com 2021年5月17日. 2021年10月19日閲覧。
  10. ^ My helmet design since 1985 with my favourite colours & of course my initials on top(@markblundellf1)Twitter 2020年6月11日
  11. ^ INTERVIEW マーク・ブランデル GPX 1991ベルギー号 山海堂 1991年9月14日発行
  12. ^ Mark Blundell to expand driver management business 2MB”. Motorsport.com 2009年1月20日 - ウェイバックマシン(2021年3月7日アーカイブ分). 2021年10月19日閲覧。
  13. ^ Company name changed 2MB holdings LIMITED certificate issued on 05/07/13”. Companies House 2013-07-04. 2021年10月19日閲覧。
  14. ^ 1995年 日本GP DATA&RESULTS, http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Circuit/4027/j95li.html 2015年1月26日閲覧。 

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

タイトル
先代
フォルカー・ヴァイドラー
ジョニー・ハーバート
ベルトラン・ガショー
ル・マン24時間勝者
1992 with:
デレック・ワーウィック
ヤニック・ダルマス
次代
ジェフ・ブラバム
クリストフ・ブシュー
エリック・エラリー