アブル=アッバース・アフマド・ブン・タルハアラビア語: أبو العباس أحمد بن طلحة‎, ラテン文字転写: Abuʿl-ʿAbbās Aḥmad b. Ṭalḥa, 854年頃もしくは861年頃 - 902年4月5日)、またはラカブアル=ムウタディド・ビッ=ラーフアラビア語: المعتضد بالله‎, ラテン文字転写: al-Muʿtaḍid bi-'llāh,「神に支えを求める者」の意)[2][3]は、第16代のアッバース朝カリフである(在位:892年10月15日 - 902年4月5日)。

ムウタディド
المعتضد بالله
アッバース朝第16代カリフ
Dinar of al-Mu'tadid, AH 285.jpg
ヒジュラ暦285年(西暦892年/893年)に鋳造されたムウタディドのディナール金貨
在位 892年10月15日 - 902年4月5日

出生 854年頃もしくは861年頃
死去 902年4月5日
バグダード
埋葬 バグダード
配偶者 カトル・アン=ナダー英語版
  シャガブ英語版[1]
  ダスタンブワイフ[1]
子女 ムクタフィー英語版
ムクタディル
カーヒル
ハールーン
王朝 アッバース朝
父親 ムワッファク英語版
母親 ディラール
宗教 イスラーム教スンニ派
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ムウタディドは叔父のムウタミドの治世下で執政として実権を握り、事実上のアッバース朝の統治者となったムウタミドの兄弟のムワッファク英語版の息子である。アッバース朝の王子としてムウタディドは父親の下でさまざまな軍事活動に従事し、特にザンジュの乱の鎮圧において重要な役割を果たした。ムワッファクは891年6月に死去し、ムウタディドは執政としてムワッファクの後を継いだ。ムウタディドは即座にムウタミドの息子で後継者と目されていたムファッワド英語版を後継者の立場から遠ざけた。892年10月にムウタミドが死去し、ムウタディドがカリフの地位を継承した。父と同様にムウタディドの権力は軍との間の緊密な関係に依存していた。当初この関係はザンジュの乱に対する軍事行動中に築かれ、後にカリフが直接主導した遠征活動によって強化された。ムウタディドはその行動力と能力を通して、過去数十年の混乱の中で失われた権力といくつかの地方をアッバース朝の下へ取り戻すことに成功した。

ムウタディドは一連の軍事行動によってジャズィーラスグール英語版、およびジバール英語版の各地方の支配を回復し、東方のサッファール朝と西方のトゥールーン朝に対しては条約を結ぶことで和解を実現した。これらの成功は財政をほぼ独占的に軍隊の維持へ向けることによってもたらされたものの、一方では財政基盤の再建に向けた取り組みが財務官僚機構の肥大化を招くことになり、結果として強欲なカリフであるという評判が定着することになった。また、ムウタディドは犯罪者を処罰する際の過酷さで有名であり、後に年代記作者たちはムウタディドの数多くの独創的な拷問方法を記録した。そして首都はサーマッラーからムウタディドが重要な建築活動に携わったバグダードへ戻された。スンニ派伝承主義の確固たる支持者であったにもかかわらず、ムウタディドはザイド派などのシーア派勢力との良好な関係の維持に努め、さらには自然科学に興味を示して学者や科学者へのカリフによる支援を再開させた。

しかし、これらの成功にもかかわらず、ムウタディドの治世は最終的にかなり短いものに終わったために、王朝の運勢を長期的な好転に導くことはできなかった。また、ムウタディドが主導したアッバース朝の再生は、自身の精力的な行動力に大きく依存していた。優秀とは言えない後継者の息子であるムクタフィー英語版の短い治世は、主にトゥールーン朝の領土の併合などいくつかの重要な成果を挙げたが、後継者たちはムウタディド程の行動力を持ち合わせず、新たな敵対勢力としてカルマト派の台頭を見ることになった。そしてムウタディドの治世の後半に明白となった官僚機構内部の派閥抗争の激化が続く数十年にわたってアッバース朝政府を弱体化させ、最終的には一連の軍の有力者たちの下での王朝の従属化につながり、この趨勢は946年ブワイフ朝によるバグダードの征服によって最高潮に達することになった。

初期の経歴編集

出自と背景編集

 
9世紀の中頃から終わりにかけてのアッバース朝の系図(緑色がカリフ)

ムウタディドはアッバース朝のカリフのムタワッキル(在位:847年 - 861年)の息子の一人であるタルハ(ムワッファク)とディラールという名のギリシア人奴隷の間に生まれた。ムウタディドの正確な生年月日は不明である。ムウタディドはさまざまな人物によって即位時に38歳または31歳であったと記録されているため、854年頃か861年頃の生まれであると考えられている[3][4][5]。861年にムタワッキルは長男のムンタスィル(在位:861年 - 862年)と共謀したトゥルク人警備兵によって暗殺された。この事件は当時のアッバース朝の首都の場所からサーマッラーの無政府状態英語版として知られる内部混乱の時代の始まりを告げ、混乱は870年のムウタディドの叔父にあたるムウタミド(在位:870年 - 892年)の即位によって終わりを迎えた。しかしながら、実権は支配層であるトゥルク人の奴隷軍人(ギルマーン、単数形ではグラーム)と、アッバース朝の主要な軍司令官として政府とトゥルク人の間の最も重要な仲介役となったムウタディドの父のタルハに握られるようになった。カリフと同様の様式でムワッファクの尊称を名乗ったタルハはすぐにアッバース朝の実質的な支配者となった。882年にはムウタミドがエジプトへの逃亡を図ったものの失敗に終わり、ムウタミドは軟禁下に置かれ、ムワッファクはその地位を固めた[6][7]

