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ミシャグジ長野県諏訪地方をはじめ、主に東日本中部関東地方中心)に祀られているである。

目次

呼称編集

「ミシャグジ」の発音は「サク」「シャグ」「サグ」「サコ」「サゴ」「ショゴ」などが見られ、中には「おシャモジ様」まであるという[注釈 1]。「ミシャグジ」のほかに、「ミシャグチ[2]」「サグジ[1][3]」「ミサクジ[4]」「ミサグチ[5]」「(お)さんぐうじ[1]」「(お)しゃごじ[1]」「じょぐさん[1]」「しゃごっつぁん[1]」「しゃごったん[1]」など多様な音転呼称がある。

当て字と漢字の組み合わせも大変多く(200以上もあるといわれている)、諏訪の古文書では「御左口神(みさぐじがみ)」「御射宮司(みしゃぐじ、御社宮司[6]とも)」「御作神(みさくじん)」が見られるが、柳田國男は「石神」として取り上げたこともある[7]。なお、石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を同一視する辞書は複数ある[8]が、『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』は「石神(いしがみ)とは異なる」としている[9]。また検地の神といって「尺神(しゃくじん)」をあて、検地棒や検地縄を奉納する所もある[7]。このほか、「佐軍神[1]」「射軍神[1]」「赤口神[1]」「参宮神[1]」「社子神[1]」「曲口[6]」「佐口[6]」「山護神[1]」「釈護子[1]」「御佐久知神[10]」「御闢地神[10]」などとも表記される。

名前の由来については諸説あり、を守護することから「作(さく)神」とする説や[6]、土地を開拓する(=さく)ことによってその中に秘められた生命力を表出させることから「御作(咲)霊(みさくち)」とする説[11][注釈 2]、または蛇神とされたことから「御赤蛇」とする説[12]などが唱えられる。

概要編集

ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになったと言われている。その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジの神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている[13]。ミシャグジの実態については様々な説があげられているが、解明されたとは言い難い[9]

分布編集

 
神長官守矢氏邸(神長官守矢史料館)内にある御頭御射宮司総社(茅野市高部)

ミシャグジの分布を調べた今井野菊によると、長野県には750余りのミシャグジ社が存在し、そのうち諏訪109社、上伊那105社、下伊那36社、小県104社などが多い郡であるという。全国では山梨県160社、静岡県233社、愛知県229社、三重県140社、岐阜県116社、滋賀県228社のほか関東各県にも見られる[7]

ミシャグジの実態編集

石の神か木の神か編集

幕末に書かれた『諏訪旧蹟誌』でミシャグジについてこう述べている。

御左口ミサグチ神、此神諸国に祭れど神体しかるべからず。或三宮神、或社宮司、或社子司など書くを見れど名義詳ならざるゆゑに書も一定せず。或説曰、此神は以前ムカシ村々検地縄入の時、先づ其詞を斎ひ縄を備へ置て、しばしありて其処より其縄をて打始て服収マツロヒむとぞ。おほかたは其村々の鎮守大社の戌亥にあるべし。此は即石神也。これを呉音石神シャクジンと唱へしより、音はおなじかれど書様は乱れしなり。[14]

『駿河新風土記』にも、村の量地の後に間竿を埋めた上でこの神を祀る一説がみられる他、『和漢三才図会』は「志也具之宮(しやぐのみや)」を道祖神塞の神の一種)としている[9]

柳田國男は、日本にみられる各種の石神についての山中笑らとの書簡のやりとりを『石神問答』[15]として1910年に出していた。神体が石ということからミシャグジを石神とする山中に対し、柳田は石を祀らないミシャグジもあり、石を祀ってもミシャグジといわない例があると指摘し、検地に使われる間竿がその神体として祀られることもあるから、ミシャグジは土地丈量の神であると主張した[16][17]。また、ミシャグジは大和民族に対する先住民によって祀られていた塞の神(境界の神)で、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であるとも考察した[18]。『石神問答』の再刊の序では、柳田は「是は木の神であったことが先ず明らかになり、もう此部分だけは決定したと言い得る」と宣言している[19][16]

