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メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート

人物・略歴編集

イングランドスコットランドチャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの長女として、ロンドンセント・ジェームズ宮殿で生まれた。兄にチャールズ2世、弟にジェームズ2世、妹にオルレアン公フィリップ1世ヘンリエッタ・アンがいる。フランスルイ14世は母方の従弟に当たる。

1641年、オラニエ公ウィレム2世と結婚した[注釈 1]1642年イギリス(当時はイングランド)王室最初のプリンセス・ロイヤルの称号を父から授けられた。この称号はフランス王女だった母が、故国で王の長女に授けられる「マダム・ロワイヤル」と同じものをメアリーに授けて欲しいと願ったことから父王が創設した。

1647年、夫ウィレム2世がオランダ総督に就任したが、わずか3年後の1650年11月6日天然痘を発症しアムステルダムで急死した。その8日後の14日、メアリーは長男ウィレム3世(後のイングランド・スコットランド王ウィリアム3世)を出産した[1]。彼女は義母アマリアブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(ウィレム2世の妹婿)と共に幼児ウィレムの後見者となった。

しかし、メアリーは清教徒革命の影響で自分を頼って亡命してきたステュアート家の王族を厚遇したため、オランダで人気がなかった。しかもウィレム2世亡き後のオランダは、政治指導者ヨハン・デ・ウィットがオラニエ家の権力を制限するようになっていった上、国民はメアリーが兄チャールズ2世と弟ヨーク公(後のジェームズ2世)を支援するのを許容できず、縁者を受け入れるのを禁じられた。こうした逆風から1654年から3年間、メアリーはオランダ国外で過ごさなくてはならなかった。1657年にメアリーはオランダ摂政となったが、隣国の支配を狙うフランス王ルイ14世がたびたび介入するため、困難な統治を強いられた。

イングランドで王政復古がかなうと、オランダでのメアリーとオラニエ公ウィレム3世の立場は劇的に好転した。1660年9月、メアリーは故国へ帰国したが、同年に夫と同じく天然痘に倒れ、ホワイトホール宮殿で死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。

王位継承の家系図編集

ギャラリー編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 父フレデリック・ヘンドリックは、州総督および陸海軍最高司令官として対スペイン独立戦争(八十年戦争)で大きな戦果をあげてオラニエ家の威信を内外に高めた一方、フランス風の宮殿を造営して宮廷生活を送り、イングランドのステュアート家やブランデンブルク選帝侯はじめドイツ諸侯とのあいだに姻戚関係を結ぶなど王朝的外交を展開していた。佐藤(1998)pp.255-256

出典編集

参考文献編集

  • 佐藤弘幸ほか「第二部 オランダ」『スイス・ベネルクス史』森田安一山川出版社〈新版世界各国史14〉、1998年4月。ISBN 4-634-41440-6
  • Alison Weir, Britain's Royal Families, Vintage, 2008, p. 265

関連項目編集