地方におけるアッバース朝の権威はサーマッラーの無政府状態の期間に崩壊し、その結果、870年代までに中央政府はイラクの大都市圏以外のほとんどの領域に対する実効的な支配を失った。西方ではトゥルク人の奴隷軍人であり、ムワッファクとシリアの支配をめぐって争ったアフマド・ブン・トゥールーン英語版がエジプトを支配下に置き、一方でホラーサーンと東方のイスラーム世界の大部分の支配がアッバース朝に忠実な勢力であったターヒル朝からペルシア系のサッファール朝に取って代わった。アラビア半島のほとんどの地域も同様に地元の有力者の手によって失われ、タバリスターンでは急進的なザイド派によるシーア派王朝が政権を打ち立てた。本拠地のイラクにおいてでさえ、イラク南部の大農園における労働力として連れて来られたアフリカ人奴隷であるザンジュによる反乱がバグダードに脅威を与え、さらに南方のカルマト派が危険な存在となりつつあった[8][9][10]。その結果として、ムワッファクによる執政は、体制が揺らぐアッバース朝を崩壊から救うための継続的な闘争の性格を有するようになった[11]。領土を拡大し、世襲統治者としての承認を得ることにアフマド・ブン・トゥールーンが成功したことで、エジプトとシリアの支配を取り戻すムワッファクの試みは失敗に終わった[12][13]。しかし、ムワッファクはバグダードの占領を目指したサッファール朝の侵略を撃退し、長い闘争の末にザンジュの乱を鎮圧したことで、イラクのアッバース朝の中核地帯を維持することには成功した[7][14]

ザンジュの乱とトゥールーン朝に対する軍事行動編集

 
9世紀から10世紀にかけてのイラクの主要都市を表した地図

将来のムウタディド(この時点では通常アブル=アッバースのクンヤで呼ばれている)はザンジュとの戦いの中で最初の軍事経験を積み、治世を特徴づける軍との緊密な関係を確立したと考えられている。ムワッファクはアブル=アッバースが幼い頃から息子に軍事教育を与え、若い王子は優秀な騎手になるとともに指揮官として強く期待されるようになり、部下たちとその馬の状態に個人的な気遣いを見せていた[3][15]

869年の反乱の勃発から10年以内にザンジュの反乱勢力はバスラワースィトを含むイラク南部のほとんどの地域を占領し、フーゼスターンにまで勢力を拡大した[7][16]。しかし、879年にサッファール朝の創始者であるヤアクーブ・アッ=サッファールが死去したことで、アッバース朝政府はザンジュの乱に対して十分に集中できるようになった[7][17]。そして879年12月の10,000人の部隊の司令官へのアブル=アッバースの任命は、戦争の転機を告げることになった[18]。その後のメソポタミア湿原英語版での水陸両面の作戦を伴う長く困難な戦いの中で、アブル=アッバースと自身のギルマーン(中でも長期にわたって仕えたズィラク・アッ=トゥルキーが最も著名であった)は重要な役割を果たした。アッバース朝の軍隊は最終的に増援部隊と志願兵、さらには反乱からの離脱者で膨れ上がったものの、軍の中核を形成し、その指導的な立場を占め、しばしばアブル=アッバース自らの指揮下で戦いの前線に立っていたのは少数の精鋭のギルマーンであった[19]。反乱勢力周辺の包囲網を何年にもわたって徐々に締め上げていった後、883年8月にアッバース朝軍が反乱軍の本拠地であるムフターラに猛攻撃を加えて反乱を終結させた[20][21]。以前の反乱参加者とアッバース朝軍の関係者から収集した情報を歴史書に残したタバリー923年没)は[22]、多くの問題を抱えたイスラーム国家を防衛し、反乱を鎮圧した英雄としてのムワッファクとアブル=アッバースの役割を強調している[23]。この成功裏に終わった軍事活動は、後のアブル=アッバースによるカリフの権力の事実上の簒奪を正当化する試みにおいてプロパガンダの重要な道具となった[23]

884年5月にアフマド・ブン・トゥールーンが死去した後、この状況を利用しようとしたアッバース朝の将軍のイスハーク・ブン・クンダージュ英語版ムハンマド・ブン・アビッ=サージュ英語版がシリアのトゥールーン朝の領土を攻撃した。885年の春にはアブル=アッバースが軍事侵攻の指揮を執るために派遣され、すぐにトゥールーン朝軍を打ち破ってパレスチナへ撤退させることに成功した。しかし、イスハークとムハンマドの両者と口論となり、両者は軍事作戦を放棄して自身の部隊を撤退させた。その後、4月6日に起こったタワーヒーンの戦い英語版でアブル=アッバースはアフマド・ブン・トゥールーンの息子で後継者のフマーラワイフ英語版と自ら対峙した。当初はアブル=アッバースが勝利を収め、フマーラワイフを逃亡させたが、続く戦いでは逆に敗北して自軍の多くの者が捕虜になるとともに自らは戦場から逃亡した[24][25]。トゥールーン朝はこの勝利の後にジャズィーラビザンツ帝国(東ローマ帝国)との国境地帯(スグール英語版)へ支配を拡大させた。886年に和平協定が結ばれ、その中でムワッファクは毎年の貢納と引き換えにフマーラワイフを30年間エジプトとシリアの世襲統治者として認めることを余儀なくされた[12][13]。アブル=アッバースは続く数年にわたってファールスをサッファール朝の支配から取り戻す父親の試みに関与したものの、この試みは最終的に失敗に終わった[26]