この柳田の説に対して大和岩雄(1990年)は、自説に不都合だからか、柳田が『諏訪旧蹟誌』を引用した際に「此は即石神也」という文を省いていたと指摘し、そもそも『旧蹟誌』の著者がミシャグジを石神としたのは境の神に石神が多いからと書いている[16]。さらに大和は、ミシャグジが祀られる古樹の根元に祠があり、神体として石棒が納められているのが典型的なミシャグジのあり方だという今井野菊の観察に基づいて、ミシャグジはやはり石にもかかわっており、木の神と決定するわけにはいかないという見解を述べている[20]石埜三千穂(2017年)も、柳田が民間信仰としての石神の調査の延長としてミシャグジを扱っており、中世諏訪信仰にちゃんと注目していなかったからこの結論に至ってしまったと批判している[21]

鹿の胎児・酒の神編集

中山太郎は、昭和5年「御左口神考」の中で口噛み酒を古くは「みさく」「さくち」と呼ばれていたことからミシャグジは酒神であるという説を立てた。更に鹿の胎児が「さご」と称していたことや、諏訪大社と鹿の因縁深い関係からミシャグジの正体を雌鹿・孕み鹿とし、「鹿の胎児を造酒に用いる一種の呪術的作法が行われたのではあるまいかと思われるのである」と推察していた[22]

しかし、郷土史家の伊藤富雄にこの説に関して訊ねられた今井野菊は、鹿の胎児を酒造に用いる呪術的作法は聞いたこともない、と中山の推察を否定した。北村皆雄(1975年)も中山説を「どうも肯定しうるだけの説得力に欠けている」と批判すると同時に、中山が論考で取り上げた、三河国設楽郡振草村大字小林(現在の愛知県北設楽郡東栄町)に行われる種取りの神事で鹿の腹に納めるが「鹿のサゴ(胎児)」と呼ばれるのをミシャグジの名称、または土地の開拓との関係を「なんらかの因縁をつけることができるかもしれない」と推測している[23]。大和岩雄もこの情報を踏まえて、ミシャグジは植物(畑作・田作)だけだなく、動物にもかかわると提唱している[24]

ミシャグジと古木・石棒編集

 
峰湛(諏訪七木の一つ)

藤森栄一・今井野菊・宮坂光昭・古部族研究会(野本三吉、北村皆雄、田中基の3人)らの研究により、ミシャグジと石棒石皿との関係が明らかになった。上記の通り、今井の実地踏査で古木の根元に石棒を祀るのが最も典型的なミシャグジのあり方であることが判明した[25]。このことから、ミシャグジが木に降りて、石に宿る神霊だと信じられていたと考えられる。

北村は、ミシャグジの神体となっている石棒や石皿のほとんどが縄文中期のものだと指摘し、石棒は本来のミシャグジの神体ではなかったとする宮地直一の説に対して、ミシャグジ信仰のルーツを縄文中期の地母神信仰に求め、石棒の中にその信仰的胚珠をもっていたと捉えた[26]。いっぽう宮坂は神木・石棒信仰を古代の蛇信仰と結びつき(神木―蛇―男根―石棒)、諏訪大社の龍蛇信仰はやはり縄文中期に遡るといわれるミシャグジ(石棒)信仰と繋がっていると考えた[27]

ただし、ミシャグジだけでなく、天白神千鹿頭神(いずれも諏訪と関連を持つ神々)の祠にも石棒が祀られることがある[28]。また、諏訪大社上社の過去の祭事においては、ミシャグジが木や石だけでなく、や人間などにも憑くため、単なる木や石の神ではないという指摘もある。

神か精霊(神力)か編集

現在はミシャグジを「神」として見るのが一般的であるが、細田貴助(2003年)は「精霊人格神(神)とを、古くの日本人は区別していた。ミサクジを神とはしなかったであろう」と主張している[29]

これに対して石埜三千穂は、上社の神事においてミシャグジに憑かれた人が託宣する(神意を示す)ことがまずなく、一年の間に上社に奉仕する御頭郷おんとうごうを決める御占神事もあくまでも諏訪大明神の託宣であって、祭事中に降ろされるミシャグジはそのために作用しているに過ぎないと指摘している。このことからミシャグジは本来、抽象的な「諏訪大神のために働く純粋な力」(すなわち自然エネルギーそのもの)だと考えられていたと石埜が提唱している[30]

