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メクレンブルク=シュトレーリッツ

メクレンブルク=シュトレーリッツ
Mecklenburg-Strelitz
メクレンブルク=シュヴェリーン 1701年 - 1918年 メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州
メクレンブルク=シュトレーリッツの国旗 メクレンブルク=シュトレーリッツの国章
(国旗) (国章)
メクレンブルク=シュトレーリッツの位置
ドイツ帝国内のメクレンブルク=シュトレーリッツ
公用語 ドイツ語
首都 ノイシュトレーリッツ
メクレンブルク=シュトレーリッツ公(大公)
1701年 - 1708年 アドルフ・フリードリヒ2世
1918年 - 1918年フリードリヒ・フランツ4世(摂政)
変遷
成立 1701年
君主制廃止1918年
自由州成立1918年
メクレンブルク=シュヴェリーン自由州と合併1934年1月1日

メクレンブルク=シュトレーリッツドイツ語:Mecklenburg-Strelitz)は、ドイツ北部に存在した公国(1815年より大公国)。中世より存在したメクレンブルク地方の東端5分の1程度の地域(およそ現在のメクレンブルク=シュトレーリッツ郡 (enに相当)、およびかつてのラッツェブルク司教領 (enであった飛び地(現在のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部)から構成されていた。成立当時、公国の北端はスウェーデン領ポメラニア (enに、南端はブランデンブルク辺境伯領に接していた。1918年にドイツ革命で君主制が廃されると、その領地を引き継いでメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州が成立した。1934年にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州と合併してメクレンブルク州となったことでメクレンブルク地方は18世紀以来の統一を果たした。現在はドイツ連邦共和国メクレンブルク=フォアポンメルン州の一部となっている。

歴史編集

メクレンブルク=シュトレーリッツ公国 (1701-1918年)編集

1701年、旧メクレンブルク=ギュストロー公国英語版が存在した地域に新しくメクレンブルク=シュトレーリッツ公国が創設された。メクレンブルク家の傍系であるギュストロー公爵家は1695年に最後の当主グスタフ・アドルフが死ぬと同時に断絶し、その遺領は本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーンフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(de)が相続した。ところがフリードリヒ・ヴィルヘルムの叔父アドルフ・フリードリヒ2世は亡くなったギュストロー公グスタフ・アドルフの娘マリーと結婚しており、娘婿としてギュストロー公国の相続権を主張して、甥と争うに至った。二人はギュストロー公国の跡目を巡って長く争っていたが、1701年3月8日にニーダーザクセン・クライス (enの仲裁で妥協が成立し、アドルフ・フリードリヒ2世が義父の領国をメクレンブルク=シュトレーリッツ公国として獲得することになった。アドルフ・フリードリヒはシュトレーリッツ (enに居所を置いたものの、本家のメクレンブルク(=シュヴェリーン)公と同様に「メクレンブルク公」とだけ称した。

シュトレーリッツ公国は神聖ローマ帝国で最も発展の立ち遅れた地域の一つであったが、公爵家の娘たちは次々に良縁を見つけてきた。アドルフ・フリードリヒ4世の妹シャルロッテイギリス王ジョージ3世の妃となり、アドルフ・フリードリヒ4世の弟カール2世の娘ルイーゼプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の妃となった。

公国は1808年にライン同盟に加盟し、ウィーン会議では本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーン公国と一緒に大公国に昇格、ドイツ連邦の一員となった。メクレンブルクはそのまま1867年には北ドイツ連邦、1871年にはドイツ帝国の構成国となった。