投獄とカリフへの登位編集

理由は定かではないものの、この数年の間にアブル=アッバースと父親の関係が悪化した。既に884年にはアブル=アッバースのギルマーンが、恐らく俸給の未払いをめぐってバグダードでムワッファクのワズィール(宰相)であるサイード・ブン・マフラド英語版に対し暴動を起こしていた[3][27]。結局アブル=アッバースは889年に拘束され、父親の命令で投獄された。その後、自身に忠実なギルマーンによるデモが発生したにもかかわらず、アブル=アッバースは獄中に留まり続けた。そしてムワッファクがジバール英語版で2年間過ごした後にバグダードに戻った891年5月まで拘束されたままだったとみられている[3][27]

痛風に苦しんでいたムワッファクは[2]、明らかに死に近づいていた。ワズィールのイスマーイール・ブン・ブルブル英語版とバグダードの長官のアブル=サクルが、後継者と見込まれていたムファッワド英語版を含むムウタミドとその息子たちをバグダードの市内に呼び寄せ、この状況を自分たちの目的のために利用しようとした。しかし、アブル=アッバースを遠ざけようとしたこの試みは、アブル=アッバースが兵士や民衆から高い評判を得ていたために失敗に終わった。アブル=アッバースは死の床にあった父親を訪ねるために釈放され、6月2日にムワッファクが死去した際に即座に権力を掌握することに成功した。バグダードの暴徒がアブル=アッバースの敵対者たちの家を荒らしまわり、イスマーイールは解任されるとともに投獄され、数か月後に虐待によって死亡した。アブル=アッバースの諜報員よって捕らえられたイスマーイールの支持者たちの多くも同様の運命を辿った[28][29]

今や全権力を掌握したアブル=アッバースは[28]、アル=ムウタディド・ビッ=ラーフの称号を名乗り、ムウタミドとムファッワドに次ぐ後継者の立場とともに父親のすべての官職を継承した[3][30]。そして数か月後の892年4月30日には従兄弟のムファッワドを後継者の地位から完全に排除した[3][31]。ムウタミドは892年10月14日に死去し[32]、ムウタディドがカリフとして権力を握った[3][33]

治世編集

 
ムウタディドの治世開始時点におけるアッバース朝の分裂状況を表した地図。アッバース朝の中央政府の直接統治下にある地域…濃緑、アッバース朝の名目的な宗主権を認める自立した政権の支配地…薄緑

東洋学者のハロルド・ボーウェンは、即位時のムウタディドについて次のように説明している。

外見は背筋が伸び痩せていた。顔には白いほくろがあったが、良い見た目とはされなかったために黒く染めていた。そして表情は高慢さを湛えていた。性格は勇敢であった — 短剣だけでライオンを殺したと噂されていた。…彼は父親のあらゆる活力を受け継いでおり、その迅速な行動力に対する評判を高めていた[5]

父親と同様にムウタディドの権力は軍との密接な関係に依存していた。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ英語版が指摘しているように、ムウタディドは「自分がカリフになることを保証しただけではなく、軍内の対抗者たちに屈辱を与え、その一派を解体した配下のギルマーンの支援によって、あらゆる法的な正当性に依らずに… つまるところ簒奪者としてカリフの地位に就いた」[34]。このため、特に軍事行動では大抵において自ら軍を率いていたことから、当然のように軍事活動がムウタディドの関心の中心を占めていた。これは戦うカリフやイスラームの信仰の擁護者(ガーズィー英語版)としての評判を高めた。歴史家のマイケル・ボナー英語版が述べているように、「ハールーン・アッ=ラシードによって生み出され、ムウタディドによって強化された「ガーズィー・カリフ」の役割は、ムウタディドの絶え間ない軍事活動によって今や最高の成果を挙げるに至った」[33][35]

ムウタディドはその治世の開始時からアッバース朝の分裂状態の解決に着手した[3]。そして実力行使と外交を交えてこの目標に取り組んだが、ケネディによれば、能動的で熱心な活動家である一方で「打倒するには非常に強力な勢力と常に妥協する準備ができていた熟練した外交官」でもあった[35]

トゥールーン朝との関係編集

この方針は、新しいカリフが自身の最も強力な臣下であるトゥールーン朝政権に対して示した融和的な態度によってすぐに明らかとなった。893年の春にムウタディドは年間300,000ディナールと未納となっていた200,000ディナールの貢納に加え、ジャズィーラの州のうちディヤール・ラビーア英語版ディヤール・ムダル英語版をアッバース朝の統治下に戻すことと引き換えにフマーラワイフをエジプトとシリアの自立したアミールとして承認し、その立場を再確認した[36]。条約を締結するためにフマーラワイフは娘のカトル・アン=ナダー英語版(「露の滴」を意味する)をカリフの息子の一人に花嫁として差し出したが、ムウタディドは自ら結婚することを選んだ。トゥールーン朝の公女は持参金として1,000,000ディナールを持ち込んだ。歴史家のティエリ・ビアンキによれば、これは「中世のアラブの歴史の中で最も贅沢であると考えられた結婚祝い」であった[24][37]。バグダードへのカトル・アン=ナダーの到着は、貧窮化していたカリフの宮廷とは全く対照的な公女の従者の豪華さと贅沢さが特徴をなしていた。ある言い伝えによれば、徹底的な調査の結果、ムウタディドの宦官の長官は宮殿を飾るための細かい装飾が施された銀と金の燭台を5つしか見つけることができなかったが、一方で公女にはそれぞれ同様の燭台を持つ150人の召使いが随行していた。するとムウタディドは、「さあ、我々が困窮していると見られないように立ち去って身を隠そう」と語ったといわれている[24]