この説によればミシャグジが神格化されたのは中世以降のことであって、諏訪明神の眷属として扱われたことから諏訪御子神信仰との習合にまで至った。 

ミシャグジ信仰の根源編集

信仰の分布からミシャグジ信仰の淵源は、諏訪信仰に関わるとする見方がある[9]。昭和9年に書かれた「地名と歴史」の中で柳田はこう書いている[31]

荒神・山神・地ノ神・道祖神は、西部の諸県にもあるが、伊勢から紀州の一部を止まりにして東にしかないのは社宮司しゃぐじという神である。これについて二十年余りも前に、私は小さな本を一冊書いている。それから後に判ったことは、信州の諏訪が根源で、今は衰えてしまった土地の神の信仰ではないかということである[32]

神徳編集

神徳は百日咳治癒、口中病治癒、安産子育てなど様々だが、社祠神座伝承は年々消滅し続けている[9]

信仰編集

諏訪上社におけるミシャグジ編集

守矢氏と神氏編集

諏訪上社の神長官(じんちょうかん)を務めてきた守矢氏はかつて諏訪上伊那を中心とするミシャグジ祭政を統率した古代氏族であったと考えられている[33]。守矢氏の神職がミシャグジを扱うことができる唯一の人物とされ、ミシャグジを降ろしたり上げたり、または依代となる人や物に憑けたりする、いわばシャーマン)であった。諏訪の各郷村のミシャグジ信仰は、ミシャグジ奉斎を専門とする守矢氏の手に握られていたと考えられる[34]

しかし、ミシャグジ祭政を統括した守矢氏が外来勢力(のちの神氏[注釈 3]との覇権争いに敗れた後、祭政権の交代が行われ、大祝おおほうりと呼ばれる幼い現人神を中心とする新しい体制が生まれた。これが現地に伝わる建御名方神(諏訪明神)と洩矢神の争いの神話の由来であるといわれている[33]

大祝体制の成立により、従来のミシャグジ信仰が再編成された。旧体制の頂点であった守矢氏は諏訪明神の「御正体」(いわば身代わり)とされる大祝を祀る祭司の位置につき、古来の神ミシャグジを立てて、大祝の即位を執行するなど、大祝と守矢一体の祭政が確立した[38]。また、地方の各地に祀られているミシャグジはすべて諏訪明神の子孫とされ、明神の憑依者の大祝も在村のミシャグジの大元である「大祖先ミシャグジ」とされた。神氏系の支配者も各郷村にミシャグジの長として君臨し、大祝を現人神とあおぐ祭政一致政策を助けたといわれる[39]

前宮二十のミシャグジ編集

 
上社前宮にあった精進屋。古くは大祝となる者が即位に備えて厳しい修行を行った場所であったが、昭和7年(1932年)に取り壊され、現在の本殿が建てられた。

諏訪上社の前宮まえみやは、名前の通り上社の中で一番古い社で、かつては祭事の中心地でもあったため、いうまでもなくミシャグジとの縁が深い。

前宮周辺は元々守矢氏の本拠地であったが、大祝体制が成立してからこの土地を神氏に譲ったといわれている[40]。近世までは生き神大祝がこの一帯に居住したということから、「神原ごうばら」とも呼ばれた。また、建御名方神とその妃神の八坂刀売神はここに葬られたという地元の伝承もある。

郷村のミシャグジ信仰が諏訪明神(大祝)の下に系列づけられたとともに、大祝が住む前宮は在村のミシャグジ信徒から拝められる「大御社宮神」とされるようになった。嘉禎3年(1237年)の『諸神勧請段』に載録されている神楽歌によれば、古くは前宮には「二十のミシャグジ」が祀れていた[41][42]

前宮ワ廿ノ御社宮神 内ノオワカタ 外ノオワカタ

御社宮神ノ四ナノイトカ モモムスフ モモムスフ
ヤヱニホコレテ ゲキヤウメサレル[43]

(前宮は二十の御社宮神 内のおあがた 外のお県
御社宮神の四十のいともも結ぶ 百結ぶ

八重に綻れて 現形げぎょう召される)

