ミハイル・アレクサンドロフ (軍人)

ロシア帝国、白軍の軍人

ミハイル・アントノビッチ・アレクサンドロフロシア語:Михаил Антонович Александров1873年4月11日 - 1940年9月21日)は、ロシア帝国白軍の軍人[1]

1916年撮影

生涯編集

プスコフ県(現在のプスコフ州プスコフにて生まれる。父は顧問学長、母は貴族だった為、裕福に育てられる。

1880年、父と共にシンビルスクに向けて出発し、そこでシンビルスク士官候補生隊に入隊した。

1890年に卒業後は、第1軍事パブロフスク学校の一般士官候補生として入学し、翌年には下士官1892年にはハーネスユンカーロシア語版に昇進する。

卒業後は第93イルクーツク歩兵連隊ロシア語版に所属し、1908年第89ベロモルスキー歩兵連隊ロシア語版に転属するまで中佐に昇進する(この間に第3等、第2等聖スタニスラフ勲章英語版と第3等聖アンナ勲章英語版を授与される)。

転属後は大佐に昇進し、1910年6月12日に第2等聖アンナ勲章を授与される。

第一次世界大戦時は敵と戦った際の功績により、第4等聖ウラジミール勲章英語版を授与される。

内戦時はユデーニチ率いる北西軍の一員のヴィルヘルム・フォン・ゲニングスロシア語版率いるロシア義勇自衛隊[2]の指揮官として反ボルシェヴィキ闘争に参加する[3]

解散後はエストニアタリンに移住し、製材所で夜警を務め、1935年3月23日に市民権を取得した後は回顧録を書くなど、余生を過ごしたが、バルト諸国占領により、1940年7月23日NKVDに逮捕される。逮捕後はレニングラード州の第一刑務所に収容され、9月21日に心臓発作で死去する。

その他編集

ユダヤ人正統派

妻(1962年没)がいる。

 
ミハイルとパヴェル・コステロフ大佐(1916年)[4]

脚注編集