カトル・アン=ナダーは結婚式から間もなく死去し、フマーラワイフも896年に殺害されたため、トゥールーン朝はフマーラワイフの不安定な未成年の息子たちの手に委ねられた。ムウタディドはこの状況を素早く利用し、897年に国境地帯に位置するスグールの各アミール政権に対する支配を拡大させた。マイケル・ボナーによれば、そこでムウタディドは「長らく中断されていた毎年恒例の夏季の遠征を指揮し、ビザンツ帝国に対する防衛体制を整えるという古いカリフの大権を担った」。さらに、新しいトゥールーン朝の統治者であるハールーン・ブン・フマーラワイフ(在位:896年 - 904年)は、自身の地位に対するカリフの承認を確保するためにさらなる譲歩を余儀なくされ、ホムスより北方のシリア全域をアッバース朝へ返還するとともに年間の貢納額が450,000ディナールに引き上げられた[35][38]。その後の数年間で、残りのトゥールーン朝の領内における混乱の拡大とカルマト派の襲撃の激化によって、多くのトゥールーン朝の追従者たちが勢力を挽回したアッバース朝へ逃れるようになった[38]

ジャズィーラ、南コーカサス、およびビザンツ帝国に対する戦線編集

 
中世のジャズィーラ(赤色部分)と主要都市の位置を表した地図。現代の国境線も示されている。

ムウタディドはジャズィーラメソポタミア北部)でさまざまな対立勢力と戦った。これらの勢力の中には、ほぼ30年に及んでいたハワーリジュ派の反乱勢力英語版に加えて多くの自立していた現地の有力者がいた。その中でも代表的な存在は、アーミドディヤール・バクル英語版を支配していたシャイバーン族英語版アフマド・ブン・イーサー英語版タグリブ族英語版の族長であるハムダーン・ブン・ハムドゥーン英語版であった。893年にムウタディドはハワーリジュ派が内部抗争に注意を逸らしている間にシャイバーン族からモースルを奪った。895年にはハムダーン・ブン・ハムドゥーンが自身の本拠地からの退去を強いられ、追い詰められた末に拘束された。一方でハワーリジュ派は、最終的に指導者であるハールーン・ブン・アブドゥッラーが896年にハムダーン・ブン・ハムドゥーンの息子のフサイン・ブン・ハムダーン英語版に敗れて捕らえられ、バグダードへ送られた後に磔刑に処された。フサイン・ブン・ハムダーンのこの功績は、アッバース朝軍におけるフサインの輝かしい経歴と、後にジャズィーラの支配権の獲得に至ったハムダーン朝の段階的な隆盛の始まりを告げた[3][4][39]。アフマド・ブン・イーサーは898年に死去するまでアーミドの支配を維持し、死後は息子のムハンマド・ブン・アフマド英語版に支配が引き継がれた。翌899年にムウタディドはジャズィーラに戻り、ムハンマドをアーミドから追放すると長男で後継者のムクタフィー英語版を総督の地位に据え、中央政府の統治下でジャズィーラ全域を再統一した[3][40]

しかしながら、現地の諸勢力が事実上独立して支配を維持していたジャズィーラの北に位置する南コーカサスアルメニアアーザルバーイジャーンに対する実効支配をアッバース朝の下に取り戻すことはできなかった[40]。当時アーザルバーイジャーンのアッバース朝の総督であったムハンマド・ブン・アビッ=サージュは898年頃に独立を宣言したものの、すぐにキリスト教徒のアルメニア人諸侯との対立中にカリフの宗主権を再承認した。ムハンマドが901年に死去すると息子のディーウダード・ブン・ムハンマド英語版が後継者となり、半ば独立した勢力となったサージュ朝英語版によるこの地域の統合に至った[41]。ムハンマド・ブン・アビッ=サージュは900年タルスースの有力者の協力の下でディヤール・ムダルの占領を企てたとする嫌疑をも掛けられ、その後、報復行為に出たカリフがタルスースの有力者たちの拘束と都市の艦隊の焼却を命じた[4][42]。この決定は何世紀にもわたるビザンツ帝国に対する戦争において自ら不利な状況を招くことになった。それ以前の数十年間にタルスースの住民とその艦隊はビザンツ帝国の国境地帯に対する襲撃で重要な役割を担っていた[43]。その一方で、900年頃にギリシア人改宗者であるダムヤーナ・アッ=タルスースィー英語版の率いるシリアの艦隊がデメトリアス英語版の港を略奪し、アラブ艦隊は続く20年にわたってエーゲ海に大混乱をもたらした。これに対してビザンツ帝国はメリアス英語版などのアルメニア人亡命者の流入によって陸側で勢力を強めた。そして国境地帯を越えて支配を拡大し始め、アラブ側に勝利を収めるとともに双方の帝国間のかつての無人地帯に新たな軍管区(テマ)を設置した[44]

東方地域とサッファール朝編集

 
 