 
ノイシュトレーリッツ城、1945年に破壊された
 
1866年頃のメクレンブルク。シュヴェリーン大公国は桃色、シュトレーリッツ大公国は黄色で示されている

第一次世界大戦の終結と同時にドイツの君主制が廃止される直前、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国は憲政上の危機に見舞われた。当時の大公家には若く独身の大公アドルフ・フリードリヒ6世、大公家の推定相続人であるカール・ミヒャエル公しか大公位継承権者がおらず、しかもロシア生まれのカール・ミヒャエルはロシア軍に従軍していた。さらにカール・ミヒャエルは1914年、ドイツとロシアが交戦する前にメクレンブルク国籍を捨ててロシア国籍を取得していた。

1918年2月23日にアドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げると、大公家の家長はカール・ミヒャエルとなったが、カール・ミヒャエルは敵国であるロシアにいたため即位できなかった。そこで彼はシュトレーリッツの摂政を務めていたメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世に対し、自身の大公位継承権を放棄したい旨を書いた手紙を送ったが、この手紙はドイツが共和制に移行した1919年になってようやく届いた。このためシュトレーリッツ大公国が1918年11月に消滅するまでの間、本来の大公となるべき人物が大公位に就かず、またその即位の意思も明確にならない宙吊りの状態が続いた。

メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州 (1918年-1934年)編集

 
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州章 (1921年)

1918年にドイツ革命によって君主制が廃止されると、メクレンブルク=シュトレーリッツは自由州としてヴァイマル共和政に基づく議会制民主主義国家となった。

メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州はドイツ国でも特に小さい州のひとつであり、君主制廃止からわずか数年で財政的に維持できないことが明らかになった。1926年には接収した大公家の財産が底をついたことから、ライプツィヒライヒ裁判所にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合併を訴え出たが、うまくいかなかった。また、1926年にはメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州がメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を相手取ってドイツ・ライヒ国事裁判所に旧修道院および旧領の共同処分をめぐる裁判を起こした。ドイツ・ライヒ国事裁判所での公判でメクレンブルク=シュヴェリーン自由州は、1701年のメクレンブルク=シュトレーリッツ公国の成立の経緯を引き合いに、アドルフ・フリードリヒ6世の死によってシュトレーリッツ大公家が断絶した以上、その所領は本家たるシュヴェリーン大公家に戻ったのであり、メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州にはそもそもシュトレーリッツ大公家の資産に関する権利はないと主張した。しかし、メクレンブルク=シュヴェリーン自由州・メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州の双方とも州憲法で旧大公国の所領を州の範囲と定めていることから、その主張は退けられた[1]

1932年にはプロイセン自由州に吸収される計画が持ち上がったが、ナチ党が1934年1月1日にメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州とメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を合併させてメクレンブルク州ドイツ語版(Land Mecklenburg)としたことから頓挫した。しかし、この合併の採決の直後に州議会が解散されたため、メクレンブルク州は実際にはナチ党のメクレンブルク大管区そのものとなった。

メクレンブルク=シュトレーリッツの統治者編集

メクレンブルク=シュトレーリッツ公(1701年 - 1815年)編集

メクレンブルク=シュトレーリッツ大公(1815年 - 1918年)編集

メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州首相(1918年 - 1933年)編集

  • ペーター・シュトゥープマン (ドイツ民主党、1918年 - 1919年)
  • ハンス・クリューガー (ドイツ社会民主党、1919年)
  • クルト・フォン・ライプニッツ (ドイツ社会民主党、1919年 - 1923年)
  • カール・シュヴァーベ (ドイツ国家人民党、1923年 - 1928年)
  • ハリー・ルーデヴィヒ (無所属) および エーリヒ・コルドゥア (ドイツ国家人民党) (暫定政府、1928年)
  • クルト・フォン・ライプニッツ (ドイツ社会民主党、1928年 - 1931年)
  • ハインリヒ・フォン・ミヒャエル (ドイツ国家人民党、1931年 - 1933年)
  • フリッツ・シュティヒテノート (ナチ党、1933年)

脚注編集

  1. ^ Zwischenentscheidung des StGH vom 5. Juni 1926, RGZ 113, Anhang S. 1 f. Digitalisat

外部リンク編集