このミシャグジは普段、「御ササ御左口神」としてに宿り前宮に常住していたが、元旦に行われる御頭御占神事の時に、神長官がミシャグジを大祝の代理となる6人の神使おこうと、14人の郷村の在地領主の村代神主むらしろこうぬしのために降ろす。ミシャグジが活躍する冬と春の神事のあと、あらためて笹に付けられ、前宮に鎮座される[44][45]。この時に各村のミシャグジ社の神体(笹の葉に結び付けられた、上社の神印を押印した紙)も前宮に納められ、神長官が新しい神体を配った。こうしてミシャグジは諏訪神社の体制の中にまるごと組み込まれたのである[46]

鉄鐸(さなぎの鈴)編集

 
佐奈伎鈴(鉄鐸)

銅鐸によく似た鉄製のすずは上社に神宝として残されている。この鉄鐸は截頭円錐形(いわゆるメガホン形)に丸めた薄い鉄板で作られたものであり、内部には鉄の舌が吊るしてある。現在、上社本宮に同形式のものが6個1連で3組保管されているが、これは元々守矢氏が管理していた[47][48]

「御宝鈴」「大鈴」「佐奈伎さなぎ鈴」等と呼ばれるこの鉄鐸は、誓約の鈴として、土地境界や戦争の和睦などの際に使用されたものである。また、春の耕作期直前、鉄鐸を持った6人の神使が諏訪地方の各地のミシャグジの地(樹木・岩石など)に人々を集めて、これを鳴らして神事を行った。こうしてミシャグジが豊穣をもたらし、その代わりに郷村民がお礼として農産物を貢上するという契約を成立させた。秋の収穫後、貢納の取りまとめを行う際に同様の神事が行われる[47][48][49]

鉄鐸の使用には礼銭が定められており、神長官の収入源の一つであった。郡外不出のものとされ、宝鈴のタブーを犯すと契約が破綻するといわれていた。また、違約のある時はミシャグジの祟りがあると信じられていた[47][48]

天文4年(1535年)、武田信虎諏訪頼満の和睦の際に、神長の守矢頼真が鉄鐸を鳴らしたという[50]

塩尻市にある小野神社にも12個1連の鉄鐸が保管されている。上社の鉄鐸とは異なり、原形のままに吊るされている。多数の麻幣が結びつけられており、御柱祭が行われる年にに1かけずつ結ぶ習わしが現在も続いている[51][52]

ミシャグジの祟り編集

ミシャグジは穢れた者を祟るといわれ、その祟りは一族、家に飼う犬鳥にまで下るとされてきた[53]。「ミシャグジの祟りがあった」といわれている出来事は以下の通りである。

  • 大祝即位式の時、神長官における授職を行わない人には神罰が下るとされた。戦国大名諏訪頼満は嫡子の頼隆を大祝に立てたが、頼満は32歳で死去した。神長官の守矢頼真はこれを「即位式不足による御罰」と言っている。大祝となった頼隆の嫡男である諏訪頼重も即位式も正式でなかったためか、母が死亡したので大祝を退位した。ところが、次の大祝として立つべき人がなく、再度大祝となったものの、即位式もなく、かつ一周忌もたたずして大祝となった結果、やがて武田晴信(信玄)に滅ぼされる[54]
  • 現人神である大祝は諏訪郡を出てはならない、または穢れの元となる人や馬の血肉に触れてはならないという厳しい不文律があった。この掟を破って奥州征伐に従軍し、また源義家(八幡太郎義家)の誘いで上京しようとした諏訪為信の子為仲は、大祝在職中ということで諏訪社一同に反対されたものの、それを押し切って出立したが、社の鳥居を出ると馬が数匹病気で倒れ、更に群外を出ると馬が七匹も病死した。やがて美濃国にたどりついたところ、源義光一行と酒宴を催するが、部下双方が喧嘩し死傷者を出すに及んで、為仲は責任をとって自害する。父の為信はこの事件を神罰と見なし、遺児の為盛を大祝の職に就けさせなかった。次に大祝となった為仲の弟の為継(次男)は任職3日後に頓死し、同じく弟の為次(三男)も任職7日後に急死したため(いずれも神罰とされている)、四男の為貞が当職を継ぐことになった[54]

神仏習合編集

平安末期に諏訪に本地垂迹説が入り、上社本宮には神宮寺・如法院・蓮地院・法華寺ができた。神長も仏教に影響され、祭事や大祝即位式に密教要素を導入し、他人に真似できないように複雑化した[55][56]