ザランジ
 
ホラーサーン
 
ホラズム
 
スィジスターン
 
アーザル
バーイジャーン
 
ジバール
 
ファールス
 
マクラーン
 
タバリスターン
 
イラク
 
フーゼ
スターン
 
サワード
 
バフライン
900年頃のペルシア周辺の主な地名と主要都市の地図

イスラーム世界の東方では、ムウタディドはサッファール朝と暫定協定を結び、その支配の存在を受け入れざるを得なかった。ケネディによれば、恐らくカリフはターヒル朝が過去数十年間に享受していたものと類似した協力関係によってサッファール朝を利用したいと考えていた。この協定の結果、サッファール朝の支配者であるアムル・ブン・アッ=ライスはファールスだけではなくホラーサーンとペルシア東部の領有を認められ、一方でアッバース朝はペルシア西部、具体的にはジバール、レイ、およびエスファハーンを直接統治することになった[3][38]。この政策によって、カリフはエスファハーンとニハーヴァンドを中心としたもう一つの半独立の地方政権であるドゥラフ朝英語版の支配地の奪回に向けて自由に行動を起こせるようになった。ドゥラフ朝のアフマド・ブン・アブドゥルアズィーズ・ブン・アビー・ドゥラフが893年に死去すると、ムウタディドは自分の息子のムクタフィーをレイ、カズウィーンクム、およびハマダーンの総督に据えるべく迅速に行動を起こした。そしてキャラジとエスファハーン周辺の中核地域に勢力範囲を狭められたドゥラフ朝は896年に完全に追放された。しかし、この成果にもかかわらず、特にタバリスターンのザイド派政権に近接していたためにこれらの地域に対するアッバース朝の支配は不安定なままであり、897年にはレイの支配権がサッファール朝の手に渡った[38][45]

ペルシアにおけるアッバース朝とサッファール朝の協力関係は、レイに拠点を置き、この地域に対する双方の政権の利益を脅かしていた軍事指導者のラーフィ・ブン・ハルサマ英語版に対する共同での対応によって最も明確な成果を見せた。ムウタディドはアフマド・ブン・アブドゥルアズィーズを派遣してラーフィからレイを奪い、これに対してラーフィはサッファール朝からホラーサーンを奪うために逃亡し、タバリスターンのザイド派政権と連携した。しかし、アムル・ブン・アッ=ライスがラーフィに対する大衆の反アリー派感情を扇動したことで期待されたザイド派からの支援は実現せず、ラーフィは896年にホラズムで敗北して殺害された。この頃のアムルは自身の勢力の絶頂期にあり、アムルは敗北した反抗者たちの首をバグダードへ送った。その後カリフは897年にレイの支配権をアムルに譲った[46]

最終的にアッバース朝とサッファール朝の協力関係は、ムウタディドが898年にアムルをマー・ワラー・アンナフルの総督に任命した後に崩壊した。マー・ワラー・アンナフルは実際にはアムルの対抗勢力であるサーマーン朝によって支配されており、ムウタディドはアムルがサーマーン朝と対立するように仕向けていた。結局アムルは900年にサーマーン朝に対して壊滅的な敗北を喫し、捕虜となるだけに終わった。サーマーン朝の統治者であるイスマーイール・ブン・アフマドはアムルを鎖につないでバグダードへ送り、アムルはそこでムウタディドの死後の902年に処刑された。ムウタディドは見返りとしてイスマーイール・ブン・アフマドにアムルが所持していた各種の称号と総督の地位を与えた。そしてムウタディドも同様にファールスとケルマーンを取り戻すために行動を起こしたが、アムルの孫のターヒル・ブン・ムハンマド英語版に率いられたサッファール朝の残存勢力は十分な回復力を見せ、アッバース朝がこれらの地域を占領する試みを数年にわたって阻止した。最終的にアッバース朝が切望していたファールスの奪回に成功したのは910年のことであった[3][47][48]

外縁地域における新たな宗派の台頭と勢力の分裂編集

9世紀の間にシーア派の教義に基づいたさまざまな新しい運動が出現し、既存の政権に対する主な敵対活動の中心がハワーリジュ派からこれらの運動に取って代わった。新しい運動を担った人々はアッバース朝帝国の外縁地域で最初の成功を収めた。タバリスターンでのザイド派による支配権の獲得は後にイエメンでも繰り返された。そしてムウタディドの治世下で新たな危機の芽となっていたカルマト派がアッバース朝統治下の大都市圏の近辺に現れた[49]。874年頃にクーファで成立したイスマーイール派の過激な分派であるカルマト派は、もともとサワード英語版(イラク南部)における散発的で小規模な妨害勢力であったが、897年以降、その勢力は驚くべき規模で急速に成長した。アブー・サイード・アル=ジャンナービー英語版の指導の下でカルマト派は899年バフライン英語版(東アラビア)を占領し、翌年にはアル=アッバース・ブン・アムル・アル=ガナウィー英語版が率いるカルマト派の軍隊がアッバース朝軍を打ち破った[50][51]。ケネディの言葉を借りれば、ムウタディドの死後の数年間にカルマト派は「ザンジュの乱以降にアッバース朝が直面した最も危険な敵であることを証明することになった」[3]。同じ頃にクーファのイスマーイール派の教宣員であるアブー・アブドゥッラー・アッ=シーイーメッカへの巡礼中にベルベル人クターマ族と接触を持った。アブー・アブドゥッラーの改宗運動はクターマ族の間で急速に進展し、902年にはアッバース朝の宗主権下にあったイフリーキヤアグラブ朝への攻撃を開始した。アグラブ朝に対する征服活動は909年に完了し、ファーティマ朝とその政権の基盤が確立された[52]

国内統治編集

財政政策編集

 
ムウタディドによるアッバース朝の統合に向けた軍事行動の結果を表した地図(900年頃)。アッバース朝の直接統治下にある地域…濃緑、アッバース朝の緩い宗主権下に置かれた自立政権の支配地…薄緑

ムウタスィムによる改革を経たアッバース朝の軍隊は過去のカリフの軍隊よりも小規模であり、より専門的な戦闘集団であった。この新しい軍団は軍事面での効果の高さを証明したものの、一方でアッバース朝政権の安定に潜在的な危険をもたらしていた。カリフの統治する領域の外縁地帯やさらに遠方の地域からトゥルク人やその他の民族の人々が軍に徴用されたが、これらの者たちは国家の中心地の社会からは疎外されていた。ケネディによれば、その結果、兵士たちは「収入だけではなく、自らの生存そのものを国家に完全に依存していた」。結果として中央政府による報酬の供給に問題が生じた場合、軍事蜂起や政治危機が発生した。これはサーマッラーの無政府状態の間に繰り返し実証されていた出来事であった[53]。このため、軍隊への報酬の定期的な支払いを確保することが国家の最も重要な任務となった。ケネディはムウタディドの即位以降の財務文書に基づいて以下のように指摘している。

一日あたり7,915ディナールの総支出のうち、5,121ディナールは完全に軍事的な支出であり、1,943ディナールは軍事と非軍事の両方に役務を提供している領域(移動用の動物や厩舎など)への支出で、官僚やハレムなどの純粋な文民領域(この場合でも官僚の主な存在意義は軍の報酬を手配することにあったとみられる)に対する支出は851ディナールしか説明できない。記録に残る政府支出のうち80パーセント以上が軍隊の維持に向けられたと結論付けるのは合理的であるように思われる[54]

このような状況に加え、税を納めていた非常に多くの地域が中央政府の統制から失われて以降、国家の財政基盤が劇的に縮小していた[55]。今やアッバース朝政府は内戦の混乱と灌漑ネットワークの放置によって農業生産性の急速な低下を経験していたサワードとイラク南部の他の地域からの歳入にますます依存するようになった。ハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)の治世にサワードは年間102,500,000ディルハムの歳入をもたらしていた。これはエジプトの歳入の2倍を超え、シリアの歳入の3倍に達した。しかし、10世紀初頭までにその数字は3分の1未満に減少した[56][57]。アッバース朝の下に留まっていた地方では、半ば自立していた総督、高官、および支配者層が(しばしば支払いを怠った)一定額の納税と引き換えに徴税を請負うムカーター(muqāṭa'a)と呼ばれる制度の恩恵を受けて事実上の大土地所有の確立を可能にしたためにさらに状況が悪化した[56][58]。アッバース朝は残っている領土からの歳入を最大化するために中央官僚機構の規模を拡大させるとともに組織を複雑化させ、地方をより小さな税区に分割して財務諸庁(dīwān)の数を増やした。これらの財務諸庁の存在は、徴税と役人自身の活動の双方に対する細部に及ぶ監視を可能にした[59]

フェドワ・マルティ=ダグラス英語版によれば、カリフはこの財政危機と闘うためにしばしば自ら税務当局の監督に専念し、「ほとんど強欲と紙一重な倹約の精神」によるものだという世評を得ていた。また、ハロルド・ボーウェンによれば、「庶民が考慮することを軽蔑するであろう取るに足らない報告を調査する」と言われていた[5][60]。ムウタディドの統治下で結果的に歳入となる各種の罰金と没収が増加し、同時に王領からの収入や地方の税収の一部までもがカリフの個人資金(bayt al-māl al-khāṣṣa)の形で流れていった。この資金は今や各財務諸庁の間で中心的な役割を果たすようになり、しばしば国庫(bayt al-māl al-ʿāmma)よりも多くの資金を保持していた[61][62]。ムウタディドの治世の終わりまでに、即位時には空であったカリフの個人資金は10,000,000ディナールに達した[5]。その一方で農民の税負担を軽減するための措置として、ムウタディドは895年に課税年度の開始を3月のペルシアの新年から6月11日に変更した。これは「ムウタディドの新年」(Nayrūz al-Muʿtaḍid)として知られるようになった。これによって地租kharāj)は収穫期の前ではなく後から徴収されるようになった[35][63][64]

政権の人事と官僚機構内部の対立編集

ムウタディドの政策によってワズィール(宰相)は文民官僚における立場を強めた。そして軍においてさえもカリフの代弁者として敬意を払われるようになり、この時期にワズィールの影響力は頂点に達した[14]。また、ムウタディドの治世における人事面の特徴は、国家の高位の指導者間で共通していた地位の継続性にあった。ワズィールのウバイドゥッラー・ブン・スライマーン・ブン・ワフブ英語版は、治世の開始から901年に死去するまでその地位を保持し続けていた。その後は同様に治世の初期からウバイドゥッラーが首都を不在にしている間に代理を務めていた息子のアル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラー英語版に地位が引き継がれた。ムワッファクに仕え、娘がカリフの息子(ムクタディル)と結婚した古参の解放奴隷であるバドル・アル=ムウタディディー英語版も軍の最高司令官の地位に留まり続けた。財務諸庁は、(特にサワードにおいて)治世の初期にはフラート家英語版Banu'l-Furāt)の兄弟であるアフマド・ブン・アル=フラート英語版アリー・ブン・アル=フラート英語版によって統制され、899年以降はジャッラーフ家(Banu'l-Jarrāḥ)のムハンマド・ブン・ダーウードとその甥のアリー・ブン・イーサー英語版が統制した[65][66][67]。11世紀の歴史家のヒラール・アッ=サービー英語版は、治世開始当初の統治チームであり非常に効果的で協調が取れていた「ムウタディド、ウバイドゥッラー、バドル、そしてアフマド・ブン・アル=フラートのような、カリフ、ワズィール、最高軍司令官、ディーワーンの長官の四人組は(後の世代には)決して存在しなかった」と指摘している[68]