例えば、守矢氏に伝わった奥義書『諏訪大明神神秘御本事大事』[57]にみられる、ミシャグジを「付け申す」時の儀礼には印相真言が用いられている。

一、御左口神付申時ノ作法、四方ヲ礼シテ左右ノ手ヲ内縛ニ右ノ頭指ヲ立テ、去来シテ

南無廿ノ御左口神、来臨影向シテ護持ヲタレ玉ヘ 三反

ヲンアリナウミリダセンキリハラダウンタラタソワカ 三反[57][58]

また、室町時代に書写された『諏訪上社物忌令之事』(1237年成立)の写本(神長本)に載録されている「陬波六斉日精進之日記」[59]においては、「諏方南宮法性大明神・十三所王子[注釈 4]・御左口神(ミシャグジ)」が礼拝の対象とされ、6つの斎日に六道の主として六観音と習合された御左口神が当てられている[62]

南無皈命頂礼、大日本正一位諏方南宮法性大明神上下二宮。十三所王子御左口神。慚愧懺悔六根罪障。

六済日、同六道、菩提、御左口神御本地六観音。(中略)
十六日 地獄道之主、第一御左口神本地千手観音。(中略)
二十三日 餓鬼道之主、第二御左口神本地正観音。(中略)
晦日 畜生道主、第三御左口神本地馬頭観音。(中略)
一日 修羅道ノ主、第四御左口神本地十一面観音。(中略)
八日 人道ノ主、第五御左口神本地准胝観音。(中略)

十五日 天道ノ主、第六御左口神本地如意輪観音[59]

ミシャグジと諏訪御子神編集

 
諏訪明神の御子神を祀る若御子社(上社前宮境内)

草分けをつかさどるミシャグジは土地開発の功を立てたとされる建御名方神の御子神と同定される場合がある[10]明治時代神社明細帳においては、諏訪に存在していたおよそ40のミシャグジ社のほとんどが建御名方神(諏訪大神)の御子神を祀る神社と記録され、「ミシャグジ」という名の神を祭神として出ていた唯一の神社(芹ヶ沢の御射宮司社)においてもミシャグジが「健御名方命御子」として表れている[63]

ミシャグジを諏訪大明神の眷属神・御子神として位置付ける見方は既に中世に見られる。室町時代の神長官守矢満実によると、6人の神使も、御左口神も、「十三所(王子)」もすべて大明神の王子神であるという。

誠ニ当社御神の王子にて、外県両人は上野一宮御腹、内県大県四人は下宮ニやどらせ給、御誕生うたがひなし。御左口神も十三所と申も、当社の王子御一体、今こそ思合候思ひ合はせとて、弥不致祈念者いよいよ祈念を致さざる者なし。

この考えは、『上社物忌令』「波陬六斎日」に記されている「大明神・十三所王子・御左口神」と通じるとみられる[64]。また、『守矢神長古書』には、「当社にて御社宮神というのは皆御子孫の事言う也」とある[65]

ミシャグジと上社の神事編集

上社成立以後、ミシャグジは諏訪明神を祭る祭礼には欠かせない役割をしてきたが、単独に祀られることはなかった。ミシャグジが主に活躍したのは、冬から春にかけて行われる神事祭礼であった。

御室神事(一の御祭)編集

旧暦12月22日になると、諏訪郡の郷民が奉仕して神原(前宮)の一部に建築した御室みむろと呼ばれる広大な竪穴建物に大祝、神長官以下神職が参籠して穴巣始あなすはじめと呼ばれる儀式を始める。

諏方大明神画詞』(1356年成立)によると、

十二月廿二日、一の御祭。

大祝以下の神官、所末戸社にまう(詣)づ。行列例の如し、饗膳の儀又常の如し、同日御室入、大穴を掘て、其内に柱を立て、棟を高め萱を葺きて、軒のたる(垂)木をささへたり。今日、第一の御体を入奉る。大祝以下神官参籠す。(中略)

同廿九日、大夜明・大巳祭。又御体三所を入奉る。其儀式おそれあるによりて、是を委くせず。冬は穴にすみける神代の昔は、誠かくこそありけめ。[66]