一方でマイケル・ボナーが指摘するように、ムウタディドの治世の後半は「軍隊や都市の一般市民の生活の中においても目に付く程の官僚機構内部における派閥争いの増加をみた」[66]。官僚機構内部の二つの支配層であるフラート家とジャッラーフ家の間の広範な庇護民のネットワークを伴う激しい対立関係はこの時期に始まった。有能なカリフとワズィールはこの対立を抑え込むことができたものの、その後の数十年間にわたってアッバース朝政府をこの対立関係が支配し、官僚機構内部の派閥は相互に入れ替わり、財貨を収奪するためにムサーダラ(muṣādara)として知られる確立されていた慣行に従ってしばしば前任者に罰金や拷問が課された[14][69][70]。さらに父親からワズィールの地位を継いだアル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラーは父親とは全く異なる性格をしていた。ワズィールに任命された直後にはムウタディドを暗殺する陰謀を企て、バドルを自分の計画に巻き込もうとした。バドルは憤慨してその提案を拒否したが、アル=カースィムはカリフの急死によって事の露見と処刑を免れた。その後は新しいカリフのムクタフィーを支配下に置こうと試み、バドルを非難して処刑へ追い込むために迅速に行動を起こし、フラート家に対するさらなる多くの陰謀に関与した[71]

バグダードへの首都の帰還編集

ムウタディドはサーマッラーからバグダードへの首都の帰還を完了させた。バグダードは既に父親の重要な活動拠点として機能していたものの、都市の中心部はティグリス川の東岸に移転し、その場所は1世紀前に第2代カリフのマンスール(在位:754年 - 775年)によって築かれた当初の中心部である円城のさらに下流に位置していた[72]。10世紀の歴史家のマスウーディーが記しているように、カリフの二つの主な情熱は「女性と建築」(al-nisāʿwaʿl-banāʿ)であり[5]、それに従うように首都における重要な建築活動に従事した。ムウタディドは使われなくなっていたマンスールの大モスク英語版を修復して拡張した[73]。さらにハサニー宮殿英語版を増築し、新しくスライヤー宮殿英語版プレアデスの宮殿)とフィルドゥース宮殿(楽園の宮殿)を建設するとともに、ムクタフィーの下で完成したタージュ宮殿英語版(王冠の宮殿)の建設を開始した[74][75]。また、都市を流れる灌漑用水路の修繕にも注意を向け、水路から利益を得る立場にあった地主の資金から経費を賄い、ドゥジャイル運河英語版に堆積していたシルトを除去した[72]

神学的な信条と科学の振興編集

イスラームの教義に関してムウタディドはその治世の開始当初からスンニ派伝承主義英語版を固く支持し、神学的な研究を禁じるとともにハンバル学派の法的な見解において違法と見なされた国家に帰属する資産について、これを管轄していた財務部門を廃止した[76]。その一方でアリー家英語版を支持する勢力との良好な関係を維持しようと努め、ウマイヤ朝の創設者であり、アリー・ブン・アビー・ターリブの主要な敵対者であったムアーウィヤに対する公的な非難を命じることを真剣に検討するまでになった。しかし、ムウタディドはそのような行為がもたらす可能性がある予期せぬ結果を恐れた助言者によって、最後の段階になって実行を思い留まった。さらにアッバース朝から分離したタバリスターンのザイド派のイマームと良好な関係を維持したが、ムウタディドの親アリー家の姿勢は901年のイエメンにおける第二のザイド派政権樹立の阻止には役立たなかった[76]

また、ムタディドは9世紀前半のカリフであるマアムーン(在位:813年 - 833年)、ムウタスィム(在位:833年 - 842年)、およびワースィク英語版(在位:842年 - 847年)の下で繁栄していた学問と科学の伝統を積極的に奨励した。かつての系統的な各種の努力に対する宮廷の支援は、正統的なスンニ派への回帰と科学的な探求への嫌悪感を示したムタワッキルの下で減少していた。さらにムタワッキルの後継者たちには知的探求に関与するだけの余裕がなかった。ケネディによれば、ムウタディドは自ら「自然科学に熱心な興味を抱いて」いた。そしてギリシア語を話すことができたムウタディドは、同時代の偉大なギリシア語文献の翻訳者であり数学者の一人であったサービト・ブン・クッラ、さらには文献学者のイブン・ドゥライド英語版アブー・イスハーク・アル=ザッジャージュ英語版の経歴を引き上げ、ザッジャージュについてはカリフの子供たちの家庭教師となった[77]。当時の著名な知識人の中にはムウタディド自身の家庭教師であった偉大な哲学者キンディーの弟子であるアフマド・ブン・アッ=タイイブ・アッ=サラフシー英語版がいた。サラフシーはカリフと親しい仲になり、バグダードの市場を監督する実入りの良い役職に任命されたものの、後にカリフの怒りを買い、896年に処刑された。ある説明によれば、アル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラー(ムウタディドの宮廷の逸話において頻繁に悪役として登場する)が処刑すべき反逆者のリストにサラフシーの名前を付け加えた。カリフはリストに署名し、自分の古い師が処刑されてしまった後に初めて己の過ちを知った[78]