御室に入れられる「第一の御体」とは、祭事に関する部分が所々改変されている神長本『画詞』[67]から、ミシャグジであることが明らかにされている[68]。また「御体三所」は、『年代神事次第旧記』(室町初期成立)から「そそう神」と称する神霊で、23日の神事の項に「例式小へひ入」とあることから3つの蛇体であることが分かる。25日の大夜明[注釈 5]には長さ55、太さ1尺5寸の蛇体3体と「又折」(何を指すかは不明)が御室に入れられるというが、この蛇形も「そそう神」であるという。すなわち、大小の蛇体が各々3体ずつ2日間を隔てて入れられている[68][70]。この蛇体はそれぞれ内県うちあがた外県そとあがた、そして大県おおあがた、信州内の神氏の領地を代表する3つの郷村によって作られ、御室まで持ち運ばれる[71]

『旧記』によると、24日の夜には「御笹」(笹に憑いている、前宮の「御ササ御左口神」)が御室にある萩組の座という祠の左より、「御正体」(上記の3体の小蛇)がその右より搬入される。萩組の座に安置された笹のミシャグジは「うたつの御左口神」とも呼ばれ、3月日までに御室の中に位置する。大小の蛇形も同様で、3月まで御室に納められていた[70]

注釈編集

  1. ^ 今井「御社宮司の踏査集成」では、長野県および他1都1府13県にまたがる、数千社での呼び名を調査している[1]
  2. ^ 実際に新海三社神社では主祭神で当地の開拓神である興波岐命のことを新開神(にいさくのかみ)と呼んでいる。
  3. ^ この外来勢力を稲作技術を持った出雲系民族とする説や[35]、馬飼集団の金刺氏科野国造家)とする説がある[36][37]
  4. ^ 上社の摂末社群の祭神[60]、あるいは後世でいう諏訪御子神の原型[61]を指す。
  5. ^ 室町中期に書かれた『画詞』と日付が異なっているのは、時間が経つにつれて祭事の日取りが変更されたからと思われる[69]

出典編集

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「御社宮司の踏査集成」118-187頁
  2. ^ 守矢早苗「守矢神長家のお話し」『神長官守矢史料館のしおり』、4頁。
  3. ^ 柳田国男 『石神問答』 近代デジタルライブラリー、2014(初版1910)、1ページ(コマ番号8)。
  4. ^ 細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、55頁。
  5. ^ 武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、121-144頁。
  6. ^ a b c d 今井野菊「御作神」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、183-189頁。
  7. ^ a b c 上田正明 他『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、24頁。
  8. ^ 大辞泉・明鏡国語辞典・ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディアにおける「いしがみ」の項。
  9. ^ a b c d e 『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』802頁
  10. ^ a b c 山田肇『諏訪大明神』信濃郷土文化普及会 <信濃郷土叢書 第1編>、1929年、136-138頁。
  11. ^ 大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、192-194頁。
  12. ^ 吉野 裕子『蛇 日本の蛇信仰』講談社、1999年、272-274頁。
  13. ^ 『悪魔事典』[信頼性要検証]184-185、282-283頁
  14. ^ 大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、189頁。
  15. ^ 柳田國男石神問答』 聚精堂、1910年
  16. ^ a b c 大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、190頁。
  17. ^ 北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、83頁。
  18. ^ 。「『遠野物語』研究草稿」20頁
  19. ^ 北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、79-80頁。
  20. ^ 大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、190-191頁。
  21. ^ 石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、75頁。
  22. ^ 北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、82-83頁。
  23. ^ 北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、83-84頁。
  24. ^ 大和岩雄『信濃古代史考』名著出版、1990年、201頁。
  25. ^ 北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、87-88頁。
  26. ^ 北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、92-97頁。
  27. ^ 宮坂光昭「蛇体と石棒の信仰―諏訪御左口神と原始信仰―」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、131-155頁。
  28. ^ 田中基「洩矢祭政体の原始農耕儀礼要素」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、192頁。
  29. ^ 細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、58頁。
  30. ^ 石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、73-78頁。
  31. ^ 北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、79頁。
  32. ^ 柳田國男地名の研究』 古今書院、1937年
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文献編集

関連文献編集

論文

関連項目編集