ムウタディドの下での司法と刑罰編集

ムウタディドの下での司法制度の特徴について、マルティ=ダグラスは「サディズムに近い過酷さ」であったと表現している。過ちに対して寛容であり感傷や愛情の表現を理解していた一方で、怒りを呼び起こされた場合には非常に独創的な方法による拷問に訴え、さらには自身の宮殿の下に特別な拷問部屋を設置していた。マスウーディーやマムルーク朝の歴史家であるサファディー英語版などの年代記作者たちは、カリフが囚人たちに加えた拷問やバグダードにおいて囚人たちを公衆に晒すことで見せしめにするという慣行をかなり詳細に説明している。例としてカリフが囚人たちの体を膨らませるためにを用いたり、あるいは落とし穴へ体を逆さまにして埋め込んでいたと記録している。また、同時に両者は国家の利益に適うものとしてムウタディドの厳しさを正当化している。サファディーはアッバース朝の創設者であるサッファーフ(在位:750年 - 754年)と比較してムウタディドを「サッファーフ2世」と呼んだが、これについてマルティ=ダグラスは、王朝の運勢の回復を強調しているだけではなく、サッファーフの通り名である「血を流す者」という意味を率直にほのめかしていると指摘している[5][79]

死と遺産編集

ムウタディドは902年4月5日にハサニー宮殿において40歳もしくは47歳で死去した[4][80]。ムウタディドは毒殺されたのではないかという噂が存在したが、その軍事活動の厳しさは放縦な生活態度と相まって恐らくムウタディドの健康を著しく害していた。最後の病気を患っている間にムウタディドは医師たちの助言に従うことを拒否し、医師のうちの一人を蹴り殺しさえした[4][80]。子供に関してムウタディドは4人の息子と数人の娘を残した[80]。息子たちのうち、ムクタフィー英語版(在位:902年 - 908年)、ムクタディル(在位:908年 - 932年)、カーヒル(在位:932年 - 934年)の3人が順番にカリフとなって統治し、最後のハールーンのみがカリフにはならなかった[81]。また、ムウタディドはバグダードの市内に埋葬された最初のアッバース朝のカリフであった。後の息子たちと同様に、ムウタディドはこれらのカリフによって第二の住居として使用されたバグダードの西部に位置するかつてのターヒル朝の宮殿英語版に埋葬された[82]

ムウタディドがカリフになると不和はなくなり、地方は再び従順になり、戦争は止まり、物価は下がり、混乱は収まった。反抗する者たちは新しいカリフに屈服し、権力は勝利によって確固なものとなり、東方と西方ではその存在が認められ、敵対者たちや勢力を争った者たちのほとんどがムウタディドの威光に敬意を表した。
マスウーディー(896年 - 956年), 黄金の牧場と宝石の鉱山[83]

東洋学者のカール・ヴィルヘルム・ゼッテルステーン英語版によれば、ムウタディドは「父親の統治者としての才能を受け継ぎ、経済面と軍事面の能力も父親同様に際立っていた」。そして「その厳格さと残忍性にもかかわらず、アッバース朝における最も偉大な人物の一人」となった[4]。一方でケネディは、高い手腕を示したムウタディドの統治はアッバース朝の衰退をしばらくの期間食い止めたことで高く評価されているものの、その成功は精力的な統治者の指導力にあまりにも大きく依存していたと指摘している。そしてムウタディドの治世について、「長期に及んだ傾向を覆し、アッバース朝の支配力を長期的に回復させるにはあまりにも短いものに終わった」と述べている[3]

ムウタディドは息子であり後継者であるムクタフィーをレイとジャズィーラの総督に任命することで本人が迎える役割に備えようと注意を払っていた[3][84]。しかしながら、ムクタフィーは父親の方針に従おうとはしたものの、行動力に欠けていた。ムワッファクとムウタディドによって高度に軍事化された支配体制は、カリフが積極的に軍事行動に関与し、個人的に模範を示し、カリフの引き立てによって強化される忠誠心に基づく連携を支配者と兵士の間で築き上げることが求められていた。一方で、マイケル・ボナーによれば、ムクタフィーは「その性格や態度において… いつも座ってばかりの人物であり、兵士に忠誠心を植え付けたり、ましてや兵士を鼓舞するようなこともなかった」[85]。それでもアッバース朝は905年にトゥールーン朝の領土を再併合し、カルマト派に対して勝利を収めるなど、その後の数年間で大きな成功を手にすることができたが、908年のムクタフィーの死によって、いわゆる「アッバース朝の再生」の時代はその最盛期を終えることになった。そして新たな危機の時代が始まった[86][87][88]

今や権力は意志が弱く他人に左右されがちであったムクタディルをカリフに据えた高級官僚によって行使されるようになった。続く数十年にわたって宮廷と軍隊の双方の支出が増大するのと同時に行政上の不正も増加し、さらには軍と官僚の派閥間の争いが激化した。ムクタディルが殺害された932年までにアッバース朝は実質的に財政破綻し、権力は程なくしてカリフに対する支配力とアミール・アル=ウマラー英語版(大アミール)の称号を争う一連の軍の有力者たちの下へ移った。この趨勢は形式上においてさえカリフの独立性に終止符を打ったブワイフ朝による946年のバグダードの占領によって最高潮に達した。その後カリフは象徴的な名目上の指導者として生き残ったものの、あらゆる軍事的もしくは政治的な権限、または独立した財源を奪われることになった[89][90][91]

脚注編集

出典編集

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参考文献編集

日本語文献編集

  • 淸水誠「アッバース朝における豫算財政について(上)」『東洋史研究』第18巻第4号、東洋史研究会、1960年、 530-545頁、 ISSN 0386-90592021年4月22日閲覧。
  • 中野さやか「アリー・ブン・ムハンマドの反乱 ― 反乱参加者の分析による「ザンジュの乱」再考 ―」『オリエント』第46巻第1号、一般社団法人 日本オリエント学会、2003年、 118-143頁、 ISSN 1884-14062021年4月22日閲覧。

外国語文献編集

ムウタディド

854年? - 902年4月5日

先代:
ムウタミド
カリフ
892年10月15日 - 902年4月5日
次代:
ムクタフィー英語版